夜が更け、日が変わり、朝日に向かうまでもが変わらない。
これまで通りを行い、何ら不自然な事はない。
ただ朝議は頻繁に行われるようになり、要人が顔を突き合せる機会が増えたという程度である。
数日、また数日と繰り返す。
傍目には変わらぬ日常でも、彼らにとっては違う。
凡庸の中で二人は常に周囲を窺い、計画を実行に移すに足る情報を得てゆく。
漂の役割は立場からして、変わらぬ日々の変えずをこなすという物だ。
しかしそれだけに留まる筈もなく、彼は彼なりに壁や昌文君から積極的に外情を訪ね苦心していた。
寳子は頻繁に外に出向き、安全な路の確保と敵側の動向に目を向け確認を怠らない。
その際も自然に、あくまで受動的に警戒しているのだと印象付けて動く。
間違っても悟られぬよう、彼女はただ大王の側近の者として在り続けた。
首尾よく事は運び、ついに二人の 普 通
というものが実行に移される時が来た。
今作戦において本来飾る必要のない約束。
綿密に立てられたその計画は、漂が王都に来て凡そ三十日目を迎えようとする頃に果たされる事となる。
下僕でいた際、荷を運び下ろしていたというから気も遣う。
商いをする者の中で万一にも漂を認める者がいては困ると、寳子は漂の本来の身分からは仕立て得ないような衣を用意する。
また大王の姿が知られぬ城下といっても気を抜けない。
髪を高く結い、茶黒の粉を水で溶くと顔に影を入れる。
これだけでも随分雰囲気が変わると、初めての化粧に嬉々とする漂に寳子は笑った。
「凄く慣れた手つきだけど・・寳子って化粧してたっけ?」気付いてなかったらごめん・・
「・・・ ・・うん。普段はしないけど、正式な場とか。
墨を使って、とか。粉くらいは振る・・かな」
どこか余所余所しく応える彼女に漂は一拍置くと、応とする声だけを上げ詮索はしない。
寳子も己が大王の側近、以外の役目について、彼に言及する心算はなかった。
一通りを終えると寳子は漂を正面から、そして左右からと目を這わせる。
元の位置に戻り彼を数回、これもまた右へ左へと回すと力強く頷いた。
「ふふっ、よしこれでいこう。
まさか一介の下僕がこんな衣に身を包んでるなんて思わないし、何より顔つきも中々に洗練されたものになってる」
似合うと、手掛けただけの事はあると彼女は満足そうにまた笑う。
一方で気恥ずかしさの残る漂は、自分でもその姿を忙しなく確認する。
差し出される鏡からも見て、手を少し加えるだけで随分垢抜けるものだと妙に感心した。
「うわー、俺化粧って初めてだから・・ ・・へー。
寳子は・・って、そっか。別にいいのか」
「咸陽で私を知らぬ大人はいないから。化粧をした所で色気づいてると笑い者にされるだけ。
あとは・・隣にいる者が不憫に思われるだけかな」
また付き合わされているんだろうって。
寳子は貴士族の中にあって、過去それこそ腫物のように扱われ煙たがられもした。
しかし更に外へと城壁を超えた際は、彼女を快く迎える者がほとんどであった。
無邪気に笑うと寳子は漂の手を引く。
彼女は軽装に、警備と装い帯剣をして。
彼は見事に仕上がった貴族の体で外へ出る。
これが彼らの言う普通の限界であり、きっと何物にも憚れぬ理想の体だった。
「・・・よろしいのですか殿」
彼女にとっての兄分は、そう言って心許ない表情で二人の背を見送る。
殿と呼ばれたその者は直ぐには答えない。
暫くして小さく唸ると、昌文君は重く、静かに答えた。
「・・下僕のその者は、大望と引き換えに命を差し出した」
伸れば位が与えられ、反れば落命し夢は潰える。
互いの利が合致した結果である。
しかしそれを差し引いてもと、その者は浮かぬ顔で続けた。
「儂らは漂に、死ねと言っておるのだ」
他人の空似とは思えぬ程の、鏡に映したかのような容姿。
この窮地にあってそれは単に偶然と切り捨てるには余りに恵まれ過ぎていた。
―――――奇跡と言わざるを得ない。
王の影としても、それが王を模す者である限り此方とて全力を尽くす。
死なせはしない前提ではあるが、死ぬ可能性が限りなく高い。
掲げたものが夢である事は知っている。
しかしその者が他に何か、かけがえのないものを得られるとするならば。
(窮地で儂がお前を見つけたように。
漂よ、お前もこの状況の中・・奇跡に近い何かを見つける事ができたなら)
「・・儂は、奇跡というものから更なる奇跡が生まれる可能性というものを信じる」
夢の伴走者には十分に足るであろう事は自負している。
何といっても手塩にかけて育てたのだから、大将軍の夢と釣り合う程には出来過ぎた存在であると自慢する。
これを親の何とも素知らぬのだから、似た者同士の親子であった。
「(殿が目に見えぬものを信じようとなされている・・)
寳子がその更なるを呼び込む者になると・・・?」
「そうだ」
壁の問いに昌文君は即座に答えてみせる。
信じてみたい気持ちは彼も同じだが、如何せん浮つく奇跡という名の元である。
彼らの年齢からしても、といえば軽んじ語弊があるが。
それにしても難いと、壁は二人の背の、とうに消え入る廊の先を見つめるばかりだった。
(寳子よ。お前も誰かが望んだ奇跡・・それを儂が預かっておるに過ぎん)
誰かが、願い事をした。
「あれがそう望むのであれば、儂はその背を引っ叩き・・
・・・せいぜい後悔するなと、せめて親らしく追い出すだけじゃ」
猛毒に解毒を入れても
「ここまで武を育てたというのに、親不孝者と?」ははっ
できたのはやはり、毒だった。
「全く・・今でこそ武官のそれが板につくがその実、
こうと決めたら話は聞かんは言い返して来よるわ・・・ とんだ跳ねっ返りじゃと、遠く先、孫にも重々伝えてやるわ」
しかしそれを誰かは――――――――宝だと言った。
『お前ニ奇跡ト災厄をクレてやる』
(・・・お前は奇跡だ。
呪われ、毒の体であろうと人ならば)
それを信ずるに値する人の器だからこそ足ると。
昌文君はそう内に秘め、壁を引き連れてその場を後にした。
下調べに際する留意の通りに、道を選び掻き分けてゆく。
それにしてもここまで易く警備の目を盗み、城壁を突破出来るのは偏に寳子の経験と、そこから来る度胸に他ならない。
一人二人と避けられぬ場があったとしても難はない。
寳子は迷わず正面から対し、漂は用意していた外套で頭から顔からを覆う。
彼女はその者が金で解決できる人間だと知っていた。
懐からそれと、手付にと他を渡す。
両者慣れた様子から親しささえ見受けられる。
そういった意味で裏切らぬ賢い門番なのだと、寳子は言った。
「・・・・何か、凄いね寳子」
「私は凄くない。凄いのは金品だ」
自身は飽くまで扱うのみであると、彼女の言葉は謙遜ではない。
まるで出会ったばかりの頃の凛々しさよろしく、今となっては懐かしささえ感じる寳子の様子に漂は良い意味で参ってしまった。
貴士族の住まう地域の最後の城壁を潜り裏方から表へ移動すると、そこには広く城下の風景が広がっていた。
村で荷のやり取りをする際の比ではないと、漂はただ呆気と目を丸くする。
そんな彼の様子に寳子は嬉々とすると、指を絡めるようにして手を繋ぐ。
限りある、普通の中での延長上。
刻は陽が真上に来るよりも前。
今日の始まりはここからと謂わんばかりに、二人は手を繋いだまま場に躍り出た。
「広いっ・・色んなものがあるし、人も多い・・っ」
「これでも少ない方。・・王弟の反乱の報せが各方面に届いてる証拠と見ていい」
恐らくは大凡の検討の内を出ぬものだろうがと、しかし他も警戒を強めている様は易く見て取れた。
しかし傍と。
やっとの思いでここまで来て、不遜な会話は止めようと寳子は口を噤む。
余程の物好きでなければ悪しき流布漂うこの国に、今と定めて足を踏み入れるような者など存在しない。
みな生きる為だと、寳子は繋ぐ手を引くと城下を案内する為に漂を連れ出した。
そして彼は回り始めて暫くもしない内に、寳子の言っていた彼女の立ち位置というものを知る事になる。
「ぁああああ!!寳子が他の男連れてるッッ!!」
「こら鄒胤(すういん)!見てわからないか、貴族の護衛というヤツだっ!」
「ふぅーん、固く手なんか繋いじゃって。
・・ ・・ま、今日は・・ ふんふん。・・とにかく楽しむといいらしい」
「こっ、この手は!はぐれない為でっ!」って勝手に占うなっ!
(結構強引だよな寳子って)手痛い・・
釈明するのはいいが、その為に繋がれた手の先というものが被害被る結果となる。
しかしそんな事は些細なものと、漂は実に涼しげな顔で乗り切った。
会釈する者から手を振る者、気軽に話し掛ける者と多様である。
認められるその都度に、彼女は対する者達と同じ仕草をして返す。
「寳子様こんにちは。飯屋の主人が最近来ないって寂しがってましたよ」
「こんにちは。ははっ!それじゃあ陽の過ぎた頃に腹ごしらえに行ってきます。あ、それはそうと膝の調子はどうです?」
和気藹々と話し込む寳子に対し、呆気と傍に立つ漂には周囲から穏やかな礼が送られる。
貴族の形、それ以上に寳子の連れである事実が彼らをそうさせた。
しかし行く先々で声を掛けられ、中々前に進まない。
折角の二人の外出がこのままでは、苦労して出た甲斐もないと漂が項垂れかけたその時。
寳子は目前にいた少年に声を掛けると、少年は別の大人に話を着けてそのまま散じてしまう。
その意味がわかる頃には、寳子に声を掛ける者はいなくなっていた。
「・・なんだか急に話し掛けて来なくなった?」
「うん。さっき捕まえたのは情報屋・・公式に諜報員と言う程には堅苦しくなくて使い勝手がいい。
その人達に貴方を、捕吏の関係者と適当を流してもらったの」
厄介な立場近くの人間を護衛しているから、今日は関わらない方がいい。
少しでも粗相があれば何をされるかわからない。
寳子は民の側からして、極力関わりたくはない役職の名を周囲に報せたのだった。
「情報って・・!でも話し掛けたのって、まだ・・」
「情報を扱う者に年齢や性別、状態なんていうものは関係ないから。・・だから、公式じゃない」
こういった事自体は珍しいものではない。
現在も秦国には他国が放つ、それこそ諜報員が紛れているであろう可能性を示唆する。
そして公式非公式は、臨機応変適材適所というものであると別段重く見ない。
重く煩わしい剣を振るうでもなく、また特別な技量も必要としない。
話し掛けたのは一人であるが、彼女も把握しきれない程の人数がここ王都咸陽には張っているという。
全てが味方でない以上、流す情報等はこちらで配慮せねばならないとは付け加えた。
「ごめんね漂、皆いい人達だから無下にもできなくて」
「そっ、そんなの・・ ・・・でも、今日くらいは、ね」
「うん・・!お待たせっ、色々見て話して!楽しもうね、漂っ!」
それまでの寳子という名の兵士の体を捨て、寳子という名の少女の質を以て臨む。
共に彼女である事に変わりはなく、しかし後者であればまた己自身も漂としていられると、彼は彼女の手を強く握りしめた。
寳子はあらゆる場所に漂を案内し、中央近くから端までを一通り眺める。
物入りの露店からまるで開かずの店まで様々である。
そして問答無用に目に飛び込んでくる、行き交う人々に駆け抜ける子ら。
仕入れ、売り、そして呼び込む人に立ち寄る人。
歓談しつつ品を求め、また買った品を見せ合い語り入る。
有り得て、しかしそれが王都の規模ともなると新鮮である。
活気づく町はとても寡少とは思えぬ程に、人の命で溢れ返っていた。
「こんな状況の中でも、笑顔を見せてくれるっていいね」
噂を知らぬ訳でもないだろうにと、漂は人の広がりを見つめる。
「顔を不安で曇らせれば、それこそが本当の禍であると皆知ってるんだと思う。
戦乱の世だからこそ俯いて生きてなんかいられないって・・わかってるんだ」
心底に有難いと彼女は言う。
敵国と直接やり合う身としては、民のこういった生き様に救われると話す。
戦場にあって気概が増すと、つい力んでしまう寳子の手を漂は優しく握り、二人は笑い合った。
歩き回り、陽がちょうど天の真上を指す頃だった。
知った店なのか寳子は軽く手を掲げながら近付き、店主もそれに気付いたようだった。
漂は連れられるままに、しかし視線の先は別の物を映していた。
「!あれ・・」
「ん?漂、何か欲しいもの見つかった?」
「よォ寳子。何だ坊ちゃん共は連れてないのか」
「こんにちはおじさん・・って、彼らも忙しいんだ。
私だって仕官してからそう遊んでもいられないんだから」
やれやれと腰に手を当て、そんな呆れ顔の寳子の頭を店主は無茶苦茶に掻き撫でる。
絶叫モノの手荒い歓迎はしかし、彼らの内ではごく親しい、いつも通りの挨拶であると後の語り口から見て取れた。
「寳子、このひと知り合い?」
「わわっ、髪がっ!・・うんそう。昔からここにいる行商人で、見知りなんだ」
「おいお前、暇なら昔みたいに売るの手伝え。ここんとこサッパリ売れん」
「おじさん・・隣に人を連れてるのが見えませんか。 んもー・・せっかく整えたのに」ぶつぶつ。
それなりの長い付き合いではあるが、一向に名は教えてはくれないと言う。
一人ごちながら寳子は髪を手櫛で梳かすと漂に向き直り再び手をとる。
ひそひそと話し合う彼らの様子を見て、商人の『おじさん』はしたり顔で笑った。
「なーにが整えただ。いつものボサついた髪よかマシってだけじゃねぇか」
「わっ、私なりに頑張っ・・」もごもご。
「ぶっ。あァだから―――――仲良く手なんか繋いじまってよ。
ってぇ事はだ。何だ、そんな忙しい中でも会ってるこの貴族サマはアレか。やー、お前もやっと男を作る気になったか!」
商人の煽るような言に寳子は、漂と繋いだままの手を振り回し文句を言う。
犠牲再びである。
強く引っ張られる形となった漂は、上下にと荒波に揉まれるかの如く身を躍らせ、その表情は芳しくない。
「もう!そうやって昔からっ!!彼は貴族で、私はその護衛なのっ!」
「ぶわっはっは!正しい言い訳だ。
まァ違うなら違うでさっさと離れるこった。槍と剣が降って商品に傷が付いちゃたまんねぇ」
「そんな事ばっかり言ってると、もうここの商品買わないからっ!」
「おーおーコワイコワイ。
よォ貴人のボクちゃん、悪いこた言わねぇこの子はやめときな。面倒になること請け合いだ、俺が保証する」
(や、槍と剣が降る・・)
いやそんなこと保証されても。
首を横に振り、得物を弾き返す算段をする。
彼女に関する面倒事など、もはや面倒とも思わない領域にまで達している。
受け止めて見せる、と。
謎の自信を得る漂の隣人は、そんな彼を見て頭に疑を浮かべるままだった。
「(おー、首を横に振りやがったな)
で?何が欲しいんだ。特別価格ってヤツで提供してやるぜ」
「もー・・ ・・・ありがとう、おじさん。
で、漂はさっき何を・・」
「これだよ!」
彼女の問い掛けが終わる前にその商品を手に取る。
嬉々とする漂とは裏腹に、寳子の様子はどこか重い。
「寳子に似合うよ、絶対!」
(・・・赤色・・・・・)
「ほォ、それを見ただけでわかるとは中々にお目が高い。
この紐は頑丈で目も細かく、色も映えそして軽い」
素材も選りすぐりのもので、よく見ると複雑に編み込まれた様が見受けられる。
また話を聞けば、これはとある地域の一部族に伝わる技術によるものだという。
飾り気は無いが稀少で、多少の傷や汚れでは褪せないと自信を持って推す。
末永く使っていけるものだと、この場に限り商売根性なく店主は付け加えた。
「漂、私はそんなに赤が似合う?」
「うん、似合う」
即答と、他意なくそう言い切る漂。
そんな彼を前に寳子は、自分でも驚くほどに赤という色を快く思っていない事に気が付いた。
「君は元々髪も、目だって綺麗な色だから。合うよ」
確かに紐が草臥れている気はしていた。
括る紐は元地が白い所為か、今ではどこか赤茶に黒く、くすんで見える。
見つめる度に過ぎた戦場を思い出す。
変え時だと、漂は言った。
「そ、そう・・それじゃあおじさん、これ一つ」
「おら貴人、手ぇ貸せ口じゃ言えねぇ額出してやる」ほーれほれ
「うわこそばゆそう」ありがとうございます
「えっ!?」
そう言うと店主は自らの衣の袖に漂の手を引き入れる。
案の定くすぐったそうに顔を変じながら彼は交渉に当たっていた。
「それに漂、貴方・・」
放置をくらう寳子は、主に彼の資金面での心配をする。
目前を気遣い言葉を濁した。
「それがあるんだよ。・・君のお兄さんに話したらさ」
今日この日に彼女と出掛けると言った傍から世話をしてくれたという。
聞けば返金は出世払いで構わないと、我が事のように喜んで貸してくれたらしい。
外出の事を秘密とは言ったが、さてどうだろうと漂は首を傾げる。
それを聞き寳子は驚いたりはにかんだり、そして忙しないなとやはり笑った。
「壁兄・・!ふふ、優しい人だから」
しかし度々仕様のなさが露呈しては残念な事になり、惜しいと言えばそこであると寳子は心底から溜息を吐く。
家柄、そして人柄から勿体無いと言わざるを得ないが、妹分としては無くして欲しくはない兄の、実にその人らしい長所であると謳う。
(危なげな所が否定できない・・・早く妻を娶って子を授かり、所帯を持って安定してもらいたいものだけど)
妹の余計な節介と、ぶつくさと思い馳せる寳子。
しかし兄である壁こそ、彼女と全く同じような事をしょっちゅう他に洩らしていた。
「っしこれ以上は無ぇ」
「いい取引ができました」
そう言うと漂は見えぬように金銭を商人に渡す。
袖を通し器用に受け取ると、見ずに手の感覚だけで勘定を済ませる。
そして不意に弾かれるそれを漂は受け取り、手を広げて驚いた。
「釣り銭だ」
「え!?いやだって!」
「悪かない値切りだった。金銭感覚もしっかりしてる。何より商売人泣かせじゃねぇ良い客だ」
「じゃなくて!これじゃあ・・」
「今こまけぇの持ってねぇんだよ」
脅して負けられるというのもそうそうある事ではない。
明らかに買い物とは呼べぬそれは、既に贈り物の類である。
あー、ボッタクリだ〜。
ツイてねーなーと愚痴る商人は、それ以上に寳子にとっての『おじさん』の顔をしていた。
「あ、ありがとうございますっ」
「ま。男ができた餞別だな」
「だからぁっ!」
「・・・大切にします」
「もう買わな―――――へっ!!?」
怒っていいやらどうするやら。
何か聞こえた気のする寳子だが、漂と目も合わせられぬまま硬直する。
面倒だと店主に小突かれ、呆気なく倒れた後に紅潮の体で復活した。
(しっ、商品だ商品っ!商品を大切にするって言ったんだっ!
何を勘違いしてるんだ私わーーーーーーーっっ!!)ばかものーっ!
これを贈られるであろう当人が言うのだから至極可笑しい。
両名を見る傍目らは、事態を突っ込もうにも躊躇うそれを敢えて避けていった。
(うぅー!漂が変なことサラッと言うからー!)どうしたものかー!
(寳子が顔を赤くしてずっと唸ってる・・)暑気いったかな。
彼らは商人に別れを告げると若干の距離を置き(手は繋いだまま)暫く歩く。
すると寳子は気まずい現状を打破しようと例の飯屋に挨拶がてら向かおうと提案する。
そしてまたそこで予想外の手厚い歓迎を受ける事となった。
「おらてめぇ寳子ィイイ!!ちぃーと見ねぇ間になんじゃァその優男はぁあああッッ!!!」
「・・出よっか漂」
「うん。それがいい気がしてきた」
筋骨隆々な飯屋のオヤジが鍋を凶器に出迎える。
二人が踵を返すと何時の間にやら店主は大きく立ちはだかり、気付けば勝手に座らされていた。
「ふぐぅ!何だよォおめぇ、こーんなちっちぇー時からよォ!俺が作った飯でデカくなっ○△※◇〜〜〜!!!」
「おっちゃん、女は変わる」常連一
「入れ込んだあと簡単に捨てられちまうんだよォ・・!(ダァン!」常連二←つい先日娘が嫁いでった。
「うおーーーー!!!バッキャロウ餞別だよ
好きなモン食って飲んで出ていきやがれコノヤロォーーーーー!!!!!」ふぁぁああ!!!
「おっちゃん久しぶり。そしてお金も払うし・・あ、お水ちょーだい」のどかわいた。
「あ、俺も。あと隣の人が食べてる、何か揚げてるヤツください」
彼女に至っては普段通りであるが、しかし順応に過ぎる漂の対応に周囲が響動めく。
寳子は適当に注文すると見知った常連からお裾分けを貰い、ご満悦な笑顔でそれを逸早く食す。
ヒソヒソヒソ・・
「うおーマジかよオレ蒙家のに懸けてたんだけどォ・・!」
「やべぇ大穴きた大穴ッ!こりゃ王家に懸けた奴ら軒並み死んだなっ」プークス!
「血の雨が降るな・・」
「鄒胤の奴が総取りじゃねぇか?つかヒキョーなんだよなぁだってアイツ・・」
「あ゛ーーーーもう聞こえてるっ!!
そんな勝手な邪は少なくとも当人のいない所でやってくれっ!!」聞きたくもないっ!
(皆と仲が良くて、色々知られてるっていうのも大変なんだな・・)
何度言っても止まないと放っておいたら、いつの間にか賭け事の対象となっていたらしい。
気分を害しつつも運ばれる料理に舌鼓を打ち、結局笑顔になってしまう辺りが彼女のいい所だと漂は思う。
こうして彼らは以降、外野を無視し続けあれが美味しい、これが珍妙であると分け合って食べる。
喉を潤し軽食を済ませると、挨拶も程々に二人は店から出てまた歩き出す。
気忙しい事この上ないが、先程までの妙な空気を飛ばしてくれたと寳子は心の内に感謝した。
様々な露店を物色し数刻。
待ちに待った二人での外出なのだから、天気が晴れて当然悪い気はしない。
しかし陽の差す、というよりかは刺される熱に少々気が滅入ってしまう。
戦場における遮光断熱を期待できるような外套もなく、また生死など関係ないのだから耐えたとて仕方がない。
陽が天高く地を照りつける暫くの間、彼らは木陰で休もうという結論に行き着いた。
「えっ!寳子あの蒙ゴウ将軍と知り合いなのっ!?」
「その孫と友達だから、自然とそうなる」
取り立てて自身が、という訳ではないと釈明する。
戦場においても体裁的に将軍と兵として向かうがその実、孫の友達の感を拭えない、または新たな孫という扱いだったという。
寳子は幼少の頃、主に路の確保と陣形成、隊の整備から手当てまでと諸々を手伝っていた。
偶に敵側が放つ探査要員を潰し、城から降る敵兵を外周に沿い討つという任に当たっていた。
(城に上った時点で私の戈は鈍る。
籠城であれば問題はないが攻城、更に言えば下馬した状態の白兵戦では条件がいる。・・それを見抜いて要所に送って下さっていたな)
剣に持ち替え戦う事も出来るが、それでは彼女の得意とする数をこなす意味では要領を得ない。
実際、蒙恬が共をする場合は敵城に上る事を許されていた。
彼に限る事ではない。
寳子が戈を振るうに足る、彼女の力量を知り、また補佐できる者であれば問題はなかった。
(今の所、私を完璧に 読 ん で くれるのは・・蒙恬と王賁だけだ)
故に状況によって、寳子個人においては替えが利く。
ならば他に当たり奏功すべきが道理と見るのは、彼女自身も同じだった。
従って正規兵となった今でも、蒙ゴウ将軍の元に就いた際は幼少の頃とやる事は基本変わらないと言う。
寳子の宝刀である戈は、騎馬に際しその実力を発揮する。
否、現時点における彼女の力では、多く見積もっても三割引き出すまでが限界だった。
「うわー!俺からすれば喋るってだけで一大事だっ!
どう!?どんな感じなの蒙ゴウ将軍っ!!」
「どうって・・・普通、かな。穏やかな人だぞ?」
「まさか!城の数を取るって事は強い将軍なんだろっ!?普通な訳ないじゃないかっ!」
「うーん・・」
目標が大将軍なだけあって、有名所に食いつきの尋常でない漂を前に寳子は腕を組み考え込む。
兵にも長にも将にも個人差というものが存在し、それぞれ分野も違う。
求められるものも異なるのだから、将軍を一様に強い弱いだけでは判断し兼ねる。
故に取り敢えず、と。
寳子は蒙ゴウ将軍という存在のみに限り語り出した。
「蒙ゴウ将軍に勢い的なものを期待しているのなら的外れだ。
彼の方の最たるは確実性、そして実直なまでの策の踏襲。
僅かな隙も逃さずに突き、それを繰り返して一気に敵を瓦解させる事にある」
攻め続ける、という事ができる将軍。
故から攻城で落ちぬ城はないと豪語する。
ただ刻が掛かる為、兵站の路を確実に押さえておかねば詰むと見る。
反して敵に責められるのは不得手らしいとも言った。
その活躍を非凡と称するには違和がある。
凄烈と言うより寧ろ、安くそこに在る。
「私みたいな経験の浅い者が将軍をどうこう言おうなんて厚かましいけど・・言うなればね」
「何か俺、武将って皆苛烈な人が多いと思ってた・・」
言い得て妙ではあるが正しくはない。
ただ苛烈にあり、それで上を目指せるというのなら戦場に位など必要ない。
「闘将、知将、飛将・・そしてそれら全てを賄ってみせる万能の大将軍格。
―――――覚えておくんだ漂。この先、貴方が目指す高みとは何処にあり、また何者を指すのかを」
全てを最良、一つを最大に持てと彼女は言う。
秦が覇権を勝ち取った際、その国の大将軍とは元の意を失う。
新たにこの世全土に知らしめる存在となる。
この世の武の頂、その覚悟を見据えよと寳子は言った。
(ッ――――――規模が、大きすぎるっ・・!!)
余りに壮大過ぎる話に漂の思考が追い付かない。
しかし反して勇む心が彼を震わせる。
大王と話す中で、秦が世を統一するという話を聞いた時でさえ狼狽えただけの体が熱る。
(彼女にとってはこの現状、王弟の反乱は降って湧いた小事に過ぎない・・ただの汚点でしかないんだっ!
寳子は秦だけじゃない、もっと、もっともっともっっと!!先の世を見て話をしてるんだッッ!!!)
笑いごとにもならない。
彼は、彼女は。
彼らは本気で世を取りに来ている。
それだけの覚悟を以て生きている。
若き王と盾の意気に、未だ鞘の内に眠る剣は最早それを夢ではなく、在り得る現実として受け止めていた。
「・・蒙ゴウ将軍のような方においては、その脇が重要になってきたりもする」
「・・・・・・・・」
「漂?」
「え、あ!ごっ、ごめん!えっと、脇・・?」
明らかに取り乱す漂に、寳子は疑を抱きつつも話を続ける。
導くうえで万能である事は必須だが、何も常に将軍のみが突出する必要はないと彼女は語る。
その為の脇。
いかに力の均衡を保ち、自軍を勝利へと導くか。
ともすればそれを分散させ、己が囮となる事も辞さないと言う。
民がなければ王が立たぬように、兵がいなければ将は単騎でのみの能力しか用いる事は出来ない。
両翼に配するは憂いなし、それを見極めるのもまた将足り得る者の務めであると寳子は脳裏に映る光景に想いを馳せた。
「蒙ゴウ将軍の片腕の一人は王翦将軍」
(・・確か、王賁の・・・)
「そしてもう一人は・・ ・・・」
言いかけて寳子は言葉を濁す。
その意味が漂にはわからなかった。
「桓騎将軍。共に彼方の副将を務めている」
「へぇ・・寳子はその人達にも会った事が?」
「・・話した事はない。でも・・
前者には見定められるような視線を感じた」
まるで自分が物か何かになる気に襲われたと、彼女の表情は浮かない。
こちらは一瞥の内に終わるため、さして問題はないと流す。
どうやら後者が問題らしかった。
「そして桓騎将軍は・・・見透かしてきたな」
気付けば心身の両方に手を伸ばされていたと、心地の悪そうに居直る。
「私が読めないのか、相手が読み過ぎるのかはわからない」
しかしそれでも兎角―――――悪い意味で見透かされた事だけはわかったと、寳子は言った。
「私の何を彼の方が透かしたのかは知らないが、それを見て哂われた事だけは覚えている」
「わらっ・・!?」
「したり顔でな」
当時を思い出してか寳子の口調がきつい。
あの白老にあってこれら双翼とは、いっそ図らねばここまで妙に均衡も保てまいと複雑な面持ちで笑う。
「あれこれと言う者もいるが、秦国を援ける者であれば私は彼方の野盗という過去になど興味はない。
中々に周到な事もするようだが私に諫める力はない。
しかしあのようにして見られ、哂われるとなると気分がいいものではないな」
この体、もはや気分云々の問題ではない。
彼女は明らかに腹を立て、憤怒に頭を擡げていた。
「(野盗・・実力があれば、それでも将軍にのし上がれるんだ)周到・・?」
「降した者達に度を越した仕打ちをするという噂だ。
そこからついた綽名が『首切り桓騎』・・私の『紅寳』がまだマシに思えてくるな」
どちらも不名誉この上ないがと、しかしその上でなら同列を張れると自嘲する。
そんな彼女の様子を見て、綽名に関しては触れまいと漂は抱く疑を素直に問うた。
「・・女子供も・・・?」
「邑の村人全員と聞いた。
生かしてどうなるかも推して知るべきであるし、今後秦を脅かす可能性を断つという意味では彼方は正しいのかも知れない。
でも私は兵士だ。相手は得物を持つ敵であって、帰りを待つそれら家族じゃない」
故に好かんと、例え将軍であっても気に食わないと憚る。
下に就けば働くが、喜び勇んでという特異質はないと一蹴した。
「綺麗事と言われればそれまでだが、それでも私は殺さずにおける者達を無理に殺したくはない。
人殺しに善はない。しかし悪だけでもない。
・・強いて挙げるとするなら、敵か味方か、それだけだ。
対峙する者達はみな鏡。戦う理由が何であれ、私は彼らに敬意を忘れた事はない」
憎らしい者、腹立たしい敵など数知れず、勿論その口車に乗る事もある。
それでもその存在を刻まぬ事はなかったと、寳子は浴びた血の生暖かさを思い出す。
だからこそ生かせる者を生かし、例えそれで自分が殺されようとも悔いはない。
しかしそれらが秦という国に、王に仇なし凶刃が彼の喉元に届く際には
悔いどころでは済まないのだろうと、自らの甘さを呪った。
「届かせはしないがな。王の盾と豪語する以上、止めてみせる。
その信念があるから、私は自分の理想に甘えていられるんだ」
持たざるが持ち得てそれを翳すというのであれば易いと、討つ理由ができるだけ僥倖と彼女は笑んだ。
「敵は、鏡・・・」
「そう。だから全力で潰す。
・・もし自分が侮られでもすれば、凶刃に倒れるでなく憤死する自信がある」
「ぶふっ」
「えっ!」笑っ・・!?
「・・・・ううん。ごめん、なんでもない」
寳子というその人の、ありとあらゆる自信の在り処の根源とは如何にと、漂は何度目かの自問自答に入る。
要る要らない、下る下らないの問題ではない。
重要なのは、それだけの自信を彼女は持っているということ。
そして彼の問答から出る答えとは、相も変らず明確なものではない。
寳子の言葉が、彼女のありのままが答えなのだから今更、
己が別に答えを用意する必要もないと、繰り返しである。
(彼女の下につく兵達の気持ちって、こういうものなのかも知れないな)
ぶれがない、信用に足る。
命を懸ける自信が生まれる。
敢えて答えを出すならばこれかと、漂は一人、落とし所を見つけたようだった。
随分横道に逸れたと寳子は言い、話の筋を始まりのその人に戻す。
「白・・ ・・蒙ゴウ将軍は、私を孫娘のように可愛がって下さって。
普段良い意味で娘の扱いを受けていなかった所為か、私も嬉しくて・・つい甘えてしまっていた」
「なんか・・やっぱり俺には想像し難いっていうか・・」
「ふふ、その反応が正しい。でもそれも周囲の援けあっての事で、今の私がある。
張唐様なんかは初め、女と認めた瞬間に私の存在を視界から消したからな」
見もせず話もせず、そして命じる事もない。
いない者として扱われたと、徹底したそれに悲しみよりも笑み、そして意気が上がったという。
「でも次第に志とその姿勢を買って下さったのか、
今では別人とも思えるような態度で接して下さるよ」
それもきっと知らぬ力添えによるものだろうと、寳子は胸に手を当て感謝の意を示した。
「・・・やっぱり寳子は凄い。
話に持ち上がるのが錚々たる人達ばかりで・・何か、いやもう何か、凄い」
「そう導いてくれたのが周囲だ。私はただその後押しに恥じぬ自分で在りたかった」
故に剣に矛にと訓練に明け暮れ、積極的に他に打って出たのだと語る。
愚直に誰彼構わず背を追い掛けてばかりいたら、結果顔が知れたというだけの事らしかった。
(救われているんだ。 ・・だから私は殿に、この国に・・・ ・・)
「はぁ・・うわ、手に汗握ってた」
「ははっ、何でそんな・・緊張するという事は、貴方が真面目に受け止めてくれた証だな」
「受け止めるどころかボッコボコ。
・・・蒙ゴウ将軍の事とか君のこと、その周りの事を聞いてたら何か・・やる気が出た」
「そっか。・・うん、そう言って貰えると私も嬉しい。
でも疲れたでしょう漂。 うーん・・ ・・それじゃあここで何か和むような話を・・」
言われる程に疲れてもいないがと、しかし漂は言わない。
これまた謎の気遣いを見せる寳子に、またしても彼は何も言わなかった。
「そうだ、言い忘れてた」
「え、なになに」
「蒙ゴウ将軍はお人柄も温かいけど、あらゆる面であたたかいお方なんだ」
「へー、よっぽどだ!」
「うん。お髭とか」ちょっとゴワついてるけど私は好きだ
「・・・ ・・・・・・・ ・・え゛っ」
空白の時を迎える。
それが和みであるか否かは、彼女がその体での話と、そう言った手前であるのだから疑う余地もない。
漂の思考は一旦停止し、またそれが良かった。
「はっ!!」
「なにっ!?」つぎはなにっ!?
「・・せっかくの外出なのに、また軍事的な話をしてしまった・・」ぁあ・・
「いや、まあ軍事っていうか。
俺は蒙ゴウ将軍の話とか・・あと大将軍を目指すのに背中殴・・ ・・・押してもらったっていうか。
うん。でも、もうやめよっか」俺も食いついてゴメン
「う、うん・・ははは。
(違うんだっ!私はもっと、もっとこう・・
・・・〜〜〜っっ何でもっと別に話を振れなかったんだ私のバカものーーーっ!!)」
この時この場所でなくてはならない、話したい事というものは山ほどあるだろうにと嘆く。
よりにもよって何故と、この時ばかりは己が従事する夢に辟易とする。
もはや職業病と言わざるを得ない症状に、彼女は延々苛んでいた。
「えっと、寳子・・落ち込んでる?」
「・・・・・・」
「あのっ、ホント気にしなくていいから!聞けて良かったし為にもなったしっ!
・・それに大事なのは内容とか場所より、誰と話すかってことで」
「!」
「俺は寳子とこうして話せるのが・・さ、その」
「うっ、うんっ!」
「・・・ ・・〜〜っ!!
ってあーもー!明るい内からこうして見つめ合ってってムリだっ!
周りに人もいるしっ!ああもう、恥ずかしさ半端ない・・!!」
「わわわっ!私もそのっ!漂とならどこでもっ・・!」
「わーっ!もー寳子っ!蒸し返さなくていいってばぁっ!!」
紅潮する寳子の顔は、照りつける日差しの中にあって一層赤いものだとわかる。
しかし負けず劣らずの様子の漂と、彼らは二人揃って周囲から生暖かく見守られていた。
が。
「あーんれェーーーっ!寳子さまァーーっ!!?」
「ゲホッ!ゴホッ・・
・・かっ・・介良っ・・!?」
そこに堪らなく持たない間を埋めるべく、颯爽と現れた救世主―――――というには些か頼りない。
気の抜けるような遠くからの声に、気を張り詰めていた寳子は驚き咽た。
「と、うん?見ない顔―――――・・んん゛っ!!?
(え!あれこれ大王じゃ・・ええっ!?)」
微妙としか形容しようのない表情の寳子を置いて、介良はその傍に控える顔をまじまじと見つめる。
介良、介殻は共に何度か政に目通り適う機会があった。
過去の事であるため確信はないが、なるほどこの端正な顔立ちには見覚えがあると合点に至る。
介良が一層漂の近くに寄ると、寳子は彼の耳を引っ張り囁くようにして諫めた。
「そんなに大声ではしゃぐなみっともないっ・・!」
「えっ!(貴女こそ遠くから見てはしゃいでましたけどーっ!!)
あ、いやそのすみません、何だかこういう所で会うのも珍しいなとつい・・」
囁くと称する怒号混じりの言を一杯に食らう介良。
そんな中でも彼は漂を傍目に見、いわゆる彼ら二人の独特の空気というものを察する。
「(いやこれ絶対つっこまない方がいい!)いやー、ビックリしました、あはは。(俺の経験がものを言うっ!!)」
俺は介殻と違って気の利く漢だからなっ!
因みに気遣いといっても己が不足の丈による裁量であり、その正確性は余りに心許ない。
本人は自分の事を至って冷静沈着で仕事のできる男だと思っているが、
実は知らない所で勝手に義兄弟にされている介殻がこれの尻拭いをする事も多々あると彼は知らない。
介殻は日頃から適当で迷惑がかかる奴とは当人の弁である。
そんな彼が気を利かせての棒読みのような台詞を吐くのだから、大概であるとは他のよく知る所である。
(いやー、にしてもなぁうん。
こんなお忍びで逢引しちゃうなんて殿や壁様の気苦労も知らないで寳子様ったら・・あー、でも俺は安心できたわー)
「寳子・・」
「あぁ、うん。放っておいていい」
介良は全てを見透かしたかのように深く、大事なことなので二度ほど頷く。
寧ろ関わらないでおいてくれと寳子は漂に耳打ちをした。
その間にも介良の脳裏にはある疑問が占められる。
ここまで慕うなら何故寳子は後宮に入らなかったのか、という疑問である。
しかし彼は特に気に留める事もなく、(呆れる)両者に向き直った。
(ま、寳子さま頑固だからなぁ。意地でも張っちゃったんだろ)
(この様子だと絶対に贏政さまと漂を間違えてるな)
(・・・・・・なんか面倒になる気しかしない)
三者見つめ合い暫くという珍妙な図である。
介良は寳子より六も年上だが、立場は昌文君の子である彼女が上となる。
故に目前ばかりを鵜呑みにするなと常々諫める事が多々ある。
しかし今回ばかりは仕方もないかと、寳子は肩を竦めた。
(戦場で私を補佐してくれるし、槍を主に剣も矛も扱える器用な奴だ。
規律にも正しい。・・決して悪い奴ではないんだが・・)
気にも留めてくれ、それこそ壁ほどではないが兄弟にも等しい。
それでも戦場を後にし、こうした場面においての素行の程は余りあると頭を擡げる。
問題は勘違いそのものというよりも、この者に勘違いされてしまったという事実。
他に比べて性質が悪いとは知っている。
しかし下手に隠そう逸らそうとした所で、彼の前では逆効果にしかなり得ない事も寳子は知っていた。
「・・介良、さっきから一体何をにやにやと笑ってるんだ(格好だけでもしておこう・・)」
「何も言いますまい・・この介良なにも言いますまい・・!(やべーオレ気遣いのできる系男子ーッ!)」
介良が頻りに漂(大王)の存在を気に掛ける。
怪訝な目を向ける寳子の様子に、語らぬを諫められていると感じた介良は口を開けた。
「(ぷぷぷ。王家の坊めザマァねーっつーんだよ。地位や能力だけで何でも手に入ると思ってんなよー!まぁ相手も王様だけど。)
いえ実際の所、ちょっと思い出しまして。このまえ王家の倅が来たでしょう?その時の事を少し・・」
突然に降って湧いた王賁の話題に、漂は慌てた様子で彼女を見やる。
寳子は口には出さないが目に見えて動揺していた。
「なーんか蒙家のと一緒に出てきて、って本題はそうじゃなくて。
(ちょっとしたらすぐ人を小馬鹿にしてきた報いだ、フられて少しは人の痛みを知れってゆーの!)
その二人を待ってた楽華と玉鳳がまたバカやらかしてまして、それでまた俺達が止めに入ってですよ」
とりあえずテメェら同士で頭打って死ねって言っときました。
(・・・これで本人は自分が冷静で介殻の止め役、聞き分けの良いデキる奴と思っているから手に負えない・・・)
話題だけでも大層頭を抱えるというのにと、寳子の表情は渋い。
基本貴人の前では礼を正すが、一度砕けるとこうだと溜息を吐いた。
(俺はお隣が大王その人だなんて気付いてないですよ〜!気付いてないですよ寳子さまぁ〜!!)どやぁ。
「毎度毎度火に油を注ぐな馬鹿者っ」
「だってあいつらこそ毎度毎度〜!」
聞いた寳子が介良の耳を強く引っ張る。
漂は彼らの長い話に飽きたのか、閃く蝶々をテキトーに追っかけて暇を潰していた。
(王賁・・)
浮かび上がる名に気を留めずいられる訳がない。
(あのあと貴方は一体どんな気持ちで・・・)
一通りを過ぎ、やはり彼女の溜息は止まない。
傍から見れば愉快な遣り取りでも、その内の一人は未だ気が気ではない心境の中にいた。
それを少し距離を置いた場所から―――――興味の対象は逸れ、彼は遠く彼女を見詰めていた。
「・・・・・」
(寳子・・)
「全く昔っから成長ねぇでやんのあいつら!・・ととと、(ゴホン。
蒙恬は物資補給に来たとかで・・ こ の
時 期 の 遠征組の癖に、全く言うモンですよ。
しかし我ら昴護が何故ああも奴らの厄介を引き受けねばならないのか・・」
「えっ!」
「・・漂、」
「あ、いや・・(え、いま・・・)」
昴護(ぼうご)隊。
『統る者を護り、また自体が統るを冠する威を護る』
その名を掲げ、褪せぬよう努めよ。
彼らの、彼女の隊を名付けた者はそう言った。
(名のある隊・・!?もうそんなもの率いてるのか寳子はっ!
十四で・・てっきり昌文君傘下の分隊程度かと思ってた・・!)
同じ齢にしては格が違いすぎる。
これまで訊ねても濁されていた事実が、まさかの急な到来を告げる。
これには漂も声を上げずにはいられなかった。
(せめて漂が正式に兵になるまでは隠しておきたかったのに・・全く)
(あぁ、でもそうだった。奴らには寳子様から首突っ込み始めたんだったっけか)なら仕方ない。
目前は頭を抱える主に気付かない。
仕方ないと、厭に慣れた様子で寳子は介良の話に合わせた。
「(蒙恬・・いつも無茶はしてないと言うけど)
そう言いつつ介良、お前各隊の同年代達とは楽しそうに仲良くやってるみたいじゃないか?」
「じょーだん止して下さいよっ!
手合せしたら本気で殺しに掛かってきますからね奴ら!!」俺もですけどっ!
身振り手振りで激しく捲し立てるが明らかに嫌々ではない。
やれやれと、そう呆れる彼女の体は板についていた。
(まーでも楽華とは仲いいか。一緒に酒飲むと面白ぇし。
介殻は何でか玉鳳の奴らと普通に喋ったりできてんだよなぁ・・)
俺絶対ムリ。
何か団結意識強すぎてハネ退ける感がムリ。
そう煙がる声は介良の内でのみ木霊する。
一人はそれとして、もう一人は内なる焦りと葛藤する。
そしてもう最後の一人に関しては、憂いを封じ会話を括ろうと腰に手を当てていた。
「さて、もうそろそろ行くぞ介良。私はいまこちらの
貴 人 と城下の物見をしている所だ」
「あ、ああハイそれはもう・・(隠す方向なのか・・)それでは、道中お気をつけて」
寳子は神妙な面持ちの漂の腕をとり歩き出す。
振り向かずに片手を翳し去る彼女を、介良は拝手し見送った。
彼らの背が見えなくなった所で介良も踵を返し場を去ろうとする。
初めはゆったりとした体で、しかし段々と速度がつき始めると気持ち早足に道をゆく。
それが駆けると形容されるに至るまで、そう時間は掛からなかった。
気忙しく為る介良の意志とは如何なるものか。
それは深く議するには値せぬ、彼の内々を出ぬ要領であったがしかし。
(ほーらみろ介殻!やっぱ寳子様は大王の事が好きでしかも両思いなんじゃねぇーかぁーーーッッ!
だァれの目が節穴だってんだ王家の坊のがありえねぇっつーの!!いやっほぉぉおおお!!!)
要するに下世話、と。
更に言えば答に掠るようでいて全くの――――――――
とまァ、そういう事なのである。
介良は一頻り胸中で叫び終えると、深く息を吸い、そして吐く。
揚々と背伸びまですると―――――あーぁ、溜息とも欠伸ともとれぬ音を溢した。
「・・・ま、寳子様が幸せなら。誰でもいいっちゃ、いいんだけどな」
根は、悪くはない。
しかしながら彼も寳子というその者の従者。
主の件に気を置くのも吝かでない。
それが未だ年端もいかぬ娘というのであれば尚更だった。
彼は彼なりに姉妹のような彼女を―――――
従者のように、仲間のように、そして兄弟のように気に掛けていた。
(だが王家の倅、あり得たとしてもテメェだけは一度ハッ倒してからの条件付きだ)
どこまでの恨みがあるというのか。
当人を前にしては絶対に吐けぬ台詞をここぞとばかりに吐き捨てる。
矮小なのではない場を弁えているのだと、その考えはやはりせせこましい。
(あーあ。蒙恬あいつ、本気出してくんねーかなぁー・・)
大王を推す事は勿論だが、別に挙げるとするならばと敢えて名前を出す。
本気を出せば落とせぬ者などいないであろう事から、急遽勝手に列せられる。
義兄弟と見なされる介殻が玉鳳であれば、介良は楽華と中々に気心が知れていた。
(可愛がってくれるお姉サマ好きってのは知ってるし、寳子様の方が一つ年下だけど・・
でも蒙恬が寳子様の背を越すまでは姉弟な感じだったワケだし、今もそういう所あるし・・全くナシってのはなぁ)
無いと思うと、顎の輪郭に手を添え唸りながら道をゆく。
目される反乱に関しては、この時期ともなると大王の傍に側近と近衛が付いて回る。
言うなれば他は固まろうとて邪魔、事が昼に起こる可能性が低い事から介良はこうして出払っていた。
彼の本分は戦場において相違ない。
国内における王の身辺の護りは、それこそ要人以外は衛兵に任せておきたいというのが一兵の思う所である。
更に言えば己は攻め手であると、寳子の護りを遂行するに能う両翼(のつもり)であるからと意識は低い。
故に現在、彼の名目上は警戒の分散と紛れ得るであろう索敵の任。
結局介良は警備という名の足労に刻を割き、ぼつぼつと城下を練り歩くのであった。
(どーなんだろーなー。聞いても躱されるしなー。
・・皆つか、じぃさんとかも推しまくってんのになー)
好きなのは間違いない。
それがどちらの意味かまではわからない。
ただ言える事は、親友という関係が彼らにとって余りにも鉄壁に過ぎるという事。
そしてそれを破ろうとして破ったのが王賁なら、守り続けようとして維持したのが蒙恬だった。
故に介良は有望であろう別を推す。
是非の在り処など知らない。
しかし的外れでも可能性があるならば、是と後者を推したいという彼の節介な理屈であった。
悶々とするが、やがて自分の希望ばかりを挙げても仕方がないと(やっと)気付く。
そして結局大王推しに戻るというのが、介良という男の邪推の定番だった。
はたと立ち止まり腰に手をやる。
天を仰いでは暑いと、彼はぼやいた。
「頭が良いから放蕩息子なんてのも出来過ぎてて、他も巧くやってられるんだろーが・・
・・・このままじゃほんと、バカしか見ないぜお前」
底の知れぬ器とは知っている。
道化になりきれればまだ僥倖。
しかし愚かに後悔して終われば、それは単なるバカだと呟いた。
(周囲も、殊更友達も大事にすんのはいいけど。
・・いい加減自分の事も大事にしてやんねーと、はち切れちまうぞ)
知らないが、知っている気でいるという。
聞いて躱されて流されて。
どうしても言わないというのなら、邪推ぐらい許してもらわねば割に合わない。
受け流す事が得意と言っても大概、限界があると口を尖らせる。
立場上は蒙家の子息と中流家格の一兵であるが、
共に酒を楽しむ分には、彼らはそれを飛び越えてゆける程度の間柄であった。
「(少なくとも今の仲良し小好しを止めたら誰が一番困るかって・・一番わかってるのはお前なんだよな、蒙恬)
あーあっ!口では苦手っつっても向こうの倅を応援するくらいには友情感じてるっぽいしなー!
何よりあいつ他にも目ェ移して紛らわしいんだよっ!あの甘えた好きの甘えベタめっ!!」
突然声を上げる介良に行き交う人々の視線が集まる。
しまったと体面繕うが、中々に渋いと悟ったのか足早に場所を移す。
(俺はお前が本気ならっ!あの方かお前かってんならお前だからよッ!!
逃げてばっかいんなよなァほんっとーにわかんなくなっても知らねーぞっっ!!!)
間に合わないとて知らないと。
しかし友を突き放すなど出来そうにない 矮 小
が言うのだから、これがまた説得力に欠けた。
華麗で巧みで飄々として。
でもやっぱりお前みたいな奴が損をするんだと、介良は思い憚らない。
「はー・・ ・・・今度陸仙とっつかまえて色々聞かねーと」
全速力で走り抜けた為か息が上がる。
深く息を吐きまた吸うと、まだまだ言い足りないであろう文句の全てを呑み込んだ。
20130628
介良と別れた寳子達は、あのあと刻限を押しに押してやっと帰路についていた。
既に黄昏より暗く、昇りきらぬ月が鈍い光を湛えていた。
「しっかりと後を付いてきて」
声を潜ませて先導する。
明瞭な彼女の様は暗がりでもよく映えた。
出た際と同じくして城壁を容易く通過する。
何を危ぶむでもなく、彼らは難なく移動を終えると大きな広間に出た。
「ふうっ、ここまでくれば安心。あとはこの先の門を抜けて帰ろう」
「あれ?人がいない・・」
「朱亀の門は破られない事が前提だから、こんなに豪壮で如何にもな様でも警備が他と違って緩い。
今は交代の為に離れてて、一刻は見て大丈夫」
そしてその交代はついさっきの事であると、体制を知る寳子は悠々と微笑む。
これに漂はいい事を聞いたと袖の内を探り始めた。
「・・暫く時間があるな」
「え、そんなには」
彼の声に反応し、寳子は其方を傍と見やる。
漂は昼間買った紐を取り出していた。
「髪、ほどいて?」
「え!あ・・」
何もこんな場所でなくてもいいだろうに。
湯を浴み部屋に戻ってからでも遅くはないと、寳子の思いが顔に出る。
それを漂は察するが関せず、悪戯に手を伸ばすと彼女の付けている髪紐を解いた。
「ひゃっ!? ・・〜〜っ・・ ・・・漂っ!?」
彼の名を呼び、非難の体で対するが如何せん迫力がない。
寳子は急な事に頓狂な声を上げてしまい、そんな自分を恥じる。
それも併せて、参ると。
漂は至極困り顔で両手を持ち上げると彼女の髪に触れた。
「髪おろしても、すごく可愛い」
「なっ!ば・・ ・・・・・・・・・・・あ、ありがとう」
消え入る声以上に彼女の存在が、彼によって少女のそれらしく小さく、可愛らしくまとまってしまう。
ここは否定するより受け入れる方が穏便であると、寳子は漂と通ずる上で学んだ。
寳子のこの行動は彼女を知る者からすれば別人と見紛うほどの上達ぶりであった。
「剣を持つとあれだけ凛としてるのに、すごいな」
「そ、そんなこと・・ ・・それなら貴方だって」
「え?」
「・・・ ・・なんでもない」
剣を持つと変わるのは目前とて同じと、しかし恥ずかしさの余り寳子は口を噤んでしまう。
そんな彼女を前に、不思議なものだと漂は微笑む。
見える黒赤こそ闇に溶け込むというのに――――――彼女の赤く火照る顔は、暗がりでもよく映えた。
「でも、その。変でしょ・・髪。
左右の長さが違ったり、一方で真直ぐ過ぎる程に揃ってたり」
「変じゃないよ、いい意味で変わってるなとは思うけど。・・前髪も自分で?」
「・・仕官すると決めて、憂いなくする為に・・・切った」
「・・・憂い?」
「はは、・・大した事じゃない」
口早に話を終えようとする彼女の腕を取る。
言え、とは言わないが、聞きたい。
聞かせて欲しいと暗にする漂の気迫に負け、寳子は一拍置くと手短に事情を説明した。
後宮にあって髪とは、その場の地位を定める女の肝心な武器であると言う。
後宮とは見目がものを言う女の戦場であり、例えば衣もそうであるが、これにも一口には言えぬ格というものが存在する。
色形から合わせにも気を遣わねばならず、怠れば相応の扱いというものが待っている。
中でも髪とはそのものだけでなく、付ける装飾にも気を配られるものだった。
格とは発言力の元となり、教養や立ち振る舞いはそれを後押すのに役立つ。
女の鎧とは着飾る高品であり、刃とは見事に縁取られた口そのものであった。
家格を無視し、大きく振る舞えば打ち砕かれる。
それぞれは弁えた位置から己を着飾り、個々の存在というものを確立しなければならなかった。
故に髪を短くするという事は片腕をもぐのも同じ。
これを若王の力となる為に切り捨てたというのだから、
彼女の生半可な決意のそれではない事を裏付ける、最たる行動であった。
(大王様・・あなたは)
原因が己にある以上、止める言葉など持ち合わせてはいない。
王自身、不本意であったろう事は容易に想像ができた。
しかしそれが彼方の弱みであるならと、その威を借る影は彼女に歩み寄る。
(あなたは自ら、彼女を手放したんだ)
手の内にあるものを掲げる。
赤い紐を月夜の晩に、彼から彼女へと繋ぐ。
触れる髪が指を滑る。
くすぐったいと、漂は笑った。
「・・よし、これでいい。
似合ってるよ、寳子」
「わ・・ ・・ふふっ、うん。ありがとう漂。
これ、あまり見ない結び方だね」
「そう、かな。俺の村じゃ普通だけど」
「村によって様々に違いがあるそうだから、きっとそれだと思う。
・・店で見た時は色が少し―――、だったけど・・こうして貴方に贈られて付けてみれば、変わるものだ」
同じものとは思えないほどに気に入ったと喜ぶ。
約束と、漂は真っ赤な紐で彼女の髪を結い、寳子は新たに飾られたそれを大事そうに撫でた。
「不思議・・・」
「え?」
掛けられる言葉、贈られる品。
漂から齎される全てのものが違うと言う。
きっと貴方は特別なんだと、そう素直に面と向かって述べる寳子に漂の方が参ってしまった。
(はぁ・・ ・・駄目だ、ちょっと落ち着こう)
漂は音もなく顔を手で覆い黙る。
それを寳子は慌てて、覗き込むようにして気遣った。
鼓動が全身に滲み、広がりゆく感覚を覚える。
何かにつけ苦しい事は勿論であるが、それ以上に危ういと何度も深く息をする。
怪訝な体はこの際である。
しかし目前の、相も変わらず不思議に見つめ、窺う当人など―――――憎さを通り越して如何ともし難いのだからただ辛い。
内の熱はそのままに、漂は寳子に正面から相対する。
欲は鳴りを潜め、決意の熱へと変わっていた。
「寳子、約束しよう」
「約束?」
「全部うまくいって、一緒に秦に戻れたら。
・・この広場で。王宮の見えるこの場所で―――――
もう一度二人で会って、そして話をしよう」
そうすればやっと、彼女に個人として接することが出来る。
王の影という威を解いても漂という名で以て、彼女に向き合う事が出来る。
「今はまだ言えないけど・・
俺は君に誓いたい、確かめたい事があるんだ」
二人はどこか、その意味を通じ合せていた。
「・・今じゃ駄目?」
不安げに見上げる彼女の手を取ってしまいそうになる。
話して、その存在を縛り付けてしまいそうになる。
「今じゃ・・ダメだよ。それを励みにしたいから」
「励みに、なるの?」
「なるさ!」
たった一つの口約束で得られる自信、その程に彼自身が惚けてしまう。
情けないほどに、愚かなまでに強気でいられる。
これが惚れた弱味なら悪くない。
当然と、頷いた。
「うん。わかった。
それで漂が頑張れるって言うなら。・・漂がそうしたいなら、それでいい」
満面の笑みを浮かべる。
寳子は漂の全てを信じていた。
―――――言ってしまいそうになる。
強気のままに口走って抱き締めてしまいそうになる。
両の手が彼女を求めて持ち上がる。
少し震えると、抑え込むでもなく、脱力した。
「いま言ったら、寳子の枷にしかならないと思う。・・今も、この先も」
自分のものに、してしまいそうになる。
「え」
「ははっ!ちょっと自信過剰だったかも!・・」
ごく僅かな距離を 埋 め
な い 。
君が好きだ。
影でなく友としてでもなく、漂という一人の男として君が好きだ。
王にも他にも渡さない。
俺だけが必ず君を護る。
互いの夢に寄り添い合おう。
傍で同じ夢を見続けていこう。
身分の差なんて必ず埋めてみせる、だからその時は―――――――
今この時の約束を果たして。
俺たちでなきゃ駄目なんだって、想いを確かめ合えたなら。
―――――その時はまた二人で、遠い、思い出になるような約束をしよう。
そしてまた果たしていこう。
別たれるまで、共に在り続けると誓う。
(だから今は言わない)
今すぐに言いたい、しかし言う訳にはいかない。
いま言えば彼女の枷にしかならない。
漂は先への願いを込めて、いま、彼女と約束をした。
いっそのこと、このまま彼女の手をひいて秦から脱してしまおうか。
(なんて事は、本気で二度は思ったな)
馬鹿か。
(・・信にもバカって言ったけど、俺も大概馬鹿だ)
自分の夢も彼女の夢も、そして友との誓いも全て放り投げようというのかと。
本気を冗談と捻じ伏せる事の苦さを、このとき漂は初めて味わった。
(寳子。俺は君に、本当の事しか言ってこなかったつもりだ)
不思議な紋様だと思った。
それ以上に綺麗だと思った。
(呪いなんか信じない)
「漂・・?」
(毒なんてもうかかってる)
重症であると、しかし漂は治す気がない。
いっそ底が見えるまで煽って見せると器ごとを所望する。
(そんなに気になるなら俺が全部吸い尽くしてやる。
彼女の傍に居続けて、君は君が嫌うほどの子じゃないって証明してやる)
それも約束であると言わんばかりに胸に刻む。
永く時をかけて、また教えたいと言う自分に懲りないと笑った。
返事もせず翳る漂を、寳子は不安げに見つめる。
中々に話し掛けづらいと、そんな彼女に彼も気付く。
漂は辛うじて一定の距離を保ちきると、天を仰いだ。
「あ・・ ・・・・月があんなに高く。ごめん、どうしよう話し過ぎたっ」
「ゆうに一刻は・・
でもおかしい、それなら・・・ ・・えっ!」
それなら衛兵の声が上がりそうなものであるがと、寳子が周囲を見渡したその時だった。
昼間金品で遣り取りしたその者が、腕を組み遠くから彼らを見詰めていた。
「・・・ふふ。しっかりしてる」
「え、あ・・どうしよう寳子、報告され―――――」
「大丈夫」
言うと彼女は懐から金子の鳴る袋を取り出す。
遠くからも見えるように大袈裟に掲げると、それを足元に置いた。
「・・なるほど、しっかりしてる」
「私達に合わせて交代してくるなんて、物見との連携もとれてるらしい。
とにかく怪しい影でも音でも聞いたら逐一報せろとでも言ってたんだと思う」
全くああいった類は賢くて助かる。
お陰ですっかり身が軽くなったと、
その場で一度飛び跳ねてみせる寳子に漂は思わず笑ってしまった。
「あははっ・・あの人もそうだけど、君もしっかりしてる」
「えっ!あ・・・」
一緒になって笑う彼女は己を顧みる。
出入に際し打算に過ぎる体を晒したと、気付くなり頭を抱えた。
「こっ、こういう時だけだからっ!
無闇に事を荒立てたくない時だけっ・・あぁでもっ」
狼狽え繕うが、事が事なだけに直ぐ綻びる。
一方の漂はそこまで追い詰める気など更々ない。
しかし寳子の必死な体に、気安く声を掛ける訳にもいかない。
とは建前で。
結局はあたふたと身を小さくする様子がいじらしいやら何やらで、
彼は主に自分本位な理由から、とても横槍を入れる気にはなれなかったのである。
「だってどうしても・・ 二人で外に・・・」
行きたかったからと、段々に消え入る声は弁明する。
金品で路をこじ開けるなど、可愛げの欠片もない行動だとは彼女も気付いていた。
そして漂も寳子がそう思い気落ちするであろう事をすぐさまに見抜く。
言の食い違いはあれど、根本の部分で彼は彼女を深く理解していた。
(こうやって話す自分を鏡で見せても、寳子は納得してくれないんだろうな)
完全に消え入ってしまう前に漂は彼女の手を取り走り出す。
上がる声も気にせず、寳子を引っ張ってゆく。
もはや押さえ付けるに難い情を逃がすべく直走る。
彼らは元来た道を揚々掻い潜り、足早に駆け抜けていった。
部屋に戻るとのち、一通りの平時を済ませる。
ただいつもと違うのは、鍛練の時とは違う、全身を巡る小気味よい倦怠感だけである。
一息吐くと寝床の縁に腰掛け、そのまま後ろへと倒れる。
暫く足をばたつかせ子供の様にはしゃぐと、どちらともなく手を繋ぐ。
日の終わりを告げる歓談の、最近の二人の気に入りと言えばこれだった。
「・・・寳子、ねむい」
「・・・・寝ちゃだめ」
意識の覚束ない漂は何度も瞬きをするが、その感覚が緩く、深いものになってゆく。
「今日を、大切なこの日をまだ終わらせたくない・・」
「ん・・ ・・・あんなに騒いだから、でも・・瞼が」
「うん・・・」
寂しそうな声を上げる寳子の手を、漂はしっかりと握る。
瞼は閉じてしまったが、まだ意識はあると言葉なく伝えた。
「楽しかった」
「楽しかったね」
「・・・・・・」
「・・、漂?」
返事が急に途切れ、寳子は心配そうに彼を覗き込む。
次第に気付くと彼女はそれ以上語り掛ける様子もなく、繋いだ手を指でなぞった。
(あ、一瞬寝た)
何やら手がこそばゆいと薄く目を開けるが、また力なく閉じてしまう。
微睡みの中、暫くして漂は意識を戻すも反応を返すには難い。
寳子は未だゆるゆると淡く擽り続け、そして彼の手に額を寄せた。
「寝ちゃったか・・」
(・・ ・・・起きづらい)
触れる彼女の髪もまた擽ったい。
このまま擽り返してやりたいが中々に状況が不味い。
だからといってずっと目を瞑っていれば寝てしまうと、漂は何とかして意識を保とうと努めていた。
「貴方と初めて出会った時・・まさかこんな風に手を繋いだりする仲になるなんて、思ってもみなかった」
彼女の独白に耳を傾ける。
(俺も・・)
心の中で返事をするのが精一杯だった。
誂え向きと言っては語弊がある。
しかし彼女の言に反応し、返す事で意識を保つ事ができる点においては他を置いてない。
「目前の睨みを利かせる女が一端の兵気取りで。
それが自分の教育係と知った時、貴方の気持ちは穏やかじゃなかったろうな・・」
(正直恐かった。
けど・・ 初めて見た君は、宝玉みたいに綺麗だと思った)
だから『寳子』という名を聞いて、ああ―――――その通りなんだって。
(何でだろうな・・そう、思ったんだ)
きっと外見が珍しいからだけじゃない。
大切な、宝のような子と名付けた人の心がわかった気がして、俺は嬉しいと思ったんだ。
「情を教えてくれなんて・・無理な話も聞いてくれて。
一月前の私と今の私とでは、殆ど別人と言っていいくらい・・内が違うのがわかるの」
(うん・・)
「貴方のお陰で私は、ちゃんと・・ ・・・・」
(・・・・・・・)
教えたのか、教え込もうとしたのか。
誰 の も の で あ っ た の か 。
その始まりについては、もはや定かでないと記憶の隅に追いやる。
「文身を見られた時は・・ふふっ。
あの時は貴方が無茶を言ってくれたお陰で、随分体が軽くなった」
(思い出すだけで汗が噴き出てきたっ・・)
紅潮する顔を隠す事も、汗を拭う事も現状儘ならない。
寝汗と気付き、漂の顔に指を滑らせる寳子に罪はない。
余計に上がる体温を気遣うより他、漂に選択肢はなかった。
「見苦しい体も晒してしまって・・その。でも改めて、というか。
私はそういった魅力がないんだと、痛感させられたというか・・はは。・・・はぁ」
当時からすれば救いの何物でもない。
しかし後から考えて見れば、それはそれで問題だった。
無味乾燥な笑いの後に、小さく溜息の土産まで付ける。
まさかそんな事を気にしていたとは露知らず、いや気にされるとも思っていなかったぶん彼の内に妙な感動が興る。
漂は否定と、そして歓喜に上げてしまいたい声を必死に堪えた。
(・・・文身を見て、始めこそ俺も必死で。
どうすれば傷付けずに済むかって、本当にそれしか・・ ・・君の事しか考えられなくて)
彼女の拒絶をどう受け止め、受容を賜るか。
想像を超える真実に直面する者というのはこれほどまでに無力なのかと、弱者と強いられる状況。
その状態からの回らぬ頭で答えるのだから紛れもない真実と、
しかし実際の意識はその問にまで達してはいなかったろう。
『綺麗だよ』
普段から見える外見からも宝なのだから、何ら不思議と思おう筈もない。
宝を飾るそれもまた宝であると、
咄嗟に出た言葉が嘘である筈がないと、故に漂は寳子の疑心に噛み付いた。
欲よりも想いが最上であったに過ぎない。
しかしそれも当時からの、状況限りであった事は漂自身の知る所である。
実際に彼も後、反する内を抑えられず思い返す事もあった。
反応しない訳がない。
ただ言える事は
(次、またあんな事が起こった時は・・)
自信がない。
それだけを胸の内で呟いた。
「でもあれを見られてからは、もう偽らずに済むんだって・・
貴方の前では何でも曝け出していいんだって、そう思えるようになった」
共に水浴びをしない言い訳も、戦の後の手当てを他にさせない理由も。
そんな他愛もないと思える言を一つ吐く度に、彼女の内に積もるものがあった。
仕方がないと諦めていた。
高く積もるそれを顧みては常套と、感慨さえも失せていたというのに。
その人は蹴り上げ、崩して傍に居ろと言うのだから、どうしようもなかった。
(曝け出すなんて、それこそ嘘だ)
そんな彼女の感謝など知らぬ存ぜぬ、当然を為し得た彼にとっては推し量るべくもない。
(君は俺にだけ絶対に、曝け出してくれないこと。あるだろ)
それも沢山。
強情な君だから、しかしそれでいいと問題がある訳ではない。
力んで握る手を少し返してしまったかも知れない。
彼はただ惚気たいだけだった。
「二人でいる刻の一つ一つが大切なものなんだって、今ならはっきりと言える。
・・ふふっ。薬湯だってそうだったんだよ。
教えて去ればいいものを、教えなかったのは・・貴方と少しでも居たかったから」
あんな所でも一緒に居続けたいなんて可笑しい、どうかしていると苦悶に照れ笑う。
何かにつけ言い訳をする、似たような場面が幾つもあったと寳子は指折り、そして同時に気が付いてしまった。
「あ・・ ・・・私、曝け出せてない」
(ほらみろ)
漂だから曝け出せない事もあるのだと、
つい先程の自分と思いを同じくする彼女に彼は、吹き出しそうになるのを何とかして堪えた。
独白をすればするほど
独白に返せば返すほど
彼らは自分の想いを確かめ合う。
本来の意味を得るには程遠いであろう状況の中。
それでも示さずにはおれない理由を、彼らは無意識の内に知っていた。
「漂・・」
ふいに寳子が語り出す。
再び開けられる口は、重い。
「王賁との事で取り乱した時、私を受け止めてくれてありがとう・・」
予想外、という訳でもない。
しかしこの場においてこの名とは、些か気忙しい。
「貴方がいなかったらと思うと、私」
誰にも言えず、一人耐え凌ぐには余りに過ぎるものであると。
それは繋ぐ手から厭という程に伝わった。
「そこまで思うのに、それでも私は彼と友で居続けたいと言うのだから・・どうしようもない」
(わかってる)
その培った思い出とやらは知る由もない。
故にこちらの知る由の限りという奴で対抗するしかない。
(俺が君を守るっていうのは戦場だけじゃない。
・・・どうしようもないってわかってるから、俺もその心算で動けるんだ)
算段がつく。
なら釘でも剣でも矛でも刺して全力を以て食い止める。
そんな意気で臨める理由など、漂には厭という程にわかりきっていた。
「貴方は私を繋いでおいてくれる」
(だって君は『どうしようもない子』なんだって知ってるから)
「お願い・・この手を離さないで・・・」
(離さない。今もそうだ、この手を離す時は――――――)
君の為と思える時でしか、有り得ないから。
「離れないで・・離れたくない・・・」
(寳子・・)
「ずっと、いていい?
私は、貴方の・・漂の傍にずっといたいって、思って・・・」
(ちょ、あ。マズい。寳子からじゃ、あ、じゃなく、うわどうしようでも俺起き、うわ)汗出てきたっ
このままではこれまで耐えてきた事の全てが無駄になる。
言う訳にも、言わせる訳にもいかない言葉がある。
それを危惧し、漂がついに起き上がろうとしたその時だった。
「きっと漂なら、もっとずっと美しい・・良家の娘が本妻にと名乗りを上げると思う。
でもそれを娶っても・・私は、私を・・・ ・・・・漂は」
「―――――――は。」
別の意味で清々しいと、括目し声が出た。
起きようとは思っていた。
しかし実際は起こされたと言って過言ではない。
寳子の不穏当な発言に、漂は完全に目を覚ました。
「えっ!?ひ、漂っ・・あなた起き「 い
ま 起 き た 」
覚醒という意味であれば間違いではない。
ならこれ以上の追及は野暮というものである。
呆気に取られぬ訳がない。
これは双方に言える事だった。
(起きてたんじゃないもぉーーー起きてたんじゃないッッ!!!
きゃぁああ私なに言ってたっ!?いやーーっ思い出したくもないッ!!!)
(何て言ってた、え。他の、妻とか言ってた?え?・・ははっ、 な ん だ そ れ 。)
掛け布に包まり逃げようとする寳子を制し、漂は半ば強引に捕らえる。
耳の先まで紅潮する彼女の目には涙が浮かぶが、今はそれに気を割いてやれる余裕が彼にはない。
「・・・急に捕まえてごめん。でも寳子、それ本気で言ってる?
こ こ ま で き て 」ねぇ。
「いっ、痛い痛いいたいっ!はが、羽交い絞めるなぁっ!!」
「こんな事もあろうかと信と特訓してた」
「そんなこと聞いてないっ!」どんな想定だっ!
このままでは埒が明かないと漂は潔く縛りを解く。
咳き込み節を擦る寳子の目は更に潤み、彼をジト目で睨んでいた。
聞けば見目も良く、それが功をあげて位を得れば放っておく家も娘もいないと言う。
好きに娶る事ができるし、自分とこうしていてくれるのも時間の問題であると遠慮がちに―――――ご丁寧に乾いた笑いまでも呈し、肩を落としてくれる。
当の漂にとっては寝耳に水どころではない。
いきなり水音が聞こえたと思えば全身に水を被る程の衝撃と言って相違なかった。
「逆に訊きたいっ!私は何も変なこと言ってないぞ!!」
あ、ダメだこの感じ。
毎度の如くの堂々巡りを瞬時に察する漂。
しかし対寳子に熟達した彼に死角はない。
「(はぁ・・)俺の村じゃ結婚って、男と女、一対一なんだけど」
「規模というものがあって・・!貴方は村のそれに納まる気はないんでしょう!?」
「なに、偉くなったら絶対多くを娶らなきゃいけないの。
俺は好きな人とだけいたいし、その人とだけの子供が欲しい」
「だっ、大将軍になるんだろう!!
次代が必要になる!武の頂ともなれば子も多く儲け、血を残さねばならないっ!
格を持つという事はそれなりの人の目というものがだなっ・・(何だ既視感がっ!)」
「それとこれとは別だから。
でもそこまで言うなら、たった一人のお嫁さんに
そ う し て も ら う けど。
・・俺は俺の目だけで選ぶ。もう決めてるし、余所見をする気もない。はいこの話はここまで」
言いたい事を言って打ち切る。
話し合いではなく言い合いであったが、それで構わない。
彼女とて此方の気も知らないでずけずけと言うあたり相子であると、もはや漂は開き直る。
内容の危うさなどこの際である。
どうせ謙遜という名の卑下をして、気付かない気でいるのだからと、彼は限界にまで己が好意を寳子に寄せて話した。
いっそ自分かと気付きかけて否定をするという連鎖に陥り、多少は苦しんでくれとさえ思える程に漂の心は荒く揉まれていた。
暫くの沈黙の後、目前の彼女が顔を上げる。
めった打ちにされたと、した本人を前にそれは心許ない体で呟いた。
「だって私は・・ ・・、貴方は、その。可愛いと、言ってくれたけど」
自信なんてものは元から持ち合わせていないと、聞こえるか聞こえないかの、実にか細い声で発する。
漂に言われて初めて、慣れぬ心でやっと拱くようになった程度なのだと、彼女は懸命に伝えた。
「・・・・・・」
「・・・それでも貴方が言ってくれるならと、自惚れる自分に恥じ入る始末だというのに」
人の気も知らないで。
そんな声が聞こえる気がするが、己が内に忠実な漂はそれ所ではない。
まただ。
また、赤くなって。
女の子がこうして身を小さくする理由はきっと、抱きしめられやすくする為なのだろうと、朧気にそう思った。
(はぁ、・・もう好きだ。俺は君が好きだ)
「は、はっきり言ってくれていい。私の貌など取り立てて何というものでもないし・・」
( 好 き だ 。)
「褒められても、妙な心地だし。言われ慣れて・・ないから。
髪が綺麗だとかは、蒙恬が気遣って言ってはくれてたけど・・」
それさえ初めは風変りな自分の体を自覚し、故に過剰に反応してしまう時もあったと申し訳なさそうにして寳子は顔を伏せる。
中々に根深いものだと、そういう所がまた可愛くないと自嘲した。
これを惚れた弱みが放っておける筈もない。
「じゃあもうはっきり言う。
(好きだ好きだ大好きだ―――――――ってあぁもう!!)
俺は何がって事じゃなくて、君の・・」
君の事がと、伝えきろうとして留まる。
この先はない。
先の言を持たずの両者にこれ以上はない。
漂は想いの丈を呑み込むと、寳子に部屋を出るよう促した。
「・・・、もう寝よう寳子」
「えっ・・」
避ける事に慣れ過ぎていて。
避けられる事が当然だと、きっと気が緩んでいた。
「好きだよ」
そして彼女は思うだろう。
そも懸念として上がっていたのは容姿の件だ。
好きと聞こえる言葉の大体はそれに掛かるだろうと、これも寳子を前にした彼の算段というものであった。
(ん?)
しかし算段の結果は予想外の方向へと答を導く。
事態の妙に気付くも、自室へと戻らない寳子に漂は繋ぐ手を握り返す。
先の一手を打ち出したのは寳子の方だった。
「あのね、漂・・」
その眼差しはまるで熱に浮かされるかのように、しかし真直ぐと彼を見る。
「え・・」
「あの、私・・ ・・・」
いざ情の先が現実味を帯びると、理性を盾に身を引いたのは漂の方だった。
これから起こり得る、僥倖に過ぎる災厄というものを感じ取った故の事である。
(まさか、いやでも俺っ・・)
確かに、言ってしまった。
算段と言ってもそれを知るのは当人のみ。
あてが外れれば勿論、伝えられた答はそのものだけの意味しか持ち得ない。
上がる懸念を通さずに受け入れられたその言葉は、
憚り禁じられていた彼らの先の答えに他ならなかった。
(馬鹿野郎―――――――――ッ!!!)
何を呆気としているのかと、振り返ってももう遅い。
好きだという想いが零れ出ただけ。
好きだという器で受け止めただけ。
反するか否かなどそんなものは念頭にない。
漂が握り返した手を、遅れてやっと寳子も握り返した。
(駄目だ)
「私も、そうだって・・思った」
(言っちゃ、だめだ・・・!)
言わないでくれと。
言い出した者が制するのだから、道理に合う筈もない。
「私も、だって。
貴方がいま言ってくれた言葉で、確信が持てたから」
(どれだけ言うまいと必死にっ・・君だってわかってる筈だっ!!
俺は死ぬかも知れないのに!俺達がこの先も一緒にいられるなんてそんな保障、どこにも―――――――)
ありはしないのに、と。
そこまで思い
ふと
何を言っているのかと、漂は自分に問いかける。
夢を、思い出した。
「・・・ ・・寳、子」
「漂、私―――――――」
思えば大望を抱く身が何をせせこましい事をと、笑ったかも知れない。
それでも躊躇ったのは、偏に彼女がいたからであると。
二人の夢の先であるからというその一点に尽きると、漂はまるで懐かしむ様に思い返す。
「あれだけ君を守るとか言って、先の事ばかり言ってたくせに。
それなのに今回の、王の身代わりになって死ぬかも知れない作戦を一番恐がってたのは・・」
想いが募るほど、恐怖が増していった。
言えば彼女を縛る。
きっと想いは叶う。
しかし願いが死ねば枷となる。
(寳子、君は・・・)
犠牲になってくれるか。
傷付いてくれるか。
この一時の想いを通じ合う為に、後悔してくれるのか。
王の影の、独りでに歩き始めた想いは自らを許し始める。
彼は彼女に、悲しみを強いる選択をした。
「ごめん、ごめん寳子。・・駄目だな俺。
もう限界だって気付いてて、それでも言わないでおこう、大切にしようって・・ ・・・でも、もう無理だ」
必死に、悔しそうに。
それでも決した想いを喜ばずにはいられないと微笑み、どこか諦観の念さえ感じられる。
涙声で伝える漂に手を伸ばす。
慰めるかのように寳子は彼の頬に手を当てる。
彼はその手に己が手を重ねると、彼女の肩を抱いて引き寄せた。
「寳子、俺はっ・・!」
「ぁ・・」
額と額を合わせる。
吐息までもが届く距離。
漂が両の手で寳子の頬を包む。
彼女は、必死に己が存在を捉える彼の手に自分の手を重ねた。
どちらともなく身を寄せる。
もう意識でも、言葉で以てしても阻む事は出来ないと、
両者共に強く引き寄せたその時だった。
『!』
止まり、神経を研ぎ澄ます。
触れ合う寸での所であった。
肩を抱きながら、しかし先程よりも比べて間を取る。
二人だけではない、彼らの居る部屋から廊一帯。
広く王宮、王都に至るまでの強大な騒めきを彼らは感じ取った。
「・・漂」
「ああ。来る」
漂が寳子を庇うようにして立ち上がる。
足音を立ててこちらに向かう者が数名。
彼は隠しておいた剣を取り、倣って寳子も帯剣する。
二人して扉の左右に侍り構えると、その者達は騒ぎ立て乗り込んできた。
「支度をしろっ!!奴らが仕掛けてき―――――――」
声を張り上げる壁の首には二本の剣が宛がわれる。
冷や汗が床に零れ落ちると共にそれは下ろされた。
「壁兄でしたか・・」
「壁副長、妙な騒めきを感じますがこれは」
「(謝罪は無しなのかっ!)しっ、知れているのなら話は早い!
―――――作戦開始だ二人ともっ!急いで本隊と合流するぞ!!」
王弟竭氏の反乱の幕開けである。
覚悟はしていたものの、二人に戦慄が走る。
今この時を以てして、決死の作戦命令が下る。
寳子は秦国兵として、そして漂は王の身代わりとして立ち上がった。
最低限の用意を最速で以てして部屋を出る。
このとき漂は壁に連れられ、護衛の待つ御車へと向かい、
そして寳子は昌文君と合流する為に別の路を行く事になった。
「っ・・寳子!!」
「!」
別を行こうとする彼女の腕を引く。
行先とは違う方向へと強引に寄せられた寳子は、反動で漂の懐に納まった。
「漂!どうし・・」
「君との約束を、破らずに済んでよかった・・!」
つい先程の光景を思い出す。
不幸中の幸いとも言い難いが、お陰で反故にせず済んだとその表情は曖昧だ。
しかし状況に任せて事を起こさずに済み、未だ交わした約束を抱いていられると彼は嬉しそうに語った。
「また咸陽へ戻って、あの広場で。
その時に俺はちゃんと・・君に、改めて言うから」
「漂・・・」
「何をしてるんだ二人とも、早くっ!!」
壁が急を以て捲し立てる。
漂は一層に寳子を抱き締め、そしてもう一度その言葉を口にした。
「約束、必ず守る」
「うんっ・・・うん、約束・・ ・・きゃっ!?」
また戻ってこられるように。
目印である。
まじないの類であると、漂は寳子の額に口付けた。
「・・これで絶対に、見失わない」
吃驚と共に茹で上がる。
固まる寳子を見留めると、漂は優しく彼女の体を突き放す。
これで叶えられると、彼は微笑み壁と共に去って行った。
「遅いッッ!!」
「すみませんっっ!!!」
一方の寳子は遅れて昌文君と合流を果たす。
眺めれば私兵は皆騎馬し、支度を終え待機の様である。
そんな中、肩で息をする彼女は明らかに落第者だった。
「我らが脱するは既に敵の知る所!要所は味方が塞ぎ耐え凌いでおる!!
まずは奴らの手の届かぬ拠点まで移動し、大王と合流してこの窮地を切り抜けるぞォ!!」
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!
私兵共の応とする声が上がる。
此度の逃げ腰に関しては遠慮はいらない。
多くの犠牲の上に成り立つ栄誉ある撤退。
全力で脱出せよとの達しに、全兵の士気が上がった。
早急に移動を開始する。
先頭には昌文君、引いて後ろに寳子、私兵の順に赴く。
その中でも寳子は頻りに額を気にしていた。
不味いと、触れては心が乱れるのを感じる。
作戦前に何をと、彼女は自分の両頬を叩くと真直ぐに前を向く。
頭を切り替えようとすると、もう一つの懸念が浮かび上がった。
(赤蒐、黒黎、白綸・・殿の屋敷に囲ってはいるけど)
愛馬の心配をせずにはいられない。
万一の為にと最近は厩舎の柵は開け、繋ぐ縄は緩めてある。
これには何を慰めるでもない。
今を乗る馬を撫で、そして得物を剣から矛へと持ち替えると意気良しと振るう。
一喜一憂と、気の晴れぬ彼女を怪訝に思いながらも昌文君は、遅れ来た者に作戦の次第を伝えた。
「別動隊が西門より出て奴らを引き付けておる。
儂らはこれより『大王』を乗せる御車と合流し別路から脱する」
「は、はいっ。 ・・あの殿、『贏政さま』は・・・」
「既に脱出しておられる。・・今日の夕頃より既にな」
「!?」
聞いていないと、騎馬していなければ食い付いたであろう答に、しかし彼女は上体を寄せるだけで精一杯だった。
それでも両者はぶつからぬ程度に寄り、互いにのみ聞こえる位置で会話を続けた。
「念のため早めにと決断したが、まさかその日に奴らが手を出して来ようとは・・」
「何故私を護衛に付けては下さらなかったのですっ・・!」
「儂や他の側近の者が動けば余計怪しまれる。
彼の方は荷と共に、信用の足る者達によって運び出された。・・それにお前は今日、
動 け た のか?」
「・・!」
全ては知っていると、それは目前のみではない。
今は遠く身を置くその人物も知る所であると―――――それは、言わない。
「心外です!! 私はこの国の兵士で、それも大王近くの者であり、またその誇りを持って・・
一体何を躊躇う事がありますか!王を前に、何をっ・・!!」
心底に悔しがり、情けない声を出す寳子。
それを見て昌文君の投げ掛ける答とは、誰に向けるものでもない。
「そういうお前じゃから、大王は」
「え・・・」
手綱を握る手が緩む。
上体を崩しそうになるその瞬間に、助けの手は差し伸べられた。
「ぼうっとするな寳子!作戦はもう始まってるんだぞ!!」
「ぁ・・壁に、副長っ!」
胴を抱えられ、身を預ける状態から姿勢を正す。
互いに状況を確認し合うと、彼女の気掛かりといえば一つだった。
「ありがとうございます壁副長、あと、あのっ・・」
「・・全く、目先に何があるかもわからないのか?」
言われて傍と、目前にある御車に視線を移す。
内に籠る誰彼は、小窓から見知る瞳を覗かせていた。
それを認めるや否や、寳子は限られた時間のなか、急ぎ駆け寄った。
「漂っ・・!」
「寳子・・っ!!」
近付き、か細い声で。
しかし重く互いの名を呼ぶ。
ほんの短い間、一刻経とうかという空白である。
大王と兵士として顔を合わせる二人は、それでも僅かな間を通して手を繋ぎ、かけがえのない存在として確かめ合う。
まるで随分離れていたと、御車が動き出すまで彼らの手は固く繋がれたままだった。
「貴方は必ず、私が護ってみせるから・・!」
「―――――――――――」
力強さが手から伝わる。
これを負けじと、漂は握り返した。
号令が掛かり二人は分かたれる。
名残惜しいと、しかし再び手を取る為に離すのだと、両者はそう互いに言い聞かせた。
御車が動き出し兵が周りを囲む。
すぐ傍を壁、殿(しんがり)の位置に昌文君とそれを補佐する寳子が就いた。
(王を護り、身代わりとなる事が影である俺の務めだ)
大任であると。
夢と引き換えのそれは、決して軽くはない。
だからこそと。
彼は夢と命と、そして約束を胸の内に掲げた。
(そのあと誰を護るかは俺自身の意志で決める。
約束がある。・・破っちゃいけない、大切な約束が)
門を抜け、広々とする荒野に足を踏み込む。
御車を護る様にして隊は組まれ、『戦場』に立つ。
大王側は先の未来と、多くの犠牲をもって王都咸陽を脱出した。
ただ只管に馬を走らせ、目指すは合流の地である秦王代々の避暑地であると決まっている。
幾つもの合流地点を設ける中で、敵がそれを何の情報もなく嗅ぎ付けるなど実に難い。
故に逃げ切る必要性。
彼らは一刻も早く本来の拠点である王都咸陽から目の届かぬ先へと向かう必要があった。
しかしそう巧くいくものであれば心安い。
追手が放たれるであろう無理は重々、それでもこの時の彼らは知る由もない。
予想外の敵、王騎とその配下から成る大軍が大王側のそれに差し迫ろうとは思うまい。
それをもはや、隠居の体を為す彼方より窺い知る事など―――――それこそ実に難き事であった。
「嘘だろ・・・」
「あの旗、甲冑・・ ・・・はは」
所々で絶望の声が上がる。
それは側近、他近くの兵共も同じであった。
「くっそだから王家の奴らは嫌いなんだよっ!!」
「うるっせぇなあ介良!ごねる暇あんなら死ぬ覚悟しとけ!!」
(王騎軍ッ・・・くそ、何故貴方がここで動く!!!)
いくら状況の悪化を悔やんでも変わらない。
変えようと思うなら足掻くしかないと、寳子は矛を握り締める。
「フ・・こんな事なら宝刀を返してもらっておけば良かったな・・」
「寳子様っ!駄目です捉まりますッ!!」
「(左辺は壁兄で間に合ってるッ・・!)介殻、介良共に数を連れ右辺へ回れっ!」
得物を掴む拳を突出し、猶予はないと素早く指揮を飛ばす。
敵の雪崩れ込む崖の側に対し手を打った。
「先行は介殻!討ち漏らした者を介良が討て!
私は後方の大隊を討つ!!そのまま殿の補佐を―――――」
者共が応と従うなか、凶報が寳子の耳に届く。
戦場の華と、しかし荒れ果てる土地で血を浴びせ合い咲く華になど、彼女は興味がなかった。
「寳っ・・さま、殿がっ!殿が敵将と一騎打ちを!!!」
「何っ・・敵、将・・・・・」
軍長か。
いや否と、相手が彼方であれば、出る者は一人と心が決めている。
「王騎っ・・将軍ッッ・・!!」
この戦慄きは武者震いのそれと、威勢を張るには過剰に過ぎた。
「後は副長の指示に従えっ!私は殿に加勢するっ!!」
「一騎打ちに手出しをなさるおつもりですかっ!?」
「男共の生死を懸ける、自尊心を満たすだけの下らん妄挙に付き合っている暇はないッッ!!!」
(うわ言ったァーーーーーーーーー!!!!)
後先も考えぬ愚考であると切り捨てる。
百歩譲ってそんなものは護るべき者がない、憂いの伴わぬ場合にせよと苦言を呈した。
(勝利を導く必定の一手ならいざ知らずっ・・
このような死地にある状況での一騎打ちなど無駄死ににしかならないっ!!)
それを今、この状況を以てして彼方が行うなど、側近の内一人の身からして許し難いと馬を駆る。
「(殿っ・・貴方が能うはこんな戦場ではないっ・・!)殿ぉおおおっっ!!」
戦場にあるまじき高い声が馬蹄を遮り木霊する。
これから数刻の後に訪れる別れの時など、この時の彼女は知る由もなかった。
御車の揺れる音が、一番によく響く。
それに負けじと外の音は、馬蹄と人の声―――――怒号と悲鳴が交互に耳に入った。
大王贏政、の身代わりである影の存在は、剣を立て深く息を吐く。
呼吸をし、万全と心身を整えるには余りある刻の中にいた。
薄く開いた小窓から血飛沫が届く。
一方的である刃が首でも飛ばしたかと、想像は容易だ。
敵か味方か、どちらのモノかわからぬそれに、今更気を揺らす事もない。
似合わぬ、誰かの為の鮮衣はそれほどまでにただ赤い。
拭う必要のないだけ誂え向きであると、漂は双眸を閉じた。
「寳子!殿は・・殿は如何された!」
「っ・・・殿はっ・・ ・・・王騎将軍に・・っ」
一騎打ちの加勢と向かった寳子は隊へと戻るが、語るべき次第を渋り、報せるべき結果を憚る。
最悪の結果しかない。
その裏付けを更にする出来事が目前にて起こった。
「!壁副長!!御車がっ・・!」
並走する味方の声に絶望する。
しかしその絶望は彼らのものでしかなかった。
外の声で御車の孤立を悟る。
意気が聞こえず、殺気が向けられる気配を感じ取る。
―――――御者の叫びが聞こえた。
御車は不安定に揺れ、速度を落とす。
それを見逃す漂ではなかった。
「『大王』ぉおおおおおーーーーーーッッッ!!!」
(もう・・終わりだ、これで・・ ・・)
敵の刃が王に届く。
壁が叫び、誰もが終わりと得物を握る手を緩める。
しかしその内に起こる出来事こそが、奇跡と称し過言ではなかった。
この身を大王の威とするならば。
この行為は須く是であると。
漂は刃を曝す敵兵を蹴り上げ、馬を奪い自ら先陣を切った。
一瞬何が起きたかもわからない。
敵を相手にする兵に、その姿が疾く映るものでもない。
しかし認める壁と寳子、他数名はその勇姿に立ち会った。
(手綱が手に馴染む。・・寳子、君が教えてくれた一つだ)
――――――格好、つけない訳にはいかないよな。
漂は一瞬後ろを振り返り、彼女の姿を見留めると勢いよく駆け出した。
「諦めるな!隊列を組み直せ!!密集して突破を図るぞっ!!!」
剣を掲げるその姿は、大王の影には過ぎたる器。
下僕としても余りあるその大器は―――――
――――――――紛う事なき大将格、そして率いたる最上の位を以てして。
無名であった少年は、戦場に躍り出た。
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!
外からの歓声が巻き起こる。
闘争の火が燈ると、その勢いはとても敵に背を向ける軍の意気ではない。
(漂・・!!)
名を呼べるのも胸中でのみ。
真名を語るには及ばない。
(馬を駆るのも、士気を上げるのも、斬り込むのも、その雄姿もっ・・ ・・・ここにいるのは貴方で!!!)
声を張り上げて伝えたい。
これを率いるは漂という名の少年であると伝えたい。
その存在を確と見つめていると。
確かに皆が彼を先頭に導かれていると。
(みな貴方の武威に惹かれ、惚れているのだとっ・・
それは赤衣を着ていようがいまいが!関係ないんだからっ!!)
「『大王』はここにいらっしゃる!!
敵味方、全兵括目せよ!! これが秦国王、『贏政』の真の雄姿ぞ!!!」
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!
死地の兵共に『王の名』を掲げ鼓舞する。
頬が濡れていたかも知れない。
声が震えていたかも知れない。
しかし彼女がそれを知る必要はない。
儚く、不確かで。
それでも違わずそこに在り続けるというのなら、これも一つの奇跡であったのかも知れない。
有るか無きか。
陽炎の少女の声は戦場に高く届いた。
「壁副長!隊を二分し片方を昌文君の救援に向かわせよ!これは命令だっ!!」
漂の言葉に場の響動めきが伝わる。
この状況で更に兵を割くという事がどういう事か、彼を含め全員が知らぬでない。
「漂、待って!このままなら突破できる!兵を二分しては駄目ッ!!」
「寳子!・・王には昌文君が必要なんだ・・!」
「っ・・もう、無理なのよっ・・殿はもう・・!!」
「何・・それは」
「殿は王騎にっ・・谷底に゛っ・・!急流に、呑まれっ・・」
彼女の涙の意味を、もう何度となく見てきた。
知らぬ訳がない。
その大粒の涙を、拭えるものなら拭ってやりたい。
しかし漂は彼女の代わりに落ち着き払い、順序立てて語りかけた。
「寳子、君は昌文君の遺体を見たのか」
首を横に振る。
これは希望だ。
「殺された所は?」
更に強く横に振る。
確信となってそれは繋がった。
「なら希望はある。――――――諦めるな」
昌文君は必ず生きている。
弱気になるなんて『らしくない』と、そう彼女の背を押した。
頷き、手の甲で荒々しく涙を拭う寳子を漂はどこか安穏と見つめる。
(そんなに擦ったら目が腫れて・・せっかくの宝物が台無しだ)
鈍い光もそれはそれで可愛げあるがと。
この言い張り様、いつの間にか自分のものと錯覚していたのかも知れない。
しかし譲る気がないのだから間違ってはいないと、やはり彼は自惚れた。
「諦めないっ・・!諦めないよ、漂・・私っ・・ ・・・絶対にっ・・!!」
「うん」
「この死地だって乗り越えてみせるっ!大王を必ず秦にお返しするっ!貴方と一緒に!!」
「・・うん」
「そしたら・・そしたらね、漂・・ 約束―――――――」
意を決し、強気に転じる彼女から、彼もまた意気を貰う。
「寳子」
「え・・」
「それじゃあ諦めないついでに、幸せになろうか」
想い人の、余りにも気に富むそれだから。
きっと、当てられてしまったのだろう。
「・・どう?」
「え、あ・・」
「ほら早く」
「な、なるっ!私幸せになるっ!!」
貴方と一緒にと。
しかしそんな声は戦場の只中にあって掻き消されてしまう。
漂は寳子の答えに微笑むと、もう二度と頷く事はなかった。
「それじゃあ、しばらくお別れだ」
離さない。
君の手を離さない。
この手を離す、その時は―――――――
(どうか君の行く末が、ひたすらに笑顔で・・ ・・・・そしてひたすらに幸せでありますように)
幸運を。
心の中でそう願う。
え、と。
呟いた彼女の精いっぱいを、漂はあらん限りに焼き付けた。
寳子を乗せた馬の尻を思い切りよく、強く蹴る。
路を別つ彼の背を見つめ、彼女は叫んだ。
「だめっ!待って!貴方は『漂』なのよっ!?大王じゃない!!
貴方は大将軍になって、それでっ・・それで私は!!」
砂塵、馬蹄、檄、怒号、剣戟、断末魔。
それらが席巻する戦場において、彼女の放つ言葉は叫びにも聞こえない。
寳子が馬の暴走を正す頃に威は既に遠く、尚も足を止める事は出来ない。
未だ混乱し走り続ける馬である。
手綱を引こうが胴を足で蹴ろうが諸共しない。
こうなってはどうしようもない。
それは騎馬を得意とする彼女が一番よくわかっていた。
敵に向かう中、漂は横目に寳子が戦場を脱する姿を目にする。
安堵と共に決意を新たにする。
秦将はただ一人、己が目前に剣を構えた。
寳子・・約束、絶対に・・・。
でももし。もしも守れないその時は・・
誓うように、祈るようにして剣を掲げるとそれを薙ぐ。
敵刃の猛襲にも怯まず、一途に駆け抜ける。
否、と言った。
生きてまた逢えたなら
(その時は)
君に俺の全部・・すべての想いを伝えるから―――――――!!
一際大きな剣戟が響く。
刃と刃の打ち合うその音は、命を奪うものにしては余りに透りすぎていた。
刻の感覚がない。
また感覚などと言って、碌なものが残っていないのだから始末に悪い。
月が頼りであるが見上げる気力もない。
何人殺しただろうか。
初めて人を殺めて、しかしその感慨に耽る余裕はない。
もう走る事は出来なかった。
足を引きずり、木々にもたれて歩かねば進まぬ体だ。
満身創痍の重みは剣を携えての故ではない。
それでもどこか軽いと、浮く感覚を覚えるのは
只管にこの身から流れる命のそれの所為だと、漂は患部を押さえ苦く笑った。
赤衣で気の良い事もあるものだと、彼は一路を行く。
目指す先がある、目指す存在があると―――――
漂は立ち止まりそうになる両足を、必死に前へと歩ませていた。
誤算があった。
王騎軍を退け、逃げ延びたその先までは念頭になかった。
「・・ハァ・・ ・・・普通に考えてっ・・ ・・そう、だよな」
王を逃がすまいとする者が、見える軍を率いるだけで良しとする訳がない。
暗殺者の存在。
追手を放たぬ理由こそないのだから当然と、しかし事が起きてから気付くのでは遅い。
(何とか隙をついて逃げてきたけど・・次に会ったら、もう)
勝てる見込みがない。
敵軍の執拗な追跡がなければ、万全であればと、そんな事ばかりが脳裏を過る。
勝敗を推し量るは将の器に必然の才。
現状と、その先のこと。
手で押さえるだけでは間に合わぬ程の命が、今もなお落ちてゆく。
知るに足りてしまう。
この大器はそれを見抜くには潔く、また聡すぎた。
(・・信、お前と出会ってからの日々。
・・・・お前と交わした剣の数々は、無駄じゃなかった)
目指す友へと思いを馳せる。
きっと今頃は眠りこけ、揺すった所で起きないのだから。
この独白の程度も知れると、一人笑う。
確かに騎馬し
軍の先頭に立ち、導き
敵中を掻い潜って見せたと
「俺は・・確かにあの戦場で―――――――将になって見せたぞ、信」
惜しむらくは戦の勝敗。
しかし先の見届けぬ糧となるのもまた、将の役目であると誇る。
(その先はお前が行くんだ。 ・・・お前が、俺を)
そうすれば共に大将軍と、声高に謳う事ができる。
これから先を託す。
知らぬものを知り、見えぬものを見る。
見果てぬ夢の先を見よと、漂は友に希望を託した。
携える剣を確と握る。
漏れ出す命以外に吹き込めるものは、やはり絶えぬ願いしかなかった。
それだけではない。
友と二人誓った夢とは、また別の夢の話。
彼女の事を想うと状態の如何に関係なく心が跳ねるのだから強かである。
もはや己が意志の十分に伝わらぬ、そんな現金な体を苦く笑うより他なかった。
「寳、子・・・」
その人の名を呼ぶ。
それだけで、気力が湧いた気がした。
「約束、破って・・怒るだろうな」
あれだけ言って、このザマじゃぁ。
どうしようもないと腹を括る。
合せる顔がない所か、情けなさすぎて会いたくない。
もう会えないだろうという成り行きは、このさい置いておく。
この先は、きっと無理だ。
しかしそう思うとなると、また可笑しい事になる。
会いたくないなんて嘘だ。
どうしたって会いたい。
ずっと傍にいたいって思ってるんだから当たり前だろ。
つい先程の決意やらの、何から何までを一瞬にして全部ひっくり返して。
ひたすらに恋しく想ってしまうのだから、情というものは堪らない。
君に会えて良かった。
(・・・俺は自分の剣を、誰かの為に。・・・君の為に、振るえたんだ)
息も絶え絶えに、それでも最後まで任を果たすべく足を運ぶ。
(大将軍の夢に比べれば小さいって、きっと信は笑うんだろうけど)
見えぬ友の反応を邪推する。
愉快と笑い、その実。
浮かぶのはどうしても、もう一つの夢の姿だった。
「・・・・・・・」
幼き頃からの夢の一端を叶えた。
その先は友が見続けてくれる。
しかしもう一つの夢は、誰が見続けるというのか。
「・・俺、死ぬのか」
意図せず呟いた。
呟いて、それというのに言葉に、心に。
閊えるとは一体どういう事かと、笑えない。
(寳子・・忠義の意味、分かった気がする)
戦場から無事脱したろうか、敵を振り切れたろうか。
(王を護る事は、君も護る事なんだ)
そして君は今も、王も国も―――――大切な者達を護る為に尽くしている、尽くそうとしている。
「俺は君のこと・・ ・・・ちゃんと護れたかな」
繋がり行くものなのだと知る。
あらゆるを賄うはそれなのだと悟った。
攻めるでもいい、護るでもいい。
忠を厚く―――――国を、王を、彼女を、彼女の周囲を、 そして彼女の血を受け継ぐ者へと続いてゆく意味。
希望を超え、奇跡を孕む。
君の夢を守れたかと、 漂は誇らしく、胸を張った。
刺客により斬られた傷は深く、赤衣を更に濃く染め上げる。
零れるそれは誰の目にも見て致死量。
生き残れる可能性が低い事は、何より彼自身が一番よくわかっていた。
最後の懸念がまだ晴れない。
もう一つの、夢の先。
そんな内にあって友の顔が浮かぶ。
何だと、不躾に現れるそれに文句の一つでもと口を開けるが、止まる。
なら大王か、なら馴染みか。
どちらも否と、憚った。
―――――――嫌な役だが、悪くない。
この先の夢も共に見るならなお良いかと
少し、笑ってしまったかも知れない。
満足げに、後悔はないとした。
思い出される者の名を彼は愛おしそうに反芻する。
想い人の名を胸に秘め、彼は走り出した。
もう走る事など出来ない筈だった。
(ありがとう)
大切な意味を教えてくれて
(ありがとうっ・・)
君への想いを抱かせてくれて
ありがとう―――――――――
「大好きだっ・・寳子ッッ・・・!!」
やっと言えた。
これでまた、走り続ける事ができる。
命がしとどと溢れゆく。
視界を遮る所以も、例外ではない。
どうか君に届きませんように。
気付かれる事がありませんように。
君が君である事を尽くした先。
その広がる世にこそ、君の幸せがありますように。
彼女を幸せにする誰彼へ。
ただただ悔しくて、羨ましいから
ついでにお前も幸せになって
彼女の幸せを、最後まで支えてやって欲しい。
これが最後の望みであると、漂はのち脇目も振らず直走る。
先を託すべく友までの路を、彼はまさに必死の体で駆け抜けた。
目的の場所に着き、その手前で膝を折る。
願わくはと、戸を隔てた先にいるその者に請い手を伸ばす。
体が軽い。
何故かとは、もう思わなかった。
必死に届かせて戸を叩く。
こんな小さい、力ない音でどうなるものか。
(気付け・・ ・・・・信)
しかしどうにかして見せるのが彼らなのだから、もはや確信しかなかった。
(俺達は――――――――無敵だ)
誰にも、何にも負けない。
覚えているよな。
息も絶え絶えと、その中で先向こうの気配が動き出す。
想いが届く。
それは当然の事だった。
二人を隔てるものが取り払われる。
造作もなく、しかしそれは彼ら故に足り得ること。
託す願いと、想いがある。
それが信、お前なら―――――――――
「ただいま・・・信」
余計に安心して、腹を立てながら死ねる。
「漂ぉおおおおおおおおおおおおお!!!!!」
20130630