数日が経ち、二人は特に蟠りもなく過ごしていた。
寧ろ良好と言える関係が穏やかに続き、それは秦国にあって
渦巻く反乱の影など微塵も感じさせるものではなかった。

今日に至っては周囲を防壁に囲まれた、訓練に適する場での手合せを行う。
真剣を用いて相対するが、響く剣戟とは裏腹に二人の様子は実に緩やかなものだった。

「っと・・漂も大分ここに!慣れて来たんじゃないかっ!?」
「うーん・・とっ!
   そうだなっ、ここにも―――――主に君にっ!」

「こらっ!」
「ははっ!」

おどけて返す漂に寳子は諫める様にして剣を打つ。
気持ち力を込めて横腹に打ち込むが、殊のほか威力が強すぎたのか漂は体勢を崩す。
彼女からしても予想外の出来事に、寳子は慌てて倒れそうになる彼の腕を取り引き上げた。

「ごめんっ!・・ああいや、すまない。
   面白がっていたら少し加減を間違えたらしい」
「(あ、今ちょっと素だった?)大丈夫、受けきれなかった俺が悪いから」


「まあ、そうだな」
「えぇっ!」ヒドイっ!


仕返しとばかりに含み、そして屈託なく笑う寳子は年相応の少女であった。
漂は下僕の時分はまさかこんな風に同じ年頃の名家の子女、更に言えば
兵として身を置く彼女と共に在るなど考えても見ない。

しかし目前は実を以て存在する。
指導係という名目で、王の影である自身の傍に就いている。
夢に近付ける機会を得ただけでも奇跡と言わざるを得ないこの状況に、
まさかその延長上として抱いていた夢も現れたのだから、気が逸るのも無理はない。
漂は次々に齎される好機を称するのに、奇跡以上の言葉を知らなかった。

(はぁ・・)

溜息でも吐いて敢えて気を逃がさねば持たないと、幸福を噛みしめる。


(これじゃあどっちが情を教わってるのかわからないや・・)


家も人柄も申し分ない。
謂わば理想が目の前に飛び込んできたのだから、届かぬ前提であった下僕の身としては憧れるのも無理はない。
作戦を成功させて共になれば、歩兵など飛び越えて、騎馬兵―――――少なくともそれ相応の地位を得るに易い。
当然漂は相応の身分らしく、そんな大望を脳裏に過らせないでもなかったが無論、いま抱く情の理由はそれだけではなかった。

強いて言えば少々癖があり、見目に至っては珍しい。
子女にしては立ち位置も特殊で、故にか強引で頑としている。
しかしそれ以上に素直で気の優しい少女であるから惹かれた事を、彼は自覚していた。
姿形も素朴ながら色味が映え、端正に佇む様に傍と心奪われさえする。

実に彼の好む所であった。
故に憧憬と愛慕を混合する事もない。
―――――何を馬鹿げた事をと。
傍から聞こえそうなそんな言葉は、夢を追う決意をしてからほとほと聞き飽きた。

ここまで来れば何ら遠慮する事はない。
漂は何一つ迷う事無く、寳子という少女に手を伸ばす。


「あ、でも・・そうだよな」
「?」


教わるのも無理はないと言う。
初恋なのだからこちらも初心者だと、嬉しそうに笑った。









漂を部屋に送り届け、その役割を昌文君と交代する。
寳子は用事を抱えると、挨拶も程ほどにある場所へと足を運ぶ。
離宮より更に外れ、一画に佇む石造りの建物は居住には向かない。
しかし内部には簡素に机、そして座り心地の悪そうな腰掛けの台が何の愛想もなく置かれていた。

さて入ろうと彼女が戸を開けた時に、抱えた用の相手の声が耳に届いた。


「寳子ーっ」
「あっ、壁兄!」

時間に少しの余裕を持たせ現れた兄分は、気安く彼女の名を呼ぶ。
これに寳子も彼の名に兄と称して呼び返す。
二人きりの時はこれが基本形であり、昌文君の抱える内々の者達があっても、場合によってはこの通りであった。
内に入り、両者腰掛けると側近同士の会合が始まる。
本来であれば昌文君、重要事を含むのであれば大王も交える所ではあるが今回の所用においてはそれに満たない。

互いの報告を済ませると寛ぎの体に入る。
全体の様は掴んだ、なら自身の調子はどうかと、壁は有体の世間話というものを彼女に持ち出す。
特に変わり映えはしない、其方はどうかと返す寳子に、これまた彼は有体の答を寄越すばかりだった。

遠回しにそうして話を広げると、次第に傍と会話が途切れる。
壁は腕を組み目を瞑る。
それを寳子は怪訝そうに見詰めた。

更には何度か頷く様にして唸ると、壁はやっと本来突きたかったであろう核心に迫ろうとした。

「なぁ、寳子」
「はい」

だから何だと言わんばかりの彼女に目が泳ぐ。
居心地の悪そうな壁の様子に彼女はますます訝しむ。
負の連鎖に気付いた壁はじりじりとにじり寄るようにして話し始めた。


「お前最近やけに・・ ・・その、何だ」

「機嫌がいい、とかですか?」
「ああ、うんまぁ、うぅん・・」

唸る様にして、当たらずも遠からずと腕を組み直す。
こういった事は不慣れであると、いかにも気まずそうであった。


『おい介兄弟、少しいいか』

『まぁ兄弟じゃッッ!!!』『ねーんスけどねッッッ!!!!』

『そ、それはそれで置いといてだ。
    兄弟、というか・・その、姉や妹と接する時と言うのか。・・・お前達はどうしている』

((姉妹ってそれ別に俺達に言わなくても良かったんジャネ???))なにただの兄弟繋がり的な???


一度意を決して兄弟らしき者達に尋ねた事もあったが不作。


『私の所は兄と弟で男ばかりですから参考にならないかと・・なんで』
『あ、壁副長。俺妹います』
『本当か介殻っ!』
『でも他が弟ばっかで妹はまだこーんなですね。三歳なんで接するも何もお兄ちゃん大好きっ子の全盛期ですよ』ドヤァ
『ぐ、ぐぬぬ・・』

『・・寳子様ですか?』
『はっ!?あ、いやっ!別にな!そういう事じゃないんだがなっ!』わははははっ
((妹と言って他に誰のどんな理由があるというのだろうか))



あまつさえ二人にも怪訝に見受けられ、また墓穴だけを掘って去るという難儀を示して終わったという。




(雰囲気、というのか・・女は急に変わるから恐ろしい)

娘よりも女と思える事からも然り、寳子の様はここ数日で明らかに変わっていた。
兄分として日頃の彼女の決意を知るため、嬉々としながらもどこか寂しさも抱えていた。

「・・どうしたんですかさっきからジロジロ見て・・・壁兄、変。」

「へっ・・!?ッゴホン。 き、機嫌がいいのは良い。
   しかしそう綻んでいては緊張感に欠くぞ」状況をわかっているのかっ

「そっ、そんなに!?でもっ、その・・別に何があったという訳でも・・ああ、でも・・えっと」

吃る寳子の姿を微笑ましく見つめる。
そんな彼女を前に、壁はどこか感付いていた。


「・・寳子、漂とはどうだ?」
「なっ!?ん・・何でそんなこと急にっ!
   ど、どうと言われても。滞りなく、としか」

(うぐっ、わかりやすいっ!)


戦場における彼女の抱く情、対する体とは露にしたとしても飽くまでそれは己が範疇の内である。
それを今の彼女は隠そうとして勝手に露見しているものだから、これが見ていて可笑しい。

しどろもどろに答える様は浮足だっているようにも見える。
その本当の意味までは、壁も、当人でさえ気付く事はない。


「いやな、このまえ漂に怒られて」
「えっ!?」

なに仕様もない事したんですかッ!!
なぜ仕様もない前提なんだッッ!!


漂が壁に怒りでもって対するなど現立場から、更には元の身分を鑑みても儘ある事ではない。
となれば余程の事をしたのだろうと、矛先は 気 安 い 兄分へと向けられた。

「・・・お前の事をな、寳子は戦場に出る普通の女の子なんだっ!・・て」

(あ・・)


以前戦場で 憮然とする寳子を気遣い場から離す時に壁が言った言葉がある。
『男女の考えが年相応のそれではない』
戦場に立つ者なのだから、故に憧れを持つには難しいだろうが気にする必要はない、という意味だった。


「説明したら納得はしてくれた。
   だがそういった事を今後、絶対に。
      決して悪い様に思っていなくても誤解し易い為に言うなと、そう怒られてしまった」

(漂・・・)


正しい、と壁は言う。
間を取り持つ意味で言ったが、よく考えれば軽はずみな言動だったと悔いる。
思い違いを生んだ以上、不足であったと壁は寳子に謝った。

「すまなかったな寳子。悪気はなかった」

「え、あ・・いえ、気にしないで下さい。
    壁兄が敢えて人を傷付けるような事を言う訳がない。
      漂だって知った上で、それでも私の為に言ってくれたんだと思います」

気遣う者同士が言い合うなど可笑しい話であると、寳子は慌てて言い補う。
両者に気に掛けてもらえて嬉しい反面、どこか気恥ずかしさを感じると笑う。
場を明るくしようと努める彼女に倣い、壁も随分と評価の高い己の、兄としての立ち位置に自慢げに胸を張る。
此方も邪推して申し訳なかったと寳子は頭を垂れ、壁はこれを手で制した。

「そう畏まるな。この話はここまでにしよう」
「そうですね・・もう済んだ事です」

穏やかな空気が流れ始める。
安心するいつもの空気だと二人して微笑んだ。


「私はお前の兄分として・・だな、その。
   改めてこう言うのも気恥ずかしいが・・それなりに自負しているというかだな。
     ・・つまりは、私は兄としてお前が大事だし、それに一番の味方だと思っている」

自惚れていると彼は言う。
例え彼女の前に絶対的に信頼のおける、また信頼を得る男が他に現れたとしても。
それでも別の位置からして、この味方であり続ける自身の存在は譲れないと、固い決意を内に秘める。

彼女には敢えて口にはしない。
これ以上は必要ないのだと、寳子も察していた。


「・・ありがとう、壁兄。
     わかってますよ。・・一体何年、貴方の妹でいると思ってるんですか」
    

一体何年、いさせてくれていると思っているのか。



幾つもの首をあげ、国へ帰った刻。
皆がその姿に慄き顔を背けるなか。

汗と血と、そして死臭に塗れた私を抱き締め迎えてくれたのは―――――――



(貴方なんですから・・ ・・・壁兄)


寳子は何もかもが朧げに感じるなか、生還した事にさえ自覚がなかった。
そんな少女に涙し、痛いほどに存在を確認させてくれたのは壁であった。
思い出し目頭を熱くするが、気付かれまいと堪えると彼女は少し俯いた。


一方の壁は、そんな彼女の妹としての意を知り勿論悪い気がする訳がない。
すっかり調子づき、その余裕たるや全く憚らぬと堂々としたものである。

「漂は良い奴だな、寳子」
「・・ふふっ、知ってます」

「そうか。じゃあお前を好きな事は?」

俯き加減に感傷に浸っていた寳子が一気に吹き出す。
過ぎた余裕というものは次から次へと余計なものを呼び込んだ。


「なっ!なななななっっ!!」
「さすがに知らないか!」っはっは。
「知りませんよっ!というか何ですかどういう事ですか壁兄知ってるんですか漂が言ったんですかっっ!!?」

怒濤の如く責め立てる寳子にまさか、と。
飽くまで自己の範疇に思うまでと、爽やかに綻ぶその笑顔が今は小憎らしい。

「勘だ、勘。男の勘だ」
「あ・・当てにならな・・って!
   ならそんな根も葉もない事を勝手に言っては駄目でしょうっ!!」

言って顔を真っ赤に咎める寳子に迫力はない。
しかし正面から見てわからぬ彼女以上にはわかる。
傍から見る己の方が遥かに知っているだろうと、壁はそう言いたげである。
これも勘と言えば勘であるが、その勘を確かとする目前の彼女の体なのだから信頼性に大凡足りた。


「何だ寳子、お前は漂じゃ不満なのか」
「そっ!そんな事なっ・・〜〜ッッ不満とか不満じゃないとかっ!
   そもそもそういった話以前の問題でしょう!!」なに勝手に話進めてるんですかっ!

「そうか?私はお前達を似合いの仲だと思うんだが・・」


機嫌よく笑んで語る壁の体はもはや兄のそれであり、他の何物でもなかった。

「それに家の事もあるでしょう・・!こうは言いたくありませんが、今の漂の身分では・・
   ―――――と、そっ、そうじゃなくて!わ、私はっ!国の為、王を護る為に結婚などせずですねっ!」

「あぁ知ってる。戦場に一生を捧ぐ、だろう?・・しかしな寳子」

六国から護るにしても、それは戦場があればこそであると壁は言う。


「武人の見る景色など戦場と人の生き死に、荒野に森、そして精々色を変える空だけだ。
   延々鍛練と戦に費やすつもりか?己を将として他に動かぬままその一生を終えるのか?」


壁の予想だにしない問い掛けにたじろぐ寳子。
それでいいのかと彼は念を押し、揺らいでいたのは結局彼女の方だった。


「・・秦は必ず覇権を取ります。必ずこの世は統一される」
「何を大それた事を・・!いやしかし、考えても見ろ寳子。
   戦が無くなったら無くなったでどうする。武人としてのお前をどう活かすというんだ」

「統一したからといって直ぐに丸く収まるものでもありません。
   故に中枢より他から見張る必要があるのです。私はそこで生きます」

(〜〜〜全くっ!一体誰に似たんだこの頑固さはっ・・!!)


頑として聞かない寳子に壁も口を固く結ばざるをえない。
あの親にあってこの子にあり、妹にあって兄であった。


「そ、そうだ。漂は殿に大将軍になると言ったそうだな。
    ・・中々に気風がある若者じゃないか。それを彼が通せばお前の言う家の問題も解決するぞ?」

寧ろ一代、裸一貫で築いたと栄誉こそあると盛り上がる。
位とはこの乱世にあって、自身を引き上げる事の出来る唯一確かなものであるとそう言う。

つまりは壁は漂の後押しをし、また彼女の未来の背を同時に押していた。


「あ」
「ん?どうした寳子」

「いえ・・今なにか引っ掛かりが・・」


そう言って寳子は小首を傾げる。
気の所為かと彼女は首を振り、何事もないと即決した。


「あと解決というか・・ってですからっ!何故私達が好き合っている前提で話をするんですか壁兄はっ!
   そういう事を言うから妙な感じになってしまうのです私はっ!!」

(自覚していないのか、それとも本当に単なる好意なのか・・むむ。兄はどう後押ししていいやら妹よ・・!)


全く頼んでもいない事を引き受けてしまう壁である。
悪気はないにしても少々節介に過ぎる、妹に優しい兄であった。


「だがそれとこれとは別にして」
「・・・・・へ。」

漂でも、そうでない者でもと前置きをして。

「寳子っ!!男ができたら殿へと連れる前に必ず私の所に連れて来いっ!!」
「ぇえええっ!!?」

「私の眼がねに適わねば到底殿のそれに適うと思うなよっ・・!!」ゴゴゴゴゴ・・

それまでの漂推しはどこへやら。
否、これまでの話をちゃんと聞いていたかも怪しい。

(壁兄は漂と私をどうしたいんだろう・・)

別とはいうもののその線引きを図りかねる寳子。
壁こそ身を固めろと進言したい所ではあったが、ややこしくなるので止めた。


「えっとあの・・壁兄、ちなみに・・・」

小さく手を挙げ、やはりいいと遠慮する寳子に壁は気付く。
音のない名を聞き届けると、彼は腰に手をやり言った。


「このままではやれん、が。」


問われてもいない誰彼を、将来実に有望だと、そう言って括った。













用事を済ませ足早に浴場へと向かう。
予定より刻が少し過ぎてしまい、寳子は焦っていた。

(早く漂の元へ行かないと・・って薬草忘れたっ!)

情けないと顔を顰める中にも、その奥には笑顔が潜んでいた。
浮足立つ感覚がわかる。
彼女はそんな自分に気が付いていた。



漂は汚れと汗を流すため湯浴みへと向かう。
後で落ち合おうという寳子の言を守り、一人いつもの通り浴室にて佇んだ。

「っくしっ!・・ぐ・・ ・・・風邪?」

疑を抱く。
風邪を引いたかと、しかしその実は別所にて彼の事が噂されていた頃だった。

湯を掬い数回掛け流す。
今日は薬湯の日であるからと漂は落ち着かずにいた。

(やりかた教えてくれないかな・・そしたら自分でするのに)

要は薬草を潰して振り掛ければいいんだろうとぼやく。
しかしそのぼやきにも理由があった。


漂は日増しに強くなる寳子への想いを無視できずにいた。
これには流石に浴室で二人、片や――――障りは伏せているにしても、自身が裸でいるという状況に漂は耐え難きを覚えていた。
始めこそ厄介な要式であると辟易し遠くを見詰める漂だったが、ここへきてその事情は変わる。

恥じらいや申し訳なさといったものが顕現する。
彼女とて年頃の娘なのだから好き好んでという訳でもないだろう。


「はぁ・・真面目だろうから、言って変な方向に誤解されても嫌だし・・」

嫌われるなんて絶対に嫌だし。
ならこちらが我慢すればいいと腹を括るがやはり項垂れる。

変わって寳子に違いは見られず、自身の想いばかりが勝手に先行していると彼は焦りを感じていた。
自分ばかりが彼女を好きになっているのではないかと漂は不安に駆られる。
そうでなくとも他と、目下大王という強敵の存在を認識している上で精神衛生上非常によろしくない。
だからといって易々とこの悩みを打ち明けられる相手もいない。
この広い王都全体を見渡しても誰一人としていない事実に頭を打つ。


(こんな時に信がいてくれれば・・)



余計にややこしくなるな。
題にあげて直ぐさま伏せる。
少しでも―――――少なくともこういった類の事で、頼ろうとした自身を悔いる。

(でもここに信がいたら)

どうなっていただろうと、そんな可能性をふと思う。
今すぐでなくとも作戦ののち、また二人で顔を合わせる時が来ればその可能性は現実のものとなる。

双剣と盾が戦場にある景色。
誇らしげなその光景にしかし、漂は表情を曇らせる。


嫌というより晴れない。
妙な予感はしていた。



「信と俺は・・・」



そこまで思い巡らせて傍とする。
戸を何度か叩く音がした。

「あっ、はい!」
「入るぞ!」

手には薬草、いつも通りの恰好、いつも通りの様子で寳子が現れる。
互いに言い合ってからというもの、取り敢えず彼女が戸を急に開ける癖はなくなった。


「遅くなってすまない」
「え、あ・・(信と俺は近しい)ううん大丈夫・・(なら・・)」


よからぬ光景が目に浮かぶ。

その景色に、彼はいない。


漂は二人を見つめていた。



頭を振ると、その光景を一蹴する。


(だからって何でも一緒な訳ないだろ)


傍と、内にある微かな憤りを感じ取る。
取り繕う様にして、さすがに信にも引かれると笑う。
そうして肩を竦め、溜息を漏らしたその時だった。

寳子は湯に溜められた浴槽に近付き、湯を掬うと漂めがけて打った。


「わっ!?」
「ははっ!ぼうっとしているからだっ!」

驚いて顔を拭う彼に対し、寳子は悪戯っ子のようにしてやったりという体だ。
そんな彼女に漂も手で湯を救うとこれを撒いた。

「ぷわっ!・・やったな漂!」
「寳子が先にやったんだろっ!」

まるで子供同士の遊びである。
なんら問答一つない単純明快な水遊びは、しかし今の彼らに至極合っていた。

「よぉし来いっ!私はこういった勝負で負けた例がない、王都内では少し名の知れたものだぞっ!」
(うわなんだろうすっごい既視感ッ・・!!)

底抜けに威張り笑う、今は遠き友の顔を思い浮かべる。
よく人の脇を突いたり、仕様もない事をしては村の者と張り合っていた。
その笑顔が目前の寳子に重なり、漂は傍とするとそれを打ち払うかのようにしてまた湯を撒いた。


暫くして軍配があがる。
漂は頭の先から足先までを濡らしているのに対し、寳子は顔に少しと手だけという徹底ぶりである。
彼女の言う他に知れる名というものは伊達ではなかった。

また浴室は天井から壁、隅から隅という至る所に水が撒かれており周囲は水浸しの状態である。
一方の浴槽に溜められていた湯といえば、その半数近くが既に失われていた。

「ちょっ・・寳子やりすぎっ!」
「や、薬湯は作れるとして・・流す湯も――――― ・・・・す、すまない」

いつも通り、確かに彼女は反省するが気が乗るとやりすぎる感は否めない。
どちらか一方が平謝り、それを笑って許すのが二人の常事となっていた、が。


「久々でつい楽しくなってしまって・・反省している」
「許さない」
「えっ!?」
「なんちゃって!」


そう言うと漂は締めと言わんばかりに少量の湯を掬うと、再び寳子に向かい撒く。
咄嗟に短く声を上げ、身を小さくする彼女はそんな自身の行為を酷く恥じた。

「〜〜〜〜〜っ・・もうっ!!
   卑怯だぞ漂!勝負は決したろう!!」
「勝負は最後までわからないっ!油断した寳子が悪いっ!」

満面の笑みで言う漂の肩を掴む。
驚いた漂も彼女に倣い、力は拮抗した。

「なっ、待・・寳」
「勝負はっ・・決してないんだろうっ・・!?」
「冗談!嘘!ごめんなさいっ!」
「許さないっ!浴槽に落ちろ漂!!」
「わーーーっっ!!待って待ってちょ、ほん」

「うわっ!?」
「きゃっ!!」

ただでさえ足場の悪い所で取っ組み合いをしたのだから当然の結果である。
組み合い上体は拮抗。
踏ん張り、足元が滑りやすく力の逃げる仕様であれば崩れて当たり前。
漂と寳子は二人して足を滑らせ、浴槽に組み合ったまま突っ込んだ。



肩から浸かり起き上がる頃には全身に湯を被る。
寳子は咳き込み、濡れた顔を拭うと漂を見上げた。

肩を抱いていた名残か、彼の手は寳子の肘の辺りを掴み離さない。
事を成したかは別にしても、漂は無意識の内に彼女を守ろうとしていた。


「痛っ・・つ・・ ・・・大丈夫、漂・・ ・・じゃなくてだ!
   えぇっと・・わ、私も悪かったんだが・・漂!貴方もやり過ぎだ全く!私は衣の代えなど持って―――――」


つい謝る自分を改め、無理に怒りを掻き集めて声を荒げる。
小言をいう間に視線が自ずと移る。
目元から髪、頬に口元。
顔の輪郭に沿い滴る雫から首筋、そして鎖骨と目で順になぞってゆく。
傍目に見る時とは違う体躯を前に、寳子は意識して視線を外すと目のやり場に困った。

「寳子・・」
「わわっ!あの、近くてっ・・!よ、様子が随分・・変わるものだなっ!
   (湯に浸かってのぼせているのかっ!?どうしてこんなに落ち着かないんだっ!)」

早鐘を打つ心を悟られまいと、気持ち声を大きくして接する。
顔の赤さを湯の熱気の所為にして寳子は身動ぎ、離れようと合図を送るが漂は応じない。

彼女に対し落ち着き払うその様子は、思案とも、また答を得るようにも見えた。


観念したと暫し沈黙、落ち着き始めたその頃にやっと寳子はおかしさに気付く。
名を呼んだだけで他に続く言葉を一向に持たない漂。
それを妙に感じた寳子は彼の視線を追った。


そして視線の合わぬ理由を知る。


一気に血の気の引く思いがした。




急ぎ漂の手を払うと弾けるようにして身を横たえ、自身の肩を抱く。
しかしただただ無意味である。

湯を含み透けた衣は首から腕、背の文身までもを彼に見せつける。

からだ全体で拒絶する。
思考はない、故に声も出なかった。


そのまま凝視する漂を諫める事も、また制する事も、撥ね退ける事すら今の寳子には難い。
強固に殻を纏う姿はただ小さい。
とんだ拍子で曝されてしまった現状にも背を向ける。
まるで望まぬ姿で生まれた自身を恥じ入り、また悔いるようにして責め続けた。



(これが本当の彼女だったんだ・・・)



漂は亀裂の入ったままの、出来損ないの殻を見詰める。
剥がしきれぬままでは、このままでは死んでしまうとそう思った。


「!?」


竦み、息を呑む声が上がる。
漂が寳子に触れた音だった。

指の甲で頬、そして髪を一束梳く。
酷く優しい手で彼女の殻に触れる。

剥がそうと撫でた時、彼女の表情が強張るようにして見えた。
これには漂も幾許の躊躇いを見せ間をとる。


(何も背負わない筈がなかったんだ・・)


「はやく・・」
「え」


「早く退けろッ!!」


手心など必要ないと突っぱねる。
そんな寳子を前に漂は動かず、怯まない。

何故かと問いかける事も、強く掴みかかる事もない。
彼はただ黙って彼女の存在を見つめていた。



(嫌だ―――――)


声を張り上げた事で次々と嫌悪の像が形を成す。
目を瞑り身を隠そうとする程に頭の中が明瞭になる。
そのぶん行き場を失ってゆく自分を、寳子は持て余していた。


(嫌だ・・凄く嫌だ・・・!)


抵抗するより他ない。
否、勝ち目の求めぬこれは只の足掻きであった。


(見ないで欲しい・・
   どうして見るの、嫌だって、  退いてって言ってるのに)


何故こんなにも泣きたくなるのか。
言う事を聞き入れられなくて嘆いているのか。
請うて無下に曝されていると辛みを帯びているのか。


(殿しか知らない。贏政さまだって知らないこれを、こんな、まさか・・だって、  だから)


答えを探し求めていた。
ただ悲しみに暮れるだけではない。

文身のこと、無様な体で対していること。

それが答えではない。
本当の答えは別にある。


それは彼女が一番よくわかっていた。




(漂に嫌われたらどうしよう―――――――)




目を見開いた瞬間に思いの丈が零れる。
線を描き、足りないと滴り落ちた。

こちらも明瞭となる筈の視界が曇る。
湯気の所為ではないと、それを掬う彼が教える。

やっと視線を合わせる事のできた彼らは、互いの存在の在り処を知った。



「・・寳子が先に俺の裸見たんだから、これで相子だ」



あれだけ固く閉じていた身を解くと息苦しさに気付く。
塞ぎ込む気負いから寳子は碌に息もできずにいた。

深く呼吸をし、整えると気恥ずかしそうに視線を泳がせ笑う。
そして己のあられもない姿に気付き、漂を柔く退かし居直ると背を向ける。

それまで文身に対していたため冷静であった漂だが、状況を鑑みるや否や異常と気付く。
彼女に倣い背を向け、そして合わせる。
その体は既に普段通りの、強いて言えば相応に顔が赤いくらいのものであった。


(あ・・何か、伝わってくる)

(・・こんな状態で背なんて合わせたら・・ ・・・聞こえてしまう)


制しようとすればするほど高まるそれは、
自らの意志で調整できないものであるからと危惧する。

互いの鼓動を聞く二人は、いつしかどちらが自分のものかわからなくなっていた。



暫くして鼓動の音も密やかに収まり出した頃。
まずは漂が口火を切った。


「下僕の身分な俺でも、君の身体の彫り物が・・何か特別なものだって事はわかる」

首の根の辺りから臍の辺りまで、肩から腕までを文身が埋める。
太腿にも見えた為、それが広範囲に渡ってのものだとわかる。
衣越しからではあるが紋様から文字、画のようなものが描かれ、多くの色が用いられていた。

寳子の身体の強張りを、漂は合わさる背を通して感じていた。
それでも彼は問いかけを止めない。


「・・・昌文君がやったの?」
「違うっ!」


間髪入れず反する寳子に、漂は予想した返事を聞き安堵する。
しかし同時に新たな懸念が頭を擡げた。


(親が下したでもなく、子が自らしたのでもない)


そうすると第三者による可能性が浮上するが、彼女の場合は関わりが広すぎるため特定に難い。
戦場によく赴いたというから捕虜になった可能性を出してはみるが、相手方に文身を施し生かして帰す意味があるのか。
取引に使われるにしてもその観点から見れば彼女の位は曖昧だ。
てっとり早く殺されてしまうであろう結論に至る。

もう一つは秦国内における可能性。
現秦王が宣を下すとは思えないが、なら先王、先々王より何かしらの罰を受けた可能性も考えるが腑に落ちない。
自らの罪であれば彼女がここまで気を落とす理も考えられず、また冤罪としても何故文身として立てたのか動機が知れない。


(紋様がしっかりと、性急さも感じず・・乱れなく施されている)


精巧である事が具に見受けられる。
その為の器であると、須く在るべくしての者だと何よりその体が示唆している。
彫り込まれた文身は結果からではなく、過程からしてあると必然性を含んでいた。


(まさか―――――――)


漂の脳裏にある考えが巡るが一旦打ち切る。
一層膨らむ予感に、しかし彼はそれを無視できないでいた。


(いやでも・・そんな事ありえるのか・・・?)


下僕の身からすれば意識としては有り得ない。
しかし下位の身分であれば不可能ではない。

果たして名のある家がそれを出来るか否か、という彼の身分から見ての懸念である。

それも文身を持つ少女をである。
孤児が下僕となり召し抱えられるのとは訳が違う。
彼女がいま彼と同じ十四という年端であれば尚のこと腑に落ちない。
この時までに昌文君という為人を聞く限り、益々有り得ない事のように思える。

他国、若しくは全くの他所の者。
それを己が子を持ちながら迎える理由はない。
漂からすればもはや飛躍と言っていい展開に彼は頭を抱えた。



「醜いだろ・・?こんなもの、気味が悪いな」


沈黙の空気を嫌なものに感じた寳子は、見たくもないものを見せたと詫びる。
そうではないと転ずるも、彼女に正面から相対する事は憚られた。


「はぁ・・ ・・・・知るのは殿と、これで二人目か」


昌文君は淡々と、慰めるでもなく罵るでもない。
避けるでも極言を放つでもなく、只管に彼女の持つ文身の意味を説いた。
後は必要に際し諫言するのみで徒に話題を持ち出す事はなかった。


「少なくとも罵られなくて安心した。
   ―――――さて、あがろうか。湯も冷めて来たしこれでは風邪を」


「綺麗だよ」



背中合わせに漂は、立ち上がろうとする彼女の手を離さない。
生温い産湯の中で浸かり見えない手を、まだ外に出させたくはないと握りしめる。


「・・・よしてくれ。気を遣ってくれるのは有難いが、余りに遠い褒め言葉はもはや不遜でしかない」

「これが知らない誰かなら・・怖いとか、それこそ不気味とか。そういう事しか思わなかったと思う」


何せ見た事がない。
それを本能的に恐れてしまうのは性だ。
それでもその性を覆す事が出来るのは、理性で君を知っているからだと漂は言う。

しかしその言葉が彼女の逆鱗に触れた。


「でもそれを飾っているのが君だから、綺麗だなって思うんだ」

「嘘だっっ!!!」


言葉一つで納得できるなら、このように無様に未だ震えていないと振り返り声を荒げる。
戦慄く肩がぶつかる。
漂も向かい合う様にして振り向き顔を突き合せた。


「口先だけの同情はやめろっ・・!
   ―――――良い事を教えてやる。これはな、呪われてる証なんだ。私はな、毒なんだと!!」



折角何かわかりかけたのに。

どうせ今更。
知らないのなら教えてやると、寳子は不満と不安をぶちまけた。


「生きてても呪える!死んでも呪わされるらしい!!
   動物から人から国から地域からそして天さえも!対する事のできる毒なんだとさ私はッッ!!!」


「へぇ。呪いとか俺そんなの初めてだから、よくわからないな」


怒号散らす寳子に漂は頑とする。
更には少し腹が立ったので睨んだと不逞不逞しい。
喚かれようが、自分は綺麗と思ったんだと彼女を真っ直ぐに見つめる。


偽りはない。
本当の事ばかりを言ってやると近く身を置いた。



「確認する為にも俺が傍にいないと」

「・・好奇と無謀ならやめておけよ漂。私は脅しで言ってるんじゃない」

「それはこっちの台詞だよ寳子。それじゃあどんな毒で何が起きるのか全部言ってみろよ。
   そんなこと自分でも知らないんだろ?でないと最初から俺に関わったりしないよな」


寳子は言に怒気を纏わせるが、漂の憤怒もそれに負けてはいない。

好きでもなければ捨て置けるが、好きなのだから仕様がなかった。


いま傍にいて呪われない、毒されないというのであればそれが全てだ。
引く必要は全くないと漂は言う。
自分だけではない。
毒性を初めから知り、己が危険性を察しているのであれば。

この日の浅い内で自身の知る限りの寳子という人が、考えなしに他に関わるとは到底思えないと言い切る。



「寳子がどんなに嫌って欲しそうに、距離を置いて欲しそうにしたって無駄だ」


離れないと、断言する。


「そもそもこれまでちゃんと生きてきたんだろ。
   なら寳子は関わる人達と一緒に生きて行きたいって、ちゃんと思ってるんじゃないか」


文身を見られて動揺するのはわかるが、撥ねつけて欲しくはないと漂は言う。
彼女の両の肩を抱く。
文身を見て避けたい奴は避けさせればいいと勝手を言った。


「くそっ・・何で君が、こんなに悲しまなきゃ・・
   ・・っ他の誰もが君を避けたって!嫌ったって!!
      
 俺は必ず君の傍にいるんだから君は俺とずっと一緒にいてくれればいいだろッ!!!」


彼にとっての最上の勝手文句を言い放つ。
最後の辺りはもはや脈絡怪しく、ただ彼自身の願望であった。

一通りの我を通し傍とする。
しかし国家存亡も、ましてや人命が掛かっている訳でもない。

単に惚れた張ったの話である。
これには何も善悪気取る事もないのだから、問題は彼女の気持ちであってこの事自体に正答性はない。
正に一生分のそれを思わせる言であるが、この時ばかりは双方共に気がついてはいなかった。



暫し沈黙する。
怒濤の如く勝手知らずに言われた事もそうであるが。
文身を知られた為体、裸を見られた羞恥。
そのどれをとっても仕様がないと、寳子はただでさえ自棄であった。

「・・呪いとか、よくわからない?」
「え」
「傍にいる?離れてなんかやらない?」
「あ」

「仮にも大将軍を目指してる男が何言ってるのよ・・!」大将軍なめるんじゃないっ・・!
「う゛っ!!」す、すみませんっ・・!

ちくちくと容赦なく小言が刺さる。
任を果たした事もない一端未満が何を言うと指導係は猛る。
そういった大言はそれこそ夢を叶える目途が立つか、叶えてから言えとついでに釘も刺す。

ただでさえ剛の道。
命の保証などどこにもなかった。



「それにどんな毒かなんて」


声が震える。


「それがわからないからっ!!」



その声はきっと甘えていた。



全くわからない訳ではない。
主に戦場、死に際においての事は既に昌文君より聞き及んでいた。

しかし普段から生活をする上で毒を撒いていないという確信はない。
寳子は常にその恐れを抱いて生きて来た。
それを生まれて此の方、こんな時に改めて問いを叩きつけられるとは知れない。

混濁した頭に淀む心、ではない。
逆に落ちる所まで落とした安定の中で、彼女は大粒の涙を流した。


「えっ!あ、ちょっ・・な、泣かないで寳子っ・・!」


泣き顔を隠すようにして漂は彼女を抱き締める。
何とか宥めようと試みるが、頭を撫でたり、背を軽く叩いてやる事で精一杯だった。

「ごめん、そんなつもりじゃ・・でも寳子だって俺の話きかないし怒るしっ・・あーもう・・・!」

「ぐっ・・ ・・うぅ゛っ・・ っ・・漂のばかっ・・・!」


泣き止ませるため必死になり、恥も外聞もあったものではない。
迫力のない罵声に、成る程―――――甘えられているように聞こえる辺り、重症である。
解けない問の答えを誰より欲しがっていたのは、何より彼女自身だった。







落ち着きを取り戻し、気付けば二人はお決まりのようにまた互いに謝っていた。
板につくと言ってもこれでは底が抜ける。
事こそ少ないが口にした謝罪の言葉は数知れない。

そしてずっと抱きついている訳にもいかないと既に分かれてはいたのだが。
寳子の身体を見る事が憚られるため漂は、彼方を向きながら頭を何度も下げるという奇妙な体を晒していた。


「・・・こういうの、何度目?」
「・・・ ・・まだ二度目」


まだ、とつける辺りが妙だと漂は更に遠くを見る。
しかし寳子が自分との先を見てくれている可能性があるのだと、そう好意的に受け止めた。


「・・・漂」

「ん?」
「・・・・・ ・・、」
「え」


「・・・ ・・誰にも、言わないで。お願い」


寳子の方を反射的に向こうとして気付き、すぐに居直る漂。
此度の事―――――文身を飼っている事をと彼女は懇願する。

言う筈もない事を律儀に、やはりどうしたって生真面目であると彼は息を吐く。
そして漂は自分が人の秘密を言うような人間と思われた事に些か気を置いた。


(ってまァ寳子は絶対、そんなつもりでお願いしてる訳じゃないんだろうけど)


事が事である、そうでなくとも娘が文身を背負う事など口止めしない方が可笑しい。
しかし漂の思う所はそこではない。


「でも傷付いたかなぁ、俺」
「!?」


―――――などと、実は適当に文句を付けてみたいだけなのであった。


「・・そんなに信用ない?言い触らしそう?」
「えっ、あ、いやそうではなくて!す、すまないそんな心算じゃ・・!」


困り顔の時に見える、彼女の女の子らしい弱さが好きだ。


「どうしよっかなぁ〜・・」
「!!」


大袈裟に溜息交じりで言ってみせる。
案の定、横目に見やる寳子は生真面目に素直な反応をとっていた。
それに嬉々とせぬ訳がない。
漂は意地が悪いと思うが、それ以上に好いた者への欲が勝る。

そんな邪な由とは裏腹に漂は満面の笑みを呈する。
対して彼女はそんな彼を見るなり、何かを思い出すように声を上げた。


「漂っ・・!」

(駄目だまた調子に乗り過ぎた。
   ・・そろそろ止めよ。彼女の重大な秘密でからかっちゃいけないよな)

もう暫く、そのあたふたと色を変える表情を見ていたいけれど、と。
名残惜しそうに、しかし漂が取り繕おうとしたその時だった。



「・・・・言わないでいてくれたら、何でも一つだけ・・言う事を、聞く」

「え゛っ!!」



寳子からまさかの提案が発せられ詰まる。
喜悦の類ではなく、間違いなく驚愕の叫びを彼は上げた。
如何ともし難い彼女の無謀な体に、先程まで綽々としていた漂も青ざめる。

「(うわ何だろう今のが一番傷付いたかも・・!)
   そ、そんな条件まで付けないと、すぐに人の秘密言っちゃうような奴に見える?」いや俺が悪いんだケドさ・・

「だっ、だからそんなつもりじゃないと!」
「でもそういう事だろーっ・・」何でもって・・

「漂が傷付いたって言うから・・!
   そっ、それにこうしたら蒙恬は一番効くって言ってたんだっ!」


彼女曰くの、良い奴に過ぎるその蒙恬とやらが抜かしたという。
願われた事と言っても晩酌に付き合うとか、寝るまで手を繋いで傍に居るだとか、それくらいであると寳子は矢継ぎ早に言う。

良い奴である者が果たして相手のそんな自棄ともとれる提言を推すだろうか 否 な い 。
しかし漂も寳子をからかった手前、声を大にして蒙恬を非難する事ができずにいた。


「寳子」
「は、はい」

「話はわかったそして俺も悪かったごめん。
   正直に言う。君の反応が可愛くてからかったんだ」

「可わっ!?「もちろん秘密は言わない。傷付いては―――――いた。自業自得の範囲で」


神妙な面持ちで語る漂に何故か改まって返事をする寳子。
そんな畏まる場も束の間、彼の口から飛び出す聞き慣れぬ言葉に、彼女は抵抗を見せるが抑えられる。


「もうその、何でも一つだけ言うこと聞くっていうの。
   これっきりだから。もう絶対他の所で言うの禁止だから」


大丈夫だ、主に蒙恬くらいにしか言う機会がなかった!
君の大丈夫の意味が俺よくわかんない。


「うん、わかった。・・しかし蒙恬はよく揚げ足を取ってくるからまんまと言わされてしまうんだ・・不本意ながらな」

ほとほと参ったと、しかしこの想いは寳子の思う所だけではない。
漏れなくこの場に在るもう一人も、全く同じ気持ちを抱いていた。


「(これは俺が傍にいて直していかないと・・変な所で隙がありすぎるっ・・!)
    ちなみに蒙恬と・・他には言ってないよね」

「えーっと・・・蒙恬が殆どで、次点が王賁で、あっ!あと壁兄!」


蒙恬>>>王賁>(越えられないカベ)>壁

恐らくはこうであろう算段を付けるが、聞いた所まさにその通りだった。
他には何を言われるか分かったものではないからと、寳子は一切口にしていない旨を告げる。

信用できる者にしか言わないと、彼女は語気を強めてそう言った。
これには漂も調子よく機嫌を治さざるをえない状況である。


「もー・・ ・・しょーがないなぁ、もう」
「何がだ・・こっちがもうと言いたい。
   それに漂が仕様がないと言う筋合いはないだろ・・」

「・・・・・・」
「・・・・・・」


「それじゃあ願い事だけど」

(う゛っ・・!)


彼女の話を敢えて無視すると漂は、正に彼女の身を切った提言を掲げる。
見せびらかす様にして思案するも深く耽る。

彼の様子が変わった事に寳子も気が付く。
叶えてもらおうと請うのに、横に外方を向いていては不躾である。
そうして漂は改めて彼女に向き直り、姿を見ぬ為とこれ見よがしに近付いた。



「俺のこと―――――」



もっと見て、話して・・そして。

しかし描く言葉が脳裏を離れる事はない。



「・・・大王の身代わりとかじゃなくて。
   友達だと思って、もっと君らしく接して欲しい」


「わ、私・・ ・・・らしく?」


もっと仲良くしよう。
そう穏便に願う。

うまく躱せたろう事が自分にばかり跳ね返る。
まだ言う時ではないと、気落ちする自らを励ました。


初期の頃を思えば今でこそ、砕けてきている気はする。
しかしおそらくはこう、面と向かって言っておかねば遅い。
親しくともこのままでは後手だ。
影と指導係としての意識が長く留まるとして、漂は寳子に お 願 い をした。

話し方や仕草を例にとって言う。
語る漂は目に映る限りは楽しそうではある。


「秦国を担う者として毅然となるのはわかるんだ。
   でも時々地の言葉が出る時があるから・・無理してるのかなって」

「無理なんて!」

「わかったごめん!じゃあこうしよう!
   俺ともっと親しく話して欲しいんだ!!」



これには寳子も反論しない。
願いを整理すると、友達になって親しくしよう、というのだから断る理由もない。
漂は彼女の扱いを僅かばかり体得していた。


「・・・俺の前では、できるだけ兵としてじゃない君でいて欲しい」

「指導係の私に難しい事を言うんだな・・。
   それに本当に無理をしている訳じゃない。全てが本当の私だ。
      時と場合、立場を弁えて話している。貴方は王の影で・・ゆくゆくは秦兵になって、そして」


大将軍になるという夢を持つ。
彼女はそこまでは言わず、溜息を吐くと頷いた。

「・・・わかった。何だか変な感じだな」

「じゃなくて」


「・・・ ・・・・うん、 わ か っ た 。それが漂の願いなら。
   はぁ・・こっちの方が無理強いだよ、漂」


苦笑いを呈し、どこか気恥ずかしそうに言う。

ここに契約は結ばれた。
秘密を守るという彼の、守ってもらう為の願いを叶える彼女の。

―――――――思い出となる約束の一つだった。





「やった」
「え・・」

「寳子と俺だけの秘密」


昌文君は色んな意味で数に入れる必要はないと漂は言う。
酷くはないかと、しかし彼女は笑った。


「・・なんだか寳子が近くなった気がする」

「何を悠長な・・人の秘密を。
   それに、こ、こっちは変に意識して話すから大変なのに、もう・・・」


確かに先程よりは言葉を選んでいる節が見受けられる。
寳子の内の混乱が外に漏れ出しているようで、隠せないのだろうとつい口元が緩む。


「慣れるよ。俺なんてすぐ寳子に慣れたし・・色んな意味でさ」

「それは漂がっ!・・ ・・・もういいっ!」


不機嫌そうに外方を向く。
漂は謝りながら彼女の肩に触れるが払われる。
その拍子に背から倒れ込んだが最後だった。


『・・・・・・・』



弾みで腰布が取れ、いわゆる惨事である。

片や顔面蒼白、片や顔を紅潮させて相対する。
目に付いてしまったものを剥がす術を、彼女は知らない。


「わっ・・ ・・・わわわ私は慣れているんだぁあああーーーーっっ!!」ばかものーッッ!!

「そっ・・!(そんなこと大声で言って去らなくてもーーー!!!)」


浴槽から這い出ると一目散に逃げ出す寳子。
彼女の誤解のない様に言えば、飽くまで娘の存在など気にも留めない粗野な男集団に就いた結果であるという。
戦場に出ていた際の名残。
英傑の背を追う際の不名誉の(心の)負傷といった程度の、しかし少女にとっては中々の古傷であった。


寳子は着替えを持っていなかった為、漂の分を持ち去る。
一人取り残された漂は湯の少ない浴槽に一人座り込んでいた。



(あれ、でも・・)


初日と。
それと明らかに違う反応に気付く。
漂は締まらぬ顔を抑えようともしなかった。
















周囲の高まる警戒とは裏腹に、事が起こらぬだけ穏やかである。
寳子と漂が出会ってから二十日が経とうとしていた。

寳子はいつものように政に報告し終える。
ニ、三言を口にして終わり、報告自体は簡素だった。
他に話題を出せばいいものを彼女は報告までに留まり、また彼はこれ以上話を広げる心算はない。

話したい事はない。
話していたい気はある。

しかしそれを憚るのは何より政自身だった。


(・・・ん?)
「・・・・・」


彼女からの報せを受け、黙る政に寳子は疑を抱く。
普段なら一言返り、それをまた返して了とする所を今日は違う。
拝手のまま政を見詰める寳子を、政もまた黙って見つめていた。

「あの・・贏政さま」
「・・何だ」

返された答えは逆に彼女に問いかける。
抱く疑を問いとして吐くか否か。
吐くべきかという所で彼女の思考は留まる。
政は彼女のそんな気を知っていた。


「な・・何か私の顔についてますか・・?
    それとも私の行いで思い当たる節がおありでしたら・・」

おずおずと話す寳子は、何時の知り得ぬ己の失態に怯える。
粗相をしたろうかと、それほど政が彼女を見る眼は意志の強いものだった。

「お前はあるのか?」
「え!?あ、いえ・・自分では気付かない事を、黙して咎められているのかと・・その」

「なら堂々としていろ。俺はお前を見ていただけだ、深い意味はない」


あれだけ鋭い眼光を向けて中々に無茶を言うと、しかし寳子はその言葉を呑み込む。

(深い意味はないって・・もう、贏政さまって偶にこういう事があるから・・)

少し困ると、弱る表情で寳子は俯く。
そんな彼女の様子を見て、政はやっと彼女から視線を外した。


「・・・どうした、戻らないのか」
「・・・ ・・失礼します」


呆気と、そして刺々しい政の態度にさすがの寳子も気を損ねる。
ここが他の側近、秦兵とは違う彼女だけに許された在り方だった。

意を汲み兼ねる事もそうだが、会う度に素っ気なくなる態度はどういう事かと的を射ない。
不機嫌になりつつも、やはり最後は気にかけてしまう辺り寳子は政に親しみを持ち、また味方で在った。


小舟を漕ぎ、対岸に着く。
彼の元を去った寳子の向かう先。

そこには壁と漂が彼女の帰りを待っていた。


「・・・・・」


遠目でそれを覗く。
彼女は背を向ける形だが、他二者の表情は見てとれる。

何を話そうが、そんな事に興味はない。

話すなとは言わない、ただ。


余りに嬉しそうに話すその様が厭に目に付くと、ただ政は遠くから見つめるよりなかった。








「ここまで迎えに来てくれたのっ!?」
「ほら早く行こう寳子!あの狙った果物、誰かに取られるぞっ!」
「わ、早く行こう!あそこの見張りは癖があるから、私に遅れないように付いてきてね漂!」

(こらこら・・二人とも何て無茶を)

笑い声が木霊する。
声の大きさを注意すると壁は困ったように腕を組む。
寳子と漂は平謝り、そしてまた語りに入る。
そんな二人を見やる様にして脇に立つ壁に寳子は礼を言った。

「壁兄もありがとう!果物多く取れたら持っていきますね!」
「いっ、いらんいらん!私は遠慮しておく。共犯者にされては堪らんからな・・。
   あと遊ぶのもいいが、訓練もしっかりとな」

「遊ぶだなんて失敬な!・・ねー漂」
「失敬ですよ壁副長!・・なー寳子」

失敬失敬と揃えて非難されるものの、果物を盗みに行くなど遊びでなければ只の悪事だろうと咎める。
しかし彼らの答えは意外な物だった。

「違いますよ壁兄。
   表向きは果物を盗るだけの仕様もない悪事に見えますが実は違います」

(言い訳にしか聞こえん・・)
「実践みたいなものなんです」
「んん゛っ!?」

漂の声に傍とする壁は寳子を見やる。
彼女も彼と同じくしてしたり顔で兄を見た。


「巡回のある程度を予測し、それに対応する。
   見つかっても不測の事態に対応する、という訓練なんです」

「蜂蜜をもらって、寳子が甘い物が好きだって話から発展して・・それじゃあやってみようか、という話に」


そう言って二人して微笑むが、壁からすれば心穏やかでない。


「あそこは竭氏の息がかかっている所だぞ!?近付くなと言われたろう・・!」

「逆に今のこの事態に、懇切丁寧に園地を守ろうと兵を割くなんて事ありません。
   しかも訓練のあとは手に入れた果物で喉も潤うし、お腹も満たせるという特権までありますっ」

嬉々と話す寳子の額に、壁の手刀が垂直に食い込んだ。

「いだっ!」
「そこだけじゃない周囲からして危険なんだっ!
   お前だけじゃない、漂(大王)までその身を危険に晒す事になる!
      その調子に乗る所と向こう見ずな所!直せといつも言っているだろうっ!?」
「ごっ・・ごめんなさい・・」
「あっ、寳子!・・壁副長・・・」

額に両手をやり気落ちする寳子の前に立つ漂。
その余りの意気に壁が臆する。

「なっ!?ま、待て待て漂!いやお前だってコイツのそういう所、止めてくれないと困るぞっ!
   というかこっ・・こんな感じだっ!ほら、こう・・これ!ぜんっぜん痛くないヤツだ!」

わざわざ手刀の実演を目の前で繰り出す壁だが、漂のそんな彼を見る瞳は冷ややかだった。

「じゃあ何で寳子泣いてるんですか・・」
「なっ・・涙目になってるだけじゃないかっ、大袈裟・・」

「・・・大丈夫だよ漂、壁兄の手刀には慣れてるから・・」
「慣れるまで食らわされたの寳子・・可哀想に」

(なんなんだコイツらわーーーーーーーーーーーーッッッ!!!)

確実に共犯として成り立つ彼らに恐々とする。
というか何かと漂に寳子の事で叱咤され、その度に狼狽える自分が嫌だと壁は思う。

そんな彼を放り、寳子と漂は声を掛けあうと共に走り出す。
壁は一人取り残され、その後ろ姿を見送った。



「寳子、この前の蜂蜜だけど・・また」
「いいよっ!今の時期はまだないから保管してるやつを・・」

風に消える言の端を捉えると、これまた仲睦まじい彼らの声が聞こえる。
悪くはないと、壁はそう思った。


(私の事などなかった風だな。 ・・・しっかし、仲良くなったものだ)

否、佳き事と彼らの消えた方を見つめ微笑む。


(この急事にあって、だからこそ必要な刻なのかも知れないな・・)


既に窘めようとする気は失せ、壁もこの場を後にしようとしたその時だった。

遠く、離宮を見やるとまさかの御仁と目が合う。
大王贏政は仕舞いという風に姿を奥へと隠した。

見えずとも続く壁の拝礼は、どこか気遣いと気まずさが同居していた。








実践とやらを終えた二人は意気揚々と漂の部屋に向かっていた。
教学は既に終わり、この後は剣の鍛練と湯浴み、そして食事をして語り就寝という予定だった。

「今日は二つかぁ・・悔しい」
「熟してるのが少なかったし、それに取り過ぎてもバレるからこれでいいんだよ寳子」
「そっか・・うん、そうだね漂」

寳子は漂の慰めに素直に応え、そんな彼女に彼は安堵の体を見せる。
しかしそんな安穏とした空気も束の間、ある人物によって突然破られる事となった。


「寳子様!ここに・・って!!」

「介殻!?」
「え」

介殻はすかさず拝礼し頭を垂れ控える。
寳子は漂から果実を取り上げ、彼と介殻の間に割って入った。

(なっ、何で大王さまがこんな所に・・!?いや、手に果実・・いや・・)

「お前が何故こんな所にいる。離宮近くは周囲を近衛兵が見張り、他は立ち入れぬはず」
「・・寳子様、大王を前に申し上げても宜しいでしょうか」
「許す。手短に話せ」

寳子の言葉遣いに漂は背筋を張り姿勢を正す。
王然とせねばならないと、そう告げられた気がした。

「すみません・・殿よりの急ぎの命であった為、その事情を近衛に伝えたところ通されまして・・」
「・・ザルだな。警備の者には後で言っておかねば」
「重ね重ね・・」
「ふぅ。・・お前ならと近衛共も思ったんだろう。しかしそれとこれとは別だと言っておかねばな。
   しかし何故殿はお前を寄越したんだ。彼の方が来られようものだが・・」

「何やら忙しない様子でしたので。・・刻から見て既にこの域から出て戻られていると思ったのでは。
   それで私が寳子さまの自室等見て回りましたがおられず・・ここに至った次第です」

そうか、それは悪かったと一言声を掛ける。
訓練と称し長居に過ぎた事は自覚していた。

「それで命とは何だ」
「はっ。大王さまが呼んでおられるとの事で、至急参じよとの事でした」
「呼んで・・」
「この様子では既にお聞きになられましたか」

「・・・ああ、今し方その事で話していた所だ。
  (贏政さまが私を?何だろう・・)」

介殻の言葉に上の空で答える。
彼は他にも疑問を投げ掛けたい所ではあったが
大王のいる手前、そして大王に関する事柄のため後にも先にも憚られた。

「わかった。この件に関して確かに伝えた事を殿に報告せよ」
「はっ!」

礼を正し、介殻は碌に漂(大王)の姿を目に収める事無く立ち去る。
彼が去ってから暫くして寳子は漂に向き直った。


「もうすぐ壁兄が近衛近く・・警備周辺の見回りに来る頃だから、
   漂は壁兄に付いて先に戻ってもらっていいかな」

「あ、うんそれは・・別にいいけど」
「ごめん。大王の所に行ってくる」

もちろん途中まで付き添うと寳子は漂の手を取った。
果物は食後に食べようと、そう約束をして。













相対する彼女は拝礼の体から言上し、その様子は先程と何ら変わりはない。
向かえば何という事はない。
先程の報せの疑問点と確認、再度移り変わった状況の子細を求められたに過ぎなかった。


「―――――――以上です」


故にまた同じようにして沈黙が降りる。
ものの数秒で確認と報告は終わり、既視感を覚える。


(・・・・・)


空白を埋められない。
何しろこれ以上がないのだから仕方がない。
そしてまた政も黙る。

彼が一体なにを望んでいるのか、寳子はただ図れずにいた。



「寳子」
「は、はい!」


急に名を呼ばれ勢いのままに返事をする。
しまったと口を手で塞ぐが政はその事に触れる事はない。

「覚えているか」
「・・・・・へ」

「・・・・・ ・・」

音はないものの、内心盛大に溜息を吐いたらしい政を前に寳子は気を萎縮させる。
そんな彼女を蔑視にも似た冷ややかな目で見詰め、彼は今日の不満の根底をぶつけた。


「この前、共に簡を広げると言ったな」

「あ・・!」


気付くと同時に、咄嗟に両の手を持ち揚げる。
そして何をするでもなく気まずそうに落とす。
言を繰ろうとするも音は出ず、震える唇は戦慄きにしか見えない。

そして彼女は―――――失念していたと、素直に認めた。


(今日こんなに含み有り気に見つめられてたのは そういう事だったんだ・・・!)


眉間に皺を寄せ、これ以上ない程に気を落とす。
そんな彼女を見てか政は、自ら次の機会にと、体のいい簡が見つかればと言い譲歩する。
しかしここで納得いかぬと声を上げたのは寳子の方だった。


「え、贏政さまもお人が悪いですよっ!私を試すような事をして!」

「・・・・何がだ」


収まりかけた火を煽ってしまう。
彼女は数日の刻があり、また今日の政の仕打ちというものに異議申し立てていた。

普段なら即座に終わる問答、若しくは含みがあってもその場限りのものが多い。
それを今回ばかりは嫌らしい限りであると、寳子は憤慨していたのだった。


しかし普段でないというのならそれは、普通ではないということ。
彼女が見落としていた事があるとすれば

それは交わした約束ではなく、彼の心そのものだった。



「約束のこと!先の報告の時に言って下さればっ・・!」
「気付かないお前が悪い」

「そっ、そそそれはそうなんですけどっ!
   だからって言って下さらないと・・
      ・・・言って頂ければ当然刻を空けましたものを」

「本当にか?」


場の空気、ひいては政の変化に気付く寳子。
返事が出来ない。
自分を見詰める目は、それを咎めているのだと彼女は苛む。
しかし彼の胸中は思う以上のものだった。


「また別の『約束』とやらが入っていたんじゃないのか」

「!漂との約束はいつでも変えられます・・!
   私は贏政さまが一番―――――」


「だったら何で忘れてたッ!!」



声を荒げ勢いよく立ち上がる政に寳子は愕然とする。
顰める顔は怯える為ではない。

自身がとんでもない事をしでかしたと、気付いた為の事だった。


「・・・・・ ・・・ごめんなさい・・・」


彼女とて一身に抱える任は多い。
漂の教育係はもちろん他との連携、王弟竭氏の動向から城下の様子までをこなす。

またそれを知らぬ政ではない。
数日に渡り敢えて確認をしなかった己が浅薄も知る所である。
しかし彼との約束を忘れ、他の約束を優先した事も事実。
故に一番と言った手前、それは言い逃れられぬ咎へと変わった。


不徳の致す所と、彼女は先程も、そして今この時の自分に腹を立てる。
怒りを通り越して涙が零れそうになる。
しかし寳子はこれ以上の失態を晒す訳にはいかないと必死に堪えた。

これを見て頭を冷やさぬ者もない。
政は静かに腰を据えると彼女から視線を外し謝罪した。


「・・もういい、すまなかった。泣くな」

「!贏政さまが謝る事ありませんっ!!わ、私のこれ、はっ・・!」


また勢いのままに返事をし、そしてこれと指されたものが頬から滑り落ちる。
傍としたのは、両者同時だった。







一方が隠すため、もう一方は見ぬようにと努めた。
双方共に仕様がないと、音のない空間に伝えきれぬ想いばかりが胸に木霊する。

その響きが同一のものか否かは、彼らだからこそ、知る由もない。


「・・・いい加減泣くな」
「う゛っ!!」


どうやら泣いていない、もう少し待て、その事についてはこれ以上触れるなという暗とした答らしい。
たった一言で意を表し、また対する者も汲み取るのだから仲が良い。
下手に喋って声が擦れる事も、震える事も寳子は良しとしないようだった。

何度か喉の調子を整え、鼻を啜る音が聞こえる。
その小さな動作一つ一つが、全く仕様もないと政に視線を戻させた。


「寳子」
「・・ ・・・・はい」

声が出る。
何とか元通りに直ると彼らは改めて向き直った。
安堵すると同時に、拭えぬ疑問が再び彼女を捉える。

明らかに政の様子がおかしいとは、彼女も感付いていた。


(でも聞いてもきっと・・贏政さまはそんな事ないって、言うんだろうな)


だから言えない。
いや、しかしきっと。
理由がそれでなくとも自ら聞き出す意気地などないと、彼女自身もわかっていた。


「・・寳子」
「え、あの・・・ ・・はい」



「漂と俺は似ているか」



名を二度呼ばれ怪訝と顔を向けるが、それが正しかった。
寳子は括目すると目一杯に政を捉える。
見据え、しかしその瞳は先程とは比べ物にならない程に穏やかだった。


「・・・ ・・」

「寳子」


三度目に呼ばれた名は、どこか縋るような声に聞こえた。



「姿こそ瓜二つで・・最初は驚いたものですが」



何を期待されていたかは知らない。
到底添える言など持ってはいないだろうと、彼女は素直に答えた。




「貴方がたは、全くの別人です」




おそらく同じと言わないであろう事は察していた。
分けられた定義にはっきりとした明暗が浮かび上がる。

どちらがどちらという事に興味はない。
明るければ見えやすいというだけのこと。

暗ければ暗いなりの在り方というものがあると、政は彼女に手を伸ばした。



「寳子」
「はい・・」

「・・・寳子」
「え、あ・・で、ですから、はい。 ・・何ですか、贏政さま」


寳子が政を裏切る事はない。
そんな彼女を彼も裏切らない。

その均衡が壊れる時は、裏切り、二人が壊れる時であると―――――ある王は顕在的に、ある兵は潜在的に知っていた。


謂わばそれは、壊したければ裏切れという事と同義。
語れば話す、問えば答える。
呼べば来る、怒れば泣く。
そして名を呼べば、名で返した。


「俺にとってお前の名を呼ぶという事と」


次第に距離が詰められる。
低く伸ばされた手は、彼女の心を刺していたに違いない。


「お前が俺の本当の名を口にするという意味は、・・何より代えがたい事だと、気付いていたか」


まさかと、寳子は意外そうな顔を見せる。
それもその筈である。
幼少、その名の事で彼らは一悶着を起こしていた。

(あの時の贏政さまは趙から戻り日も浅く・・
   ご自身の名が呼ばれるのは様々に思い出す、故に好かないと言って・・そして私は)

呼称として易いのであれば仕様もないが、基本的に好かんと齢九の政は同じく九つの寳子に言っていた。
そしてまたその時こそが、寳子にとって初めて彼の名を知る機会となったのである。



距離は詰められ、そして眼前に大王を迎える。
秦兵はただ顔を伏せるより他はない。

旧友、馴染み。
しかしそれ以上に既知であるだけの絶対的な主従関係の中に彼らはいた。




「寳子、お前は―――――生涯を戦場に捧げると言ったな」




覚えているか、と。
いやらしく笑った。


「・・・ ・・・・・はい・・ ・・・・」


だから手放した。
だから双方、裏切れない。


雁字搦めの関係性の中で、もう一つ確かな事がある。

それは凡そ一年前の誓いから。
王が生まれ、兵が生まれた。

彼らが国を相手取る共犯者となる誓いを立てた時のこと。


彼は彼女の、彼女は彼の。
双方の心に、互いを縛り付ける枷をつけた。


何があっても裏切らない。



裏切った、その時には―――――――――








政が彼女の元へと歩み寄る。
彼女が彼を想うほどに生まれていった溝を、埋めて行くかのように近付いた。

寸での前に、互いの存在が見える位置。
そんな近しい距離で彼は、何度目かの彼女の名を呼んだ。




「寳子」




届く。
伸ばされた手は輪郭を撫で、彼女の口元に指を添えた。



「戻る前に・・ ・・・もう一度だけ、俺の名を呼んでくれ」



もう顔を伏せ、表情を隠す事は出来ない。
寳子は言われるがまま、心を縛られ、突き刺されたままに音を吐く。


そこに答えはない。


彼と彼女の当然とも言える答は、招く結果こそ違っていた。

























(最悪だ私は・・・)




(何をやっているんだ・・・ ・・)





寳子は自責の念に駆られていた。
漂の部屋に向かう前に、まず自室へと戻るがその足取りは重い。



『漂と俺は似ているか』



(きっと答えなんかじゃない。何か別の意味を、贏政さまは・・)


求めていたのだろう、そんな憶測に走るが自信はない。
仮にそうであって果たして応えられたかと言えば、それこそ導くに難い。


(どうしてこんな事になったんだろう・・。何か違う。
   贏政さまも・・ ・・そしてきっと私も)


違和には気付いていた。
情を理解せぬ彼女といえど、その揺らぎを素通りする程の鈍感さはない。


(この苦しさはどこからくるんだろう。こんな事は初めてだし・・わからない)


でも、もしかすれば。
その程度の心当たりはあった。
しかし彼女の知ろうとする情とは似て非なる、ともすれば見紛いそうになる厄介なそれである。



(―――――漂に聞いてみよう。そうしたら、何かわかるかも知れない)



碌な答がない。
わからないばかりの自身なのだから仕様がないと、彼女は決して自分でわかろうとはしなかった。






自室に戻ると一息つき、そして机上の荷に目をくれる。
寳子は嗚呼と顔を片方の手で覆い、そして深い溜息を吐いた。

現状においても手一杯だというのに。
そう言いたげな表情からはしかし、言の一つも出ない。
これほど一身に考え込まねばならぬのなら、まだ戦場に身を置く方が易いとさえ思う。
思って寳子は机上の荷に手を伸ばした。

「嬉しい事は、嬉しいんだけどな・・」

こうして物が送られてくれば息災であるという印になる。
ある確信を込めて送り主を認め、少し困ったように微笑んだ。


王賁から寳子宛てに手簡が届く。
そこには共に華が添えられていた。


「・・・・・」

『この簡が届く頃の、のち一日にそちらに帰る』


「そちらに帰―――――えぇっ!!?」


王家の城は別にある為、帰るという事は彼らの内では会うという事である。
手簡の内容は決まって面会の一言と、そして華を一輪添えて贈られる。
凡そ一年前から続くこの取り決めを、彼女は無下に断れる立場にはなかった。


「なっ・・!そんな急・・
  (いや、王弟の反乱の動きはその如何に関係なく王賁の耳にも届いている筈だ・・
        一日、明日に会いに来るという事はこちらが動けずにいる事を知っている)」


既に王都近隣の村々においても細く伝わっている始末である。
見越して寄越した手簡であると彼女は両の手でそれを閉じる。
寳子は再び溜息を吐いた。


(・・こうして律儀に約束を守られている分、余計に面目が立たない)


一月に一度というこの約束であるが、実は何を隠そう寳子本人が決めて彼に押し付けたものである。

いわゆる楽観して余計な事を言った次第というもののツケであった。
故に断れる立場にないとはこの事である。


「はぁ・・・続かない訳がなかったんだ」


面倒だと、馬鹿を言うなという言葉を期待していた、という楽観。
しかしそれは簡単に受け入れられ、引くに引けなくなったのは彼女の方だった。


添えられていた華一輪を指先で摘む。
金銀花の甘い香りが鼻腔を擽ると、その白い華の草臥れた茶の先を撫でる。


(ここ数か月この花が多い・・解熱に、あと化膿止めか。
   激しい戦で疲弊しきってなければいいけど・・)


姿の見えぬ、彼女にとっての掛け替えのない友に心を砕く。
幼少の頃に彼女は、どんなに傷付いても鍛練を止めようとしない彼を無理やり引き留めては薬を塗ってやっていた。
また、休もうとしない彼をこれまた引き摺り、生薬の効いた薬湯を蜂蜜で溶くと半ば強制的に振る舞う事を常としていたのである。
基本的に王賁に対して強気に出る事のない寳子だが、以上のような時と場合に関しては有無を言わせぬ体で挑んでいた。

時には傍らで、時には正面から。
そして彼女は彼の小さな背から大きな背までをずっと見続けていた。


(小さい頃はこの花の蜜をよく吸ってたっけ・・
   王賁はいらん、ってばっかり言ってて)

思い出す様にして笑うと、懐かしさから華を少し舐める。

「・・うん、甘い」

彼女は微笑み、金銀花を簡に挟む。
そして他には見つからないような場所へと移す。
王賁より届く手簡を寳子は毎回こうして保管していた。



「・・・大馬鹿者」

明日、という示された日程が脳裏を掠める。
呟かれた言葉の多くは彼女自身に向けられ、そして小さくは彼にも向けられていた。






寳子が漂の部屋に赴き、日程は滞りなく進む。
夕食を終え語らいに入ると、寳子は漂に昼間の鍛練の様子を指摘される。
どこか上の空であったと、彼女の様子を見逃す事のない彼は気を配る。
細心の注意を払っているつもりの様でしかし、漂は顔いっぱいに聞きたがる気を露にする。
その体に寳子は根負けしたと、事の次第を語った。


「明日って!!」

「彼が明日と言えば明日だ」
   

温度差の見える受け答えに身を引いたのは漂の方だった。
引くがやはり聞きたい。
気が気でない、でも自分からはどう仕様もない。
押し黙る彼に寳子は―――――そんな体では堪らないと、淡々と自身の想いを口にする。


「・・明日彼が来たら、ちゃんと返事をしようと思う」

「え・・」


予想外と、そして期待が入り混じる。
そんな感情も漂は顔から露にしていた。

「あ、あのさ、返事って」

どんな、と。
明日例の婚約者と会うという彼女が、返事をすると言っている。
最早ちぐはぐとした悲喜交交な自身の感情に、最終的には不安を呈して寳子を見詰める漂。
それを彼女はまた温度差のある穏やかな体でもって、彼に言い聞かせるようにして語った。



「はっきりと言おうと思う。・・・きっと、漂のお陰だから」


漂は驚き、口を凡と開けたまま寳子を一途に見詰めていた。
一方の彼女は、はっきりとしないがと少し戸惑い気味にはにかんだ。
漂も漂で逸る気持ちを抑え、彼女の次の言葉を待つ。


「じ、実を言うとまだわからない。でも、少し・・わかった気が―――――」


最後まで言おうとして詰まる。
それはとても奇妙な事だった。

喉にではない何処かに何かが詰まる。


心の疼きを感じた。


ふいに胸を押さえる寳子。
漂はそんな彼女の肩に触れ、気遣うが様子が変わる事はない。


「寳子・・!?」

「何でもない・・ ・・・何でもない、から(どうして)」


覚えがあった。

それに気付かぬ程の、鈍感な彼女では、ない。



(今・・・・)



誰かの影が胸の内に過る気がした。

確証はない、だが敢えて確かとするならば


彼女の内の誰かが、彼女を懸命に責め立てていた。
















次の日の夕刻、彼女は己が屋敷の内に控えていた。
壁にだけは事情を説明し、それ以外には決して事を悟らせずに穏便に済ます為である。

(殿には都合が悪いと無理を言って抜けてしまったし、漂は後で説明する事を前提にやっと手を離してくれた・・)

些か骨が折れたと思うが、しかし実際はここからであると腹を括った。

その折、俄に外が騒がしくなる。
まさかと寳子が立ち上がった際に丁度、兄分の壁が騒がしく音を立てて彼女の前に姿を現した。

「ぎっ、ぎぎぎ」
「へ、壁兄・・何をそんなに悔し「寳子っ!来たぞ、あの、例の・・・正装してっ!!」

正装との言葉に、嫌な予感が彼女の全身を過る。
本気過ぎる体でと、壁のその焦り様は半端ではない。


「あとっ、あとはっ、はぁあッ!!」
「壁兄、落ち着いて下さい。逆に私が落ち着きますが落ち着いて下さい」

「かっ、かごっ!!花籠持ってきてるぞッッ!!!」
「はっ!!?」



花籠。
所謂迎えの儀式において不可欠なものであるが、その意味は花嫁を持ち帰るという代物であった。


『次に会いに行く時までに、気持ちの整理を着けておけ』


目の前が暗転する。
その気持ちの整理とやらが婚儀に直接繋がるものとは誰も思っても見まい。

しかし流石は指揮の映える寳子である。
これ以上の目撃者(加害者)が増える前に寳子は壁に人払いを―――――半ば無理矢理に命じ、自らも駆け出した。



(急だまさかと思っていたらっ・・王賁〜〜〜ッッ!!!)


顔を真っ赤にして走り向かう寳子。
恥じらいと言うよりかは恥、怒気交じりのそれで赤みを呈する。

そんな大々的に催されては逃げ場はない。
戦場に於いて戦術だけではなく、敵を囲い込むなど戦略にも長ける彼である。
しかし現状においてその周到さを恨まずにはいられない。
王賁は完全に寳子の退路を塞ぎにかかり、そしてまさに喉元に得物を突き立てんばかりの勢いであった。

「っ・・もぉおおっっ!!!」

周囲の昌文君の私兵共が吼える寳子に括目する。
意識を向けた者達を片っ端から捉え、各自に指示を出し背を押して送り出す。
彼女には珍しく外向きに感情を露にしていた。

この時の王都の不穏を知らぬではないだろう内の算段。
いくら捕らえるに易いからと、起こる非常識な行為に寳子は腑に落ちぬと憤りを見せる。

故に彼が刻を見ず手を差し伸べる本当の意味を、この時の彼女は知る由もなかった。




仕官した後に初めて寳子が王賁と再会したとき。
事情を知る彼に彼女が、後宮に身を置かないと告げたその時のこと。

幼馴染である友の一人が、彼女に婚約を申し出た。



『やっとあの弱王が手放したか』


(何で私なんだ何で私なんか選んだんだ貴方はっ・・!!)



全速力で駆け抜ける。
屋敷にいる体のいい食客までをも叩き出す。



『俺はお前しかいらん』


(胸が苦しいっ・・辛い。
   申し訳ないって思ってるのか?・・悲しいって、思ってるのか・・私は)




男として前に立ち、彼女を女として求めた。

友でいる気はない。

そちらが来ないと言うなら、こちらから手に入れてみせると―――――


彼は彼女の三つの願いを聞き入れ、そして誓った。




(どうして・・・)

身分の差は勿論のこと、彼の性分から予想だにしない出来事だった。
何とか言葉を発し断るが聞き入れられよう筈もない。
結局寳子は返事のできぬままこの時は終わり、あやふやな関係のまま現在に至る。

結果ばかりを突きつけ、碌に彼女の問いには答えない。
そんなものに、仮に通じ合っていたとして誰が応と答えようものか。


(王賁、貴方は大切なこと・・いつだって教えてくれないからっ・・・!)


ただ欲しいと言われ、はいそうですかと言えぬように。
彼らは巡り巡って、ただ堂々巡りを続けていた。






一通りを終えて屋敷の門戸に辿り着く。
先程とは打って変わっての妙な静けさに寳子の気が逸る。
開けた先の光景を目の当たりにする度胸を得る為に一度深呼吸をしたその時だった。


「寳子っ!」


「ぁ―――――蒙恬っ!?」


門戸が一人でに開いたと思えば、思い描いていたものとは遥かに違う光景が眼前に広がっていた。
この王都に居る筈のない者がその場にいる。
疑を通り越してただ奇怪であった。


「ぎょーくしーっ!!久しぶ・・り、って・・
   はー、ホントはここでいつもみたいに熱い抱擁を交わしたい所なんだけど・・」

「え、ああ、まあ別に・・ってそうじゃない!
   何故お前がここに、というか今は遠征に「まぁまぁまぁ」


「今日は俺、ここに仲介人として来てるんだよね」


用が済んだら戻るけど、と蒙恬は突如として現れたにも関わらず飄々と言い放つ。
その遠征自体に決死の意味は込められていない故の事であった。

そもそもに 意 味 が 無 い 。
勝ち負けなど、そも存在しない。

無駄に長く睨み合いをしているだけのそれに価値はない。

実は他にも用はあるんだけどね、と。
目前の人物はその存在からして悠々と帰国できたのであった。


と。
以上は現状に沿う建前であって。

本音から言えば友、しかも両者共に幼馴染の大親友であるというのだから動かぬ訳がない。
婚儀の仲介人は王賁が言わずとも、彼の願う所でもあったのである。


「さすがに人様の嫁に抱きつく訳にはいかないからさ」


婿殿に殺されると、滅多に、否。
見た事もない本気の体で、蒙恬の慄く様を見る寳子。
しかしそれも束の間、気付けばいつもの調子で彼は話題を変えていた。


「王賁からもうすんごい色々もらったんだけど・・」何か豪壮なカンジのたくさん。
「仲介だからな・・ってそうじゃなくて!」

「あとお金。いやー、王氏宗家は気前がよくていいねー!」
「人の話を聞けっ!!」お前の所も大概だろっ!


「え、なになに」けろっ
(うぐぐ・・!)


話の尻を掴もうと、手早く打ったとて響かない。
そればかりか簡単に擦り抜けていくのだから拍子抜けしてしまう。
明け透けのようでいて全く掴めぬままの彼に、それでも寳子は渾身の力を込め掴みかかった。


「蒙恬はおかしいと思わないのかっ・・!?」
「・・・・何が?」

「この状態がだっ!!婚儀も、いや身分・・いやいやそれ以前に・・ってああもう!
   ましてや夫婦になるなど双方の年齢からして尚早に過ぎる!という事をだなっ!」


否。年齢に関してこそ、そうでもないと蒙恬がすかさず突っ込みを入れる。
しかし言いたい事の半分が言えないどころではない。
多すぎて支離滅裂になる様を見て蒙恬はただ笑い、そして寳子は憤慨する。
拳を握り両腕を上げ意気を露にするが、彼の笑い声は止まず一層に増すばかりである。

故に止むとすれば、それは余程の事がない限り無理だろうと、そう思った時だった。


声は止み、その当人は口元を手で押さえ一歩身を引く。
急な事に傍とする寳子の、しかし振り下ろされずの腕は誰彼によって掴まれる。


視線を移す。
気の内では、おそらく一刻は声がでなかった。



「―――――王賁・・・」


やっとの思いで呟く名は当のその人である。
深紅の衣に身を纏い、彼は言葉無く佇んでいた。


2013 0523

 


 








漂は部屋で一人、寳子の戻りを待っていた。
右往左往と溜息を混じらせ落ち着かない。
よからぬ想像が脳裏を過るがすぐさま打ち消した。

(あの寳子に堂々と申し入れるような奴なんだ。俺がこんな所で手を拱いてる間にも・・・
   ってぁああ〜〜〜っ!!嫌な展開ばっかりが浮かぶっ!寳子早く帰っ・・)

最後まで言いかけて止まる。
自身の憶測に苛む漂の元に慌ただしい足音が響く。
反射的に扉の方へ視線を向けると、合わせたかのように突如として開かれた。


憚る様に立つが、しかし顔は伏せられている。
漂は待ちに待った相手を前にやっと安堵するが、それも束の間の事だった。

「寳・・」

名を言い切る前に駆け寄った為か返事はない。
しかし呼びきったとて返らぬであろう様子に漂は気が付いた。

彼女はなおも顔も上げず、声のした方へと真直ぐに駆けつける。
漂の元へ辿り着くと咽び泣き、縋るようにして崩れた。



急の事態に妙を察していた漂は慌てふためく様子もない。
怪訝からくる憶測だけではなく、それさえ失念してしまう程の寳子の狼狽ぶりに彼は、
自分が彼女を受け止めなければならない事を瞬時に理解していた。


「寳子っ・・!?」

「なんでぇっ・・ど、してっ・・!」


寳子は泣きながら誰彼に訴える。
しかし届くのは目前の漂のみだった。

例え当人に直接言ったとしても届かない。
届かなかった。
なおも彼女は漂の胸を鷲掴むと辛みを吐く。


「酷いっ・・ ・・っぐ、酷いよぉっ・・!!」


嘆くには過ぎると、それは異様でさえある。
ここまで彼女が取り乱す事態とは如何程のものか。
喉の奥から振り絞るように出される彼女の言に漂は強張ると、寳子の肩を強く抱いた。


「落ち着いて寳子・・何があったのか話して」


次第によっては堪えきる自信がない。

 殴 り に 行 く 。

しかし気の赴くままにとはいかない事も自覚している。
漂はこの間際において王の影である自身を呪うと、平静を装い寳子に語りかけた。


「寳子、頼むから話―――――――」


至極穏便に、これ以上彼女を刺激せぬようにと気遣う。
肩を抱き、頭を撫で、そして髪を梳いたその時だった。


目に入る宝玉に声を失う。
美しい紅玉は艶かしく、寳子をこれ以上ない程に飾る。
見慣れぬそれは彼女の左耳朶を穿ち、存在を誇示するかのように光り輝いていた。


「・・・・・・彼から?」

彼女の耳に触れその紅玉を撫でる。
寳子は無言のまま、返事はない。


「・・・ ・・・・無理に?」

「・・・・・・・っ」


頭を左右にも、頷く様にも振る。
言えないのか、言いたくないのか。
少なくとも完全に否定できるものではない様子から、漂は寳子を一層強く抱きしめた。



「・・・ ・・・・次に来る時は・・心積もりをしておけと、前に言われてた」


たどたどしく、しかし語ろうとする意志を垣間見る。
彼女の口を割らせたのは概して、必死に心を砕く漂の存在ゆえの何ものでもなかった。


「それにはちゃんと断ってはいた。
   でも、その時も彼は・・聞く耳を持ってはくれなかった」


彼女の肩を抱く手を外し、背へと回す。
それは慰める為の優しい掌ではない。


「っ・・・ふ・・ ・・・っぐ、だから私はっ・・今日、これで終わりにしようと、っ、思って・・。
   ひたすらに謝ってっ・・ ・・結婚はできないと、そう、言った・・そしたらっ・・・!」


添えられていただけの手で、漂は寳子を自身の方へと引き寄せる。
強引ではあった。
それでも容易く両者が引き合ったのは、ただ互いに求めていたからに過ぎない。


「そしたら゛っ・・・!!別室に、連れてっ、・・行かれて。
   これは契りと同じだって言われてっ・・・!!」


再び肩を震わせて泣く。
咽び泣く要因は耳の痛みからではない。

真の意味で穿たれたであろう場所の傷を、誰も目にする事はできない。
裂け、あらゆる負をどうにも抑えられないと、寳子は血の代わりに涙を流し続ける。

漂は自らが拳を作っている事にも気が付かないでいた。



「そいつがどこに住んでるか教えて。・・・作戦が終われば、殴りに行く」

「駄目っ!!絶対にやめて漂!」

「何でッ!!?」


あれほど嘆いて何故庇うと、漂は憤りを隠そうともしない。
寳子はそんな彼を見詰めるが、やはり返答はなかった。

気の置けない、ましてや親友と銘打つ相手である。
長年に渡り培った信頼は厚い。
それを彼方より一方的に裏切られる形となったにも関わらず、寳子は漂を制した。


「だ、大丈夫、・・ ・・驚いて、取り乱して・・しまった。
    もういいんだ。無様な体を見せてすまない・・もう、忘「できるわけないだろっ!!」


怒鳴り声を上げる己に気付く。
反射的に口を塞ぐとその手に力が籠った。
目前の寳子もそうだが、何より彼本人がその声に、様子に驚く。
漂は歯を食いしばり、怒りを抑えられずにいた。


(好きな子にっ・・大切にしなきゃいけない人に何でこんな事できるんだっ・・クソッッ!!!)

 
見も知らぬ誰彼を口穢く罵る。
彼女を想う気持ちが同じなら尚更と、怒気は収まるどころか増すばかりであると表情は険しい。
  

「寳子、もう王賁には会うな」
「え・・!」
「当たり前だろっ・・!?何で・・ 君がそんなんじゃ、俺は・・・!」
「聞いて漂、違う!私は、彼とまた友に戻りたくて・・!」

「友って・・壊したのはあっちだろ!?それに向こうだってそんなの望んじゃいないっ!!
   そんな君の都合、そいつは絶対に聞いちゃくれないぞ!!」

「っ・・!!」


驚いたのは漂の方である。
これ程までに狼狽し、酷く傷付けられたというのに寳子は未だ王賁と友でありたいと言う。

彼女を庇いたい一心の彼もこれには愕然とする。
同時にそこまで想い抱く彼女の友情とは、一体どのような体を為しているのか。
しかし彼がそれを知る術はない。



「何でもっと怒らないんだ何で嘆いてばっ、・・っ何でもっと!!」


「それでも私は王賁をっ!彼を憎みきれないッ!!」




深と、場は静まり返り二人は動けずにいた。
一方は動揺と、そしてもう一方は己に根付く僅かな信頼を手放すまいと頑とする。

可笑しいだろうと、彼は口にする。
それは彼女も重々承知していた。


「ごめん・・ ・・・ごめんなさい漂っ・・!
   貴方が私の為を想ってくれているのはわかるっ・・酷い事をされたのも事実だっ・・!
      でもっ・・だからといってすぐに切れるような友情を!私は彼に持っていないッッ!!!」


ぐらつく。



「動揺したのは確かだっ・・それで貴方に縋った私が悪い・・!
   でも、でもそれはっ・・ ・・・それは私が貴方を―――――――!」



言いかけて噤む。


彼女の内で答えは出かかっている。
そう告白したも同義だった。


「っ・・ ・・・本来の彼は痛みを知る、強い人なんだ・・
          人の弱みを翳すような人じゃないのにっ・・!」


彼女の、誰彼への友情とやらに頭を抱える。
これほど自他共に危機感を覚える友情を、漂の側からはとても見逃せるものではなかった。



「きっと何かあったんだ・・きっと、また」



寳子のおぼろげに淡々と呟く姿は、一種の情に浸る様にして見事なまでである。
現状において決して褒められるものではないがと、漂は閉口する。


「王賁は尊敬できる人だ・・徒に事を起こすような人じゃない。
   でもっ・・ ・・それなのにどうして・・・何でっ・・・」


こんな酷い事をと。
受けた仕打ちを未だ受け入れられない寳子は、迷い子のように泣きじゃくっていた。


(寳子、俺は・・
   ・・・君が言い掛けた想いを、信じてもいいのか)



疑を抱かずにはいられない。
どう見積もっても許容に難い、妙な情を抱き続ける寳子に漂は不安を拭いきれない。
それでもこの事情を知る者の寡少さは目に見えている。

漂は頼られた自分から、彼女に情を映す自分から逃げる事はなかった。



「わかった。君がそんなにそいつと友達でいたいっていうなら、そうすればいい」

「漂・・」


「ただこれだけは言っておく。―――――――絶対に無理だよ、寳子」



友としての縁を切るか、若しくは妻となって情を持ち傍に在るか。

この二択しか有り得ないと漂は断言する。
そして話に聞く以上の宣誓を以てすると言わんばかりに、漂は寳子の手を取り言い放った。



「寳子は、俺が護る」



鼓動が一際に跳ね上がる。
彼女はその正体を既に知っていた。

想いは確信へと変わり、繕う様にしてまた平常に戻る。
一つ一つの道を経て、それは確かな情へと昇華しつつあった。



漂は寳子を解放すると、誘う様にして彼女の手を取り共に立ち上がる。
彼が優しくすればするほど、傷心は鼓動と共に痛みを増す。

しかしこれは薬を塗られた痛みだと、癒しの為のものだと寳子は苦く受け入れる。



(ごめんなさい王賁・・ ・・・でも私は、彼が)



そしてまた内の誰かが責め立てる。
癒しとは違う、明らかな痛みが彼女を襲う。

今度こそはと、彼女はこれに目を瞑った。


双眸を伏せると漂にも言えていない痛みが疼き出す。
寳子は目に見える耳の痛み、見えぬ心の痛み。

―――――そして隠した首の痛みに苛まれる。

受け止めきれなかった想いの残滓が、赤い痕となって彼女の首に残っていた。










数日後、寳子は今日とて離宮に向かい滞りなく報告を終える。
次いで政が払う様にして送り出すが、この度は事情が違った。

寳子の冴えぬ表情を政は怪訝に覗き込む。
日頃喜び勇んで出て行く所を、今回に限りそれがない。
至っては約束の如何を過らせるが、この場にいぬその者が反故になどする筈もない。

政が一人問答を繰り返す内に、視線はその原因を捉える。
彼女の耳朶に光る紅玉に気付いた。


「・・・漂からの贈り物か」

「え」


誰彼というよりも、贈り物という言葉に彼女は過剰に反応する。
しかもそれが只の贈りの名目のそれではないため、尚更に表情は曇る。
政は漂からの贈り物という念頭から、益々寳子の体を理解できずにいた。

「取り寄せさせでもしたか。・・任の最中に随分と肝が据わっているらしいな。余裕のある体で安心した。
   それでお前の浮かない理由は色か?・・様が気に入らないのか」

「あ、こ、この耳飾りですかっ?」


言って政の視線を遮る様にして玉を指で摘んで隠す。
受け答えしていてもどこか透かない。
寳子は紅玉の所在が暴かれ、居心地を悪そうに身を潜める。
暴かれた事で未だ消えぬ首元の痕も気になり、衣を嵩高く正した。


(どうしよう贏政さま誤解してる・・このまま言わない方が。でも贏政さまに嘘を吐くなんて)


作戦における要所の嘘というのであれば否めない。
しかしこれは私事であり、寳子個人の問題である。

繕う様にして嘘も吐けるが、結果義に悖る行為に寳子は頷く事が出来ない。
自身から主を欺くというという事に彼女は過敏でいる。
類を見ない状況に寳子は戸惑いを見せた。


(肉に穿ってまで飾るその意味を、わかってやったんだろうな・・?)

「あの、贏政さま・・」
「何だ」


寳子の言に間髪入れず答える政は、続きを尚更に望む所といった体である。
相手の強気な姿勢に気圧される彼女は、しかし意を決して口を開いた。


「これはっ・・(やっぱり贏政さまに嘘を吐くなんて事できない・・!)
                            ・・・・・漂からの贈り物では、ありません」



予想だにしない彼女の言葉に、政も先程とは違い即答できずにいる。
漂でなければ誰か。
脳裏を過る影に名を見つけようとするが、まず先に探る言葉が口を衝いた。


「なら、誰からの贈り物だ」

「・・・ ・・王賁、です」


「王家のっ・・!?」



政は反射的に拳を握ると、過らせた影に色が付く。

即位した年に一度だけ面した事のあるその人物。
拝礼し、のち伏せた顔を上げた時の事を覚えている。


王賁は大王贏政を前に彼を見据え、そして睨み付けていた。



政のみに伝わる悪意がそこにあった。
手を合わせ、跪こうともそこに意味はない。

王賁は堂々と秦王に、不敵不敵しい体でもって面を突きつけたのだった。




(奴の父親である王翦の事もあり、含めて知っておけば越した事はないと昔、寳子の話に耳を傾けてはいたが・・)


初めは仕方なしに聞き流していた嫌いがあったと政は記憶を辿る。
話の数々を思い出そうとする。
しかし要不要と多すぎるため、零れ落ちた幾つかを意識に上げるより他ない。

やれ刃を交えれば彼の槍術の壮麗さたるやと、負けたと言うのにも関わらず自らの事のように自慢げに話したり。
やれ言葉を交わせば素っ気ないが、故に重要性に富み信ずるに値すると嬉しそうに微笑む。
極めつけはその誰彼が怪我をしたと、読む気もない薬事に関する簡を両手いっぱいに抱えて現れた時だった。


(安請け合いと一夜であれだけ読まされたのには堪えた・・)


全くいざ思い出してみれば散々であるとこめかみを押さえる。
あの頃でさえ気味の良い話ではなかったにも関わらず、
それでも介さぬと踏ん反っていられたのは一概に両者の地位から見て先の望めぬ事実からである。
そして何より当時まだ仕官していなかった寳子の在り処を、己が握っているという自負があったが故の事だった。



それを現状から見て面白い筈がない。

未だ両者に家格の違いはあれど、それでも今は此方の手を離れてしまっている。


政から手出しは出来ない。
王といえど武官として戦場を駆ける女を手元に置く事は体面からして難い。
余計な贔屓は王も周囲も、そして彼女にさえもいらぬ世話を与えてしまうというものである。

武官というものは隊を別にしても軍を同じくすれば、長い遠征の中で近しく在る事になる。
割って入ろうにも玉座からは到底、届くものではない。
報を聞き、頷き、手を拱くぐらいが精々だ。


(・・昭王のように武に生きていれば話は別なのだろうが)


それにしても世が違う。
雑多に暴れ回るには世が、国というものが整い過ぎた。
内側の状況も違う。ならば王の真っ当な戦場という所に身を置く事が常であった。



もし彼らが契り、婚儀を行えば大王といえど手出しは出来ない。
王に背くは断罪、しかし王から家臣への不徳もまた許されざるものだった。



特に臣より妻を奪うこと。
その不義は王の威を貶めるだけではなく、それを足掛かりに権自体が崩ずる危険性も十分に孕んでいた。



故に光明を見るとするならば


裏切らずの二人の誓い。
ただそれだけだった。








(贏政さまずっと黙ったまま・・)


「・・・・・・ふっ」

「!・・贏政、さま?」


見込みはこちらにあると、これくらいの可愛げにいちいち突っかかるのも無粋と笑う。
そのほんの僅かを溢し、政は改めて彼女を見やる。
しかしそこには予想外の光景が広がっていた。


一筋、突如として涙を流す寳子に政は目を奪われる。
己が事態に彼女も気付かないでいたが、政の己に向ける怪訝な眼差しで居直った。

拭うというよりも押さえ、隠す。
その体はまるで自身でさえも理解し得ない要因を痛々しく探るようだった。


「どうした」

「何でもありませんっ・・」


勝手に這い出る感情を抑えきれないと、茫洋と振り返ってしまった己を悔いる。

聞き入れられない苦しみ。
弱味を翳された辛み。

何より大切と信頼のおける友が、自らその評を破り捨て強硬に訴えた事実に寳子は失意を抱いていた。

それまでの思い出がただ遠い記憶となってしまう事を彼女は恐れる。
脳裏にへばり付いた記憶を無理矢理に押し込めると、やっと涙を拭った。


「あの・・これ。あまり見ないでください・・ ・・私にこのような玉は、似合いませんから」

「・・何かと思えば。
    確かに戦場に出て泥に汗にと塗れ帰ってくるお前だが―――――」


しかしここまで弱りきった体を見せているにも拘らず、政は関せずとただ振る舞う。
そんな感傷こそ記憶に押し込めておけと、そう言い放つかのように言葉を続けた。



「・・・その紅玉はお前に似合っている。寳子」



奇妙さと、しかし込み上げる圧倒的な感情に寳子は言葉を失う。

泥と、汗と、そして血と。
贈り主は別にして、とまでは言わなかった。
彼の視界に入るものは打ちひしがれる少女と、それを飾る紅玉のみ。

愛でるにはそれで足る。
またそれ以上はない。

ならば今更、誰彼などという徒事は捨てて置く。


政の見詰める先には微動だにしない寳が一つ。
鼓動の跳ねる違和を、彼女はやはり知る由もなかった。
















その日の晩。
漂と寳子の二人はいつものように部屋で歓談とはせず、広く夜空の下に身を置いていた。
まさかの寳子からの提案に驚いたのは勿論、日頃より最低限の出歩きを禁止されている漂である。

それを、意を汲みかねて問おうにも気付かずにはおれない。
見つめる先の彼女の姿は、これまでで一番小さく、そして弱々しく映っていた。



(やっぱり王賁の事・・そんなに直ぐに立ち直れないよな)

もはや憤りしか生まれない自身の感情を落ち着かせようと努める。
そんな漂の心を知ってか知らずか、夜空の星々は眩いほどに光を放つ。
煌々と輝く月は皮肉にも二人を映し、その存在を浮き彫りにしていた。

(きっと色々、俺から詮索しない方がいいんだ。
   ・・話すまで待つとか、ホントこういう時って・・なんにも出来ないんだな)

わからない、しかしわかりたい一心であると漂は寳子の言葉を待つ。
周囲より見え辛い、しかし天上の月からは暴かれ放題というこの条件下である。
好都合な事は何より月には口がない事であると、物言わぬ夜空を見つめ返す。
外も良いなと二人が座り込み、黙り込んで一刻が過ぎようとしていた。


「ごめんね漂、急にこんな夜に・・王の影である貴方を連れ出して」
「ぜんっぜんッッ!!」

彼女の言葉を待っていた為か、返事がやや力む。
その様子に寳子はやっと気を緩ませ、笑った。

「あ、いやその・・ごめん」
「ううん。・・ふふっ、ありがとう漂」

礼を言われる事さえ可笑しい。
何よりそんな遣り取りで綻んでしまうのだから、漂は最早そんな自分に諦観の念を抱く。


(でもこんなに月がよく見える場所を知って、誘ってくれたって事は寳子・・きっとここがお気に入りなんだろうな)

「漂、私ね・・ ・・・月が嫌い」
「そうなんだ・・ってえぇっ!?」


完全に読みを外す。
どちらかと言えば大概がその光を好意的に受け止めるであろう事を、寳子は好かないと言う。
間の抜けた声で返事をしたものの、漂はまた仰々しく疑を口に出して見せた。


「漂は?」
「お、俺っ!?えーっと・・あー・・ ・・別に嫌いじゃ、ないかなって」


彼女が嫌いと言った手前、合わせたくもなる。
しかしこれまで嫌悪どころか、彼自身も好いと感じていた物を即座に否定できるほど出来上がってもいない。
そんな彼の一時の葛藤に目を向ける事もなく寳子は話を続けた。



「・・・・王賁の事だと思った?」

「・・ ・・・・うん」


こんな場所に連れ出してまで持ち出す話というものがと。
脈絡なく、静かに。
ゆっくりとした調子で一言一言を紡ぐ寳子。
彼女が取捨選択をしつつ語り出している事に、漂は気が付いた。


「彼の事は、もう・・今というよりも、後なんだ」
「これから先?」

「そう・・ ・・次に会った時、どうしようとか。
           彼は、私をどうしようとするのか、とか」


どうしたいかは既にわかっているからと、苦く笑う。
そして果たして彼自身、何の障害もなくそれを遂行できると思っているのかという疑問がある。
数日前の件の傷も、勿論あらゆる面で消えてはいない。

しかし今この時だけに立ち止まってもいられないと彼女は言う。
引き摺ってでも歩き続けなければならないと、寳子は内の傷ばかりを舐めていても仕方がないと目を閉じる。
外にも目を向けていかねば止まってしまうと、弱々しい体からしかし、強く意を示した。


「本当をいうと、気を抜けば今にも泣いてしまいそうになる。
   でもそれ以上に彼との、彼らとの思い出は私にとって特別なものだから」


最近、その特別な者や事で泣かされてばかりであると不服を唱える。
普段はこうはいかないと吼える彼女に、漂は頷ける部分もあれば頭を大きく薙ぎたい衝動にも駆られる。
結局は苦笑いを呈し、彼は一息吐いて彼女を見据えた。


「・・寳子」
「うん?」

「・・・ ・・ううん。なんでもない」


しかし呆気なく目を逸らす。
寳子にとって為された事がどうこうという訳ではない。

彼女は既に彼を受け入れているのだから、その人物を前に事象は憚るほどの意味を持たない。
故にとってつけられたような、ともすれば唐突な不慮のそれなど 彼 ら の前では延々引き伸ばされるべくものではなかった。

(・・・・嫌だな。俺の知らない思い出っていうのは)

先に出会い、やっと友と呼べるに至る現状を築いた漂にとって、これほど置き去りの感はない。
もはや言ったとて仕方がないと口を噤む。
彼女の内から彼らが消える事はない。
また消そうとする気もない想いを、厭というほどに中てられる。
ただ遣り辛いとは彼女の弁である。


漂こそ自分の手で彼女を護り、そして共に先を見ると決めている。
気持ちを確かめ合っていない分、こちらも相当な独断の上ではある。

しかし自分以外の誰彼がその勝手な独断で寳子を傷付けようとするのであれば。
漂は格式など踏み越え、刃を交える事も辞さないという構えだった。


寳子が漂の手に手を重ねる。

いつの間にか握り拳を作っていたようだった。



「ありがとう、漂。本当に、ありがとう」

「っ・・」


「でも本当に、貴方の前ではこうやって・・
   受け入れた状態で穏やかに話せている自分に私は驚いてるの」


傍と見詰めてくる漂に、寳子は言う通り酷く穏やかな体で以て対する。


「いっそ、ここで大泣きすれば良かったのかも知れない。
   そうすればちゃんと想いを落とせた気もするし、何よりあんな体を大王に晒す事もなかった」

「大王・・?」


「・・大王の前で、少し泣いてしまった。さぞ見苦しかったろうと思う」



意図せず涙が出てしまったと、決まり悪く言う。
嫌な予感に漂は自分が息を呑んだ事さえ知らない。
そして彼女は今日、この夜に話したい事こそこれだと謂わんばかりに話を続けた。


「なのにね、・・聞いてよ漂。
   大王ったらコレを見て、似合うって褒めるの。・・・私の心状はそれどころじゃなかったのに」


寳子が心身共に虚を抱える中で、政はその要因の尤もたるを敢えて讃えた。
飾り気のない素朴な少女の耳を堂々と穿ち、誇らしく艶美に光るそれは娘を恐ろしい程に女に見せる。

他にしてやられたと思う反面、大王は迎合する所ではあると裕を見せたに過ぎなかった。




「それは・・ ・・・・酷いね」


知った感情であると、見つからぬように投げ捨てる。


酷いと口にして、今更何も変わらない。
それでも漂は言わずにはいられなかった。

俯く彼の心状こそ、彼女は知らない。



「ふふっ・・でも、私はそれでも嬉しくて。
      ―――――驚く反面、理解するより先に・・心が反応したのがわかった」



漂はどうしていいのか、どう返していいものかわからず黙する。
彼女がわかればわかるほど、彼はわからなくなってゆく。


本物と偽物の間に、彼女はいる。


全身が強張るのがわかる。
寳子の知ろうとした情の答えというものが、彼女の口から伝わる事を漂は恐れていた。



「それが違和として起きた事はわかって・・でもそれが何故なのかがわからない」



いっそ気付かせてやろうかと自棄を起こしそうになる。

王賁に会いに行く前、会ってから後の彼女の様子から期待していた部分はあった。
情の在り処が自分に向いているという事に、早まって自信を持ちそうにさえなっていたというのに。


そうして漂の葛藤がこれ以上ないほどに膨らみきったその時。
いとも簡単にその膨らみを和らげてしまうのもまた、寳子本人だった。



「貴方の時は・・ ・・・・少し、わかった気がしたのに」


「え」



状況が一変する。


いい加減にして欲しいと思う。




―――――――いい加減に、こちらに向ける情だけを理解して欲しいと、漂は思った。






「私は前に、何かわかった気がすると・・貴方に言ったよね、漂」
「・・うん」


「でもこの気を底に落とそうとすると、責められるんだ」



誰かに。
知らないと言う彼女は、しかしその要因ともなる相手を知っていた。



「贏政さま―――――大王の時も、自分の耳に届く位に鼓動が跳ねて」



気付けば名を語ってしまった事に寳子は慌てて手で口を塞ぐ。
塞いで、落ち着きを取り戻してまた語り始める。


「・・貴方の事を想うと何故か大王を思い出す。
     貴方を想えば思う程に、それもまた強くなるのを感じる」



嬉々とする中で憂いが増すと言う。
結果、そうやって何度も情を掴み損ねた様が知れる。

漂は複雑な面持ちで寳子を見詰めていた。



(君の内には、君しかいない)



理解はした。
こちらも喜ぶべきではあるが、同じく憂いを知ったと視線を外す。


どちらに気付くのだろうかと。
漂は語る彼女に口を挟まない。


「王に感じる心の音というのは・・何だか忙しなくて。緊張して、重くて・・鷲掴みにされているようで。
   で、でももう一方には、妙に安心感というか・・そういう物があって」


似て非なるものであると彼女は言う。
貴方と、さんざん相対する者を指しておきながら寳子は―――――今更なけなしの何だと言うのか、
それでも漂に対する気持ちを一応隠そうとはしているようだった。


一人語るに落ちたと気付いたのか、寳子は漂を目前に急にあたふたとし出す。
情が自ずと漏れ出していた事に気付くも全てが遅い。
これまで流暢に語り、それが今となって無理に繕おうとするのだから可笑しい筈である。

漂は小さく吹き出すと彼女の手をとる。
とって、困り果てた様子で満面の笑顔を向けた。


「ったくもー・・ ・・・寳子」

「あああのっ!ち、違う!そうじゃなくてっ」

「じゃあどうなの」



あぁ



「わっ、私は漂に情のなんたるかを教わっている途上なんだからっ!
      そ、それがちゃんと成し得られていると!そういった中間報告的なものだという事だっ!!」




俺はこの人が、どうしたって好きなんだな。




「(・・・もう期待とか。自信持っていいんだよな、俺) そっか。・・よぉく、わかった」



もう何を言われても動じない。
彼女が隠そうとしている為、一方的にではあるが確証は得られた。

もはや大王に対し引け目はない。
両者の想いが向かい合っていると知った以上、もう振り向かせない。


(この作戦を成功させて、必ずまたこうして・・君の手をとってみせる)


いますぐにでも言ってしまいそうになる想いを呑み込む。
底に深く落ちた灯りは燻り、しかしそれは煌々とし決して絶えるものではなかった。




「ふぅ・・全く、安心はするけどこうして過剰に疲れるから・・」
「ん?何か言った、寳子」

「い、言ってない言ってないっ!ち、ちょっと障りがあるから、漂は月でも見ててっ!」


要するに紅潮した顔を見られたくないからと。
茫として空を見上げ、ついでに月でも見ていろと言う。


(・・・こんなに綺麗なのに。これじゃ月も散々だ)


言われた通りに悠長に浮かび上がる月を眺め、ぼんやりとした輪郭に独特の甘さと心安さを感じた頃だった。


傍と。
ひっかかりを感じる漂は、一時の安寧に身を任せ
隙のありすぎる頭でもって何気なく問うてしまった。




「そういえば寳子、さっきどうして月の話なんかしたの?」




是非の話を、短絡的にも結びつかない話を何故振ったのかと彼は問う。

深と、その空間は音もなくやってきた。



言い切ってから次第に明瞭になる頭に、漂は焦燥にも似た思いを抱く。
余計な事を言ったと、やっと気が付いた。




「大王は、月が殊の外お好きだ」



似た思いは確かなものへと姿を変える。

嫌な、予感がした。




「私は月が・・戦場において明るすぎるそれは不躾で、胸騒ぎがして、確かに助けになる時もあるけど、でも」


わざわざ暗くなる夜を照らそうとする不遜。
照らされれば嫌でも明るみに出ると、その言は苦い。


余りあると彼女は言う。


このように二人で月を見ていると、顕著 だ っ た と、目を細めた。




「・・持っていってしまうんだ、全部。
     だからあの光が・・ ・・・・月が、嫌いなんだと思う」



嫌な予感と知れて良かった。

ただ凡と聞いていれば打つ手はなかった。




もう手の届かない自分じゃない。
もう焦る必要もないと、漂は掴んだ彼女の手を離さなかった。




「これまで、この感情は憧れだと思っていた。
   でもこれが知るべき情というものなら、私は―――――」




不相応にも王に、特別な、一兵には過ぎるそれを抱いているという事になる。

王を王と見ぬそれは、実に畏ろしき事だと。
愚にも値する、恥ずべき想いだと寳子は伏せる。


しかしそう思えば気が落ちる。
誰かに責められる事もない。


今こそ教えて欲しいと、彼女は漂に救いを求めていた。




「私は・・」



戸惑いと、葛藤と。
苦楽のどちらと二択を呈する。



寳子は自ら答える前に、答えを二つ、内一つの答に見せてしまっていた。




―――――――真の愚はここにある。





ただ単に救いなら、是非の在り処など必要ない。



「・・俺が教える」

「漂、私・・!」



「君が言わないなら。
   ・・言えないなら、俺が言う」




少なからず非でないのなら、寧ろ是に近しいのであれば、それを是にするだけの事。




「寳子、それはきっと・・」





この期待と自信は君がくれたものだと、漂は寳子の想いを引き寄せた。









「憧れだよ」









楽を呈した。



漂は身分から畏れから戸惑いから葛藤から、その全てから寳子を救った。

彼女の本当の愚かさというものを笠に着て、彼女の求める楽を与えた。



渡したくはないと、漂は寳子を大王から引き離した。







一言が耳に残る。

『憧れ』

その言葉は誰からも責められる事なく彼女の奥底へと落ちていった。


「・・そっか」


目を合わせることが出来ない。
救いの雄はそれでも、彼女を真正面から捉える事は出来なかった。



「・・実はこのまえ、贏政さまとの約束を忘れてしまっていて」


寳子が語り始めた頃。
漂はそれこそ障りがあると、ただ甘えさせてくれる夜空に浮かんだ月を見る。



「酷く、叱られたんだ」



彼女の声色は澄んでいた。
淡々と語るその声は、聞く以上に漂の耳に重く馴染む。


「そうなんだ・・ ・・そうだよね。
       好きなら、忘れないはずだよね」


声が揺らぐ。
やっと、揺らいだ。





「漂が言うなら―――――間違いない」





漂は嘘をつかないからと、彼女は言った。


楽を取ったとて、流す想いの数は同じ。
否、気付かない分の、見えない分のそれは責任を負うと決めている。

漂は視界から逃れるのを止め、僅かばかりの負い目を打ち消すと彼女に向き合う。
寳子の今にも零れそうな程に涙を湛える瞳に気が付くと、目頭から目尻にかけてを優しく撫でた。


「ふふっ・・ ・・やっぱり貴方は、安心する」
「・・・・・・・」


少し苦しいが、先程の比ではないと、彼女はそう言って笑う。


「この感情が親愛のそれと知ってまた安心した。
   大王に個人的な情を持つなんて・・可笑しいから」

「寳子、あのっ・・!」
「わかってる!・・もう、わかったから。
   過去に違和を感じた事もあったけど・・そっか、憧れか。
      はっきりと教えてくれてありがとう、漂」


満面の笑みで漂を制する。
彼もまた自ずと、制された。

寳子は彼により齎された答えと、それによって導き出された彼女自身の答えに満足していた。



二人して夜空を見上げ、物言わぬ月はそんな彼らに応えるようにして輝き続ける。


(後宮に入る事を嬉々としたのだって、贏政さまの子を宿してお役に立てる誉れがあったからこそなんだ)



昔、隣にいた誰彼を見詰める少女は度々不機嫌になっていた。

話し掛けても答えない、応えたとしても上の空。
それまで面と向かって話していたし、手合せをしたりと共に在る実感を得ていたと言うのにである。

この真上の無粋に取られた気がして面白くない。
無用に手を引いたり、袖を引いたり。

いらぬ事をしている自覚はあったが、わざと無用を見つけてはそれで目を引こうとした。
それを嫉妬と何処かで気付いてはいたが、その根本がどこから来るのか少女は知らないでいた。


しかし今の彼女には知ることが出来る。
憧れからくる、それであったのだと理解した。

(・・・・そうだったんだ)

責める声はもう聞こえない。
漂の答が届き、消えたのだと、そう思った。







寳子は未だ飽きもせず夜空を見やる。
そして一言ぽつりと、やはり好かないと呟く。
月を見上げて暫く、先に話し始めたのは漂の方だった。


「寳子、前に君が・・男がなにを考えてるのかって、言ってたやつだけど」


今なら答える事が出来る。
村の男共に聞いた話だと、確信を持つ己が情を隠し前置きをする。
急に向けられる真剣な眼差しに寳子は身を引くが、漂は彼女の手を取りそれを制する。



「え、ぁ・・ ・・あのっ」

「好いた女を前にした時、その時は―――――――
       ・・・自分のものにする事だけを、考える。・・って」



寳子はあたふたと紅潮し、顔を伏せ視線を外す。
そんな彼女を逃がさないと、漂は掴んだ手を引き強引に向かわせる。
彼の強硬な姿勢に寳子は観念すると、気を紛らわせるかのように問に答えてくれた礼を言う。
そして妙に空いた間に、新たな疑問を投げかけた。


「漂は―――――」


やり返しの心算はない。
余計な前置きというものの代償だった。




「漂は人を好きになる時、どうやって好きになる?」




どこを好きになると、彼女は質問をする。
芽生えかけの情から出る素直な気持ちだった。



これを臨む所としたのは何より漂である。
言いたい事は山ほどある。
しかし全てを言う訳にはいかないと、できるだけを伝える為に口を開いた。



「真面目で」


寳子が顔を上げる。


「でも融通が利かなくて」


思い当たると衝撃を受ける。


「優しくて、それでもって凛々しくて」

どうだろうと、複雑な体だ。




「俺じゃなきゃ絶対に駄目だって人の事を、好きになるよ」




寳子の表情が明るくなる。
そんな自分に気が付いたのか、慌てて体裁を繕うと横目に漂を覗く。
彼女の反応に嬉々とするものの、これ以上は互いに為にならないと漂は気付かない振りをした。


「そ、それじゃあ・・・」
「ん?」


「その好いた人を・・ ・・どうやって、貴方は」



ものにするのかと。
大胆に、しかし歯切れは悪い。




胸中にある喜悦を、悟られてはいないだろうか。



言える筈がない。
彼女の想いを、情を引き出しておいて卑怯な事は重々承知している。
しかしそれでも、今この時ばかりに身を任せる訳にはいかなかった。

憂いがある。
その可能性を認めてはいない。

しかし漂は死人を想い続けるような選択を、彼女に強いたくはなかった。



(君はきっと、情を定めた相手を生涯の内に愛し抜くだろうから)


「わ、あ、あああの、わ、私なにを言って・・!ご、ごめんなさい今のは・・」

「・・・・・寳子、顔真っ赤」 
「うわわわわっっ!!?」



話を逸らす事で精一杯だった。


「はははっ・・」
  (・・本当は今すぐにでも、俺は。君に)



拳を固く、歯を食いしばる。
作戦を前に想いを告げる行為は憚られる。

杞憂にしてみせる。
情を教えるなど今更自分勝手な事をしたと、しかし後悔はない。


寳子は漂の手を解き、紅潮する顔に両の手を当て固く目を瞑っていた。
故に彼の抱える憂いと面する事もない。


(私が今こんなにも嬉しいのは、きっと)


瞑られた双眸は閉じるようにして様を変える。
火照りが心地よいものになった頃。
その意味を、彼女は僅かにも理解していた。



視界を遮ったままの寳子を漂は見つめる。
今なら視線の意味も、顔の表情からも悟られまいと思いの丈を呈する。

ふいに開目でもされようものならあわや惨事と、それ程までに情けない体を漂は表していた。



(大王様、貴方は多くを持っていらっしゃる。
         ・・望めば手に入る、沢山のものを)



願い事にしては欲深い。
故に彼は強請った。





(だから、ください)







(彼女だけは――――――俺に下さいっ・・・!)







寳子の政に対する想いは確かに情のそれであった。
しかしながら憧れと称するにも足り得るならば冤罪。

二つの答のうち一つを呈したに過ぎない。


罪人など、何処にも居はしなかった。


















次の日の朝、昌文君を筆頭に壁、寳子、そして漂が揃い離宮にて朝議が開かれた。
目前には御簾が下ろされ、高みに御座す秦国大王の姿はもちろん直接対する事はない。
各自報告と、それによる話し合いが行われる。
時期的にも機が熟したと思われる成矯竭氏らの動向は、未だ確たる動きを見せずにいた。

朝議は首尾よく終わりを迎え、各々が退出となった時のこと。
昌文君が抜け、続いて壁、そして寳子も拝手し去ろうとした際に漂の声が上がった。

「あのっ・・大王様っ!」

漂は既に大王に対し進言する事を許されていた。
実際に二人だけで話をする機会もあり、しかし取り巻きである寳子は慣れない。
政は全く意に介さず返事をした。


「何だ」
「お話があります。
   ・・と、その前に寳子も・・いいかな」

「えっ!?」


ただでさえこの状況に意表を突かれ戸惑うと言うのにと。
取り敢えず応とし、先んじた昌文君と壁に事情を説明し見送ると、寳子は中々に居心地の悪そうな体で戻ってきた。


(昨日の今日で・・よりにもよって)


この三人で一体何を話そうと言うのか。
寳子が漂を怪訝に覗き込むと、彼はそれに気付き笑みを返す。
そんな気配を知ってか知らずか、政は御簾を上げると堂々と二人の前に姿を現した。

「構わん。面を上げろ漂」
「はい・・・」


三人で顔を見合わせる。
如何ともし難い空気に寳子は窒息寸前だった。


「で、わざわざこの三者を集めた理由は何だ。
     お前が呼び止めるなど、余程の事なんだろう」

「・・・はい、余程の事です。少なくとも私にとっては」


今この様さえ重大事というのに、これ以上があると漂は言う。
漂は政に面と向かい、話し始めた。


「本日は大王様にお伝えしたい事があります」

「・・・言え」


半端な空気でない事はわかる。
政は腰掛け、見据えたまま漂の次の言葉を待った。

この二人にあって、気が気でないのは寳子ただ一人である。


「私は今回の・・王の身代わりとなり貴方様の身をお守りするという大任を仰せつかりました。
   これを過ぎれば王弟より玉座を奪還し、大王を真の意味でこの国にお帰しする援けとなり・・
       ―――――秦兵となって、友と二人大将軍になるのが夢であるとお話しました」


漂は寳子にも言っていた一連を、政にも伝えていた。
身分のこと、夢のこと、そして友のことを嬉々として語っていた。


「そして王の剣となり、大王の御身を守り続けると」

「・・確かに言ったな」


大それた事を言っていた。
また今も、言っている。

それはこの場にいる誰もが理解する所ではあるが、一人は承知の上で語り、他は誰も咎めようとはしなかった。






「寳子は王の盾と聞いています」




彼女は静かに括目し、大王は薄々感付いていたと目を細めた。





「秦国大王の剣は、盾をも護る剣となります。必ず」





どうしても言っておかねばならない事だったと、漂は政の眼差しを諸共せず言い切る。


寳子の隣にいるのは自分であると、そう言った。




「ひ、漂っ!あなた大王を前に何を――――――!」

「すみませんっ!無礼は承知しております!!
   しかし次に大王様にお目にかかる際は、申し上げようと思っていましたっ!!!」


寳子は己が息を呑む音を聞き、強張る体勢のまま固く政へと視線を向ける。
おそらくは内容だ、漂が余りに用に足らぬ言を吐いたものだから慌てているのだと型に嵌める。


しかし何故こんなにも居心地が悪く、焦燥に駆られているのか。

一体何を自分は恐れているのか。



既に答えを得ている筈の寳子に、分かる道理などありはしなかった。




沈黙の降りる中でも、政と漂が互いに目を逸らす事はない。
視線から伝う意志の強さは拮抗し、そして片方が逸らす事で呆気なく幕は下りる。

彼にも期待と、自信と。
そして後ろめたさが尾を引いていた。


「・・・漂。お前が王の身代わりという大任を見事全うし、
    俺を玉座に帰す援けをすれば、その夢は叶うやも知れん」


現状でさえ生半可ではない。
それを更に先の夢さえ叶えるというのだから大した望みであると置く。

暁にしては悪くないと、剣と盾を携えた。



「国と王、そして同志である盾を護る。・・確かに聞き届けたぞ」


「贏せ・・っ大王!?」
(大王様・・・)


両者の異なる視線を受け流す。
政は凡そ一年前、もはや遠い日となったそれを思い出していた。




十三の頃。
即位して間もなく、もはや自らの王威以前に弱さばかりを見せつけられていた頃。

少女は武官になる事を決意し、弱王はそれを是とするより他なかった。






「贏政さまっ!?」

その時も呂氏による戯れの餌食となっていた政は、自室に戻ると柱を蹴り手当たり次第に憤りをぶつけていた。
怒りに任せ寝床に飛び込むと、そのまま座して両手で交互に打ち付ける。
せっかく張りの為された布帛も、これでは立つ瀬がない。


「飾り立てられ、何が王だっ!!一言も言い返せないっ
・・一言もだっ!!
   木偶のように座らされて定例のそれを眺めるだけだ!!」


布を握りしめ、顔を覆う。
剥がしたと思えばまた殴りつけるように打ち付けた。


「体を崩さず固まるだけで精一杯っ・・そんな俺を見たか寳子ッ!!
   嘲り笑う呂の、奴の顔を見たか!くそっ、くそ・・ ・・クソォ―――――――――!!!」



両手に握り拳を作り、そのまま頭を打ち付けるようにして突っ伏す。
そんな政に寳子は一定の距離を保ち見詰める。
激情に身を委ねる若王に、彼女は手を出せずにいた。


「・・・贏政、さま・・」

「出て行けっ・・!このままではお前にも何をするかわからんぞッ・・!!」


蹴り上げる台のように、殴りかかる柱のように。
打ちつけてすっかり様を変えてしまった布帛は、もはや元の役割を果たせずそこにあった。



(どうして・・  ・・・・どうして)


内に反芻するばかりで音としては出ない。
こんな彼を見る為に、今後見続ける為に傍に在るのではないと否定する。


(本来は読み物がお好きで、月を遠く眺めるのがお好きな・・それがどうしてっ・・!)


いつまで続くのか、という愚問。
加冠するまでに一体あとどれ程の年月を要するというのか。

この状態で刻のみを消費し、何の威も持たぬままでは一生はおろか、終えるまでに壊れてしまう。


―――――――――力になりたい。


しかし今宵持ち出そうとしていた話では足りない。
それ以前にそぐわない。

心と体とに一杯にして持ち出した生ぬるさでは、どうしようもない。



(どうしてこの方が心安らかでいられる世にならないんだッッ!!)




傍と。
一つの答えが、彼女に落ちてしまった。


確と理解した彼女は、願いの片隅に置いた残滓を手に取った。


「何をしてるさっさとで「出て行きません」

「!」


「出て行けッ!!」
「出て行きませんッッ!!!」


それまで遠くで彼の動向を見詰めていた寳子が、急に政の言葉を頑なに拒否し始める。
様が変わったとは彼も気付いていた。
しかし対処しきれるほどの冷静さというものには欠けていた。


政は部屋にある剣を取り、寳子に向けるがそれでも彼女は身を引かぬと構えもしない。

ただ見据える眼差しは紅紫紺の双玉。
美しいと、彼はまたそれが気に食わなかった。



「・・何をするかわからんと言った」


「何をされても構いません」



疑を抱いて顔を顰めたのではない。
政は今の己が有様を、彼女を通して垣間見たに過ぎない。




「私は贏政さまにならっ!!何をされても構いませんッッ!!!」




大粒の涙を溢しながら訴える。
綺麗に流線を描く彼女の想いに、自身はどう映っているのか。



思うと同時に、気付けば政は手から剣を手放していた。

乾いた音が響く。
無為に打ち捨てられたそれは、しかし別の者の手に渡った。



「・・・寳子・・?」


「何をされても構わないと・・そう、言いました」




寳子は手にした剣を持ち、そして政に握らせた。


「何を――――――」



政の問にも答えず、寳子は髪を解くと彼の手をとる。



刃はいとも簡単に、彼女の一部を斬り取った。




それは乱れる事なく床に伏す。
束になり、纏まった想いを削ぎ落とすかのように、その重みはとめどない。

彼女の願いが切り離される。

殆どが削ぎ落とされ、結果肩に付くか付かないかの長さにまで納まる。
どれも乱雑に淘汰されたそれは、新たな決意としての輝きを失わない。


後宮に入る為にと伸ばしていた髪を、前から後ろから、寳子は政の手から共に切り捨てた。



唖然と言葉を発せず、力が籠り剣を手放す事もない。
政は目の前で起こった出来事を、ただ受け入れるしかなかった。






「贏政さま、私―――――――仕官します」





武官にと。
この国に、何より大王に仕えると彼女は言う。
やっとの思いで政は声を上げた。


「・・・俺の傍にいて、急事に剣をとるのでは駄目なのか」
「後宮にあってもそれは常にとはいきません。
      だからといって文官は、女人は否と殿が強く言っていましたから」


寳子は後宮に度々、侍女見習い程度で出入りをしていた。
常に在る訳ではないこの身の事情を、知らぬ者は少ない。

体裁も気にせず外に血を浴びに行く穢れの類。
生涯門を潜れぬ訳ではないが、酔狂さえ可愛らしい異なる者を、後宮も快く受け入れる筈がない。

それは仕官する前から戦場を駆ける、何より寳子自身が一番わかっている事だった。
風当りの強さを知り、それでも後宮に身を置こうとしたのは決して流された訳でも、ましてや打算でもなかった。

しかしその本当の理由に、彼女が気付く事はない。




政はやっとの思いで剣を下ろすと、寳子は彼の手からそれを離し床に置く。
呆然と立ち尽くす政の手を引き、共に膝をついた。
言葉を発する事のない政が目に映すのは、床に散乱した黒赤の―――――梳き、愛でた事のある美しい、代え難い想いの端だった。


「女人が政(まつりごと)に加われば禍が起きると昔から聞き及んでいました。
   それを見越して殿は私に武を身に付けさせ、万が一にと後宮に面通しも行っていたのです」

「・・・・・」

「後宮は入ってしまえば出られぬもの。
   しかし戦場を常とする武将となれば、王を・・秦国を常に護り続ける事ができます」



髪を切るという事。
それは後宮には身を置かぬという、彼女の固い決意の表れだった。



「貴方を優位に立たせる働きをしてみせます。貴方が威を確実なものとするまで支え続けます。
   貴方を護る盾として恥じぬ生き様を―――――戦場で示して参ります」



彼女の信念と対峙する。
しかし急な事をしたと、その口調は謝罪に近い。

動けぬのも、動かないのも嫌だと言う。
幼少より鍛練を積んだのも全てはこの時の為と、もはや眼差しは武人のそれであった。



「女であるため後宮に立ち入ること自体に問題はないのですが・・
   私が殿の子と周知である以上、武将の体で後宮に関わる事は余り期待できません」


口惜しいと言えばそれであると寳子は申し訳なさそうに視線を外す。
武官と身を分けてしまえば昔のようにはいかない。
昌文君の名と、その先にある大王の存在を後宮は無視できなくなるという。

間者と警戒されて相違ない。
謀殺される恐れというよりも、その状況に陥るまでに至らないだろうと寳子は言った。



明らかに噛み合っていない。
政はそんな言葉を彼女から聞きたいのではなかった。



「内情とまではいきませんが、それでも警護と名分でも「子はどうする」


これまでの刻を戦場に費やしていたとしても。
そう遠くない、それこそこの時ほどには寳子が後宮に入ると算段していた政は、尤もな疑を投げかける。


「武官になり、戦場に出て。・・・お前はいつ、こちらに戻る」


十の頃くらいから意識を持たざるを得ない状況があった。
彼らのような王族や名家にとって、後継者の問題は重要課題の内である。
寳子の存在における立ち位置からしても、それは同じだった。

その折から一度だけ、語り合った事がある。


―――――もし後宮に入れば。


一番に呼び出すと言った政の言葉に、寳子が従者として喜び、満面の笑みで受け入れた時のこと。
己の毒の事など一時でも忘れてしまえる程に、手放しで嬉々とした時のこと。

そんな話もしていたと、思い出すというには余りに鮮明すぎる記憶に寳子は目を瞑った。

「・・・・私は戦場からは、戻りません」
「!?」



「生涯を懸けて・・ ・・・・・この国を、・・貴方を、ずっと・・・お護りいたします」



恐ろしい事を言ったと、しかし彼女は気付いていない。
寳子の瞳には顔を顰める政が映る。


約束を反故にし、また新たな約束をした自分自身というものに。
その咎の在り処に、彼女が気付く事はない。



「・・・ ・・・・わかった」

「・・贏政、さま・・・」



その約束を呑むという。
しかし次は口約束だけに終わらせないと釘を打つ。


次に掲げるは直ぐに解けるような生易しいものではない。



これは枷であると―――――彼は復唱し、信頼の約束を束縛の契りに変えた。




「お前は一生を戦場に捧げる。・・誰のものにもならず、婚儀も行わなければ子を儲ける事もない」

「ぁ・・・」


「確かに聞き届けたぞ。・・・寳子」


言い掛ける彼女の口からは、結局なにも零れない。
そんなものは目前の彼を見るなり見失ってしまったと、政の表情は悲しみに暮れていた。





(本当は)



彼女は自ら受け入れていた。



(全く逆の話をしに来たのにな・・・)



元々の道へと戻るだけ。
脇に見えた別の幸せを選び取らなかっただけの事と、彼女は痛みに疼く胸に手を当てる。


『寳子。お前は女だ。
     ―――――剣を迎えずとも、それもまた一つの道だろう』



折角の申し出であった。
嬉々と返事をし、王と共に決めると逸った傍からである。

毒を顧みて、それでも走った寳子の想いは昇華されぬままに消えた。


嘆き苦しみ、憤るその人に何を言えた事かと。
用意した言葉は心の片隅へと封じ込められ、それは必然とも言える事だった。


(殿・・お気持ちを無下にしてすみません・・)


幼少から手解きをし、あれほど鍛練を積ませたというのにである。


迷う子の背を昌文君は押した。


気を汲み取り別の道を推してくれた親へ、
しかし望まれるべくをやっと叶える事が出来ると、寳子はどこか安堵さえ感じていた。



(貴方の子は、貴方の意志と剣を継ぎ・・戦場に己を捧げます)



彼女から溢れる涙は止まっていた。
それに反して寳子に寄る影は少女の小さな肩に頭を預け、声を殺して泣いていた。



(これでもう私は、後宮には易く入る事ができない)


震える嗚咽を受け止めながら、彼女はただ先を見詰める。
やっと始まりに立てたと、その表情を政が認める事はない。



(それでも贏政さま、私は―――――――意味を別にしても、あの魔の巣窟から貴方のお力となりましょう)



寳子にはある算段がついていた。
昌文君と言を重ね語り合ったそれは、しかし彼女の身をこの上なく危険に晒すものだった。


夕(ゆう)と呼ばれる存在を政が知るのは、これからもう少し先の事である。













(俺がお前を手放したのは事実)


間違いになると知っていた。
それでも別の道を追うと彼女は決めた。


(・・なら俺が漂に許す許さぬの裁量を以て当たるのは筋違いだ)


自業自得と、延々、自らの弱の前に項垂れる。

政が握っていたのは寳子の手ではない。


二人を繋ぐ枷は、未だ鈍く彼らを縛っていた。



(俺の裁をなす相手は既に、一年も前から決まっている)



それを今は信じるしかないと。
手放し、それでも帰らざるをえない理由を知っている。


これを寛大と言わずして何とするか。




―――――戯言と、政は笑うと疾くこの場の会合を収めた。






どこかつかず離れずと初々しい二人を苦く送り出す。

離宮には一人。
遠く小舟を窓から見送り、のちその人は額に手を当て、顔を覆った。




「・・俺が俺で得られるものなど、限られているのにな」



伝えたい想いと、伝えられない願いが内で木霊する。
そういった意味では、まだ動ける王氏を羨ましくもあると
他の誰でもない、自分自身に呟いた。

















その日の夜、漂は歓談の場であるにも関わらず部屋で正座をしていた。
目前には直立し腕を組む、険しい表情で対する寳子の姿があった。


「・・・夜になった。食事も済ませ、やっと空いた刻だ」
「そ、そうだ・・ ・・・・ですね」


特に何を言われたでもないが、漂の口調は丁寧なものに変わる。
音はない、ただ空気がそのようにと迸っていた。


「漂・・貴方は朝議での出来事を覚えているか。いいや、忘れたとは言わせない」
「(まだ何も言ってないけど・・)俺は可笑しいこと言ったつもりはないよ」

「可笑しい事というかっ・・!
    何がおかしいって、盾がまず剣も王も護らないと・・じゃなくて!
       あんな詰まらん事でわざわざ大王を呼び止めてという事がだなっ!!」


「つまらない事じゃない」


躍起に非難する寳子に、漂は反して冷静に文句を返す。
その頑とした体に彼女は言葉を詰まらせた。


「剣が盾を護るんだって、敵に届かせないって。
    ・・ずっと傍にいるものなんだって、どうしても大王に伝えなきゃいけなかったんだ」


他の誰に言っても仕方がない。
大王贏政に伝える事こそが肝要と、漂は座を解き立ち上がる。

これに狼狽える寳子は、しかし怯まず面と向かって意を述べた。


「たっ、盾が剣も王も護るんだからなっ!」
「うん。でも言ったろ、俺が君を護るって」

「勝手に!・・折れたりなんかしたら許さないしそれにっ」
「うん。だから俺を見ていて寳子。俺の盾は、君だけだから」


「・・・ ・・・・なら私は・・  ・・・盾は、貴方の傍に、いないと」



いけないなと、口を尖らせ小さく小さく呟く。
紅潮するままに、躊躇いがちに漂の様子を窺いながら尋ねる。
常套の皮を被せ、彼女は願いを口にする。


情とは落ちるものではない。
広がってゆくものなのだと、彼女は知った。




「・・・ ・・そうだよ。傍にいなくちゃいけない」


今は剣と盾だとしても。

先はただ、只管に二人。


願いは既に届いている。
彼らは彼らとして、互いに傍にいたいと言った。


「俺は必ず作戦を成功させる」
「うん・・」

「死ぬ気なんか更々ない」
「うんっ・・」


「俺は生きて、戸籍を貰って兵になって、功を挙げてそして・・大将軍になるんだ」

「う゛んっ・・!」



友と二人、見る夢がある。


漂は次いでそして、と付け加えた。



「そこには君もいて欲しい」

「う・・ ・・・!?」



改めて問う。
剣や盾と言わず、君と指した。

寳子は意表を突かれたと言わんばかりに、応とする声を途切れさせる。
殆ど告白紛いのそれであるが、彼女は誤解してはならないと同志としての意味でとる。
また漂はそんな彼女の弱さを笠に憂いを置き、至極素直なままに言いたい事を言う。


もはや互いの想いが問題なのではない。
置かれる状況こそが最大の懸念だった。



「寳子と出会ってからもうすぐ一月が経とうとしてるけど・・君はずっと、俺の傍にいてくれた。
   それが君の仕事だっていうのはわかってる。でも次は、そうじゃなくて。
      王の影としてじゃなく、今度こそ俺自身で君の前に立って・・傍にいたい、君にいて欲しいと思ってる」



そして並んで同じものを見たいと、漂は言う。
彼は彼女の手をとった。



「寳子には沢山の事を教えてもらった。
   だから今度は俺が傍にいて、君が知らないこと、気付いてないこと。
        ・・全部教えたいし、それに俺だってまだ、教わりたいんだ」



教えて欲しいと、いつか彼女は漂に言った。
その時の情というものであれば既に得たと見てもいい。

しかし全てを示すには未だ足りない。
伝わりきるには何時まで掛かるかわからない。



ならいつまでも共にいればいい。
短絡的ではあるが、これが一番の要所であった。




「下僕から這い出て身分を高め、自分の力で豪壮な家を建てる。
   ―――――そして名家の女を妻にし、多くの子を儲けてそれ以上の召使いを抱える」




これも友との夢だと濁す。
言いたい、しかしいま完全に二人の仲を男女のそれとする訳にはいかない。

都合のいい事に彼女も曲解し素直に受け入れない。


これだけの想い、体を以てしても憚られる。
しかし憚るのもまた、互いを想うが為だった。


故に二人は別たれるその時でさえ、己が想いを口にする事はない。






「ね、寳子」
「う、うん・・?」


「一緒に外に出かけようか」


共に部屋の隅に座り込んだと思えば、悪戯に内緒の話をしている。

外郭を通り抜けて。
民の生きる、人のいる場所へ行こうと漂は寳子を誘う。


王弟派の勢力が日に日に増し、更に範囲は広がるもののここ数日嫌に大人しい。

―――――こういった時は警戒に易い。しかし彼女は、頷いた。



「外の平民の暮らす場所なら逆に紛れやすく、奴らも下手に動けない。
   でも陽が落ちるまでには帰ること。朝昼の番、そして夕方から夜にかけての交代を見計らって行こう」


ありがとう、と。
礼を述べたのは寳子の方だった。

漂が驚く様を見て、彼女は照れくさそうに笑う。
実は想いを同じくしていたと白状すると、彼は外れそうになる想いの箍を必死に守った。



「行こう寳子。誰もがするような、普通の・・・」


男女のそれとしての、刻を過ごそう。



「普通の・・」



漂の言葉を反芻する。



「・・それじゃあ」



はにかむようにしてそう言うと、寳子は大凡の日程を提案した。






20130613