戦で血を流し死にゆくこの世で
ただ呪い殺し、殺されるだけの死に幾らの意味があろうか

吐き出す泥は誰が怨嗟か
どれ程の罪を犯したか知れぬ
否、其も贖うべく罪など存在し得なかったやも知れぬ
幾重にも穿たれた詛いを一身に受け、それでもなお生きている

この童の存在は世情を成している
首を取り、血を流し、豪を翳し謳った代償
手をかけた者は数多。数えようとも思いつかぬ


その中でただ一つ
この両の手で以てして

数えるに値する 生の価値というものを

見出せたなら。



ならば今は収めよう
その間を掻い潜る
然れば罪と成すならば、その覚悟はできていると―――――――


儂はこの時、そう、思ったのだ




















「殿ぉおおおっっ!!」

戦場にあるまじき、高い声が馬蹄を遮り木霊する。
殿と呼ばれたその人物は、対する相手に防戦一方を強いられていた。

「寳子(ぎょくし)!っぐ!!」

怪鳥の長柄刀が昌文君の長刀の柄を捉え拮抗し合う。
寳子と呼ばれた少女の駆けつけは果たして幸いか否か。
王騎を挟む様にして並ぶ二人であったが、形勢がまるで動いていない事をこの場にいる誰しもが感じていた。

「嫌ですねぇえ?昌文君。私の相手をしている時に余所見なんて」

悠々と長柄刀を薙ぐと、王騎はそのまま刀先を寳子に向ける。

「王騎将軍っ・・!貴方ほどの御人が未だ昭王の影に隠れておいでか!!」
「愚か者っ!寳子、お前は大王の元へ――――」

昌文君の言さえ薙ぐ。
円状に振るわれた諸刃は容赦なく両者を襲い、上体を乱し退ける。
当の王騎といえばその口元に既に笑みはなく、月を背に翳を湛えていた。

「寳子・・貴女がこの私に一人前の口を利くなんて――――――」

矛を揚げ、一閃。
金と金とが響き合い、確かな攻撃が彼女を撃つ。


「―――――――――まぁ、あと八年くらいは先でしょうかねぇ」


馬と共に反り、遅れを喫する彼女の名を怒号の如く口にする昌文君。
しかしそれは無用の物であるとその姿が訴える。
同時に盾の有様に、王騎の轟々たる攻撃の跡を見る。

「ほう・・受け流しましたか」
「貴方の力をまともに受けようなどという愚考、元よりありはしないっ!」

それにしてもこの将軍の一撃を見事流すとは。
つい歓喜に浮くほどの功績に、王騎は彼女が懸命に腕の痺れを隠す所作を 見 逃 し た 。

「ンフフッ、よろしい・・ いえ、良かった、ですか。この場合。
   貴女を殺さずにおける理由を見せてもらいました。成長しましたね、寳子」

それは嬉しそうに。しかし普段の笑みとは違う、
愉しみを齎す武人をまるで愛でるような、そんな妖な笑みを王騎は見せた。
暫し撃が止む。
しかし王騎が彼女と話す間にも、昌文君は手を出せずにいた。
背後にまで目のあるが如く殺気に、手を出せば自身はおろか寳子にまで危機を齎す事は明白であった。

(寳子が引き付けている間っ・・何かっ!いや、しかしこのままでは・・!)

柄を強く握る昌文君。遠方に見える大王の御車に
敵兵の手が掛かるのも時間の問題であった。


「何故っ・・!何故あんな愚王弟の側などに!
   貴方さえいて下さればこんな戦いっ・・王騎将軍!!」
      

刀先は彼女を捉えたまま。無言。
その言葉が果たして当人に届いているか否か。知る由もない。

「成矯の、いえ・・その周辺の俗物共が制する世は、延々にその悲しみを不戦の民にまで強いる事になる!
   それは貴方の本意ではない筈だっ!!」

「・・少しお喋りが過ぎましたね」

届いていた。
寳子の言葉は確かに王騎の耳を通して意志として届いていた。
確信した彼女は怒濤の如く捲し立てる。

「戦が好きだと貴方は言った!昭王の時のような気の震える戦の世が合っていると!!
   ならば尚更!!貴方が成矯に就く道理はない!」

王騎の持つ得物の切先は寳子を捉えたまま。
笑みを湛え、幾許目を細める。

「『あれ』の齎す道とは弱者が弱者を内々に躙る矮小に過ぎるもの・・
  それが続いた後に秦は他国に滅ぼされるという―――――貴方にとって一番つまらぬ末路を遂げる事となる!!」

そして目を閉じた。
瞼の裏に映る世など、篤く語る寳子に見えよう筈もない。


「心躍る最上の戦いをし、戦を終わらせましょう・・!
    戦が貴方から奪った者をお忘れではないでしょう!」


「私を説得する心算ですか?寳子。
     ―――――――ならばお門違い、って奴ですよ!」


目を見張り、向けた刀先が寳子の傍を薙ぐ。
寸でで避ける彼女は、一閃。王騎の目前に長刀を突きつける。
王騎はそれをどこか、口にするには及ばない体で見詰め言った。

「・・『紅寳』(こうぎょく)」

誰彼の瞳が揺れる。その奥に灯る意志は知れない。
おそらくその者は迎合してはいないのだろう。

「貴方はそう呼ばれるには不当な程に、心は潔白。ですから教えてあげましょう」

突きつけられた切先に、切先。
打つでもなく、薙ぐでもなく
ただ触れる様にして王騎は、彼女の得物に己が得物を合わせた。
小気味よい音に寳子は漠然とした不安と
得物を通して感じる親の情に首を振り、再度得物を突きつける。


「戦はなくなりませんよ。寳子」


次いで無言。彼女もまた真っ直ぐに王騎を見詰める。

「この世に人が蔓延る限り、戦はなくなりません。それは兄王・贏政に就いたとて同じ」

周囲の喧騒は入らない。断末魔さえ、ただ空を切る。


「貴女は何に期待しているのです。贏政がこの世の戦をなくすとでも?」


何者も立ち入る事の出来ない空間に、しかし当人である寳子は強く言い放った。


「そうです!!」


昌文君の握る長刀に力が籠る。
飄とした風体の王騎でさえ意表を突かれ、見張る状況に彼女は続ける。

「戦をなくす為の、大戦をする」

鈍り燻る心の臓に――――――――――


「そして平定する!」


僅かばかりの、確かな鼓動。


「それまでの戦いに、参じられよと申しているのですっ!!!」

湧き出でる笑みたるや、如何なるものか。

「私の心が潔白など嘘だ」

合わせていた得物を払うようにして、寳子は得物を上に薙ぐ。
そして構えると、王騎を射抜く眼差しで答えた。

「しかし詰まらぬ悪心に染まった覚えもありません。王騎将軍」

応、と。
異論ないと王騎は長柄刀を肩に担ぐ。   


「この身がいくら血に塗れようが、他に紅と蔑称されようがどうでもいい。
   ――――――私は秦に仇名す列国を、剣を向け挑む者共を薙ぎ倒すだけです!」


既に覚悟は、とうの昔にできている、と。
其方はどうだと、寳子は燈る瞳で訴えた。

「貴方を飽きさせる戦いにはなりません・・決して。
  就くべき王は目前にある!貴方の力が必要なのです将軍っ・・兵を退いて下さい!!」

言い切り、歯を食いしばる寳子。
その形相は懇願と憤怒と、そして哀情が見受けられる。
しかし決死の説得に対する王騎の返答は、答えられる事無く事態は動き出す。


「うるぁああああああああああっっ!!!!」
「殿っ!!?」

振るわれた長刀が王騎の胴を狙う。
だが渾身の撃は更なる撃で以てして打ち払われた。

「拗ねないで下さいよぉ昌文君っ!!」

払われ宙を舞う長刀が地面を刺し、昌文君の胴に長柄刀の鐓が減り込む。
弾みで渓谷へと身を落とす殿の姿に、寳子は彼の名を叫んだ。

「下は、川」

俯く彼女を見もせず

「なかなかに急流ですねぇ」

まるで意にも介さない。

「寳子。い い 演 説 でした」
「王騎っ・・!!きさまぁああああああああ!!!」

長刀を持つ手は柄に食い込むほどに力が加えられ、大きく振るわれる。
その姿に嬉々と、怪鳥は羽ばたく様に両の手を広げ彼女を覇へと誘う。

「さぁ、邪魔な昌文君は死にましたよ?どうしますか?非力な王を助けにいかなくても?
  『宝刀』さえ手放したままで
―――――まさか私に立ち向かうなどという 愚 考 、貴女ならしませんよねぇ!?」

震える長刀は止まり
停止したと思えた彼女の道は、王の待つ御車へと向けられた。
昇る土煙に煽られる王騎。
目を瞑り、口元には笑みさえ湛えている。

「ンンーーーーーンふふぅ。偉いですねぇ寳子。
   ご褒美に貴女の『宝刀』、もう暫く預かっておいてあげますよォ」

どうせ扱い切れておらぬ代物。あったとて勝敗は決していたと。
長柄刀を担ぎ、悠々と渓谷の底を覗く。
馬はおろか、好敵手の姿を目視する事さえ不可能な、深く、暗い底。
武官を去り、文官になったとて彼への念は変わらなかった。
惜しい存在。しかし感傷はない。
悠々と荒地を駆け抜ける。その姿は最早仕事御免といった体だ。

「さて困りました。私は 昌 文 君 と 闘 っ て い る 最 中 。
   このまま彼女を追って大王の首をとるまではァ・・残念ながら到らないんですよねぇ」

寳子の馬が王の待つ御車へと届く。
周囲の王騎軍兵を一刀に薙ぎ、隊に合流を果たしたようだった。
しかし暫くして事態は急転する。
その事態に自軍、相手の軍さえ陣を乱した。

「・・行く末の、御守くらいはしてあげましょうか」

飛び出し、戦場へと躍り出たそれに急いて沿う少女。
かく語りき、とは、己が出しゃばる本分でもなし。
おそらく最後となるであろう、戦場には大凡不似合いで
――――――それはまるで逢瀬のような。
情景が将軍、王騎の瞳に映り、目を細めると先の少女の乗る馬が一気に駆け出した。
軍と王を置いて、走り去る方向とは逆に王に手を伸ばす少女。

多くの追手は王の元へ。幾許が敵兵に。
そして数名が少女を追っていった。










 

 







何度分け入っても草ばかりが少女を阻む。
葉で指を切り、無造作に伸びた枝は容赦なく彼女の柔肌に突き刺さり血を湛えた。
丸く膨れ上がるそれを。赤く筋を伸ばす傷を諸共せず、寳子はただ一念の元に歩を進めていた。
一昼夜歩き通しの彼女はしかし、口にするのは最低限の酸素のみ。
一歩一歩所要するに足る呼吸を効率的に摂取する。
必要な水分、肉は既にこの身にある。眠気や精神の摩耗からくるものなら突っ伏して、目覚めぬままに獣の腹の中だ。
何処に歩を止める必要があろうものか。
比例するかのようにその姿は力強く、目指す道を誰が止められようものかと言わんばかりに物語っていた。

髪や頬、体躯にこびり付いた誰彼の返り血など既に視界に入らない。
鼻腔を擽る死臭は最早彼女の嗅覚を麻痺させていた。
そんな極限状態の中、無駄な思考を省いていた寳子の耳に喚声のような、奥地には似つかわしくない声が聞こえてきた。


(笑い声・・?)

――――――――〜〜! 〜〜!

(複数、いや・・・)


歩を鈍らせる。追手の可能性が脳裏を過る。
しかし幼子の明るい声にその疑問は早くに過ぎ去った。
身体に寄せていた能力気力を無理やりに脳内に叩き戻す。
遅すぎる思考は、たった一声の内に彼女を奮い立たせた。


「早くしろ、それともまた背負った方がいいか」


聞き覚えのある確かな声に、視界が遮られる。
頬に一筋となって零れ落ちる暖かなそれは、自身の血でもなく他血でもない。
騒々しく茂みを掻きわける音に三者が気付いた時にはそこにいた。
否、重なっていたと言っていい。


「漂――――――――――っ!!」


政が彼女を認める瞬間。時とは大凡数え切れぬ刹那。
薄く開けた口は其の名を呼ぶ暇もなく、彼の姿は捕らえられていた。

皆の前に躍り出た者は、この戦乱の世にあって決して歴史にその名を刻む事のない者。
その存在は危うく、ともすれば簡単に崩れ去ってしまうような存在である。
揺らめきの中に、しかし確かに存在した陽炎の少女、寳子はここに彼らとの邂逅を果たした。




「漂・・・だって」

呟きの声は、発した信本人に何より大きく返された。
叫んだ名。それは彼女の望んだ者の名だったのだろう。
それを理解する者は、この場にあってただ一人。
目を真ん丸く、言葉を失う信、貂両名を余所に、一度はたじろいだ政も体勢を戻す。
ひしと抱いて離さない彼女を無理に引き剥がすでもなく、漂と呼ばれた大王、贏政は寳子をただ真っ直ぐに見つめた。

「良かった・・!生きてた・・!漂っ・・!
   黒卑村へ急ごう!そこに大王が―――――――」

言って消え入る声に、彼女自身、体中から血の気が引くのがわかる。
明らかに似ていて、しかし確実に非なる者。
それはいつか、自分自身が語った言であった。

「非礼をお許しくださいませ大王様っっ!!!」

土を蹴り、風を巻くほどの速さと強さで己と政の間に距離を置くと彼女は
額を地面にめり込む様にして身を下げる。
その様子を始終垣間見る政の心境は誰にも知れない。
寳子の去った懐には、黒ずんだ血が擦れて付いていた。

急な事が急におこり過ぎた為か、外野二名は口を開けたまま沈黙。
しかしそれも延々とはいかず、場はすぐさま気忙しい様相を呈した。

「おいお前っ!漂のこと知ってんのかよっ!!」

開口一番急き立てる信に、彼女は答えない。
業を煮やす中、しかし頭を下げ続ける寳子に得も言われぬ違和を感じ、沸き立つ情は自然に冷めていった。

「んだぁコイツ・・政の知り合いか?」
「・・そうだ」
「兵だ!兵のカッコしてる!即席じゃない、いいヤツ着てるぞコイツ!
   って、ん?知り合い?ただの兵が大王の知り合い?へ??」

急いで特異な蓑を被る貂だが、好奇からか気持ち隙間を作り恐々と覗いた。
混乱の相に終止符を打つでもなく、政は将にも足らない小柄な兵士に手を伸ばす。

「顔をあげろ、寳子」

その名に緊張を覚える者が一人。
信は握りしめていた拳を解いた。

「御召し物が・・!ああいえ、それ以前に漂と大王を間違え、
    あまつさえ身を寄せるなどこの上ない罪にございますっ・・!」
「聞こえないか。俺が顔をあげろと言っている」

苛立ちにも似た強い口調に、寳子は恐る恐る顔をあげる。
穢れはもとより、新たに額に付いた泥が日に焼けた彼女の顔を更に翳らせていた。
政は無言でそれを払う。
現状、自身も一夜信を背負い走り続けたため疲労を呈しているが、
付着する返り血から彼女が合流に際し追手と一戦交えた事は明白。量から二、三人の話ではなかったろう。
更に日焼けの痕と目の縁の隈。険しい道を歩き続けてきた証は血の滲む足下から見てとれる。
この少女の力量は知っている。それでも齢十四の少女のする事にしては過酷であった。

泥を払われた驚きと、相手が微動だにしないため見咎められているように感じる寳子。
情けなさで目を背けていた彼女は、耐えられず政を一瞥する。
目が合った瞬間に、彼女はまた逃げるようにして逸らした。
その様子に、彼女の本当に逃げた者を察した政は静かに立ち上がり言い放つ。

「寳子、まずはよく戻った。聞きたい事は山ほどあるが先ずは昌文君との合流地を目指す。
   相手は俺達に追手を放っている筈だ。項垂れている暇はない、急ぐぞ」

言い終わるが早いか踏み込むが早いか。
政が三者に背を向け走り始めようとしたその時―――――

「お待ちくださいっ!!」

懺悔の体は終わったと言わんばかりに、少女は兵士の体を成した。

「・・・大王、このままでは貴方様をお連れする事は適いません」
「どういう事だ」

王の言葉に答える様に、政の携える剣を引き抜き信と貂にその切先を向けた。

「寳子!」
「無断でお借りする事、どうかお許しください。代償は、大王がお望みとあらば、この首で」

只事ではない。その空気を感じ取った両名も構える。
貂は構えるといっても、構えたフリをして信の後ろに隠れ、とりあえず両手を構えのように差し出していた。

「下僕の少年、珍獣はここに置いていく」
『はぁあっ!?』「てか珍獣ってオレの事か!?何だてめーこのやろぉおお珍獣じゃねぇよオレh(略」

「これより道は王の道。我ら兵士でさえ立ち入る事が躊躇われる神聖な場所に、
   貴様ら部外者共を連れ行く訳にはいかんと言っている。・・それに・・・」

合流を予定している場所に、待ち人は来ない。
殿の救出隊が向かったとて、彼女の知り得る限りでは明白だった。
あの高さから急流に飲み込まれた昌文君。
副長も、他兵士達さえ生きているか知れない。
そんな状況下で王を護れる者は自分しかいないと、彼女の手に力が籠る。

「・・剣を仕舞え。寳子」
「大王、お下がりください。
   ・・おおかた大王を脅し、のち見返りを求める為に付いて来たのだろうがここまでだ。
      退かぬというなら斬る!これは脅しではないぞ!!」

一歩踏み出し、信の構えた剣に剣を打ち付ける。
これを受け止めると、押しつ押されつの拮抗関係は、信が剣を打ち上げる事で崩される。
距離をとり構え直す寳子。その体勢の不自然さに政が気付いた。

「ざけんな!そっちは知らねぇがこっちは付いていく理由があんだよっ!!」
「そうだそうだ!
まぁオレの目的は間違ってねぇけど!!」

お前は黙っとけ!
信のツッコミにたじたじと更に後方に回る貂。
剣を構えこちらを見据える寳子に、打ち合いを挑む信。

「だらぁっ!!」
「っ・・!」


響く剣戟。何度か打ち合い、またも剣を挟んでの睨み合いに互いの意気地がぶつかる。
しかし先ほどの拮抗した力関係とは違っていた。事態は明白。
確実に信が押していた。

「おらおらおらぁっ!!さっきの威勢はどうしたぁ!!!」
「(こいつ・・漂と同じ――――――)
     貴様っ・・  ――――――調子にっ!!」

「双方退けっ!!!」

大王の一声に両者剣を引く。
寳子に至っては剣を置き続けざまに拝手と、一連の所作は見事なまでの様式美であった。
置かれた剣を携え、政は寳子に向かって言った。

「この両名は故あって同行を許している。口出しはおろか、手出しもするな」
「・・・・大王御自ら承知の上であると」
「そうだ。それに俺はお前に剣を仕舞えと言ったな」
「・・・ ・・・・はっ」
「次に俺のいう事をきかねば 同 行 を 許 さ ん 。以後ずっとだ。いいな」
「!はっ、はい・・申し訳ない事を、致しました。大王」

斬る以上の罰則を科す。
少なくとも彼女にとってはその意味を成す命に、これ以上儘ならない事を知る。
このような訝しげな者達を連れ立つとは。
一体どんな故があったのかと、聞こうものにも現状において彼女はその立場にはなかった。


「信、貂。すまなかったな」

反芻される言葉も、脳裏を過る思い出も。
やはり全ては本人に返る。
信。その名を聞いた寳子は、先程とは違う体でもって彼と対面した。

「・・・・・お前が、信」
「あぁそーだよ。お前寳子ってんだろ?
   俺も確かめたい事あんのにお前、勝手に斬りかかってきやがって・・ったく。何でこんな奴」
「だから・・剣が、似て」
「・・・・・・何だよ。やりあった事あんのか。漂と――――――」

言いかけて、その言葉は続かない。
明らかな別の重みが、それを遮った。

「おい・・おいっ!」
「すまない・・ ・・・・すまな、かった」

詫びる言葉を述べ、信に上体を預け倒れる。
慌てて駆け寄る貂と政。
以前の信との同症状に安堵するも、思いのほか時間を割いた事態に気付き一同は急いた。

「まずいな。今度こそ急ぐぞ。信、こいつを背負ってやれるか」
「余裕だぜ!王サマはお疲れのよーだからなぁ?」
「おまえ誰の所為だと思ってんだバカっ!」「うっせ貂このバカ!」「バカがバカっ!」「大バカっ!」
「黙れ。全力でいく、付いてこい。見失うなよ、背に寳子がいる」
「んだよそんなに大事ってんならお前が背負えよな政〜!」
「政は道案内しなきゃなんないし、一晩お前を背負って走って疲れてるってんだろ!」
「なにおーーーっ!」「やるかーーーっ!!」

一向に話の進まない外野を放置し、走り出す政。
疲労で足取りが重いながらも的確に目的地に近づいてゆく。
暫くしても、消えない言葉。

『そんなに大事なら』

何気ない言葉が、何気もなく脳裏に浮かぶ。

何の情もない。
王と臣下。それ以外には、何も。

そう思って久しい。
もう一年にもなる。

――――――――五年のうちの、三年と、一年。


打ち消しては浮かび上がる。
回転が早いというのも困り事だ。
フと笑う。


そんな自分に嫌気が差した。









追手が来る前に昌文君との合流地に到着する必要がある。
不規則に走る政に信と貂は追いついてゆく。
特に前者は背に意識のない者を担いでいるため負担は大きいが
それでも振り落とさないようにと懸命に走った。
懸命だが些か強引に過ぎる走り方で、振動は確実に彼女に伝わっていたが
それでも目覚めぬほど彼女は消耗しきり眠りに落ちていた。

「ぐっ・・ぬぉおおおおおああああああああああああああっっっ!!!」
「ただでさえ揺れまくってんのに大声出したら寳子起きちゃうだろっ!」
「るっ、せ!!ゼェ、これはっ!っっ雄叫びだっっ!!!」
「だぁーーーっ!!もーーーうるせぇええええーーーー!!!」

お前もウルセーんだよ、と言い合いしている間に
信は先を走る政の後ろにまで追いついた。

「おらおらぁ!抜かしちまうぞっ!!」
「っ・・!そんなに走ると、急に道を変えた時に体勢を崩すぞ」
「んなヤワじゃねーよ!」

と言いつつ呼吸は忙しない。
しかし暫くすると乱れていたそれは一定の間隔を取り戻す。
実は政が密かに速度を落としたのだが、疲労で気付かない信は所謂ドヤ顔で走り続けていた。

「政!一つ聞いていいか!」
「何だ」

聞き返すと信は、頻りに首を右方に振る。
目に映るのはすっかり憔悴しきり、寝入った寳子の姿だった。

「こいつがどうかしたか」
「どうもこうも、知り合いなんだろ!?」
「それがどうした」

特に話すつもりもない。
話す事もないのだからと、政は会話はそこで打ち切る筈だった。

「漂のこと知ってんだよなコイツ」

急に神妙な面持ちになる信に、政は溜息を吐き言った。

「友の事となると、今は何でも、些細な事さえ知りたいという訳か」

近付いた人間の事さえ聞いておきたいのだろう。
それがどんな人間か。今は自身が関わっているのだから尚更かと
せめて心中察すると言わんばかりに、薄く口を開いた。

「こいつとの付き合いは五年にもなる」
「何だよ幼馴染みたいなモンじゃねぇか!
   王サマに近づけるって事は、コイツやっぱり、結構良いトコのなんだな!」

淡々とする政に対して、確実に目に輝きを灯す信。
しかし一言語っただけで政は、どこか懐かしさを覚え、少し笑った。
今はそんな状況でない事は百も承知だったが、気付かず口から言葉が漏れ出していた。

「・・・・俺が咸陽に来てすぐに出会った。
   素直で、懸命で。意志が強く、親に忠実で・・そして泣きそうで泣かない、強を張る子供だった」

一つ一つ思い出される記憶に、心なしか顔が綻ぶ。
しかし先頭を走る彼のその希少な瞬間は誰にも捉える事は適わない。

「初めは煩わしいと思っていたが
   いま思えば、随分救われていたんだろう・・」

小声で、呟くように。まるで己に問いかけ、内に落とすように言う。
思いのほか乗り気で話す政に、信は口の端を上げながら聞いていた。

「宮中の、年の近い者達にとっては良い姉のような存在だったようだ。
   身分は自分が高い場合は気にせず下の者に接し、低い場合は、相応に振る舞っていた。
     その面倒見の良さは漂にも―――――――」

は、と。
そこまで言って口を噤む。
他意はないが、気付いていないだけかもしれない。
そんな考えにさえ到る道理は
今のこの王には、ない。

「漂が来て、一度も間違える事はなかったが・・余程疲弊していたのだろうな」
「あ?ちょっと待てよ、急に話飛んでねぇか?」
「気にするな。飛んでない」

明らかに飛んでいるが、これ以上の要点を仔細に話す気もない政は話の筋を流した。

「なぁ・・でもコイツ・・・」


知らないんだろ?
   漂が、死んだって。


言葉にしない。
聞こえない。
寝入る彼女には、少なくとも。決して。

阿吽とするのは発した者と聞き受けた者。
暫くして引き離すように政が速度をあげる。
さすがの信もそれには追いつけず気持ち速度を落とした。
すると後方を走っていたであろう貂が全速力と言わんばかりに必死に追いつき合流する。

「おまっ・・!はえーんだよちきしょおおおおっっ!!」

向けられる声は届かない。
自身の走る音も、草を分ける音も、地を蹴る音も。
外界を遮断してまで聞こえる内の声は、つい先程の出来事の焼増し。


(コイツが政を漂と間違えて抱きついた時)


ボロボロの状態で
九死から這い出たといった風に。


(尋常じゃなかった)


抱擁ほど生易しいものではなかった。
まるで縋る様なその体は、いくら王の身代わりとして身請けされ
重宝されるべき無二の存在に対するものだとしても
その様子は、誰が見ても―――――――

「明らかに、だよな・・あれは」
「・・ぅ・・ ・・・?」

呻き声をあげ、当人は未だ眠気眼を開けきれてはいない。
微睡む意識の中で、見た夢の終わりは誰にも知れない。

「よぉ、起きたか!?」
「・・・・・ ・・・・・」

威勢よく声を掛けるが、打って変わって
愚図る声が聞こえ、信は内心焦りながらも言を探す。
探して口から出かけるが、でない。
折角に組み立てた言葉はあれもどれもと出ては打ち消えた。
どう声を掛けていいものか、このとき少年は言葉を探しあぐねいていた。

「・・・・ ・・ふ・・ ・・・」
「ゆっ、揺れたろ!悪かった!すげー走ってるからさっ!
   どうしても伝わっちまうっていうか!まぁーでもそんくらいで泣くなって!
なっ!」

未だ朦朧としているのか、頬を伝う涙を拭いもしない。
悪い夢でも見ていたのだろうか。
しかし目に映る光景に彼女は次第に覚醒する。

「・・・ ・・・・・・・!?」
「もう少し寝てろって!あとちょっとで着くらしい!」

顔面蒼白。
寳子は片手で涙を拭いつつ、接触を避ける様に上体を仰け反った。
急に肩を押され、信は前のめりになりながら驚を喫する。

「降ろせっ!!」

半ば錯乱にも似ていたろうか。
何故自分は泣いているのか何故自分は過程の記憶がないのか
そして何故自分はこの訝しい者の背に厄介になっているのか――――――
出せばキリがない。そして護るべき王の存在が遠く先にある事にも納得いかなかった。
そんな寳子を貂が制止する。

「騒ぐと政が困るよ!寳子!」

なるほどこの短時間で最早扱いを知った貂に、良いこと言った!と
これまた自分が言った訳でもないのにドヤる信は相も変わらず間を取られていた。
黙り込む寳子。
やっと状況を飲み込み、しかしその体は諦観にも取れる。
降参とばかりに抵抗をやめ、大人しく、否。
恐る恐る目前の背に厄介になる彼女に信も気分が良いものではない。

「どれほど・・ ・・眠っていた」
「六刻(一時間半)くらいかな〜?」
「なんでっ・・こんな・・ ・・恥だ。
   しかも易々と名を口にされているし。こんな怪しい奴らに」
「まぁそう言うなって寳子。オレ達別に政を傷付けようってハラじゃねーんだし」
「お前みたいなクソ重い荷物背負ってんだ!ちったぁ感謝「降ろせバカ者っっ!!」

信の髪の束を手綱の如く引っ張る。
首辺りから小気味よい音が聞こえた気がするが
嘆く以上に逸早く、怒号が森深くに木霊した。

「ざっけんなてめぇえええええ!!!バカはお前だ今すぐ降りろこn」
「あー降りてやる!こんな性質の悪い馬に乗ったのは初めてだっ!!」

「だーっ!!待て待て待てっ!!
  信・・お前も一言多いって・・。寳子もさ、まだ目のクマ酷いぞ?
    遅れをとっても政、困ると思うぜ。まだ暫くおぶっててもらいなよ。信もいいよな!」

両者黙り込む。
真一文字。への字。
明らかに納得の体を成さない二人だが、道理はあると口を噤んだ。

「遅れると困る!・・からな」
「それに関しては同感だ。ただ、この借りは必ず返す。利子をつけてな」

何だろうこの、顔を合わせずして火花が散るって光景は。
目と目を合わせずに火花とは散るものなんだな、と無駄すぎて貴重な知識を得た貂。
自分がいなければこの二人はどうなっていたのだろう。
そんな不安も、今ここに自分が存在する事で杞憂に過ぎると
どこか謎の達成感を得ながら貂は輝かしい木洩れ日を浴びながら走り続ける。


「そっ、それにしても寳子はホントに政が好きなんだなぁ!」

寳子は即座に、言った貂を凝視する。
若干涙目な事はこのさい触れない。
完全にビビリ、蓑を被る貂から目を逸らす。
彼女の口から出る言葉に両名はどこか怪訝な様を隠せなかった。


「・・これは忠義だ」


当然と言えば当然の答えに、しかし二人は返答に惑う。
含みのある言い方に、この話題を振った貂はもちろん先程直接政と話した信は
『腑に落ちない』
そんな感情を露にする。


「もはや好きとか嫌いではないんだ。兵として、近くなればなる程にな」


なら

お前が兵じゃなかった頃は。



喉から出かかり押し込める。
何故その必要性があったのか。

言ったっていいだろう。
なのに何で

(言わなかったんだ、俺)

「な、なあ!にしても名前気にするなんて、結構名家だったりするのか?」
「あー、俺もそれさっき・・」

言い淀む。言いかけて止める信に訝しむ寳子。
目が合わない事が幸いだった。
まあいい、と前置き話す寳子は幾分調子が戻った様子だ。

「基本的に名を表す事は忌むべき事だ。位が高ければ高いほど避けられる。
    大王の名を大盤振る舞いのように呼ぶお前達は、侮辱の罪で殺されても文句は言えんのだぞ」
「ひょへ〜〜」

冷や汗を流す貂とは余所に、信は口を真一に閉じる。
寳子は明らかに自分がどのような身分の者なのか、語る事を避けている。
王に近付ける程の者なら、側近若しくは特例に如く者以外考えに及ばない。
政から聞いた馴染みの関係からも、それが窺い知れる。

「・・だが、それに目を瞑って下さっているという事は、各人推して知るんだな」

したり顔で最後まで語らずのこの軍人に、信は返じない。

「おい、なに黙ってんだよ信」
「なんでもねぇよっ」

明らかに態度の悪い信に、うぇ、と露骨に顔を顰める貂。
しかし暫くしても様子の変わらない彼に痺れをきらしたのか貂が話し掛ける。

「何だよ信なにスネてんだよ〜疲れたのか〜?」
「おら!政がまた曲がったぞ!遅れんなよ!」
「ちぇ」

やはり声色に苛立ちが感じられる。
潔く身を引いた貂は言われるままに渋々と走った。

「・・・・」

寳子は背負われながら何やら案じていた。
いま彼女の目に映るのは周辺の木々でも広大な空でも、流れ去る景色でもない。
動けなくなった自分自身を、ただ運んでくれる見も知らぬ、下僕らしき少年。
その後ろ姿だった。

「文句は言うがな」
「はぁ!?」

フフ、と笑う彼女に幾度目の調子の狂いを感じる信。
めんどくせぇな、とそんな言葉を吐こうものなら
余計に面倒くさくなること請け合いだ。
平時ならまだしも、走り続けるこの状態では楽観に難い。
黙る信を余所に、寳子はまるで独白のように語り始めた。

「そうだな。確かに。私は少しお前達を警戒し過ぎていたのかも知れない」

『え』

両者同反応。何だかんだ相性のいい二人は視線を合わせる。

「位を平民に翳すというのも無粋な話だった。いつの間にか、良くも悪くも兵たる兵になっていたな」
「へ?へ???」
(コイツ何か勘違いしてんぞぜってぇ・・)
(オレもそんな気がする)


目と目で通じ合う信と貂だったが、そんな目も
この先の彼女の答えによって悲惨な状況に陥る事となる。

「だ、だからっ!」

応、と次の言葉を待つ二人。
何故にこんな身を入れねばならないのか。
しかしそれは正しかった。


「は、運んでくれてありがとう」


点になる。
これまでがこれまでの分、その反応たるや決して過剰なものではなかった。
肝心の彼女と言えば何やら未だ呟いているが、か細過ぎて聞こえない。
唯一聞こえやすい位置にいる信が聞いた言葉は、本来兵はもっと厳しいだの、年が近そうだから特別だ、だの。
とにかく言い訳なのだが、彼女にとっては侮られぬ為の弁明なのだろう。
そしてやっと聞こえる様に言った言葉は、先程は言い過ぎた、と。
いつになるまでかわからないが、共に王を頼む、そう付け加えて。


 

 






 

2013 0202