「殿を・・・ 父と呼んでしまった・・・・」
何だそんなことか。
などと、彼女に近くある者は決して口にはできない。
痛ましいほどに事情を知っている。
両肘を両手で抱えるようにして腕を組み、前のめりに項垂れる様は自身を抱いて守る幼子のようだ。
悔恨に顔を顰める寳子を前に、蒙恬も居住まいを正す。
『だいじょーぶだいじょーぶ。オレがどうにかしてあげるって』
言えない。
他の子女となら交わせる言葉を交わせない。
躱せない。
『かわし』きれないと、蒙恬は天を仰ぐ。
「・・オレは父上って言うのも緊張するから・・・」
この場所がいけないのだろうか。
尚且つ二人きりになる所為か。
高台に来ると決まって―――
口も頭も。心も重い話になるのは。
「・・・・ごめん。今の忘れて」
否。むしろこの場所なら、いつもの笑い合う三人で無くいられる。
三人が揃う時は笑い合っていたい。しかし。
だからこそ、深刻な話を持ち出しにくいから、ここを選ぶ。
場があるからではない。
選んでいるのは自分達なのだと―――三者共、口にせずとも理解し、
また欲する事実は家の厄介さから来るものなのだろうと蒙恬は目を細めた。
(この前は王賁と親父殿のことで喋ったけど・・ 喋れたけど。)
事情がまた違う。
場所は選べたとて口にする言葉は難しい。
要するとは即ち、相応の明確さをもって臨むことをも意味していた。
「ううん・・ ・・私こそ、ごめん」
声が震えている。
曇天である。
これは一雨きそうだと、思う矢先に外が降り出した。
「わ!寳子こっち!屋根がある!」
「う、うん・・!」
慌てて移動するも急な通り雨である。
場に着く頃には全身が濡れていた。
雨は凌げる。
しかしながら見返す己が様相に思わず溜息が漏れる。
暖気といっても肌に張り付いた部分から冷えてゆく。
彼女はどうだろうか。
さぞ同じく身を震わせている事だろうと―――蒙恬は寳子を見やった。
雨宿りの場が少し遠かった所為だろう。
だから濡らしてしまったのだ
だから頭の先から足先まで
だから。
「―――――寳子・・・」
「・・・初めに言った時、父ではないからとっ・・
・・・っ殿と呼ぶようにと、言われていたのに・・・!」
きっと頭から伝い、髪の先から滴ったものだ。
それが目を濡らし、頬を伝ったのだ。
泣かないでと。その一言さえかわせない。
泣いていいよと。その一言がかわせない。
いつもの軽口が、口どころか頭にまで回らない。
蒙恬は口を噤むと、ただ寳子を見詰めるより他なかった。
「成長もした・・武力だって上がった・・
策だって組めるようになったし・・・でもやっぱり駄目なんだ!!!」
許されるが故の、言い辛さではない。
許されない。
―――――父ではない。殿と呼べ。
昔に聞いた言葉が彼女の中で反芻する。
「・・・寳子」
名を呼ぶことしか出来ないのに。
呼んでみるも、力ない。
泣いてほしいし、泣かないでいてほしい。
か細い声に想いは乗っただろうか。
この我が儘に自分自身で答えを見つけられない。
そんな無力さだけが声に残ったのではないか。
「もっと・・もっと頑張らないとっ・・
殿を、父上と呼ぶのを許されるくらいに・・私はっ・・!」
何度も口がへの字になりかけながらも精一杯に話す寳子に蒙恬は耳を傾ける。
これは決意であり、宣誓である。だから。
「うん。わかった」
確と聞き届けた。
涙も鼻水もくちゃくちゃにして泣いて。
眉間に皺も寄せて、顔も目の周りも真っ赤。
涙の粒がいっぱいで光って
―――――それでも絶対に、また前を向くと知っている。
雨と言うには、もう難しい。
しかしながらその光は曇天のなか映える。
けれど、それ以上に映えるもの。
「・・・ありがとう。恬」
泣かないで。泣いて。
笑っていて。
辛さの中にあって
悲しみに打たれて
険しさの中、渋く足を取られ倒れそうになっても
だからこそ輝く、寳(たからもの)。
女の子って面倒だと思う。
でもその厄介さや、仕様も無さに―――癒される時があって
男とバカに騒ぐのとは違う、独特の柔らかさや空気があって
よく、逃げ込む。
向こうはそれを喜んで受け入れてくれる
簡単で、甘いと思った。
立ち振る舞いも。
言葉も、匂いも。
『こら恬。そうじゃないだろう』
子女達と遊びに興じる時、言葉遊びをする
互いに簡単なことでも面倒にして
その雰囲気に微睡む
くだらなくて
後腐れもなくていい。
『シャキっとしろ!
・・ふふ。なんてね。 でも、そっちの方が格好いいよ』
(逃げ込めない場所なのに。
問題に体当たりばっかで。よく怒られるし、難しいし。
遊びはできるけど鍛練付きだし、楽しいけど基本マジメだし、 後ばっかひく)
そんな――――友達で。幼馴染で。
年下なのに姉みたいで
大切な、おんなのこ。
(簡単じゃない。 全然、楽になんてなれないぞ)
でもわかったんだ。
やっぱり女の子は面倒で
俺自身が―――――面倒になる人が、ここにいる。
「寳子。・・オレさ」
違うだろ
「俺。
寳子のことが 好き」
「・・・ ・・・・うん。ありがとう。 私も、好きだよ」
ズレたのが、わかった。
この寒気は雨の所為である。
しかし、冷える体以上に凍りつく内を、どう説明しようか。
未だ吐き続ける嘘を解かない時点で高が知れていた。
この体で言えば決定的であると、この落胆は最後の詰めをせず逃げたツケである。
蒙恬と寳子が桓騎と会った際、彼を男と示唆する話をしたのは久しい。
それで気付いたかもしれない。
気付いたのではないかという素振りがあった。
―――――気付いていてくれ。
そう期待して、外したツケ。
また誰彼はさぞや嗤うのだろうと、彼も諦観に哂った。
(俺は・・寳子を)
傷付けたくない。
だから
否。なら。
だからこそ言うべきであった。
傷付けられない、ということは
傷付く覚悟を、するということ。
「・・・覚悟、できなかった」
「え」
「・・教えて寳子。・・・気付いてる?」
「え・・
な、何が・・どうしたの?恬。」
これは
気付いていない。
浅ましく
本当だろうかと 尋ねずにはいられない
「・・・子女らと遊んでるの、寳子あんまりよく思ってなかったよね」
「?意図がよくわからないが・・当然だろう?
鍛練もせず、ただ学校から抜け出すのであれば良い訳がない」
ゆえに意地悪く、問い詰めるような真似をしたが―――返されるのは追い打ちであった。
「子女らと仲がいいのはよい事だ。
・・私は鍛練が多いし、流行りだのに疎いから自然と離れてしまう。
恬はすごいと思うよ。話題も豊富で騒がれるのもわかる」
「・・・・・・・。」
「女が女に惹かれるなんて余程の魅力だ。実際に魅力的だよ、恬は。
同じ子女として見習いたいと思うし、そんな子が幼馴染で友達だなんて鼻が高い」
嬉しいと思う反面
どこまでも悲しい。
嘘か真か。
気付きたくないのかは知れない。ただ。
「それに優しい。先程といい、いつだって。
友と―――親友と言っていい子女はあなただけだ。 一緒にいてくれて、ありがとう」
彼女にとって 同じ女としてではない友としての自分に
価値はあるのだろうか
王賁の言った通りだった。
『そんなことをしていると いつか後悔するぞ』
その言葉が、今になって重くのしかかる。
寳子にとっての蒙恬にかける、『女友達』への期待とその位置。
それがかなりの重要性を秘めていることを、彼は身を以て再確認した。
「・・・・・」
「・・・・ ・・・・・蒙恬?」
「こちらこそ・・・
ありがとう。寳子」
「あ、えっと・・! う、うん」
こうして面と向かっては―――今更ながらに照れると、寳子は頬を掻く。
その様子を見る蒙恬の表情は笑顔。
心の在り様を映しているかは、定かではない。
「あのさ・・・
・・隠し事、あるんだ」
「え!?」
急な申し出に戸惑う寳子は、しかしはたと、神妙な面持ちで彼に対する。
『隠し事』
この言葉は他人事ではないと、別の胸騒ぎが彼女の内で鬩ぎ合った。
「聞いてくれる?」
「っ・・当たり前だ・・!
・・・大事なこと、なんだな?」
寳子の眼差しが蒙恬のそれと交錯する。
彼は静かに頷くと、彼女も応として居住まいを正した。
今だ
やっと、言える。
これからの関係性が壊れる。
壊す。――――今、変えるしかない。
受け取ってもらえるかは別にして
覚悟をして、ツケを払う。
後悔はした。
もうしない為に、と
『隠し事』を白状しようと口を薄く開け、一瞬。
見た景色は目前のその人ではなく――――もう一人の友と呼べる幼馴染の姿だった。
「・・・・?蒙恬?」
「あっ!ご、ごめん。
・・・いつか、もうちょっと・・て、話で・・ はは、すっごい聴いてくれる気満々。
・・・まだ、その。 覚悟・・できてなくて」
白状しようとして――――― また、隠した。
「・・・・・・そっか」
張りつめた空気が緩むと、二人も表情を弛め笑い合う。
わかるよと、しかし寳子の口が開く事はない。
「・・そうだな。
隠していた事を言うなんて、勇気が要るもの」
隠し事があるなど、言えるだけでも強者である。
寳子の声色が変わると蒙恬は気遣って彼女の手をとり、また謝罪した。
そうではないと――――全てがうまく、行き違う。
双眸を閉じる。
寳子の様子に蒙恬は行き違ったまま、話を続けた。
「・・・改めて言うよ。必ず」
「・・・無理はしないでほしい」
「うん。心配かけてごめん・・でも」
閉じられた双眸が開く。
映るその人は、いつもとは比べ物にならないくらいの真摯な顔をして、寳子を見つめていた。
「俺が、言いたいんだ」
ずっと逃げていた手前
ちゃんと、あいつにも伝えてから 必ず。
「・・私のことなら大丈夫だからね。恬」
『傷付けていいよ』
何も言わずとも、二人の脳裏にはあの日の言葉が過った。
これまでは否と頭を振っていた蒙恬も、今回ばかりは否応とも微笑む。
それに応えるかのように微笑む寳子もまた、自身の隠し事に目を向けずにはいられない。
(私は・・ 言える日が、来るんだろうか)
服の上から文身を抱く。
文身自体が問題ではない。王騎とてしているのだからと、そうではない。
「あ・・濡れたままだった。寒い?よね、そりゃ」
「あ、えっと・・だ、大丈夫・・乾いてきたし・・・ ・・・。」
黒赤の髪。
紅紫紺の瞳。
明らかに平地のものではない外見と併せて、おそらく山の者。
それ自体は周囲に気付かれている。だが、それも大凡の問題であってそうではない。
余りに克明に刻まれる文身は山以上の何かを彼女自身に訴えかける。
拾われてからの記憶しかない彼女は、己が肌を目にする度に異様な畏れを感じていた。
(・・・少なくとも王賁は拒絶するだろうな・・・ ・・蒙恬は、どうだろう。
でも・・やはり名家出の二人にとって、私の存在・・
この文身の正体が明らかになれば、より迷惑がかかってしまうだろう・・ これまでだって)
「・・・・・。」
「・・・恬」
「えっ」
「ありがとう、と・・傷付けていい、っていうのは・・友達だからだけど・・・あと・・・、
私は山の・・が、入ってる、と思う。わからないけど。
でも二人は周りからいっぱい、言われてるよね・・きっと、これからも。だから」
はたと。
否。は?と。
その表情は吃驚に見舞われたかと思えば、次いで眼光鋭く眉間に皺を刻むものだからおどろしい。
今なら十中八九、父上に似てると言われるに違いない。
この顔を見てまだ女とほざくのかと―――しかし肝心の彼女は俯いて見ていなかった。
「・・・幼少の頃は何も知らなくて。
でも付き合ってくれて・・ ・・・この目をキレイと言ってくれて、だからで・・私は」
「・・・・・・・・・・」
「でも、友達でいて欲しいから・・
離れたくないけど、二人は・・ 離れたい、とか。だって迷惑とかいっぱい「行くよ」
強制的に腕をひかれ、無理に立ち上がった所為で足がもつれる。
しかし意にも介さないと、蒙恬は歩みを止めない。
「て・・蒙恬!「ほんとに怒る。っていうかもう怒りそう。それ以上しゃべんないで」
掴まれる腕が痛い。
痕がつくのではないかと危惧するほどの膂力はさすが、蒙武の息子といった所か。
こんな風に怒られるなど思っても見なかったと、寳子の紅紫紺が揺れる。
だが彼女の動向など知れない。
そして彼の瞳が揺れていることも、彼以外の誰も知れない。
蒙恬は寳子の方を向くことなく言い放った。
「俺を誰だと思ってんの。
そんなの俺が決めるし。何か言う奴とかどうでもいいし。何なら権力使うし」
生まれも才能っていうのは。
大体意見の合わない誰彼との、唯一の合致であると―――この時ばかりは高らかに謳う。
するとやっと彼の足が止まった。
「・・・・ここまできて。こんな気持ちまできて。・・まだそんなの思われてるっていうのがさ・・
・・こっちはそれどころじゃないっていうのに」
「そ、それどころじゃって・・わ、私は悩んでたんだぞっ!」
「こっちだって別で悩んでんの!も〜寳子のバカ!」
「ば・・ 恬のバカ!」
「寳子のがバカ!もーいーよ!俺は寳子のことが好きだって、大好きだってもう何度も!!!」
深――――――――――
がなり声のような
涙声のような言葉が、両者の耳を劈いて 場は静まり返る。
「・・・ ・・行くよ」
「・・・ ・・・私だって好きだよ」
「・・・バカ。 バカ、寳子のばか。」
「う・・」
「・・・。 でも好きな俺もばか」
「・・・ ・・・うぅ」
「待ってよ・・恬」
「なに・・もう」
「雨が、すごくて」
零れる涙は雨ではない。
滝のようではないかと
蒙恬はその様子に、彼女にも、自身にも傘をさす。
寳子にとっては飽くまで子女どうしの好きの応酬だと思われていると思うと余計に泣けたが、懸命にさした。
「・・・。・・さっきのさ。
賁には絶対言わない方がいい」
え、と。
面を上げる寳子の腫れぼったい、赤みのさす――――様々に濡れ、決して綺麗ではない顔のそれが愛らしいなどと、これは
「・・・重症。
マジで刺されるから」
「・・・・・・・、」
何かを言いたげな寳子は口を噤む。
賢明だと、蒙恬は苦笑いを呈した。
寳子を送り、帰路に着く。
淡々とする帰り道は、どこかいつもと違う。
溢れてしまった。
もはや回収できないそれは、放っておいては器にヒビが入るであろう代物。
困ったような
嬉しいようなこの、妙な。
初めての感覚に、彼の内も外もコロコロと様変わり忙しない。
想いの丈を、通じたかそうでないかは別にして
言った。
言えた。
だがこれは一時的な満足感であると――――――
しかしそれが下策であったと気付くのは
昔も、今も変わらない。
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