王宮より暫し離れ、周囲を湖で囲む中心にその離宮はあった。
何者にも触れぬように、聴かれぬようにして聳えるその場で大任という名の命の取引はなされていた。

若王は影を欲し、少年は大望を翳した。

何の引け目も感じる事のない、至って有望、して簡潔な取引であった。


これより王の影となる下僕の少年、漂は―――――凡そ一月をこの王都咸陽にて暮らす事となるのである。


















(はぁ・・何だかまだ夢の中にいるみたいだ)

回廊を渡る。
悠々と在れるのも目前の力に拠る所である。
聞けばこれから暫く過ごすという『根城』に案内するという。
先導の方、昌文君の後に続き王宮より離れにある人気のない場に連れられる。


(全部が全部、夢見ていた事が・・物が目の前にある。
   想像していたよりずっと違ったけど、これで俺は下僕から抜け出す足掛かりを得たんだ)


黙々と歩く。
夢にまで見た王宮内の景色に括目こそすれ感嘆する様子はない。
余裕がないという訳でもない。
漂は嫌に冷静である自分に気が付くが、それを振り返る事はなかった。

豪壮な内は彼にとって見慣れぬ世そのものだった。
流動の激しい外界と隔たれ、まるで静まり返る様は不気味にさえ感じる。
しかし水面下において確実に大王暗殺の企てが興る中、外界以上の業の渦が広まりつつある事は明白であった。


一つ息を吐いた。

いざ差し出された夢は容赦なく、現実のものとして漂の前に憚る。
大望を胸に吽と頷くからには当然覚悟はできている。
しかし己のそれとは別に、彼の気掛かりは消える事がなかった。


(信・・・)


残した友、身内とも呼べるその存在を端に置く事など出来よう筈もない。

行きつく先は同じと言った。
しかしそれがいつか。

大任を受けた今、次に会える保障など何処にもありはしない。
総じて覚悟と言うならば、彼は本当の意味で覚悟しきれてはいなかった。



「着いたぞ」


昌文君の声に顔を上げる。
目前には中程の扉が立ちはだかっていた。

余りにも厚く、重い。

扉に手を当てただけで頭を擡げる。
今更押し潰されそうになる感覚を覚えながら、しかし漂は両の手でその扉を勢いよく開け放った。


「――――――――――」


先程向かった王の離宮と広さは同程度。
簡素ながら必要最小限に留まる装飾の数々は得てして目を見張らんばかりの品々である。

そして漂の瞳に見慣れぬ影が映る。
物と空間に圧される場の一角にそれはいた。





姿勢を正す音さえ整然とする。
その相貌から、佇まいからを全て捉える。

―――――赤みを湛える頭髪に、合わせる瞳は珍しい。

軽装に身を包む姿はしかし、見た目帯剣こそしていない。
自身とさほど年の変わらぬ少女である。
しかしそれと言うには似つかわしくない、厳かな雰囲気を彼女は纏っていた。

捉えて、彼は言葉を失う。
視線を逸らせずにいたのは誰彼の意図かは知れない。



「貴方が漂か。よく来てくれた――――――
   私の名は寳子という。こう言うのも何だが、歓迎する」



部屋にいた少女は漂を見るなり驚きはしたものの、直ぐに平静と戻り話し掛ける。
確かな足取りで漂に近付くと手を差し出した。
棒立ちのまま呆気とする漂の耳に、昌文君の咳払いが響く。
傍とすると彼はようやく現状を呑み込み、寳子の手をとり挨拶をした。

「あのっ!・・えっと。城戸村から来ました、漂と申します。宜しくお願い致します。
   (う、うわ・・って何で女の子が?ここ俺の部屋になるはずなんだよな・・どうして)」

「礼装でなくてすまない。何ぶん周囲が物騒なものでな・・これでも気は遣っているんだ。 
   私は今後、貴方の世話・・教育係になる。こちらこそ宜しく、漂」
     

「え」

「王足るに必要な基本的な立ち振る舞い、そして知識。王宮の事、習いだとか諸々だ。
   私とそこに御座す昌文君・・殿とで貴方の指導に当たる為、留意しておいてくれ」


世話係、の後に続く言葉が耳を素通りする。
漂は驚愕の体のまま、状況が呑み込めず一拍置いて声を上げた。


「え!?ええええっ!!?」


強張る漂に昌文君と寳子は見合い、双方また彼に視線を戻す。
何をそんなに狼狽える必要があるのかと怪訝だ。

漂にとって今作戦における己の立場の如何など、王の影になる以外の事は想像に難い。
故から自身としての存在がどう扱われゆくのかという疑問に対して、この現状は余りに唐突で異常なものであった。
部屋に女子がいた事もそうだが、またその人が宮女にしては武人然とする体であること。
そして教育係である事や、此度の重要事を知るに足る立場にある事にも理解が追いつく所ではなかったのである。

「お、王宮でそ、あぁいや、あの・・ ・・お、女の人・・ですよね?」

言うに事欠くとは正にこの事である。
余りの疑の多さに、また言葉数少なく選んだ末の疑問はどこか宙に浮いたまま的を射ない。

ともすれば侮蔑さえ感じられても可笑しくはない問いである。
それに気付かぬまま、おずおずと尋ねる漂に寳子は溜息を吐き言った。


「・・・・それは、下僕なのに何故王都の中枢であるこの場に
      足を踏み入れているのか、
という無粋な問いと同じだぞ」

「あっ・・!」


酷く詰まらぬ事を聞いていたと理解する。
慌てて頭を垂れて謝罪する漂に、彼女は慣れている、とだけ答えた。
その様子を始終見詰めていた昌文君はやれ盛大に声を張ると、二人に言い聞かせるようにして話す。

「では儂は用がある故―――――、これで去るが・・ ・・寳子、後は頼んだぞ」
「はっ」

昌文君が直々に、指導するに足る位には育てておけという達しである。
これに寳子は応と短くして答える。
漂は去る昌文君の背に頭を下げて送った。

扉の閉まる音が無常に部屋に響く。
取り残された二人の間には静寂だけが残った。



暫しの沈黙の後、寳子が口火を切る。
漂は助かったと言わんばかりではあるが、その心境は複雑だ。

「先程の事は気にするな。これから作戦実行までの刻を共に過ごすんだ。
   気楽に、とまではいかないが・・気を張らずに行こう」

「す、すみません・・気を遣わせてしまって。
   慣れるまでご迷惑をお掛けするとは思いますが、宜しくお願いします」

「一気に慣れろという方が可笑しい。・・しかし早くには慣れてもらわないとな。
   衣はここに用意してある。早速着替えて大王の佇まいから合わせていこう」

言って立ち回る彼女の手には赤い衣が納まっていた。
それを手にとると広げ、映える赤に美しい装飾の施された衣に目を見張る。
見た事もないような煌びやかな質を前に漂は息を呑んだ。

彼が抱くは自身が王の影となる大任。

いち下僕が王威を感じるには十分なそれに、彼は厭というほど思い知らされる。
夢を得る前の現実を、漂はただ強く握りしめた。


「あの、寳子・・さんは、その」

「言葉遣いだが敬語でなくていいし、呼び捨てで構わない。
   貴方は王の影になる。今この時から私の事は自分の従者だと思ってくれていい。・・逆に私は直さねばな」

「(そんな急に無茶な・・)それじゃあ・・ ・・寳子」

「―――――はっ!」


戸惑う漂に寳子は少し笑うと、足を揃え拝手し応とする。
これには彼も吹き出し、慌てて口を塞ぐ。
どこか可笑しい、まだまだ不自然だと笑い合うその時には、二人の間にあった小さな蟠りは既に消えていた。



「王宮内でもずっとその格好な・・のか?」

「いいえ違います。詳しくはまた後で、王宮の事と交えて話そうとは思っていますが・・
   現状こちらの警戒体勢は相手に知られています。機があちらにある事は実に歯がゆい事ですね。
     しかし王域で衛兵以外、完全に武装する訳にもいきません。軽そ―――――って待て待て!何をしてるっ!!」

「へ?」

慌てて止めに入る寳子に素っ頓狂な声で返す漂。
相互の理解は食い違っていた。


「何故ここで衣を脱ぐっ!?」というか話してるだろっ!
「え、だって着替えてって。(話長そうだったし・・)」

「そんな汗と埃にまみれた体で!その衣に袖を通すというのかっ!?」
「(ヒドイっ!?)だっ、だって!水もなければ湯もないしっ!」


「即座に着替えろという意味じゃないっ!着替えるならそう言え!
   
湯浴みの場に連れて行ってやるっ!!」

「え?ええっ??うわっ!わ、うわぁああああーーーーーーっっ!!」


首根っこを掴まれ引き摺られて行く漂。
もはや威光など放つべくもない聖衣が申し訳なさそうに抱かれるが、外には持ち出すなと取り上げられる。
急な事態に流石の彼も若干涙目である。
寳子は勢いよく(乱暴に)漂の頭から大きめの布を被せると彼の存在を隠す。
人気の少ない場所とはいえ、何処に目があるとも限らない。
もがく漂の口を布越しに塞ぐと、威勢よく彼を湯浴みの場へと連行した。

声を発さぬは口を封じられただけの所為ではない。
彼女が話し方云々の事さえ既に失念してしまっているであろう事にも、今後彼が触れる事はないだろう。







少年は天を仰ぐ。
天といっても限りのある造り物の天井だ。
朦々と立つ湯気は宛ら雲かと、この状態でよく悠長に思えたものだと少し笑った。

『とりあえず湯をかぶって待っていてくれ。必要な物を取ってくる』

そう言い残し去って行った少女をしかし少年は止める事も、
ましてや追う事さえできずに今に至る。

(・・・・・なに持ってくるんだろう)不安・・

次から次へと起こる出来事に、漂は受け身で在らざるを得ない。
諦観の念である。
いっそ次は何かと呆然とする体が板に付きつつあった。


(王の身代わりになれって言われて、夢の為に命を張るって事だけ思って頷いたけど・・
    まさかこんな変 ・・大変な事になるなんて思わなかったなぁ・・)

しかも初日から。
つい先程、大王と直接話したばかりの緊張感はどこへやら。
あれよと言う間に流され、いま浴室の湯気の籠る天井を裸一貫で何をするでもなく見上げている。
やっと一息吐く場ができたと言えば、聞こえは良い。


「信。俺・・いま何かよくわかんない事になってる・・・」


ただ懐かしむだけではない。
その一言にはどこか救けを請う感情が秘められていた。



バンッ!!!

「入るぞ」

「もう入ってるーーーーーーーッッ!!!」


戸が威勢よく開け放たれ、その先には寳子が何食わぬ顔で立っていた。
羞恥に喚き騒ぎ立てる漂を尻目に、彼女は小脇に抱える草の束を置くと平然と答える。

「別に男の裸など見慣れている。気にするな」
「気にするよっ!!そっちはよくてもこっちが・・ってえええっ!?」慣れてる!?

「妙な誤解をするんじゃない。戦場で使い走りをやっていた頃だ。・・それにちゃんと目は背けていた。
   布を用意してあったろう?気を遣ったのに何で隠してないんだ」見せたがりか

「言ってよぉおっっ!!こっちは布で包まれて見えてなかったんだからさぁっ!!」

投げて寄越される布を腰に巻く。
兎角酷いと漂は腰掛けに座り頭を抱えた。
まず双方における地味に要領を得ない会話も酷い。
それ以前に現状が酷い。
王宮に来て初めて貴人の女子と見える事になったというのにその相手が色んな意味で酷い。
背を向け愚図る漂を放り、寳子は浴室の脇で持参した草を潰していた。

「・・・ ・・それは?」
「これで薬湯をつくる。その間に身体を洗っておいてくれ。勿論見ないから安心しろ」

警戒からか、漂は無駄に上体を両手で隠すと恐々と覗き込む。
そんな彼を見もせずに寳子は最低限の事を言い作業に専念する。

(っていうか外でやればいいんじゃ・・)
「悪いが手間を考えてここで作っている。外でやって人目につきたくもないしな。
   二日に一回、薬湯を煎じる時は私も浴室に入るからその心算で。あとこれで洗ってくれ」

心を読まれたのかと固まる漂の返事も待たず、寳子は巾の代わりを寄越す。
朴訥と投げて渡されたそれは、見た目にも悪く彼の表情は一層に冴えない。
いかにも痛みを伴いそうなそれを指差して漂は寳子に問うた。

「・・・・藁?」の、かたまり。
「編み込んだものだ」
「い、痛そうなんだけど」
「ああ。痛いと思う」

「ぬっ、布じゃ駄目なのっ!?」
「最初にこれで洗って、それから布でやる。そうでないとちゃんと汚れが落ちないからな」


汚れ>痛み。
余りの仕打ちに崩れ、計らずも彼女の前で土下座の格好をとる漂。
その目に涙を禁じ得ない。
彼女はそんな趣味はないと一蹴したのち、十日に一回はこれだと無下に指差した。


(水浴びだけで足りたあの日が懐かしいっ・・!!)

早くも懐郷の念に晒されるが心中にてそれは無常に響き渡る。
これ以上呆気としていても仕方がない。
十分に湯を浴びて当てる様にして擦るという寳子の言に、漂は決意を新たに試みる。
伴うであろう痛みの程度を考えると只でさえ辟易するというのに、更に背後から感じる視線に安穏と肌など洗えるものか。
心中で不満を言っても始まらないと取り敢えず実践してみる。
案の定肌には赤みが差し、じくじくとした痛みが彼を襲った。

「ぜんっぜん駄目だな」
「え゛っ」
「貸せ」

応ともない内に寳子は漂の手から藁を取り上げる。
情け容赦のない態度、然とした言葉遣い。
このとき彼は悟った。
見た目こそ年の変わらぬ少女であるが、さすが此度の作戦に加わり指導係となるだけの事はある。
その実態は――――――――

(鬼だっ!!このひと鬼だっっ!!!)

こと教授するとなると兵のそれである。
漂の脳裏には自ずと上級士官の文字が浮かぶ。
当たらずも遠からず。
まさか歴戦の雄についてゆくだけの猛者とは、この時の彼には知る由もない。

「いやいやいやいや嫌っっ!!いいです!!無理ですッッッ!!!」はなしてぇえええ!!!
「障りのある所になど触れない!余計な想像をするなバカものっ!」動くと触るぞっ!!

「いぃいいいやぁあああああっっ!!うわぁあああああ!!!」


障りとかそういう問題じゃない。
言いたくても言えず、実際に出た言葉はもはや言ともいえぬただの叫び声だった。
組み合う力が拮抗する中で、寳子の手刀が漂の首に刺さる。
脱力し朦朧とする彼を無視して彼女は事を進めた。

順番から洗い方、円を描く様にであるとか力の強さといった諸々を実際に行いながら語る。
しかし相手の意識如何を考えると、それは独白に近いものだった。
朧げな中で為されるがままの漂だが、彼女の手際を実によくできたものだと妙に感心した事だけは覚えていた。


「よし綺麗になった。後はこの薬湯で身体を洗う」

寳子のこれでわかったなと言わんばかりの清々しい体とは裏腹に、漂は全身を襲う痛みに虫の息で端に転がる。
用意した薬湯に束ねた薬草の葉の部分を浸し、これを彼に向かって勢いよく払う。
降りかかる飛沫に身構えるが無駄な抵抗だった。

「―――――――痛っっ〜〜〜〜!!?」
「滲みるが耐えろ。消毒になるし虫よけにもなるんだ」

「うわー!ヒリヒリす・・っぷぁ!にっが!!」
「薬草は苦い」
「わかるけどっ!」


そうじゃなくて!!
とは、やはり言えない漂である。
もごもごと口籠り、宛ら洗礼を受ける徒のようにただ耐える。

実際悪い事はされていない、寧ろ前まで下僕の身分であった自身が
ここまで気に掛けられているのだから感謝こそすれ、恨み言をいう筋合いはない。

何より額に汗しながら面倒事に当たってくれている姿に
否でも彼女の懸命さが伝わるのだから、やはり言わないが筋であった。


「そのまま薬湯を被ると痛みで悶絶するからな。
   だからこうしてまず撒いてから身体を慣らすんだ」

(信・・俺)

「よし。もういいかな」


「(任を果たすまで・・大丈夫かなぁ、色々と)
    ってぎゃぁあああああああああああぁあーーーーーっっ!!!!」

「そしてこのまま手で肌を擦って塗り込む。髪も洗うぞ。
   暫くしたら湯で流して終わりだ。・・全く、騒ぐから随分と時間が掛かってしまった」


「うっ・・ぐすっ・・ ・・・すみ゛ません゛」

「!?」


髪を洗うついでに何故か頭を撫でられた気がする漂。
しかしこれに返す気力はない。
寳子も何を言うでもなく更に布で洗い、一通り終えると静かに湯を流す。
出会ってから日も経たぬ内に、彼らは妙な距離感の中にいた。

(もう痛いとにかく痛い・・早く部屋に戻って温かい飲み物でも飲みたい・・)落ち着きたい。
(時間が掛かったと言ってもそうでもなかったのに・・言い過ぎてしまった)泣く程とは。

下僕の身であった王の影と、その係りを受け持つ事となった貴士族の少女。
これまで接点のない二人がここに出会う。
故にか互いの思いが交錯する事は、未だない。







夕飯も共に部屋で食べ終わり、暫しの歓談の刻を迎える。
漂は温かい物にありつけただけでご満悦の様子だった。

「料理は口に合ったか?」
「もちろん!普段食べる物に比べて工夫があったりして楽しかったよ!
   俺も大概うまくすると思ってたけど、違うんだな。
      あとは礼が大変なのと・・寳子が毒味とか言い出した時は生きる心地がしなかったけどね」

湯を啜り溜息を吐く。
そんな漂に寳子は苦笑いを呈しながら言った。

「それはすまなかった。一応信頼のおく者達で用意はしてあるんだが、
   毒というものはいつ何時仕込まれるかわかったものじゃないからな。用心に越した事はない」

影の存在は知られていないが、王の食事として用意されている以上警戒を怠れない。
その言葉を聞いて漂は困る風にして返す。

「俺が当たるのもそうだけど、寳子が心配だったんだって」
「・・妙な事を言うんだな漂は。何も心配する事はない、その為の毒味なんだから」

飄々と、逆に其方が可笑しいと笑う彼女に漂は違和を覚える。
次いで聞こえる言葉に彼女の尤もたる姿を見た。


「私は死んでも構わない。それで王を護れるならな」


「え・・」


穏やかな刻を前に、見えない糸が一本―――――張りつめるようにして彼の動きを封じる。
自身を凝視する漂に、寳子は怪訝な顔で問いかけた。

「?どうした」
「あ、ううん・・・何でもない」

何事もないと答える。
実際に思う答えが言葉ではなく、ただ疑問という感情なのだから仕方もない。

故に今やっと平静を取り戻し、言葉として形を成す答えを心中で呟く。


(寳子・・この人は)


出会った時の姿を思い出す。
多くを抱え、背負っていると感じていた。



(秦兵として、誇りを持っている人なんだな・・・)



王を護り、国を護る。
そこに異論などあろう筈もなく、然として構え聳えている。
そこまでして彼女の忠義を支えるものとは一体何か。
考えだけが膨らみ、頭を擡げる。

死を当然と捉える発想に、つい半日前までただの下僕であった自身を見返す。
到底そこに行きつく先もなく、また義理もない。
全ては己が為、己が大望の為に国の側の、王側の条件を呑んだまでの事。

大将軍を目指す以上、同じ想いに辿り着くのだろうか。
否、ここまでの忠を尽くせる自信が、この時の漂にはなかった。


(そしてこの人の守るべき人は、俺じゃなくて・・大王なんだ)


影を護り、ひいては王を護る。
当たり前の道理である。
それを承知した自身がわからぬでもない。
他の目はそれでいい。

しかし彼女を前にしてその道理を翳すと、どこか小さな虚が生まれる事に彼は気付く。

その虚の意味を知らない。
分別できる程に育ってもいない。

彼は彼女の行き過ぎる程に感じる志を前にただ黙り、そしてまた湯を啜った。





食器を下げ、寳子が寝床の用意をする。
その手際の良さを漂はまじまじと見つめていた。

そんな自分に傍とする。
手持無沙汰な両の手を持ち上げてはみるものの、彼に出来る事は何もなかった。

「えーっと・・あ!そうだ寳子、ずっと聞きたかったんだけど」
「何だ?」

支度をしながら目も合わさぬ彼女に少し詰まる。
せめて何か、と彼が呈した物は言葉だった。

「俺・・下僕なんだけど」
「?あの身なりを見ればわかる」
「えっと!・・そうじゃなくて」

更に詰まる漂に、今度はちゃんと向き合う寳子。
しかしその体は小首を傾げる疑問の体だった。

別に言っても言わずともよい話題である。

漂は沈黙を破るより他に、何より彼女と話がしたいと思い切り出したものだった。

そうはいっても疑問は疑問として成り立つ話題に変わりはない。
漂は自身に対する寳子の明らかに 異 常 な 扱 い に、取り敢えず異を唱えたのである。


「・・・漂はどうして今回の任を受けたんだ?」


疑問に対する直接的な答えは、すぐに返ってはこなかった。
真直ぐに見つめ、相対する彼女に漂は言う。

「俺は・・大望を持ってこの任を受けたんだ。
   決して国の為や王の為にという訳ではなく・・飽くまで自分の為、友との約束の為にここにいる」

漂の言葉に耳を傾ける。
彼女は何かしらの感情を露する事無くただ聞いていた。



「史に名を残す大将軍になる。
     ・・その為に、ここにいます」



兵であれば目前の彼女は明らかに上官であると、思い出すようにして繕い直す。
笑われると覚悟した漂の瞳が揺れる。
しかし聞き届けた彼女の様は意外なものだった。



「その命、己がため・・
   ひいては王の為、国の為になるというのだから尊いものだ」



寳子のまさかの反応に括目する。
己が考えと対極する言葉に漂は次を待った。


「意識が何処にあろうと構わない。
   是とする結果を齎すというのであれば、それはもはや貴方だけの夢ではない」


「・・・・ ・・尊い・・・」

「そうだ。下僕という身分こそ低いが、それが大器であれば軽んずる謂われはない。
   王を援ければそれだけの。そこから大軍を率いる大将軍になろうというのであれば尚更な」


彼女は夢を哂わない。
下僕の身を嗤わない。

在るがままだとそう言った。


漂は王都にいる人間、王宮に住まう人間は悪い意味で分別に長けると思っていた。
同じ人であり、その実、全くの別物。
それはこれまでの対応からして間違いないが、そうでない者がいた。


彼女こそが別物であると知る。

影ゆえと利己的でないその視線こそ、有りの儘の彼女自身そのものだった。



「漂、貴方の命は尊い。
  ・・もっと誇りを持ってこの作戦に臨んでくれ」


ふいに投げかけた問である。
ここまでの答を望んだわけでも、ましてや知らず目に涙を浮かべるなど漂は思ってもみなかった。

「えっ・・」
「あっ!?え、あ!そっ、そのっ・・
   ・・うわ、何か、ごめん」

更に止め処なく溢れ、零れるなど予想だにしない。
漂は慌ててそれを拭うが始末に負えず、仕舞には手を翳し俯いてしまった。

「生まれてからそんなこと・・言われた事なかっ・・た、から」

「べっ、別にそんな・・泣かなくてもっ・・!
  それに下僕出身なら郭備様だっているし・・
     えっと・・えーっと・・ちょっと特殊だけど、その」

予想外は此方も同じと、上体を気持ち傾けて寳子は視線を泳がせる。
尚もうだうだと――――言葉は丸みを帯びて――――述べる彼女を、漂は指の隙間から赤い目で見詰める。


「素直に嬉しいよ。・・ありがとう、寳子」


何とか涙を拭いきると笑顔を見せて寳子に向かう。
しかしその体は未だ締らず、不器用に崩れたままだった。

それに傍とする寳子はついに言葉を失う。
気持ち傾けた上体は、気付けば身体ごとを真横に向けていた。


「き、今日は早めに寝て、明日に備えよう。
     明日から本格的に指導に当たるから、その心算でっ」

頷く漂を掴み、泣き顔を見ないようにして寝床へと放る。
中々に無茶をしてくるがしかし、気を遣い余所に視線をやる彼女の姿に彼はつい綻ぶ。

大人しく寝入ろうと瞼を閉じると、寳子は彼に掛け布を被せる。
やっと落ち着けた安堵感に自然と体が重くなる。
就寝の挨拶をしようにも口が重い。

その時だった。

誰彼の指先が漂の額から側面を滑らせるようにして撫でた。


(え・・・)

「あ・・ す、すまないっ!」


驚かない筈がない。
目前の狼狽える寳子の姿が鮮明に刻まれる。
漂は一瞬眠気が吹き飛ぶも、その体はやはり虚ろだ。

「その、何故だか手が伸びた。
   他意はない・・忘れてくれ。そ、それじゃあ」

矢継ぎ早に言い訳をする彼女は自分でも意図せぬ様だった。
お休みと、寳子は逃げるようにして出て行く。
彼女の触れた部分に手をやると、漂は今日を振り返る事もできず寝入った。












次の日の朝、あの出来事の如何を探ろうと漂は首を捻り続けていた。
腕を組み、寝床に腰掛け大にも小にも唸る。
そうこうと頭を擡げている内に背から倒れると、両手を広げ溜息を吐いた。

(ここまで来て朝一番に考える事が彼女の事って、俺は何やってんだか。
   ・・・でも本当に、昨日眠る前のあれは一体何だったんだろう・・)

王宮に来て日も浅い内から理解できる事など限られている。
しかし知るどころか疑問ばかりの増す状況は、彼に幾度もの溜息を強いる。

(俺と同い年くらいで王の近くにいて、その身代わりである俺の存在を知らされてる。
    世話や指導係まで担ってるんだから―――――きっと名家の出の子なんだろうな)


でもそんな家の子が何故兵などに。
子女の行く先は他家に嫁ぐか、若しくは在っても女官、後宮だろうという漂の考えは自身に更なる疑問を呼んだ。

寝床で唸っていると扉を数回打つ音が聞こえる。
慌てて起き上がり身なりを整え返事をする。
それに応じる寳子が朝餉を持ってやってきた。

「おはよう。昨日は眠れたか?」
「おはよう!・・き、昨日は色んな事がありすぎて、それはもう!」

漂は取り繕う様に乾いた笑みを浮かべ語る。
頭に疑問符を浮かべる寳子はそんな彼を変だと笑い、食卓の用意をした。

何事もなかったかのように振る舞う彼女に、漂は昨晩の出来事は夢かと疑いにかかる。
だが慈しむ様にあった景色と感触を確かに覚えている。

利き手で、なぞらえるよう跡に触れる。
決して幻ではないと、彼は自分で答えを確信に変えた。


昨日に続き手際よく支度をする寳子。
漂は頬杖をつきながらそれを眺める。

(見かけないけど・・赤みがかった綺麗な黒髪だなぁ・・・)

一つ一つの動きに合わせて揺れる嫋やかな束を見る。
不思議と解けてはまた一つになる愉快なそれを茫洋と見詰めていた。

(伏せるとそうでもないけど・・ ・・・あ、やっぱり。目の色、珍しい)

視線を移す。
独りでに見ていた彼の目に彼女の視線が合わさる。
何をやっていると言わんばかりの寳子の表情に、漂は謝罪の意味も込めて苦く笑う。
これには彼女も困ったように笑んで返す。
そんな紅紫紺の瞳に漂は魅せられた。


(家で決められた婚約者とか・・いるんだろうな)


傍として止まる。
主に息を止めていた。
苦しみを覚えて息を吸い、呼吸の体を為すと暫く。

可笑しな事に顔を火照らせて冷や汗を掻くのだから、器用である。


寳子を見る。
心の跳ねる音がした。

漂は己の瞳が先程とは違う事に気が付いてしまった。


「あ!」
「え!?」



寳子は唖然とした体で漂を見る。


「王の影である貴方に、敬語を使う事をすっかり忘れていた・・・」

(いっ、今更っ!?)


拍子抜けと共に大袈裟につんのめる。
突っ込まざるを得ない状況に漂は意識して平静を保つとこれを見送った。

「昨日は申し訳なかった。
   言葉遣いといい、大任を得る貴方に色々と過ぎた事を・・」

「そ、そのままでいいよ寳子!俺もその方がいいからっ!」

態を正そうとする彼女を急ぎ制する。
重苦しい空気は困ると漂は、時と場合によると寳子を諭す。
寧ろ本来の身分を考えると現状から何もかもが可笑しい、きりがないと言う漂に彼女は礼を述べた。

「そうか・・優しいんだな漂は。ありがとう」

「えぇっ!(いやだって俺が困るだけだし・・)
   いやぁー・・(環境だけでも疲れるのにせめて対人関係はっていうか)
      うーん・・そう言ってもらえたら、うん。(ま、まぁいっか)

至極丁寧に慣れぬ扱いを受けるくらいなら、まだぶっきら棒に然として接してもらう方が良い。
しかし対する彼女の様子は絆されたように嬉々としている。
こう素直に好感を示されると無駄に罪悪感が湧く。
下僕の身が板につき過ぎていると漂は辟易して肩を落とした。




二人して食卓を囲む。
その際にも寳子の指導が容赦なく入る。
漂は口に運ぶ料理の味も薄れ、喉を通る食事も果たして胃を満たしているのか否かと疑問の内である。
やれ順番、やれ音、やれ心持まで語られれば視線も遠くなる。
一通り指導が終わる頃には食事も同じく終盤を迎えていた。

互いに白湯を含み一息ついた頃。
話を切り出す寳子は手に杯を抱き、彼を真直ぐに見て言った。




「本当に似ているな」




湯を含む体制のまま止まる。
暫くしてそれを呑み下し、漂は杯を卓上に置いた。

「違うと言えば眼くらいのものか」
「眼・・?」

「貴方の眼は夢を見る、希望に満ちたそれだ。そして贏政さまの眼は・・」

ふいに口を衝いた名の事を彼は聞かない。
彼女も気付いてはいなかった。


「中華を見据える眼。夢をもはや現実のものとして見ている、甘えの一切ないものだ」


中華など大袈裟な、とは大将軍を夢見る漂は己のそれと重ねるに吝かでない。
夢物語ではない、本気であるとは何より彼女の眼差しが物語っていた。

しかし漂に対し穏やかに話す一方、政の事を語る寳子の眼はどこか物悲しい。
それに感化されたは知らないと、漂の彼女を見詰める目もまた翳る。


(名前で呼ぶんだ。大王様のこと・・)


側近だからといって王を名で呼ぶものか。
いらぬ憶測を飛ばす己が思考を無理に制しようとする。
表情の険しい漂に気付いた寳子は、その意味を取り違えて気を利かせた。

「ああいや、眼だけじゃないな」
「・・え」

「良い意味で中身が違うと思う。ちゃんと別人なんだってわかる」

「ははっ、何から何まで同じだと大王様に失礼だよ」


笑みを呈する彼に胸を撫で下ろす寳子。
相手が貴人のそれとしても、同一とばかり言うのは余りに無粋だと彼女は気に掛ける。
そんな事とは露知らず、漂は笑い納めると湯を口に運んだ。



「でも不思議なものだな。
   漂を見ていると、大王が決してお見せにならない感情の片鱗を垣間見ているようで、何故か嬉しい」

「・・・・・」



感じる違和に気付いてしまう自分に、また辟易とした。



「漂。改めて王の影になってくれたこと、心から感謝する。
    此度の事、命の保証がない上に軍属してもいない者を駆り出すなど
       あの方にとっても苦渋の決断であった事は理解しておいて欲しい」
   
戦だからと決して徒にする気ではない事への理解。
また大王贏政とは、そんな人物ではないと寳子は言った。
十分に承知していると、漂は深く頷く。

「わかってる。だからもうそれは言わないで欲しいんだ。
   俺が自分の夢の為に望んだ事を勝手に悲観されても困る。
      君が言ってくれたように、俺は誇りを持ったこの命で、大王様を護るよ」

「漂・・・」


『君が護りたい大王様を護るよ』
口にはせずとも思った事に、彼はもはや動じない。

気付きは既に落ちた。
落ちると共に、覚悟ができた。



「寳子は」

「うん・・?」



「・・寳子は大王様のこと、よく見てるんだね」




よく見ている。
当たり前の事だと

しかし彼女は


何一つ言葉にする事ができなかった。













後片付けをしたのち指導に入る。
まず寳子が教えに入り、程なくして昌文君が加わる。
細部を補うようにしてこれに当たり、暫くはこの形式が基本となった。

寳子は簡の多くを持ち込み机上に広げ、内容から国史、戦史とを具に伝える。
文字として残されていない口伝も交え、頭の片隅にでも留めておけと堅苦しくない程度に話を広げた。
また公なもの以外に起きた事件等を記した簡を薦める。
眼を養い、起き得るを知って損はないと彼女は差し出した。
それと同時に脇から零れ落ちる簡を拾い上げる漂。

「これは・・ ・・・・ん?え、何か」

何やら文体も緩く、端に悪戯描きされた跡まである。
明らかに他とは違う簡の様に、文字の読めない漂も違和を感じる。
気付く寳子が慌てて漂の手から簡を取り上げると声を上げて言い繕った。

「なっ、何も書というものは歴史的、事件的なものばかりではないっ!
   それを元にした詩や、作り話だってある!文官達だって堅苦しい文字ばかり書いていられないんだ!
      
かっ、感想を言うと喜んでくれたりもするから・・だから読んでるだけなんだからな頻繁にじゃないぞっ!!」たまにだ!!

(あ、見られたくなかったんだ・・)別にいいのに

何故そこまで必死に言い訳をするのか漂は謎のまま呆気とする。
要するに虚説、噂の其れから伝説、作り話といった類の書であるが、
寳子は自身がそれを読んでいると知れた事を不覚ととっていた。

(近しい者にならいざ知らず・・!昨日今日の者に知れるなど威厳がっ!!
   特にこの者の前で私は指導係なのにこんな・・慌てて持ってきたからっ!)

漂に背を向けて勝手に悶え苦しむ寳子。
彼は構うと悪化すると悟り、それを放置して読めぬ簡に目を通す。
暫くして何とか元の静けさを取り戻すと、漂は今後気付いても決して言わずと身の振り方を決定した。

併せて字も教え、次いで国とは、王宮とは、王とはという弁を一通り流す。
その中で他国の王や特色を口にする漂に寳子は驚く。
下僕として荷を運び、村々を行き交い人と関わる事で知ったと言う。
逆を言えばそれしか知識を得る方法がなかったと彼は苦く笑い、その様子に寳子は意気新たに向かい合った。


「そして今回貴方が王の身代わり、影として要された尤もな理由は王弟の反乱。これは知っているな」
「知ってる。でも表面上にしか知らないな・・」

寳子は頷くと疑に首を傾げる漂に説明をする。
元々後継者には現王弟である成矯が一位に据えられていたが、後に先王の血を引く異母兄が秦に姿を現した。
父母共に申し分ない血統である弟に対し、兄である現秦王はそうではなかった。
母方の血は所謂庶民のそれであり、故に己を差し置いて王に台頭する兄を弟は許せなかった。
その弟に与するが左丞相の竭氏、朝廷を二つに割る内の一つである。

「本来はこのような事が起きぬよう事は運ばれ、また当人らが意識してゆくものなんだが・・
   如何せん全ての状況が悪かった。私達も王弟の勢力を押し留めるに至らなかった不覚に未だ苛む始末だ」

苦虫を潰すようにして憤る彼女の拳を取る。
漂の気遣いに手の力を緩めると、寳子はすまないと一言謝罪した。

「でも大王側の勢力が圧されるなんて・・幼くして就かれたのなら、その後ろ盾がいた筈だ。
   王が崩れれば困るのはその人なのに、一体その人はいま何を―――――」

漂の当然と言える見方と、当然と言える疑問に寳子は遠巻きに答える。
弟に左あって、兄には右の丞相がいた。
竭氏対する呂氏の存在、それは大王贏政の庇護者にあって、しかし対象の先は決して王などではなかった。


「・・・王を選ぶのは血統だけじゃない」


そうでなければ王弟の愚を認めなければならない為、彼女とてそれは承知している。
しかし歯を食いしばり敢えて語ろうとするのは、何より大王以前に贏政という人物に関わる故の事であった。
血統と騒ぐのは周辺の者、そして尤もする王族だけであると彼女は言う。

「飽くまで王とは国を据えるに堪え得る者を称したまでのこと。
   それを代々続けているだけで、言い換えればそれ以外に縛りはない」

寳子は指を真っ直ぐ、天へと突き刺した。

「陽を射し、雨を降らせるそれは豊穣を齎す。
   人々にとって謂わば、王以上があるとすれば天の存在だ」

意を伝える事すら儘ならない。
地に這う人々は望む事しかできないそれを尊ぶ。


「乱が起きたとて堕ちれば凡とし、堕とせばそれが新たな王となる。
   皆一様に天の裁量と納得してな。討たれればそれは世にとって要らぬ者、国にとって悪しき者となるんだ」


極端、しかし真理であると。
吃驚しない辺り漂は、いち秦人として全くの事情を知らないではなかった。


「忠義は確かにある。しかし『ある』以上は『ない』んだ。
   民の多くはな、王族など国を導いてくれる強者であればいい。去ねば次を立てるだけだ。
      明日を生き、食うに困らない者であれば血統などに拘りはない・・ そ う だ っ た ろ う ? 漂」


彼の本来の身分からして適当であるだろうと問う。
黙る儘の漂は王の影として命を懸ける手前、心中穏やかでない。
しかし寳子は言った。
遠く、庇護者というそれも多分に洩れず、また強者であると語った。


「私は幼少から王を知る。だからといって贔屓目だけではないんだ」
    
(あ・・だから)

「幼い頃から王宮に出入りしていた身から言えば、王の輝きは他の泥と比べ更に増す様相だった。
   権力とは振るえる者が振るう物。周囲には振るえぬ者や徒に振るえてしまう者が多すぎた」


名で呼んでいたのかと納得するに足る。
同時に自身の知らぬ、彼女と王が過ごしたであろう余りに長い時間を彼は遠くに見詰めていた。


「私には恩を受けた方がいる。一生をかけて返せるか知れない程の恩だ。
   その方は必死に国を護ろうとしておられる。だから私はその背を追い、ここまで来た」


その人もまた夢追い人であると、彼女は言った。


「その方が大王こそ秦国に・・中華に繁栄を齎すと信じておられる。私もその通りだと思う。
   
   漂、私は必ずや玉座を奪い返し大王を据える。そして他国に踏み入られぬ強固な国を護りたい。
       だからこの作戦が終わり、貴方が正式に兵となった暁には―――――」


大王側の分が悪すぎる状況を理解する。
しかし漂はそれ以上に寳子の固い決意を目の当たりにした。




「私と共に、秦国を支えていって欲しい」




求められた者の胸に一陣の風が吹き抜ける。
不安の有無など、もはや知る由もない。

断る理由がない。
彼女の確かな夢に手を伸ばす。
大将軍の夢の先に、もう一つの夢が重なる。


「もちろんだよ寳子。
   一緒に、この国を護って行こう」



掴み、そして頷く。
彼女は笑みを滲ませた。

彼だけの夢に、また多くの夢が乗る。


寳子と共に在る夢を漂は見た。



(相応しい男にならないと・・・)


死ぬわけにはいかない。
死ににはいかない。

彼女のこの手を離さないと決めた。



(欲しいものは戦いで奪い取る。でも―――――この人だけは、掴み取る)


夢の合わさる二者が見詰め合う。
互いが互いの先を見る。
同じ道へと通じ、同じ夢を見る。

しかし何よりこの決意が、彼女を縛り付けている事を彼は知らないでいた。










振る舞いの指導も終え、寳子は漂を外へと誘う。
他には影の存在が知られていない中での行動である。
片方が見受けられても問題はない、同時に見つかれば厄介ではあるが口裏を合わせている以上難い。
王宮近辺であれば話は別だがそうでもなく、離れ下級の者であるならそもそも大王の顔は知らない。
そういった意味では仰々しく変ずる必要もない。
貴人よろしく髪を結い、顔が影で隠れる程度の面紗を被る。
服は比較的地味めの萌黄色の物を着せて向かう。

ばれたとしても王然とすればいい。
その威の在り処は紅寳が侍る事こそが何よりの証である。
怪しい故ではなく、王として人目を避ける故の変装であると相手にわからせれば足りるものであった。


「一応この辺りはまだ王弟側に染まっていない。私の顔は割れているが、安心してくれ。
   この一帯は帯剣を許可されているし、何より貴士族の新人指導にあたっていると言えばそれ以上は聞かれない」
「はっ、反乱が起きてるのに・・」
「向こうも公にする訳にはいかないんだ。徐々に侵食し、機を窺って大王を狙う心算だろうからな。
   まずはその周囲の有力者を殺して回っている。先日も数人やられた」

その死は不審死、自害として扱われる。
首を刎ねられるようにして殺されたとて変わらない。

「知って護りを強化しても殺される。暗殺者でも雇っているんだろう。
   情報も徐々に漏れ出している・・事は予想より随分早まるかも知れない」

「寳子達が狙われる事は・・」

「大丈夫だ。狙われるのは率先して権力的な意味での謂わば有力者。
   昌文君・・殿とて大臣として侍るものの、奴らにとっては大王の側近という意味で存在が大きすぎる。
     武を相手にしたくない事もそうだろうが、無理に討つより大王と共に始末した方が易いんだ」


変わって自身は色んな意味で知られている、故に腫物には触らず共に始末する算段をつけているのだろうと語る。
来たとしても返り討ち、他の暗殺者共の在り処を吐かせて討つくらいはすると思われているし、実際そうすると付け加えた。
朗と話す寳子を前に、漂が恐々とした事は言うまでもない。

力なき権ある者が殺され、成矯竭氏の手が早くも伸びようとしている。
故にと。
彼女は肩を竦める漂の背を押して、彼をある場所へと連れ立った。



そこは王宮より離れた国の一画に設けられていた。
周囲は緑が生い茂り他方からは見え辛く、視線を下ろすと平坦な道もあれば削られ荒地と化す部分もある。
また脇に無造作に見える岩の数々が敢えて路を狭め、行く者を憚る様はどこか出来過ぎていた。


「漂。馬は知ってるな」
「も、もちろん・・馬車とかで」


「それじゃあ、乗った事は?」


吃驚以上に好奇が湧く。
括目して寳子に振り返ると、漂は童の期待を瞳に映す。
寸でも待たず吹き出すと寳子は彼に向かって頷き、微笑んだ。

「いやっ・・」

た、と驚喜に声を張ろうとする彼の口を塞ぐ。
否、塞ぐというには余りに激しい仕打ちに漂の目からは反射的に涙が浮かんだ。

「・・・ ・・いだい゛」
「ここは馬上訓練というよりも、乗る側より馬自体を訓練する場所なんだ。
   だから他に比べて狭い。今はここしか使えなくてな・・ ・・でも乗る側にとっても習いという意味では十分だ。
      ああ、あと静かに。会話程度ならいいが叫び声は駄目だ」

(こっ、これで狭いのか・・)

他に許されるといえば馬蹄音くらいのものか。
漂は手形に腫れる口元に手を当てる。
彼の何か言いたげな体には目もくれず、寳子は説明を続けた。

「言う事を聞かせる事はもちろん、障害物を嫌がらない。
   見知らぬ物に怯えない、人を乗せて走る事に慣れさせるといった目的で置かれている」

「外に森とか崖とかあるのに?」

「野犬も出るし初歩的な訓練には適さない。
   遠出するにも物見が黙ってないしな・・手がないでもないが、今はここで十分だろう」


広大な外と比べれば確かに見劣りはする。
しかし見る限り外から鳥も入り込み、また兎も跳ねる様を見ると外界と変わりないように思えた。
弓兵の訓練場としても使われていると彼女は言う。
狩り過ぎれば外から相当数戻さねばならないが、得てして弱るため繁殖もしていると語る。

「へぇー!牛と同じように!?」
「そうだ!と、言っても放っておいたら勝手に増えるだけなんだけどな。
   あと兎は生まれるとき一度に多く生まれるんだ!小さくて丸くて、すっごく可愛いんだぞっ!」

気持ち声が大きいのは気のせいである。
話に乗る漂に対し、溢れんばかりの笑顔でこれに応える寳子。
両手を持ち出して子兎の大きさを示そうとする。
その嬉々とした様子は決して戦場など知らぬ、人殺しなど到底できぬあろう少女のそれだった。

「・・・・」
「・・・・・・・・・」


寳子は態を直すと一つ咳払いをする。
結局のところは狩り用のそれであり、食材の最もたるであると括った。
ただ自身においては馬のついでに世話をするだけで、ここに狩りへは来ないと言う。
理由としては簡潔。
特に食うに困る状況でもなし、他にある為とそう言った。

「待っててくれ、厩舎から馬を一頭とってくる」

一人で行動するという言に、逐一心配そうに訊ねる漂。
掌を差し出し制すると、愛馬の内一頭なんだと嬉しそうに言って駆けた。






流れる景色に追い付けない。
ただ目の当たりにするだけでとても眺める余裕などない。
障害物を認めた時には既に通り過ぎ、容赦のない風圧に目が翳む。
それでも鞍の前に陣取る少女は手綱を繰ると、左右に不可避なそれを飛び越える。

「今の木枠は驚いたろう!しっかり掴まっていてくれ!!」

馬の胴辺りまである高さの木枠は枠と言うには嵩の高い、丸太一本をただ横たわらせただけの物である。
幅を利かせる泥濘の地も大きく越え、岩の大小も関わらず避けるとまた跳ねた。

寳子の馬術も然る事ながら、何より二人も乗せて難なく課題をこなす彼女の愛馬とやらもやる。
振り落とされそうになる衝撃を耐える事で精一杯の漂は、彼女の腰に回していた腕を引く。
もはや遠慮も何もない。
もう片方の手で前橋を掴み、肢に力を込めた。


暫く寳子先導のもと走り一段落する。
下馬すると肩で息をする漂を彼女は気遣った。

「大丈夫か?私が馬を走らせ過ぎたのかも知れないな」
「だっ、大丈夫・・・凄くて、嬉しくて・・ ああ、ごめん、言葉が・・。
   乗ってる筈なのに置いて行かれてるみたいで―――――でも凄く楽しかったよ、ありがとう寳子!」

満面の笑みで答える漂に瞬き数回、寳子は視線を逸らすと腕を組み小さく呟いた

「う、馬に乗せるくらい・・いつだって言ってくれれば」
「ん?」聞こえない

「大将軍になる心算なら!今日この日に乗りこなしてもらわないとな!」

何も言っていないとぴしゃりと言い放つ。
驚きつつ中々に無茶を言ってくれると、しかし漂は受けて立つ気概を見せる。
馬の手綱を手に取ると寳子は漂に問いかけた。

「もう何度か私が繰ろうか?」
「いや、大丈夫。今度は俺にやらせて欲しい」

申し出を拒否する。
今日この日以上に、この時に乗りこなして見せると漂は言った。




馬に跨いで暫く、ぎこちなく走り始めた頃も昔と翳む頃。
枠も超え、躱し、跳ね、そして大きく障害物を飛び越える。
移ろう景色よりも意識を先行させる。
駆け出す以上に身体が前へとのめる。
彼女の位置は変わらない。
寳子は強く風を受けながらも、安心して彼を背に身を預けていた。

漂は何度か往復する間に言葉通り、この時において馬を乗りこなしていた。


「凄いな見違えるっ!本当に今日が初めてなのか!?上手なんだな漂はっ!!」
「寳子がいてくれて安定感があるから!」
「そっ、そういうのはいいっ!」

何かにつけて持ち上げて返す漂に寳子は慣れない。
謙遜するか頷くか、調子に乗るか無愛想に黙るかの反応しか知らぬ彼女には新鮮だった。


(私が繰った時だけで感覚を掴んだのか・・簡単な事じゃないぞこれは)


幼い時分、昌文君に初めて褒められた事を思い出す。
自身もそうであったかと少し自惚れた。

(調子に乗って落馬したんだが・・いい思い出だな)

助けられた分際で良い身分だと。
殿に怒られると彼女はまた笑った。



一通りを終えると速度を落とす。
闊歩しながら彼らは感想、改善点を述べ語らっていた。

「これに武器を持って戦うんだ、漂。 戦闘、戦術・・敵味方や馬にも意識は多く割かれる。
   副官や他が賄うと言っても軸は率いる将にある。総じて為す事が求められるぞ」

視線は前を向いたまま。
彼を背にしたまま彼女は内外問わず指導に当たる。
そして傍と言は途切れるのであった。

「しまった。この刻は誰も来ないといっても気は遣っておかねば。・・相変わらずお上手ですね、大王」
「(ははっ、また今更だ)うむ。お上手だ」

どちらにばれても問題はないにせよ。
しかし取ってつけた、誰もが突っ込みたくなるようなこの反応も漂は楽しめるようになっていた。
おどけて返す漂に吹き出す寳子。
二人の笑い声が合わさると、どちらともなく互いが互いの口に―――――勢いよく手をやった。



「そういえばさっき愛馬とか言ってたけど」
「ああ、こいつは蒐(しゅう)と言う。毛が少し赤茶色いから赤蒐。
   駆り出すと荒々しく、体力もあって打たれ強い奴でな。なのに甘えたで、離れようとすると怒るんだ」

口元を手形に赤く腫らし、寳子は可愛い奴だと微笑んだ。
愛馬という響きに漂は騎馬に対し、決意も新たにする。

「馬は賢い。感情だって豊かだ。個性もちゃんとある。
   これだと思う馬は手に入れて育ててやれ。きっと力になってくれる」

手で蒐の首を数回、合図のように叩く。
軽く首を振る愛馬を寳子は撫でた。

「あと二頭いるんだ。黒黎(れい)は険路を諸共しないから隠密に向いてな。ただ神経質で私以外には懐かない。
   白綸(りん)は速さが随一なんだが気分屋で。もうすぐ着くという所で草を食べ始める」

後者は特にそのまま怠ける場合があるから気を揉みながら乗る事もあると肩を竦める。
騰副官のようだと誰彼を持ち出し、そして嬉々と次いで語らおうという所で我に返った。


「・・・俺、寳子の愛馬の事もっと聞きたいけど?」

「馬の話になったからっ!・・つっ、つい話し過ぎただけだ。
   つまりは!愛馬は何頭か抱えておいた方が無難だぞとそういうこ」


言い切る前に漂が寳子の口を手で塞ぐ。
声、と二度耳打ちされ状況を呑み込む。
知らず次第に声が大きくなっていたらしい。

位置的なものを考慮しなければ正に抱きかかえられる体のそれに、彼女は両の腕を掲げて振り解いた。
黙って腕を下ろす。
顔が赤いであろう事は背後にいる漂にも知れる。
黒赤の髪より垣間見える、赤く照るそれが目に入った為だ。

「す、すまない。・・馬が、好きなんだ」
「もう十分にわかってるよ」

併せて、道理であれだけ繰る事が出来たのかと賞賛する。
それにまた謙遜で返し、齎される遣り取りから既視感に捕らわれる寳子。
漂は黙したままの彼女に気付くと、ありがとう、と礼の言葉を口にした。




「ずっと乗りたかったんだ、馬に・・
   こんなに早く乗れるなんて、それだけでも夢みたいだ」

「・・そ、そうか。騎馬するには士族になる必要があるからな」

馬と調子を合わせるという名目で平坦な道をゆく。
走る事はなく、脇には兎が警戒し立って彼らを眺めていた。


「信にもさっきの疾走感と馬上の景色を見せてやりたいな・・」

「・・・友か」
「うん。村に残って、今も俺に負けないくらい頑張って夢に向かってる」
「そっか・・ ・・」

寳子は友という言葉に浮かない顔を見せる。
そして共に夢に向かうのはいい事と音で返し、遠く先を見詰める。
声だけでどこか違和を感じる漂だったが、それを確かめる心算はなかった。


「俺達は力も心も等しくあるんだ」

「・・力も、心も?」


まさか、と振り返る寳子の間近に漂の顔があった。
慌てて直り、前方に傾くと勢いで身を滑らせる。
寸での所で漂が彼女を抱え大事には至らない。
語気を強め窘める彼に呆気とし、寳子は素直に謝ると漂もまた傍と謝った。

同時に黙り、そして同時に言葉を発しようとして互いに譲る。
寳子が半ば強引に譲ると、漂は頬を掻いて話し始めた。


「俺達は一心同体。だからわかるんだ。・・あいつはくる。
   ここまで、そして秦という国から―――――世に羽ばたいていく」



必ず歴史に名を残す。

天下に轟く剣となる。




漂はそう言うと自らが鼓舞された、仕様がないと困ったように笑った。


「天下に・・・ ・・轟く、剣」


そう反芻する寳子は、心中に言葉が落ちてゆく事を感じていた。


「お前達は国、王を護る双剣になるのか」


にっと笑い、その通りと漂は返す。
それに寳子も楽しみだと笑う。



「・・私は王を護る盾になりたい」



そして夢を語った。




「でもお前達が王の剣になるというのなら・・
       ―――――私は剣をも護る盾になろう」




視界が開けるのを感じる。
漂の予感は確信となって心を、そして口を衝く。

「寳子に護ってもらえるなんて、頼もしすぎる」

色んな意味で。
この短期間における彼女の所業を見るに、数々過ぎると。
しかしその仔細は決して言わない漂であった。


「でも寳子は・・ ・・・寳子も、剣が護るよ」

「なに言ってるんだ!盾は護る為にある。押し返して倒す事も、殴る事だってできる!
   傷付き使い物にならなければ捨て置けばいい・・足手まといなんて恥辱の何物でもないっ」


甚だ心外であると憤怒の様を呈する。
寳子は己が何年も掛けて掲げる証明を軽んぜられたように思い、つい声を荒げてしまう。
勿論漂に貶める気など毛頭ないが、頑とする彼女に危うさを感じ反論する。
彼女を支える腕に力を籠め―――――反発する力を無視し、先程よりも随分強めに引き寄せた。



「本当の盾と、君は違う」



護る者として在る為に生きてきた、彼女に対する暴言の類。
しかし寳子は愕然と、怒りさえ通り越したのかといえばそうでもない。

その言葉に嫌悪したのではない。
その言葉を嫌悪せずにいた自身に辟易とする。

嫌悪どころか別の迎合する何かが生まれた時点で、しかし彼女は気付こうとはしなかった。



「なら俺たち剣が折れたら捨てる?」

「! それは・・・」


返す言葉がない。
無論、戦況の如何によっては当然の選択である。
故にこれまで周囲も、自身でさえ敢えて口にする事はなかった。
捨てるだろうと、心では理解し答えを出す。

しかし口にはできなかった。

兵を無下にはしない。
それは彼女が剣を持った頃から共に掲げた理念だ。
戦場に生きる以上死なずという事はなく、みな命の遣り取りの元に得物を手にする。
故にもし剣が折れたとて、それで能うと彼らが思えるのならば異論はない。
彼女自身もついさっき捨て置けと言った手前、これ程の内問答は実に可笑しな話である。

あるまじき戸惑い。
このとき寳子は結局口を噤み、最後まで答える事が出来なかった。




漂は十二分に待ったと、寳子を強く縛り付けていた腕を和らげる。
何か答えを期待した訳でもなければ、彼女の道理を覆そうとした訳でもない。

ただ自分が剣なら、盾である者を護りたい。
そう豪語したまでの事だと彼は天を仰ぐ。

彼女は話にどこか引っ掛かりを感じるが止まったままだ。


そして漂は友へと再び話を戻すと、こう言った。




「信は翔ぶ。高く高く翔ぶ」




寳子が傍と我に返る。
耳は彼の言に傾け、そして口は開かない。


「もし信が翔ぶ時は助けてやって欲しいんだ。
   アイツが翔べなくなる事はないと思うんだけど・・」


自信に満ちた先とは裏腹に、やはり心配はすると笑い声が聞こえた。
二人で剣を打ち合っては来たものの、実戦となると友も、自身でさえどう変わるかわからないと言う。
それでも大将軍という夢を掲げる以上、やりきる気概は持ち合わせているとまた笑う。
―――――翔ぶとは可笑しな事を言うと、寳子も笑った。


「・・もし翔べなくなっても翔ばしてやるさ。叩き上げは任せろ」

(あっ・・うわごめん信・・・)


黙りこくっていた寳子がようやく話し出す。
しかし穏やかでない様相に漂は心の中で友に謝った。



「大丈夫、俺達は無敵なんだ。絶対に負けない」



過ぎた不安を飛ばす。
二人であるなら尚強く、一人であっても二人と強い。
先の憂いなど知らず、困難など翔び超えてみせると。


「だから寳子」
「え・・」




もっと遠くへ行く時。
もっと近付きたい時。





信に掴まるといい。






あいつは必ず―――――――誰よりも高く翔ぶ。





そう語る漂の顔は穏やかだ。
しかし彼らは同じ方へと向き合う次第、互いの表情を読み取る事が出来ない。

信の事ばかりを押し出す漂。
下僕にあって友というのだからその存在の大きさはわからぬでもない。
しかし話せば話すほど翳む漂の存在に、寳子は言い知れぬ不安を感じていた。


先程から何を弱気なと、彼女は頭を振って直る。
大きく首から上体からを反らし彼を見て言った。

「漂、さっきは話に噛みついて悪かった!
    思えばただ助け合おうと言ってくれただけなのに」

気にしないでいいと言う彼に寳子は胸を撫で下ろすと続ける。
彼女の心に投じられた一石は、確実に波紋を呼び起こしていた。


「双剣と盾であれば、戦で倒れる前にきっと・・次代へと繋いでゆける」


それだけの年月を重ねる事ができる程に強固に在れると、彼女は答える。
なら護られるのも悪くない。
そう言って彼女は、かもな、と意気地の片鱗を付け足した。



相も変わらず道を行く。
馬と調子を合わせるにしてもこう陽気に当てられては朗らかに過ぎる。
心地のいい揺らぎに身を委ね、ともすれば寝入りそうにもなる最中の事だった。

「あ」
「え」

暫くしてそれは突然にやってくる。
虫の知らせほどに大袈裟ではないそれに漂は安穏として言った。


「信、多分いまコケた」

「ぶっ―――――――」


一心同体とは確かに聞いた。
しかしながらこんな仕様もない事もいちいちわかってしまうのかと思うと、どうにも笑える。
嘘嘘と笑う漂だったが、時同じくしてその予感は当たっていた。












陽が降りる。
支度を済ませ、食事も終えると歓談の刻となる。
しかしその中にも終始入りこむのは目下、敵方の話である。
敵といっても現在憚るものから長く警戒を要する者まで様々だ。
両丞相の存在、竭氏を仕留めても秦は内に憂い抱えながら六国と相対せねばならない。

此度の議題は王の後ろ盾である筈の呂氏の存在と危険性だった。
それは今回の王弟竭氏側よりも果てなく、一番の敵であるとも言えると寳子は語る。
国の基盤が緩いことを良い事に、王の座を狙う勢力は他にもあると危惧する。

「呂氏は既に遠征へと出立している。―――――鞍替えならば清々しい。
   だが奴は王の首に切先を向けて、より権のある国、者を窺っている。
      為政者として権の持ち方は何であれ頭抜けているだろうが、私から言わせればただの下衆だ」

はっきりと言い切る。
国の利益を賄う以上に危険すぎると吐き捨てる。
荘王を引き上げ、結果現秦王を就かせた事は余りある。
しかしそれが全ては私利私欲の為の一手、その積み重ねであるとするならば、
秦国自体が何時にその駒として利用され得るかという懸念は尽きない。

「ここまでされて国は・・王は、呂丞相を嫌疑にかけられないの」
「無理だ。権を持つに関しては私とて認めている。かけようとした所でこちらに分はない。
   元は商人なのだから頭の回転は早いのだろうな。満ち引きを知っている。
     しかし商人と国のそれを同じにしてもらっては困る。・・必ず足を掬われるだろうさ」

大王がどれほど奴に煮え湯を飲まされた事か。
誰も掬えないというなら、それこそ己が才で器用に掬うだろうと謗る。
寳子がここまで悪態を吐くのも珍しい事だった。

「取り敢えずは王弟か・・いつまで続くかな」
「わからない。しかし事が起きること自体はそう遠くはないだろう。
   王弟側が動き出したその時が作戦の合図だ。・・漂、信じている」

しかし相手に合わせてばかりいては癪である。
後手に回らぬよう警戒しておくに越した事はないと寳子は言う。

傍と沈黙が降りる。
誰彼にいうでもない言は空を切った。
彼女は呆然とする漂の目前に手を翳し振ると、彼はやっと我に返る。
どうやら彼女の言い放った内の何かに対して意識を削がれた様だった。

「? 顔が少し赤い。何か私は照れるような事を言ったか?」
「てっ・・!! ・・照れるよ、そりゃ」

そんな大真面目に見詰められて、信じるとか言われたら。
とは口籠り言うまい、言えまい。
寳子は指折り、照れの在り処に気付くがその理由には行きつかなかった。


「話を戻すが私の懸念はその先、呂不韋が出てくる時だ。
   呂陣営、向こうには蒙家が・・蒙恬がいる」

彼女の口から聞き慣れぬ個人の名を聞く。
苦々しく語るその体で親しき仲である事は見受けられた。

「呂の方には呂氏四柱というものが存在する。
   法、外交、戦略、武威を司る・・どれも突出した比類なき者達だ」

偉大だと会えば厭でも知る事になる。
好く好かんは別にしてと付け加えた。

「蒙恬はその内の武威を冠する蒙武様の子だ。
   彼の方とは碌に話した事もないが、その子とは長く友として親しくしている」

「友達が・・敵・・・」

「そういった意味でも蒙家が呂から離れてくれればと思う。
   ・・蒙恬が余りにも良い奴だから、敵になるなんて本当は考えたくもない」

しかし現実としてあり得ない話ではないと肩を落とす。
昔から寄り添い、力になってくれた友と斬り合うなど想像に難い。
敵になるかも知れない相手とわかっても、親しくなった以上縁を切るなどそう易いものではない。
少なくとも幼少の彼女はそう啖呵を切ったのであった。

「もう一方は単一に玉座自体を狙っているしな。
   ・・これは口外しないように。ただ知ってはおいてくれ。
      二人とは近しくなり過ぎたが、同時に教訓も齎してくれた。そして今も何ら後悔はしていない」


二人とは敵になろうと離れ得ない。
そう思っているのが自分だけでも構わない。

故に前に立つと言うのであれば心等しくして討つ。
つまりは自害する事と同じくして友を殺すと彼女は言った。


(王の盾であり続けるんだ、寳子は・・・)

「蒙武様は蔡沢様と並んで呂から引き離しやすい理の内にある。
     面倒なのは昌平君・・そして李斯の二者だ」

前者は面倒というより読めない。
蒙武が動けば如何様にか動く算段はあるが確実ではない。
何より あ の 蒙武が旧知の仲であっても彼を引き入れるか否か。
あってもそれを昌平君が受け入れるかさえ知れない。

ならば離すには結局のところ国の在り方、若しくは手腕に寄る所が大きいとも考えられる。
そして後者は果たして動くのか、という未だ枠の外にある遠き存在だった。


「各々が何で動くかだが・・」
「寳子は少なくとも四柱のうち三は動くと見てるんだ。
    
   ・・あとさ、その・・ ・・全然関係ないんだけどさ、その。
      蒙恬って子の、事なんだけど」

「?私の大切な友達だ。美人だぞ?」
「えっ!?」
「こら目に見えて反応するなっ!」


片や美人という単語、片や虚をつく単語と
反応の意は様々であるが交わす事はない。

「ちなみに男だ」

(男かよっ・・!!)

そしてまた片や男で残念、片や旧友が男である懸念と
やはり意図する所は別々のままであった。


「私も男だったならなぁ・・大手を振って戦だ何だと気兼ねなく在れるものを」

末の子であれば尚良いと語る。
寳子は今でこそ周囲の干渉は少ないが、やはり一定の隔たりは未だあると言う。
志、そして他要因も相俟って寳子は中々に面倒な幼少期を送っていた。
しかしその前に立ち、導いたのもまた周囲であったと笑顔を滲ませる。

「名家ほど家柄から相手が決められる。
    せめて好いた相手で良いだろうにとも思うんだがな」

「もっ、蒙恬って奴がもしかして・・ ・・・その。もしかする、とか」

「・・・ ・・え゛。 ははっ!ないない有り得ない!
   蒙家といえば名家中の名家だぞ?互いに親友だと豪語しているしな!
        ―――――だからこそ友と名乗る事さえ烏滸がましいと思われていたんだがな」

大袈裟に面白おかしく否定する中、不意に一石が投じられる。
幼少はそうでもなかったが、時が経つにつれ周囲の反応が正しい事であると実感するに至る。
そんな声もある日ぱたりと止む。
親友たる由縁は数多く、何より彼が助け支えてくれた事が尤もであると語る。
無知も過ぎれば度胸になる、とはまこと、勝手な言い分であると笑った。


「いや、有り得なく・・なくもないのか。
   家は違えど、意図もわからず相手にされるという意味では」

「何か言った?」

「何も!・・それに私は殿の正式な跡継ぎでもないしな。
        次第によっては婿養子をとるという事もあり得るだろうが―――――」


まあないだろうと。
ただでさえ結婚を遠くに置く彼女にとってその決意は未だ固い。


「え?殿の、って・・え??」

「うん?言ってなかったか?
      私の父は昌文君だ。何度と会っているはずだが」


漂の思考が止まる。
ああ、と思い当たる事が走馬灯のように流れるがどれも的を射ない。
ようやく言葉を口にする頃には驚き以上に、知らず過ごしていた自身の在り方に恥じ入り声を上げていた。


「聞いてないし!!会ってるけど・・ってそういう意味じゃなくてっ!!」

「何だ漂、騒がしい」じゃーどういう意味だ
「当たり前だろっ!!」早く言ってって意味!!!


そしてまたとんだ大声と、急いで手で互いの口を張る。
いやいや今は必要ないと、彼らは涙目になりつつ己が手で以て腫れる口元を撫でた。

王の側近に就くからには、とは思っていた。
しかしそれが己をここ、王都咸陽へと導いた張本人である秦国大臣の一人となれば驚くのも無理はない。


それにしても、と。
漂は心中、特に取り留めもなく思う。



(似ないもんなんだなぁ・・)



親子にしては。
しかし外見は別として、中身の剛の強さはつい吹き出しそうになってしまう程にそっくりだと、口の端を上げる。
暫く取るに足らない応酬が続いた後、夜は更けその場は御開きとなった。



2013 0423

 







 



漂が王都咸陽に来てから十日が過ぎた。
陽が天の頂点を指す少し前、彼は自室で昌文君より指導を受ける。
そして寳子は王都にあって王宮近く、既に孤島と化す湖の只中―――――政のいる離宮へと足を運んでいた。

大王としての政に一兵として報告をする寳子。
王宮とその周辺の状況、貴士族から民に至るまでの人々の様相を伝える。
拝礼し形式張る様はさすが板につき、淡々と語る彼女の言を彼は神妙な面持ちで聴く。
二人の間に何ら隔たりはなく、御簾は上げられていた。


「・・ところでどうだ、漂の調子は」

一通り報告が終わると政は見計らうようにして話題を移す。
休めという彼の声に寳子は居住いを正し脇に控えた。

「よくやっています。元々頭もよく好奇心が旺盛ですぐに覚えますし・・
   何より素直で修正も利き易く、教える側としてはこれ以上ありません」

褒め言葉がこれでもかと並ぶ。
笑んで語る寳子に、政はただそうか、とだけ口にした。

「あの、贏政さま・・ご気分が優れませんか?」
「!・・いや。そう見えたか?」

素直に頷く寳子の目に映るもの。
目を伏せ、辟易と翳る様に眉間の皺とくれば気遣わぬ者はいない。

「ただでさえ離宮に身を寄せ、苦を強いられる毎日を送っておられるのです。
   私でお役に立てる事でしたら何なりとお申し付け下さい。
        どうか抱え込まないで・・私は贏政さまの味方です」

敵中にあって確かな味方であると豪語する。
力及ばずであれば無理にでも足るようにするとは彼女の弁だ。
しかし寳子が真摯であればある程、政は彼女との間に溝を感じずにはいられなかった。


「楽しいか、寳子」

「え・・・」


不意の政からの質問に、寳子は直ぐに答える事ができない。
投げ掛けられるそれは音としては簡潔なものだ。
しかし意味合いとしては政の状態からしても不可思議なものだった。

指導係の手前、こう言うのも何かと前置きした所で。


そうか、そうでないかと問われれば
  ―――――楽しいですと、寳子はそう答えた。



「童心に返る、と言うと作戦を前に軽率ですが・・
   しかし漂といると友との鍛練の日々、夜の語らいなどは贏政さまとの思い出が蘇ります」

懐かしい思い出が基となり楽しいと述べる。
求める質問の意図とは違うものが返されるが、政はこれにもそうか、とだけ、少し間を置いて答えた。


「騎馬の訓練を続けていて―――――
   ふふっ、漂ったらこの前も調子づいて落馬しそうになって・・もう大変でした」

「確か早くに訓練を始めたと聞いたが、まだ二人で乗っているのか?」

「馬を走らせるのは得意のようですが、跳ばせるのがまだ心許なくて。
   馬と合わず枠の前で立ち往生したり・・私の癖がついているので世話をしていないぶん仕方のない事ですが」 

ずっとという訳ではないが、その時に限っては二人で乗るという。
愛馬ゆえ、嬉しいやら困るやらと複雑な表情を見せた。

少し甘いですか、と笑う寳子。
他にも二頭を連れ互いに騎馬し、木剣を持って打ち合ったり、早駆けで競うなどしたという。
成るほど楽しい訳かと皮肉を込める政に、寳子は机上における憂いを断つ。
学問の類も言うに及ばず、この短期間で成長著しいと彼女は語った。


不意に戸を叩く音が聞こえる。
ここに立ち入れる者は決まっていた。

「昌文君か、入れ」

政の声を合図に寳子は、入口に向き直ると拝手し頭を垂れる。
立ち入りそれを一瞥すると、昌文君は政に向かって報を入れた。
内容としては寳子のそれと変わる事はない。
細部を補う形での報告と、そして状況の変化を口頭で三者共に確認する。
終ると大王の許しを得、昌文君も脇に控えた。

「王宮近く、貴士族のいる居住地には既に反乱の件を知らぬ者はいないな」

「背を押され連れて行かれる者を数名見かけました。
   王都全域に広がり、離れの村にまで漏れ出すのも時間の問題でしょう」

「寳子、あの近隣と王宮近くを移動する際は警戒を怠らぬようにしろ」

「はっ。各場における人員の把握、交代の時間まで全て頭に入れております。
   これ以上の警戒となれば見つかる道理がございません」


「自惚れるでないぞ寳子。奴らとて儂らを警戒しておるのだ。いつ何時妙に仕掛けて来るやも知れぬ」

「すっ、すみません・・」


寳子を窘める昌文君を政は手を翳し御す。
これに応えると昌文君は一礼し直った。


「状況はわかった。
   他には側近同士、何か語らう事があるなら俺を気にせず話し合え」


なんでもいい、そう大王に言われ傍とする両者。
報告が終わった上に現状把握も済ませ、またいざ何かを話せと言われると些か戸惑う。
戦場や会議における場であれば上官と部下の関係でいられるが、以外となると親子のそれだ。

彼らにとって普段の会話こそが兵然とするものであり、
それに関係する事以外は思い出そうとしても一つ二つ。
幼少の頃こそ戯事から親と子の関わりが多くあったものの、
今となってはどちらともなく口を衝くのは軍事的なものばかりである。

仲が悪い訳では勿論ない。
厳しさこそ昔ながらのものである。
疾しい事など何一つないが、彼女が仕官してから―――――存在が確と定まってからというもの、
二人の間には妙な、言い知れぬ一線が引かれていた。


横目で互いに見ては逸らし、それを何度か繰り返したあと
先に口を開いたのは寳子の方だった。

「・・あの、殿。漂は・・どうでしたか?」

「ぬ・・うむ、勤勉にしておった。戦術、主に型の荒さ・・そして王たる振る舞いの甘さを正しておいた。
   普段と変わらぬが・・ ・・・最後の辺りは何やら落ち着かぬ様子だったか」


及第点かと政は音もなく息を吐く。
結局語るのは業務の延長上である。
場も悪かったかと、しかし寛げるような場所に二人を置く事こそ至難の業である。
共に暮らしていると言っても近しい訳ではなく、彼女は己が屋敷に在って離れに暮らしていた。

強いられた訳ではない。
寳子が選んだ事だった。

また彼女自身、王宮の隠れ家に身を置く事もしばしば、馴染みの家に泊まる事もある。
以前であれば他軍の演習に付いて行き戻らない、城に外泊する事の方が多かった。
久々に帰り言葉を交わしても報と訓練とに足る会話に終わる。
昌文君とて暇ではない為、用を済ませると双方忙しない日々に戻った。
それが二人の常であり在り方であったが、親子の語らいにしては主である政は些か侘しいものを感じていた。


(・・二人に託すものなど、今更)


仲介という余計な世話を焼く意味を、彼は意識に上らせない。
飽くまで主の立場からと自他共から憚る。

こうして敢えて親子二人を語らせる事も少なくない。
語らせようとする事も、その意味も。
誰一人知ってか知らずか、その答えを口にはしない。



(泣きだしたか・・)

政は視線を逸らし窓から曇天を眺めて言う。
落ちる気が更に落ちると、心中で悪態をつき頬杖もつく。

しかしその静穏とした空気を破る者がいた。
外に見える景色と相俟って、昌文君の言葉にしまったと立ち上がる寳子その人である。

「ぁああ〜〜〜・・・っ・・!!しまったぁああ・・・!!!」
「寳子、大王の御前「ごめんなさい殿!贏せ・・大王もっ!私はこれでっ!」

焦りを前面に出して拝礼し、すぐさま立ち去ろうとする。


「騒がしい奴だな・・もう行くのか」

「このあと漂と約束があって!
   (雨降る前に早く切り上げて行くって言ってたんだった・・!)
      このような急ぎの体、誠に申し訳ないです!」


『贏政さま、今度一緒に簡読みましょうね』
一歩前に進み、口元に手を添え前に屈み小声で言う。
背後に御座す昌文君は疑の体であった。

(ただの指導係が約束、か)

言葉の違和に気付くは二人のみ。
きっと彼女は、気付きもしない。

知ってばかりが馬鹿を見ると、誰彼は何より自身に、嗤う事を強いられた。



寳子の、失態の穴埋めと言わんばかりの余計な気遣いにジト目で見返す政。
その気まずさに彼女は冷や汗を掻きつつ目を細め、気持ち遠くを見つめた。

「・・・・・雨が降っているが」

「戦場でも雨は降ります!それにまだ小雨ですし・・
   漂には影としてきっちり!王の身の振り方というものを知ってもらわねばなりませんからっ!」

でなければ 大 王 が 恥を掻くと、おどける様にして笑い出て行った。
場は静まり返り、舟を漕ぐ音が響いては遠退いてゆく。
政の目を伏せ翳る横顔を、昌文君は黙って見詰めるより他なかった。













「はぁ・・」

小雨も緩やかになり、泥濘の道を馬で駆ける。
その中で漂は彼女の溜息の漏れる音を聞き逃さなかった。

「どうかした寳子、溜息なんか吐いて」
「溜息!?吐いてたかっ!!?」
「(いやそんな驚かなくても・・)うん、吐いてた」結構盛大に

遅れた事を気兼ねしているのかと問う漂に、寳子はそれもあるがと、しかし首を横に振る。
溜息の要因は別にあるとそう言った。


「漂には父がいるか?」
「あー・・ううん。俺孤児だから」
「そうか。・・ああいや、すまない」

身も蓋もない事を言ったと謝る。
暫く黙り、寳子は一言呟いた。



「殿を父上と呼んだのは、幼少のころ一度きりなんだ」



突然の告白に詰まる漂。
何を、どう切り返せばいいのかわからなかった。


「父と呼ばず、殿と呼ぶようにと言われてな」
「二人の時でも?」

「それは聞いていない。でも・・聞くのも、何だ。
   自ずと二人の時でも殿と言っていたし、語らう時は常に周囲に人がいたから、どのみちな」


私兵、食客を多く抱える有力者なのだから家族といえども呼称には気を遣うだろう。
故からではないかという漂の言葉に、寳子は了としつつもその意識はどこか遠い。


「幼少の頃は力及ばぬ為にそう言われたのだと思っていた。
   今でこそ昔よりはマシだという自負はあるが、それでもこの状態が板についてしまってな。
      今更自分でも殿を父上と呼ぶ事に躊躇いを感じる」


また代わって昔は今より取り留めのない事まで多く話していた事。
自身にとっては努力の範疇でも勝手気儘に振る舞った事に変わりはなく、それでよく怒られたと言う。
しかしよくできた事には過剰に褒めず、極めて珍しい事ではあるが頭を撫でてくれたと今事のように喜ぶ。
それが殊のほか嬉しかったと、寳子は笑った。

今は出来る事が当然。
立場を弁え、怒られる事こそ少なくなり、安堵する反面寂しくもあると双眸を伏せた。


「私は殿に認められたくて頑張ってきた節もある」


その言葉を聞く漂は寧ろ親子甚だしく―――――呼称程度と言えば語弊があるが、
何をそこまで悩む必要があるのかと疑問さえ浮かぶ体だ。

事情の知らぬ彼は尤もらしい答を導く。
故に寳子は話す事が出来た。



「私はただ殿を・・ ・・・父上と呼びたいんだ」



可笑しな事を言っている。
王に侍る貴人の親を持ち、悩みがそれなどという事は彼女もわかっていた。
しかし彼女にとってこの望みは何より請い難く、また贅沢な願い事だった。


「貴方は大将軍になると言ったな、漂」
「・・・そうだね」

「私もなるつもりでいる。
   国と王、民を護り・・そして夢を叶えたい」


後方より吃驚の声が上がる。
しかし彼女であれば目指す事こそ自然かと漂は口を閉ざす。
狼狽える彼を知ってか知らずか言葉は続く。


そこに至ればやっと自分に呼ぶ資格が与えられる、そう信じていると寳子は言った。



「・・話を聞いてくれてありがとう。
     気が楽になったし、確認もできた」

やれやれと伸びをする。
雨で湿る顔を拭った。


「どうしてそこまでお父さんって、呼べないのかはわからないけど・・」


傍と止まる。
聞かせた以上、無下に話を変える事もできないと寳子は義理堅く在る。



「寳子は昌文君の子として胸を張ればいいさ。
   君はそうやってこれまで生きて来たんだろ?・・なら、きっと大丈夫」




必ず呼べるようになる。
いつかはわからないが、いつか必ずと漂は言った。






―――――暗闇の中、一条の光を見る。

息をしているのかさえもわからない。
喉に、口に泥が詰まってどうしようもない。
混濁している。
記憶が曖昧だ。
誰かが背を叩いている。
振動を感じる、痛みはない。
詰まりがとれ、吐いた気がする。
それでもその人は背を何度も揺すってくれていた。

誰かが願い事をした。

猛毒に解毒を入れても

できたのはやはり、毒だった。


懇願したのは叶えずの天にではない。



請われ、その毒を受け入れたのは―――――――




「うん。そうやってこれからも生きていく。・・父上って、絶対に呼ぶんだ」



そうして彼女は―――――毒の体に刃を突き立て―――――深く頷いた。











馬を走らせ今日の予定の一通りを終える。
再び小雨が降り始め、寳子は手綱をとり帰ろうと馬を繰るが誰彼の手に止められた。
勿論背後の漂であるが、想定外の事に寳子は目を丸くする。
彼女の持つ手綱を奪うと、漂は再び駆け出した。

(今しか、ないかも知れない)

普段雨という存在は生活の基を請う以外に望むべくないものである。
しかし今この時の漂にとっては、何者にも代え難い恵みの雨だった。


寳子が止める声も聞かず―――――否、聞こえぬと勢いよく馬を駆る。
暫くして流石に黙っていられないと彼女も無理矢理に手綱を奪い馬を止めた。

「漂!一体何なんだ、いい加減に・・」
「そういえばこの前、家柄で相手が決められるって言ってたけど」
「えっ!?」

雨に降られるまま路の真中で二人、黙って馬上にて留まる。
予定より随分遠くへ移動した為、ここからすぐに部屋に戻る事はできない。

次第に雨脚が強くなる。
戦場で雨に降られる事があると言っても、実際戦に関係のない所で過剰に苦を強い風邪を引いてしまっては元も子もない。
更に言えば反乱を前に寳子らは安穏と訓練に勤しむように見えるが現状、何時に相手が動き作戦が始まるとも知れない。

とりあえずは、と。
寳子は帰る道へと方向を変え、少しでも雨を凌ごうと木々の内へ入り込む。
速度を落としながら馬を駆る寳子に、漂は猶も質問を投げかけた。


「家柄で結婚する相手って決まるんだよね」
「・・ ・・・ああ、うん」


「寳子もそういう人いるの?」


核心を衝いてくる漂の言葉に、寳子はその質問の意図を理解し兼ねる。
そして都合の悪い事に雨脚は更に強まり、無視しきれぬ物となっていった。


「・・・わからない」


寳子の答えこそわからないと漂は手綱を引き馬の足を止める。
一体何なんだと、いつもとは違う彼の態度に寳子は業を煮やす。
しかし碌に答えようともしない彼女の態度にも、漂は同じ想いでいた。

急に襲う閉塞感に居た堪れなくなった寳子は、手綱を打ち馬を走らせようとするがこれも制止される。
重ねられた手に動揺を隠せずにいると、漂はそのまま下馬し、次いで彼女の番を促した。


雨の止むまでを凌ぐため、馬を引き二人黙って移動する。
丁度誂え向きの場所を見つけると二人は並んで佇み、馬を控えさせた。



(嫌な時に二人きりになってしまったものだ・・)



逃げようがない。
何故こんな事になってしまったのかと、先刻までの楽しく過ごしていた様を思い出す。
しかし寳子にとってこの類の想いを感じること自体は、初めてではなかった。
双方黙ったままでは、場は雨音の独壇場である。
ただの音に心打たれるのも癪だと、寳子は過ごす刻を埋める様にして話し出した。


「小雨だと思って勇んで出ればこれだ。
   戦場でもこういう事はある。何事にも言える事だが―――――「さっきの続きだけど」


鼓動の跳ねた音は聞こえなかったろうか。
寳子はそればかりを気にかけ、隙を晒す。
まだ雨音に打たれる方がマシだったと、思ってはみても遅すぎた。


「なっ、何でそんな事・・ ・・を、聞く。別にどうだっていいだろう・・・」

「聞きたいからじゃ駄目?」


どこか慣れない。
こういった内容にも、こういった時の漂という人にも。
まとめてこれら現状に対し、彼女は実に不慣れだった。

返す言葉に詰まる。

それは相手の言に対しても、そして自分の言に対しても言える事だ。
どうだっていいと言うなら、言ってしまってもいいという事である。


頭を擡げ溜息を吐く。
観念し、書き捨てとばかりに彼女は語り出した。



「 普 通 は 、いないな。・・こんなナリと剣戈を振り回していては」



やっと口を開いた彼女に、今度は漂が慣れぬ心音を聞く番だった。


「断固として断りきれなかった私が悪い」
「・・どういう事?」


「彼は私と結婚するつもりで、しかし私にそんな心算は―――――ない、という事だ」


今の今まで思う由もない。
話題として上がる事さえ甚だ疑問であると彼女は言った。
大事であるのに、まるで実感が湧かないと寳子は深く溜息を吐いた。

「名誉なことに宣誓までやってのけてくれたが、飽くまで子供同士のそれだ。
   向こうの家が許す筈もないだろうしな。そういった意味で私も楽観して、また余計な事を言った次第だ」

「・・何て言ったの」

「はぁ。・・聞きたがりだな、漂は。だがこればっかりは言わない」


そんなに貴士族間の情話が物珍しいなら宦官になり、後宮に侍るのも一つの手だと言う。
もっとおどろおどろしい物が見られる、そう脅し嫌らしく笑う寳子を前に漂は口籠る。
冗談でもないと彼女はそう言い、溜息を吐くと話を続けた。


「名を王賁。名家王一族の跡取りで何より家名を重んじ、継ぐにあたり十分な資格を持つ者だ。
   ただ仲の良い・・と私は思いたいんだが、幼馴染を考えなしに娶ろうなんて決して思わない聡明な人でな・・」

     
言って区切ると再び溜息を吐く。
今回の件は事実、彼女の思惑の外であった事が窺える。
そして一拍置き、悪い癖が出ると困った人になるがと、少し笑った。


「誰より重責を担っている事を、何よりわかっている人の筈なのに・・一体、本当に・・わからないんだ」


重ねてまたわからないと言い放つ寳子に変わり、一方の漂は理解を得る。
頭を擡げ、見上げる先は未だ涙する曇天の様だった。



(・・・・最悪な状況って事はわかった)


途端に出てきた下僕出身の自身が、今すぐにどうこうという訳ではない。
しかし足掻く事は出来そうだと算段をつける。
諦める気は毛頭なかった。

一縷の望みは彼女のこの、何事も然と し て し ま う 気質。
諸刃の剣ともなり得るそれは、今の漂にとっては何よりの味方であった。

(そこまでの人が選ぶ理由、それが何かって答えには行き着かないんだな・・)

「彼の父君、王翦様は素質のある者を集めていると聞くが、私が該当するとも思えない。
   ―――――何より例の噂が本当なら、私が降る理由もないしな」

眼光鋭く言い放つ。
対するならば見えると彼女の意気が伝わる。
見えぬ敵に戦いを仕掛けそうな勢いを止めるべく、漂は話を戻す。
おそらく気付かぬであろう可能性を信じて、敢えてその言葉を口にした。


「外見の判断材料の他に、別の理由があるかも、とは・・思わないんだ?」

「なら中身って、名家の子女のそれとは程遠いぞ。
   舞踊の習いの時だって・・その、下手くそで。彼はいつも通り黙り込むわ蒙恬は大笑いするわで・・
     とにかく!漂は王家の偉大さがわかってないからそう言えるんだっ」


地位、能力。
相手にそれ以外を必要としないであろう家の後継者を前に、自身は余りに遠い存在であると言う。
今更わかりきっている事を何度も言わされてか、寳子は半ば苛立ちに顔を顰める。
平謝りの漂に辟易とし、未だ止まぬ雨空を睨んだ。

「王家なんて余所の国の上級官僚・・貴士族、その気になれば王族とも契れる名家なんだぞ。
   それを・・決して殿を貶める訳ではないが、ましてや今は文官に転じ、高官といえど末席に身を置く家の者の子をだ」

昌文君の名を冠していても、それは四君には及ばず。
中の上ほどに位置する者、その家柄の女を娶りたいなど耳を疑いたくもなる。
不可思議すぎる。
好意のそれで補いきれる家名をその人は背負っていないと寳子は言った。


「いや―――――それは」


『中々にない事なんじゃないかな』
否としようとして応とする。
漂は寳子の意見に同意を見せながらも、眉を顰め、視線は上に外される。

聞かされる程に確信に変わる。
その彼の彼女を求める理由と言うものは、至極簡単な事なのではないかと、しかし漂は言わない。


「出会いから思い返しても不思議でならない。
   旧友として共に鍛練したり会話するまでに、私は彼に殺されかけたんだから」

「はっ!?」


次々に聞こえ伝わる話に息つく暇もない。
故に深く事情を聞くまでにも満たず、その仔細を彼女が語る事はなかった。




「親友・・友の一人と、身分不相応にそう思っていた。
   でも思っていたのは私だけだったらしい。色んな意味でな」


気落ちと言うよりは困惑であると言う。
見る目を変えると言われ、身構えぬ者はいないと目を瞑る。


「彼はいつだって本気だ。
   だから何かの冗談であったなら、少しの苦笑いと立腹で済ませられたのに」


雨音が耳を劈く。
痛みなく受け入れてしまう分、雑音が酷い。


今なら聞ける。
今この機を逃しては二度はないと踏む漂は、問いかけを止めなかった。



「嫌って訳じゃなさそうだけど・・
   それでも寳子は、彼と結婚しようとは思わないんだ・・?」



横目で見やる。
滑稽に投げかけ、狡猾に探る。
しかしそんな体は一番近くの彼女でさえ見ていないのだから、何ら問題はない。
足掻くと決めたのなら当然、不恰好に過ぎるが丁度いいと己を慰めた。


「嫌な訳がない。こんな事くらいで友を嫌いになったりしないし、勿体無いとさえ思う。
   ・・・そうだな。素直に嬉しいとは思う。でも戸惑いが大きすぎてよくわからない」


お手上げだと笑いながら答える彼女に、漂も心中穏やかでないながらも笑んで返す。
しかし軽く笑ってもいられぬ事態が起こる。
漂は彼女の信念の尤もたるに目見えた。


「私には果たすべき約束がある。・・返すべき恩がある。
   その前提からして結婚という道はとらず、一生を戦場・・秦国に捧げる心算だ」


「えっ!?」
「え?」


間髪入れずに疑を発する。
出会った時から彼女の覚悟というものを理解した気でいたが、まさかの程度に愕然とする。
それは不味い、宜しくないと彼は顔全面に感情を押し出してしまう。
自らの必死の形相に気付くと口籠る漂。
しかしそれに当人こそ気付かず、ただの変顔として収める辺りが寳子という少女らしかった。


(何か・・すごい覚悟を持って言ったんだろうな、その人)


ここまでの話の筋で否が応にもわかると。
それを長い付き合いであろう王賁という彼が知らぬ筈がない。
大概は挫けそうになる、この悪戦を強いてくる彼女によくも立ち向かったものだと。
家柄の事も、彼女の性質を知ってなおも臨んだというのであれば鑑でさえあると賛辞を贈る。
漂は会った事もない誰彼に、謎の親近感を抱いていた。

彼女の口から得た確信はしかし、実に強固な護りの志。
唖然とはするものの、これは飽くまで彼女にとって決意の一端にしか過ぎない。
刻はある。
覆すに易くはないが、覆せぬものではないと漂が意気新たにした途端にその声は上がった。

「あ」
「へ?」

「もしかして王賁は、単に私の事が好きで言ってくれてるんだろうか」
「え゛っっ!!!」

問う為に持ち出し過ぎたと焦る。
それに気付かれては不味いと、先程の親近感はどこへやら、漂ははぐらかす。

「ははっ!冗談だ、さっきも言ったろう好意で補えるものではないと。そんな事あるはずがない」
(っはーーーーーーーっっ・・・・・)


全身で脱力するも束の間。
寳子は知ってか知らずか、寧ろ前者でなければ逆に性質が悪いとしか思えない言葉を無遠慮に答える。


「私は王賁が好きだ。でも、結婚云々と言われるとな。
   友としては蒙恬の方が仲が良い気もするし・・
     そもそも何を以てして友か、恋か・・愛するという事なのか」


見知らぬ馴染みへの明らかな好意を示され身が引き締まる。
更に言えば湯でも啜っていれば吹き出しそうな言葉を、寳子は大真面目で並べ立ててくる。
漂はこれに居た堪れなさを感じつつも、しかし彼女から視線を外す事が出来ない。


「家族や仲間のそれじゃないんだろう?・・将として惚れるという意味はわかるんだ。
   愛すればこんなに考えないんじゃないか?いや考えるのか。
     もし愛慕を知れば私の志は崩れてしまうんだろうか?どうなんだろう?」


寳子の怒濤の疑問に漂は一時怯みながらも身を返し、相対する。
友情だの愛情だのを答えろなどと、そのような世の壮大なる命題に誰が応えられようものかと内心嘆く。


故から彼女は、感情の如何を明確な答えとして導こうとしていた。

得体の知れぬ物に形が欲しいと言う。
幼少から剣を持ち、誰彼の背を追い駆け回っていた少女である。
そんな彼女に己が情の行く先など到底推せるはずもなかった。

「ほっ、他の家の女の子たちとは話さないの?」
「最近はめっきり。話したとしても現実的なそれか、夢心地に浮ついていて的を射ない」

立場、夢想の類ではなく、情を思考で理解したいという。
この時点で漂は、語るには未だ道が違い過ぎると膝を折った。


雨中という不幸中の幸いの中、身を挺し無理矢理に事の次第を聞き出した結果。
要するに一方的に言い寄られているという収穫。
それが旧友であるため断りきれぬまま、またこの状態から無下に婚約者がいないとも言い切れない。
互いの好意の方向性が違い、しかし彼女自身どの道を行っているのか理解していない。
結局漂にとって不安要素は拭いきれぬままの状態であった。

(でもこれだけ彼女も家名を重要視してるとなると・・ ・・俺も他人事じゃない)

元より下僕の身である漂は逆の意味で寳子とは不釣り合いの中にいた。
作戦が成功し、晴れて戸籍を得られたとて大将軍への道のりは生半可なものではない。
武官の最上までゆけば何の引け目もなしに彼女を得る算段はつけど、どれ程の刻を要するか知れない。
せめて目安としてどの位まで身分を引き上げればよいか、しかし目前に聞く訳にもいかなかった。

(それこそ代を重ねる名家と並ぶには、やっぱり大将軍しかないか・・・)

一代で興すにはやはり最上が必要と答を出す。

しかし、それにしても筋金入りであると。
導いた答が無駄にならないか、彼は遠くを見詰めながら肩を落とした。



「なあ漂。ここまで話したんだから教えて欲しいんだが男って一体何を考えてるんだ?
   王賁は何を考えてると思う?私を娶る利が一切ないし、他に思いつかない」やはり何か含んで・・

「えっ!何その後出し・・って!男がとかそんなのわからないけどっ!」


少なくとも今、言い方からして本人に想いを告げた者に対し無礼であると説く。
素直に理解されても困るが、相手が疑われ過ぎて不憫であると涙する。
冷や汗を掻きながら言葉を絞り出す漂を前に、寳子は唖然と彼を見詰めた。


「そうか・・そうだな。
   仮にも彼が選んでくれた私を悪く言うと、彼を悪く言う事になるのか。難しいな」

「え・・あ、まぁ、うん・・そう。(うわーもう、どうすればいいんだろ俺)」


中心にではないが射ていると、漂は妥協案に頷く。
この状況を生み、けしかけたのは己自身である手前引くに引けない。
適当に流す事も出来ず、過ぎた事をしたと自らの器を振り返っても遅い。


「けど家の事を考えれば結果は既に出ているも同じだ。彼は私なんかを選ぶべきではない。

  ・・・何より彼は知らない。
        知れば結婚は疎か、友として居続けてくれるかどうかさえ―――――」


傍と口を噤み、そして吹っ切るようにしてまた切り出す。
寳子が重荷を背負い直す姿を漂は見逃さなかった。


「でももう悪い事は言いたくないな!」


そう声を上げる寳子の表情はあべこべと、しかし妙である。
本来のものとは酷く不似合いで、それでいて惹かれるのだから厭でも思い知る。


困るようにして笑う彼女への想いが、彼に特別だと思い知らせる。
早鐘のように騒めく内とは裏腹に、雨音は次第に鳴りを潜めつつあった。



「教えてくれないか漂・・こんなこと、身近な者に聞いたってきっと笑われる。
   知っておけばきっと、うまく立ち回れるようになると思うんだ」


そしてその凡とする空気を一変させるのもやはり、彼女であった。

何を、と。
本当は自ら問う瞬間に答えは出ていた。


「好きとか、愛するとか・・友とか、それ以上になりたいと想う気持ちとか。
   私は知らないのか、単に区切りを間違っているだけなのか―――――――」


括目する。
内外問わず音が消え、突然真白の空間に放り出される。
余りの出来事に、彼はただ立ち尽くす。

目前は一体何を言っているのか、わかっているのか。


しかしそんな事はどうでもいいと

漂は薄く口を開け、言った。





「俺でいいの?寳子」


「え・・」





こんな時に限ってと、しかし止む雨に文句を言う者はいない。

事を口走る意図も、それにより齎された現状にも
一番気付いていない者が口を開けた当事者なのだから、彼も堪ったものではない。

しかし悪くはないと、漂は彼女の手をとる。
寳子が疑を投げかける前に飛び出した。


「急いで帰ろう寳子!風邪引くよっ!」
「え、あっ・・漂!ちょっと待っ」


脇に控えていた馬も突然手綱を引かれたものだから機嫌が悪い。
騎馬し、寳子が宥めに入りやっと闊歩する。
暫くして調子を乗せると、手綱を打ち走らせる。

逸る様子の漂とは裏腹に、寳子の表情は先程とは変わって浮かないでいた。

(でも私・・・)

道を決めた手前、余計な事を知るべきではないのではないか。
寧ろこのまま知らぬ方がいいのではという迷いが生じる。


(私なんかが知って・・どうなるんだ)


避ける要領自体は既に得ている筈である。
誰彼の為と言っても、結局のところ利己的な好奇心の延長ではないかと疑う。

他を付き合せてまでやることか。
情を知ること自体、無意味ではなかろうか。

先程までの目の輝きはない。
駆けて戻るまでの暫くの刻、彼女の思いに翳が差すには十分な時間だった。
















何事もなく帰路につこうとする二人は一旦止まり、余りの体に浴場に直行する。
寳子は馬を繋ぎ、漂を押し込めると荷物を取りに一人部屋へと戻った。

再び茫と天井を見詰める。
細々と頭の中で飛び散る想いの一つ一つが浮上する。
これに纏まりをつけるには浴場とはまさに最適な空間だった。


(寳子の言葉を遮って馬を走らせたけど・・怒ってないかな)


速度を出していたため話せないという事もあったが、
何より結果的に彼女が話せない様にしていたのだから性質が悪い。


雨に濡れ機嫌が悪いというそれではない。
明らかに彼女は別の何か問題を抱えていたように見えた。


(気にし過ぎかも・・)


状況に任せ寳子を場に縛り、問いただし答を得た。
先の見える内容であったように思う。


教えて欲しいと彼女は言った。

漂自身にそれを請うた意味を彼女が知らないまでも、彼にとっては大きな一歩に変わりはない。


嬉しさ反面、逸る気持ち反面。
しかし不遜であったと、故に反省し漂は項垂れた。



バンッ!!!

「入るぞ」

「だからあっ!!」


何度目かの遣り取りに突っ込みも板につく。
変わらない光景に安堵するやら剣呑と構えるやら休まる事はない。
しかし変わらぬ彼女の様子から、先ほどの悩みは杞憂と知り良しとする。

「大将軍になるんだろう?ならこんな事くらいで動揺するな」
「う・・ ・・・はい」

頷く漂を尻目に、寳子は隅に寄ると作業を開始する。
薬草を擂り潰す音が響く。
これも毎度の事と、落ち着きさえ感じる程になっていた。
清涼感のある香りが浴室を満たし、同時に痛みも思い出すが近頃は慣れたものと自らを鼓舞する。


普段通りと変わらない。
こうなるとせせこましく、無駄に右往左往としている自分に気が付き恥じ入る。


窺うようにして覗き見る寳子の様は、やはり淡々としている。
外見は変わらず、しかし違和を覚える。
彼女は先程までとはやはり、様子が違って見えた。


「・・様々な事に慣れてゆかねばならなくなる。
   兵になれば甲冑を付け、得物を持ち、汚れ、そして人を殺す事に」

(寳子・・・?)


語る動作に乱れはなく、しかし彼女の内の動揺が伝わる。
滑らかになるまで潰した薬草を湯で溶き、更に残りの葉を千切って入れる。
それを数回混ぜた所で再び語り出した。


「戦場で男が女を犯す場など幾度となく遭遇する。見える趣味趣向も様々だ。
   敵同士の諍いの場合もあり、・・それを自国の者が行う場合だってある」

「・・・・・」


「羞恥を感じる以前に凍りつく。憮然とした記憶しかない。
   ・・だからかな。壁兄に言わせると男女の考えが年相応のそれではないらしい」


そんなものにも慣れて行かねばならなくなる。

これに余計な事を言ったなと、漂は含みあり気に閉口する。
閉口し、まさかと裏腹に、今度は凡と口を開ける。

異変の先に気付きさえするが、しかし明確な理由までは行き着かずにいた。


「(何か・・不味い。何がとはわからないけど)
   あ、あぁ!壁兄って、壁副長のこと?側近の!
       このまえ会ったけど気さくで何だかホッとしたっていうか―――――」


話を変える。
だからといって安直な嘘は吐いていない。

漂は此処へ来て暫くする頃、壁との面会も済ませていた。
年相応でない云々に至っては、壁自身そこまで深く考えずに言った言葉であろう事は大体の予想がつく。
問題はそれに引っ掛かりを感じる彼女自身にあると彼は気付いていた。

血は繋がっていない、団の内での兄だと寳子は言う。



暫しの沈黙が降りる。
この気重な空気を濁す、次の会話の糸口さえ見つからない。
互いに黙ったまま刻は過ぎ、薬湯を作り終えた寳子が合図をすると
漂は茫と返事をする間もなくそれは浴びせ掛けられる。

―――――――杞憂ではない。

確かな薬湯の痛みが茹だる意識を覚醒させる。
漂は歯を食いしばりながら、いつも通りに布で薬を刷り込む。
彼女はそれを見て塩梅を図り、湯を掛け流した。


一通りが終わる。
どこか漠然とした空気の中、漂が突っ立っていると寳子が声を掛けた。

「どうした上がらないのか」
「え、あ・・」
「風邪を引くぞ。上がれ」
「あっ、あのさ寳子」

彼女の手首を掴むと気持ち引き寄せる。
驚く寳子だがまた直ぐに平静を保つ。


「も、もう少し待っ・・ ・・一緒に、いて欲しいんだけど・・」


この言葉に流石の彼女も態を崩さすにはいられない。
何を言っているのかと半ば強引に掴まれた手を振り解いた。

「(いま一人にできるかっ!)
   ごっ、ごめんごめん!何か俺変なこと言ってる!?の、のぼせたのかなぁ!?
        (せめて彼女の翳を落としてからじゃないと、次に会っても気まずいままだっ!)」


「妙な事を言い始めるのは今に始まった事ではないが・・
                ・・・お前はどうしてもここを去らないと言うんだな」

(え゛。え、ちょ・・妙、な事っ・・今に始まっ・・ ・・・それ君が言うーーーーーッッ!?)


実に心外であると言いたげに震える。
しかしこの空気のなか言える筈もない。

去りたくないと、堪え絞り出す様にして言う。
そんな漂の言葉に寳子は食いついた。


「どうしてもか」
「・・ど、どうしてもだっ」



「・・・・はぁ。どうし「君を一人にする訳にはいかないんだっ!!」



両者頑とする中で、瞬き一つしない二人の壁を突き崩したのは漂だった。


彼の予想外の言葉に息を呑む。
ただの突飛な言である。


それでも頭に、心に届く。

何かが彼女の中に落ちる音がした。




寳子の方から漂へと顔を近付け言う。
その距離にして鼻先がつくかつかないか。
しかし見辛いと再び距離を置くと、紅潮する漂の顔が目に映った。


「・・・ ・・そんなに大々的な態度でこられるのも初めてだな」


言ってくる奴もいないがと、彼女は腕を組む。
寳子の様子と言葉に疑を抱いた漂は呆気と彼女を見詰めた。



「湯浴みできんと言ってるんだが―――――・・そうか、そんなに私と入りたいか、漂」



身体の温度に反し固まる。
雨を被り、濡れて風邪を引きそうなのは彼女も同じだった。

まさかの食い違い、まさかの彼女と同じような会話の行き違いを生んでしまった自分に漂は絶望する。
ちなみに彼女に知れれば只では済みそうにない思考であるが、知れないのだから心安い。

寳子は人差し指を持ち出し、意地悪く漂の胸の真中を突く。
いとも容易くよろける彼を見て得意げにすると、一方は謝りながら浴場を出て行った。


その背を見つめ、寳子は槽の縁に腰掛ける。
手で湯を掬うと頬に当てる。

目を瞑り、暫しその温もりに身を委ねる。
湯浴みの刻は滞りなく終わり、また始まったばかりであった。

















(・・・・失敗したかも)

訓練中、湯浴み共に性急過ぎたかと、漂は寝床に転がり気を落とす。

彼女も湯を済ませ、共に食事をとり今に至る。
ちなみにその食事風景はと言うと、漂が頃合いを見て一方的に語り掛けるというものだった。
当の彼女は頷き、言葉少なく返すという体である。

只管にそれが繰り返される内に食事は終わり、寳子が食器を片しに向かってからの今現在。
漂は部屋で一人思い耽けるという状態に治まっていた。


(じゃないとこの気まずさの説明が・・浴場でも盛大にやらかしたし・・
   ・・いやでも寳子が教えて欲しいって・・気が変わった?俺、調子に乗り過ぎたっ・・!?)


寝床で唸りながら忙しなく右に左にと頭を振る。
仕舞いには身体ごとを向けて蹲り、最終的には俯せて息が苦しくなり顔だけを横に向ける。
場の状況に彼女が無理に合わせてくれただけで、一旦離れ正気に戻り引いた可能性を考える。
一気に血の気の引く思いがした。

(あーーーっ俺のバカっっ!!!よく考えればまだ出会って十日そこらしか経ってないんだぞっ!!
   なに一人で浮かれてんだよ先走ってんだよやっと仲良くなれてきたのに
何ブチ壊してんだよっっ!!!)

寝床で一頻りに転がり暴れ、肩で息をする頃には現状のバカさ加減にも気が付いた。
とりあえず居直り、腕を組み足を組んで目を瞑る。


暫し沈黙。

途端赤面した。


目を閉じ、内に気を向けた事が裏目に出る。
降参とばかりに漂は前のめり頭を抱えた。



(うわー・・・ ・・なんか、こういう事なんだな)




誰かを好きになるって事は。



見目よい女性に目を惹かれ、心が跳ねる事はあれど
     ―――――――ここまで締め付けられる事はない。

気が気でない、どうしようもない。
結局の所こちらも初心者ではないかと、彼もこの時ばかりはつい可笑しくて笑ってしまう。
そんな人間を選んだのだから、彼女にも相応の覚悟をしてもらわねばと溜息を吐いた。

(でも教えるとしたらこれ、この感じなんだろうな・・ ・・って何ここだけ冷静になってんだよ俺っ)

また可笑しくて、今度は少し大きく笑う。
声を出して笑った所為か、ただそれだけで幾許、気が軽くなったような気がした。

(でもホント急にどうしたんだろ・・
   よくはわからないけど謝ろう。うん、取り敢えず謝ろう)


「ただいま漂」

「ってうわぁあああああああっっ!!?」


顔を上げるとすぐさま寳子の顔があった。
余りの近さに漂は後ずさると顔を赤くして非難する。
彼女は疑問符を浮かべたまま漂の傍に腰掛けた。

「だからさ寳子っ!急なその登場の仕方は止めて欲しいんだってばっ!!」
「何を言う!扉も叩いたし名も呼んだぞ。見たら項垂れてたから駆け寄ったまでだっ」

一応心配して来たのにと、不満顔の寳子に漂は傍と気付き平謝りをする。
外の問に気付かぬとは大概である。
結局彼のみが感情の如何を知るばかりで、意識とは別に教授に能う思考を身に付けていった。


「あの・・・寳子」
「うん?」

先程と比べて見れば、彼女の様子は普段通りに戻っている。
しかし浴場から食事の時までの魔の刻を考えると、このまま黙って見過ごす訳にもいかず漂は口火を切った。


「そのっ!ごめんっ!!」

「え、何がだ?」


即し、返る言葉に拍子抜けと崩れる。
浴場での事はもういいと言っているだろうと、彼女の方こそ呆れ顔だ。
漂はあの寝床で無駄に悶えた事を考えると益々居た堪れない気に陥る。

自分ばかりが見つめ、気を揉み、そして彼女は飄々と蚊ほどに気にも止めていない。
悲しいやら憤るやら、行き場のない想いに少々自棄を起こすと漂は声を上げた。


「いやだって、さっきから!」


様子がおかしいと、自棄を起こす割には遠まわしに違和を伝える。
情けないと一人翳る。
強く言えないのはもちろん実際の立場的なものもあるが、何より惚れた弱味というものが大半を占めていた。
そんな忙しない漂の体と問いに寳子は暫し沈黙し、やっと合点がいったと両の手を打った。


「ああ・・すまない、少し大人しくなっていたか。
   別に機嫌が悪いとか、そうではなくて・・
     下馬して荷を取りに行く最中、あの後から妙に考え込んでしまっていた」


まさかと、その場に凍り付く彼の思惑は当たっていた。

雨宿りと称し語った話の内容を引き摺っている。
思う所があり、気が重く傾いている所為だと寳子は諸々を含め謝った。

あんな切っ掛けは初めてだからと、もう大丈夫と語る彼女は言葉通りではある。
しかしそう言う寳子を前に一方の漂は顔を上げる事が出来ないでいた。



「思えば思う程に、欠けているなと、思って」



そうしてまた困る様に、しかし今回ばかりは苦く笑う。
漂が声を荒げるまで気にしてくれていた事を嬉しく思う反面、自身の弱味を晒す事への懸念が大き過ぎたと話す。
たどたどしく呟くようにして語る彼女に、漂はもはや後悔の念しか抱きようがなかった。


惚れた腫れたとはしゃぐでもなし。
他子女と同じく姦しく噂し、想像を膨らませる訳でもない。
身分と等しく相手が決められ、妻となり、子を産み母となり、そして名も残さず死ぬ。

それが常套。
それが有体。


そこには何ら疑う余地もなく、また普遍を繋げてゆく事は実に尊いものと知っていた。
国を形作る上では、最もと言って相違ない程に偉業の内の一つである。


しかし彼女はその対極に位置していた。
どちらにもあって、どちらでもない。
決めてはいるがその実、決定ではないと濁す。


結果という夢こそ見るが、その過程も夢ほどのものであると彼女は言う。


そうすると自分でも驚くほどに存在が浮くのを感じ、
勝手に考え込んでしまっていたと今度は巧過ぎるほどに笑う。
自身の存在がどこか収まりが悪い事は昔から承知していた。
しかし夢の為に、それこそ恩に報いる為に存在を固めていったと話す。

得たもの、失ったものを見比べる事がある。
今回はそれが漂に投げかけられた事柄―――――情と呼べるそれであっただけの事と寳子は言った。



「だから余計に・・未だあの人の行動を理解できないままなんだろう、って、思ったら」


言い表せない感情に押し潰されたと、寳子は悲しそうに言う。

平常知れぬ碌でもない自分が情というものを余計に知ろうとする所で、更に碌でもなくするだけではないのか。
知って己も周囲も万事うまくいくなど勝手を言ったと、そんな事を彼女はまた勝手に言った。



早い話。

彼女は結局、尻込みをしたのだった。




何を言っているのだろうと寳子は笑み、今日の大凡の遣り取りを忘れて欲しいと請う。
そこに毅然とした姿はない。
戦場を駆ける彼女を知る者が見れば、異常とさえ思うであろう程の質の違い。


ただ戸惑いあぐねて間に合わせの答を自らに宛がい、済ませようとする彼女がいる。


しかしこの姿も紛れもなく寳子その人、本人の揺らぎが生み出す彼女自身であった。




「ああは言ったものの漂に迷惑がかかるし・・
   だからあの時の、情を教えてくれというのは「迷惑なんてかからないっ!!」



それまで黙り続け、寳子の言葉に耳を傾け自らに恥じ入っていた漂が声を上げる。
掛けたっていい、掛かるとも思わない、故に掛からない。
後悔し、受け止め、そして違うと反発した。



「欠けてなんてないっ!わかってないだけだ!!それを俺が証明してみせるっっ!!!」



括目する。
寳子が先程までに紡いだ言の数々は砕かれ、彼女の脳裏には何も残っていない。

真白である。

拾い集めようにも散々で、しかし己が存在の浮く気配はない。


地という名の脳裏に足をつけ、呆然と意識の中を立っている。
目前で起こる怒号が、自らの為であることだけは理解していた。



「何だよさっきから自分でばっかり勝手に・・教えて欲しいとか、忘れろとか。
   自分を欠けてるとか、女の子として普通じゃないみたいなさっ」


そもそも浴室のあれ、急に入ってくるのだって勝手だあれどうにかなんないのいっつもビックリしてるよね俺!!!

   
「悪かったって思ってる、事の発端は俺だから・・何からどう謝っていいのかわかんないくらい思ってるよ。
    寳子はまた何でとか言うのかも知れないけど何でもなんだよ何がって言われたら全部!!
      それでも俺は寳子に伝えたい事がいっぱいあるから俺の知ってる事で君の知らない事を教えたいっ!!」

時と場合と何もかもが食い違って悪かった。
しょうがないだろ違っても妙に食い合って行き着いた合意だったんだ。

でも君が知りたいって言ったんだ!
俺は俺でいいのって言ったんだ!!
それまでに答えを出せないなら知らないだろ!!!

その所為で君が頭を擡げて心を騒つかせようが何度だって持ち出して謝りながら抉ってだって意識して欲しいんだ!!!!



「君は凛としてて、でも頑としてて。朴訥で、手際がよくて、知識はあるけど無茶ブリで、やる事なす事唐突で。
   話は噛み合ってるようで噛み合わないし!怒ったらまず勝てないし!自分の答えばっかりを求める!!・・そんな普通の女の子っ!!!」


(・・・・ほ、褒められて、ない)


それも全くである。
しかし何一つではない、それらしきが幾つか聞こえた気がするが既に遠い。

また彼は普通と言うが漂から見ての客観的な、極めて端的な彼女のそれである。
こうなってはそもそも何を普通として寳子は自らに理を落とそうとしていたのか。

彼の言う『普通』の定義を聞くなり脱力する。
唖然と漂の講釈に耳を傾ける寳子だが、その脳裏は次第に明瞭になってゆく。


何を凝り固めて互いに好き勝手に談じているのか。
否、これは言い合いにさえも満たない文句の応酬。

(何だ・・何て)

しょうもない。
虚の蔓延る脳裏に適当な、肩の力の抜ける思いが浮上し彼女から翳りが消える。
天さえ仕様もないと外方を向くそれは、人が生み出す只の奇跡だった。



「だから絶対っ!絶対にもう言って欲しくないっ!!
   知らないから知りたいって君は言っただけだ!それを卑下する必要なんか全くないっ!
     誰かが言っても当然腹が立つけど
――――――何より君自身の口から聞くのが一番嫌なんだッッ!!!」

抉って血が出ても俺が治すから、治す自信があるから。
そしてそれは君が一声で望んだ事だ!今から変えるなんてこと出来ないっ!!


支離滅裂なようでいて筋は通っている。
要は『君には君の事情があったのに無理に情を掘り起こすような真似をしてごめん。
でもそんな自分を卑下して、一度欲した情をやはり必要ないと一蹴しないでくれ。
俺としては君に情というものを意識できるようちゃんと知って欲しい。
俺は君が好きだから、俺を好きになって欲しいからどうしても君に伝えたい。
また、それで君自身の卑下する理由がなくなれば嬉しいと思ってるんだ』
という事である。

もっと端的に言えば―――――俺の事を意識して欲しい。君は俺の好きな普通の女の子だよ―――――という、告白を内包した勝手文句。
それを漂は延々、怒濤の如く感情を先行させて口一杯にぶちまけていたに過ぎなかった。




彼女の手をとり離さぬ漂。
そんな彼の手を寳子は振り払わない。

余りの威勢に少々面食らっていた彼女も今では落ち着き、現状を見据える事が出来ていた。
対する者が自分以上に焦燥し、荒ぶっていた為に得てしてと言える所もある。


「・・・ごめん、なさい」


いつの間にか謝る寳子。
言われるように勝手をしたと、そう認識して出た謝罪の言葉だった。

漂は握る手に力を込める。
冷静になったのは彼女だけではない。
彼も一通りの想いを告げて、顔から火の出る思いだった。


「ごめんっ・・ごめん、俺の方こそ、本当にごめん・・!」


彼女の存在、その根深さを知らずにいた。
見た目だけではわからない、彼女自身の内でさえ捌き切れぬものに一石を投じ歪めたのだから甚大だ。

『男に混じり戦場を駆け、死地から敵の首を揚げ生還する。その肉体も精神も、大凡子女のそれではない』
それが他が彼女に受ける像の常套であり有体、本人とて思う由である。

そのような者が今更、情だの何だの言った所で奇妙に映らぬ筈がない。
故に彼女が誰かを責める訳はなく、それは気を揉み、勝手を言ったであろう漂にも当てはまる。

しかし彼はただ只管に謝り倒す。
怒らぬ方がおかしいのだと、そんな憤りも乗せた。



(知りたいと言った寸でで考え込んで、尻込みしたのは私なのに)

様々な事を考えてしまった。
知って変わらぬ自分がいたら、そもそも自分には知る事さえできないのではないかという、そんな事実を突きつけられる恐怖。
ならいっそ知らなくても―――――武人としての自分に果たして知る必要があるのかと、理由をつけ拒否をした。


振り回したのは自分であると。
しかし言えば更なる謝罪の応酬を呼ぶだけと口を噤み、寳子は内心で再び謝罪をする。

漂は未だに掴んだ手を離さない。
言葉だけで伝わるか不安であると、まるでそう言いたげに彼は彼女の手をしっかりと握る。


(戦場でもこんなに揺らいだ事はなかったのに・・
     ・・いや、戦場だから考えなくて済んだのか)


得物を振るい、士を援け、敵の首をとる。
形としては武人の道を選んだ彼女にとって明快な答を齎す戦場はぶれず、まだ外向に済む。
苦難の種類が違う、そう付け加え溜息を吐くと口の端を少し持ち上げた。



(情一つで私はこんなにも悩み、脆くなってしまうんだな・・・)



生死の遣り取りがない為、余計に考え込むのかと寳子は遠く思う。

愛慕とは先に繋がる分、故に彼女にとって憂いとなりえるものだった。


漂の情の提議から、意図せず起こった自身の好奇と、そして齎されていた尤もたる情の問題。



意識した事などなかったものを、質は違えど既に意識させてくれた。
出会って暫くして、しかしこれ程までに感情を露にし語り合った事もない。


(・・・・なんだろう。手を握ってくれているからかな。
     漂が傍に居ると、何だかあったかくて・・でも、落ち着かない)


微睡むようでいて、はらはらする。
不思議な感覚だと、こそばゆいとはにかむ。

心底に好き人であると、寳子は気付かず笑みを溢していた。







「すまなかった漂、変な話に付き合わせた。
   お陰で全てが丸く、落ちる所に落ちていった。   
      今度何か・・ ・・そうだな、私が知っている興事など高が知れているが」

「知れてないっ!知らないけど知れてないっ!」
「貴方のその自信は一体どこから来るんだ・・」

呆れ顔で、しかし互いに可笑しいと笑い合う。
こんなに―――――またこんな事で長く話したのは初めてだと寳子は言う。
兄分である壁にさえここまで話した事はないと、そう呟く彼女の視線は下に落ちる。

急に遠い存在に見えた寳子に、漂は姿勢を正し更に寄る。
一度離した彼女の手を再び取りたい。
触れていたいと、そう願う自身の心に最早、何ら抵抗を感じる事はない。


「早く・・わかるようになればいいな」


呟くようにして願い事をする。
仕官してから、護るものを決めた時から同時に様々なものに区切りをつけた。
それというのに今こうして改めて情の如何というものを提起している。
その事に可笑しな話であると、彼女はふいに笑った。

「漂が来てから、何だか目まぐるしい。・・きっと、良い意味だと思う」

気付けばよく話し、笑ってばかりいる。
そしてそのぶん言い合ったり、怒ったりもした。

久々の感覚だと言い、またどこか他と違うと首を傾げる。
何かわかったのだろうかと自他共にして問う。
その一方で漂はただ彼女を真剣に見詰めていた。


「早くには、知らなくていいよ」


聞き逃す筈もない。
彼女が願い、小さく呟いた事を彼はちゃんと知っていた。
必ず知らせてみせる、教えてあげると、自惚れる事がこんなにも嬉しい。

対し寳子は漂の言に傍とする。
沈黙の後、彼は肩が付きそうになるほど彼女に身を寄せる。
戸惑いと共に身を引く寳子を、しかし漂はその手をとり力強く引き寄せた。


「!?・・ ・・・漂」
「ごめん。でも、大丈夫だから」


漂の急な行動に戸惑う。
彼は喜びに力を込めそうになるが自制する。
寳子は漂に身を預ける形となり、その身体は少し強張っていた。

それを察し、漂は彼女の肩を抱いて緩やかに身を離す。
合わさる瞳は多くを語らず、このとき彼女はまだその意味に気付いてはいなかった。

「何かわかったかもって、言うから。
   急にごめん。でも・・俺も知りたくて」

「あ、ああ・・ ・・そうか。そういう事か。
   そ、それで何か・・漂はわかった、のか?」

教えを請う身分である。
教授する側の意向に異論はない。
しどろもどろに返す寳子は、酷く慣れない様子で漂を見詰める。
羞恥から少し俯くと、漂は更に顔を近くに寄せた。

「・・・ほら寳子、今ちょっと赤い」
「え!?あっ・・こっ、これは!急に漂が近付いてっ!
   き、気まずいし、それに・・赤いのはお互い様だろうっ!?」

多少赤みの差す顔が真っ赤に火照る。
彼女に指摘された漂の頬も赤みが増す。
しかし彼は照れている事など既に知る所と言わんばかりに落ち着き払う。
開き直るともいうその体で漂は、彼女の両手を取り額を合わせる。
これには寳子も声が出ず、なされるがままに顔を赤くして硬直した。


「俺が全部教えるから」


精一杯の大見得を切る。
教えるといっても碌すっぽ知らない癖にと、しかしそんな自分を鼓舞する為でもあった。

寳子は漂の言葉に身と心の震えを感じ取ると口を噤む。
繋いだ手がじっとりと汗ばみ、彼女は額を離すと一旦身を引いた。

「寳子・・・」
「う、うう゛・・・」
「う?」


「・・・・・ ・・う、うん・・・」


唸り、そしてその延長から応と頷いた。
おそらく―――――これ程までに動揺させるなど、文句の一つでも言ってやりたい所だったのだろう。
しかし実際に出た言葉は、お願いします、この二言目である。
如何せん請う側の弱みと言うものに彼女は些か律儀に過ぎると、自身もそう思っていた。

寳子は全部、漂に教えて欲しいと頷いたのだった。


「・・あーあ、言っちゃった」
「!なっ、何だっ・・!」

「もうさっきの事みたいに、悩んで止めるとか。そういう事も言わせない」
「わっ、私はもう覚悟したんだっ!もう尻込みなんかしないからなっ!」


意気荒く、赤い顔で生真面目に対する寳子につい綻ぶ。
彼女の瞳には今、漂しか映ってはいない。
現状の全てが彼の望む所だった。



「そっ、それに赤くなるのは・・そうだ!似てるから―――――」


嬉々とした矢先に、その時が無常にも訪れる。
耳に届いた瞬間に漂は、自分が次第に強張ってゆくのがわかった。



「―――――漂が大王に、似てるから・・・」



そのままに口を衝く言葉とはしかし、意図して自衛の衣を着せるも両者にとって図る事のできぬものとなった。



「・・・・大王様に似てると、寳子は赤くなるの?」

「な、何を言ってるんだ・・当たり前だ、相手が王なんだぞっ・・」


取り留めもなく、そしてまた通じない。
それは彼自身にも言える事だった。



(・・・・・本当に。何言ってんだ、俺)



寳子を掴む手に力が籠る。
それに気付かぬ彼女ではない。

しかし彼の手から血の気が引いた事には気付かないのだから、厄介だった。



(でもこれで)


そして知る。
咸陽を訪れたその日の夜。

彼女があのとき撫で、慈しんだ人―――――それは。



「もっ、もういいだろ離せっ!寝床で二人して何やってるんだ全く!」


漂の手を半ば無理矢理に解くと寳子は立ち上がる。
もう帰ると大股で歩き、振り返りもせず出て行った。

そしてまた彼は背から倒れ、仰向けになり、そして横たわる。
『挨拶ができなかった』、就寝前の別れのそれ。
以前なら茫とそんな事を考えていたであろう推測は、今となっては意識に上る事さえない。

寳子と出会い、己の情に気付く彼の脳裏を占める事はとうに決まっていた。



(大体の見当はついた)


王と名家の馴染み。
年の近しいであろう者が二人。
明らかに分の悪い相手を前に漂は怯むどころか正面を切る。


(―――――絶対に彼女を振り向かせてみせる)


見えぬ相手に啖呵を切る。
一歩も譲る気はないと、漂は決意を新たにした。












2013 0508