次々に現れる目印を頼りに進む政は、これが最後とばかりに急に立ち止まる。
急とした弊害は累々と、達磨になった体で痛々しいほどに見て取れた。
岸壁にぶつかり静止したと思われる二人は暫し動かない。
砂埃が晴れる中、慌てて離れる二人に貂が確認とばかりに声をかける。

「信〜!お前ドサクサに紛れて寳子のおっぱい触ってねぇだろ〜な〜!」

『触(られて)って(ない)ねぇよ!!!』

甲冑着てやがるし!
次いで、流れだろう大きさへと話題を移行しつつ、信は自らの手を彼女の胸部近く誘導する。
無論触れる気はなかった。しかし遅すぎた。主に頭のなか的な意味で手遅れだった。
顔面に一発。
鈍い音と共にいくつか小気味良い音が聞こえた気がする。
と。貂は鮮やかな?討伐劇を前に小さく震える。急いで両耳を塞ぐまでに到るは僥倖か。
否、これは、ここまでは問題ない。以上にこちらが問題。
冗談で言ったつもりが目前の惨事に蓑を被り、大層に構えを取っては退く貂。
討ち取ったと言わんばかりに『信だったもの』の襟首を掴む。
そのまま引き摺り貂の前に出すが、困惑よりも迷惑が勝るその体は薄情ではない。

「冷水にでも晒せば顔の腫れは引くだろう。だが主に頭を冷やしておいてくれ。茹ってたまらん」

要約すれば、顔より頭が相当酷いので冷やせと。
・・治るのか?コレ。
預けた寳子は足早に政についてゆく。
置いてけぼりをくらった貂はそっと信を見やる。

「うわ・・ ・・この生ものオレにどうしろっt「うがぁあああああああ!!!!」「ぎぃあああああああ!!!!」

死者が復活した並みの驚きを見せる貂。
つかもう復活したのかよ!とのツッコミはさておき。

「んだよ!!甲冑付けてちゃ大きさわかんねぇよなって言っただけだろ!!」
「いや、だから。わかれよ」アホ
「は!?お前あれで見てわかんのかよ!」すげーな!

吠える信を尻目に、貂に到っては言葉数少ない。最後はもはや口を噤む始末。
ボコボコの面のまま文句を言い走り去る彼を、急いで追いかける。
岩の裂け目を通る。避暑地とはよく言ったものだ。避所だろ、これは。
歩きながら思う。
あちらもあちらで大層気は合っているらしいが、果たして。
先は長そうだ、そう決め込む貂だった。




「着いたぞ」

政に案内されるままに奥地に入り込むと、隠されたのか、ともすれば隔離されたのか。
通常出歩いているだけでは決して辿り着きはしないような場所に合流地はあった。
王の避暑地、そう称された宮は小ぢんまりと、しかし確たるその姿を露にした。
周囲には美しい緑彩が、天井からの光に湛えられ神々しく映えている。
清流のせせらぎは幾星霜を超えようとも、穢れを知らぬように水光を刻む。
信と貂が息を呑む中、寳子はその体を崩す事はない。

「すっ・・げぇ!」
「うおぉーーー!」

いや崩した。横を通り過ぎる信にギョとする寳子。
自分のやった事とはいえ、若干の罪悪感が生まれる程の体だった。

感嘆の声を漏らす信と貂は一足先にと走り出す。
『王の前を走るな』
寳子は口をつこうとした言葉を飲み込むと、一息吐いた。

「・・大事ないか」
「そのようですね、荒らされた痕跡は―――――」

言って、宮を見詰めていた筈の政が勢いよく自らに振り向く。
真向いとなった両者だが、片や黙して語らず。片や呆気の体であった。
しかしそこは長い付き合いの賜物か。
無表情の中に幾許の含みを感じ、言の意味を察する寳子。

「え、あ、わ、私は!大事ありません!」
「ならいい」

再び翻る。
欲しい答えを得たのか、その足取りは軽い。
寳子、彼女はというと、足元に茂る緑の中で立ち竦んでいた。







閑散とする宮内を探る。
目立った痛みは老朽のそれこそ見られるが、それにしても浅いものだった。
まず廃墟とは言えぬ佇まいに感銘を受ける。建てられた年代を考えても当然の事だった。

「合流地っても誰もいねぇな」
「うん・・色々と用意はしてあるみたいだけど」

見回ってわかっていたとはいえ、口に出されると顕在し頭を擡げる。
疲労の体には辛いものだった。

「俺達が早く着いただけだ。適当な部屋で休んで待て。・・寳子」

名を呼ばれた少女は拝手し、応える。

「はっ!何用でしょうか!」

溜息をつく政。
え、と疑問符を浮かべる、最早兵士然とする寳子。

「・・王宮の、礼以外はよせ」
「はっ・・・ ・・・え!」
「ここにいるのは権無き若王とその他下々だ」
「くくってんじゃねぇええよ!お前くくってんじゃry「政ひっどい!!ホントの事だけど!!!」

権無き、という言葉に反応する寳子を手で制する。
非難轟々の中、淡々と続けられる王説は疲労困憊とて流石に芯がある。

「俺は仮眠をとる。その後、お前が俺達に合流するまでの子細を聞く」

次こそ声を張るまでは成らないものの、彼女は兵然として相対する。

「承知致しました大王。どうか今は何の憂いも抱かずお休みください。知り得る全て、お話し致します」

寳子の言を聞き終え、無言で政は足早に姿を消した。
やれやれ、と他の場所を見て回りに行く信と貂。
彼女も両者と同じ方を向いた。











足が重い。体が思うように動かない。
動いているようでその実、引き摺っているだけだ。
朧げな頭で、普段特に考えようともしない物事が顕著に脳に訴える。
できれば感じたくもないような現状だ。
己の弱った体など、誰が懇切丁寧に見詰めていたいものか。
これは愚痴か。
文句がいくらでも出てくる。
部屋までの道のりが遠い。
壁に手をつき、沿うようにして歩く。
怒りで、鬱陶しさで愚痴でも言っておかねば倒れてしまうとでも。

「―――――――『弱』王」

まるでそうではないか。
寧ろこちらが似合いであろうよと。
笑った刹那

「っ・・!」

崩れかける。
息も絶え絶えだ。
いっそここで寝てしまおうか。
今なら咎める者も――――――――――


「王」


―――――――――いた。


音もなく。
それほど自分が疲弊していたのか、それとも。
もしかすると、不恰好な姿さえ見られていたかも知れない。

青き兵士は近くに寄ると、若き王の肩を抱いた。
後ろ手に自らの首に回すと、一歩ずつ。
併せるようにして歩き出す。
一歩、一歩。
踏みしめるように。
王はその時こそ彼女を凝視したが、歩を進めるごとに前を見据えた。

二人の間に言葉はなく
無論彼女は、そして彼自身も、何も咎めはしなかった。


ほどなくして部屋に着く。
寝所は実に簡素なものだったが、藁が敷かれている分どこか気遣いが感じられた。
腕を解き政は藁に手を当てながら、静かに腰を下ろす。
深い溜息が疲労を物語る。
やっと口を開けたのは、寳子の方だった。

「お疲れ様でした、大王」
「さすがに骨が折れた」

フ、と双方。
では、と。
軽い言葉を聞き安心した彼女が、背を向ける政に一礼して去ろうとしたその時だった。


「―――――――漂は」


動きが止まる。
それを見ない政はしかし、彼女なら止まると。
そう検討をつけ、言葉を待った。

「・・・・ ・・漂は」

彼女は知らない。
と、いう事を知っている。
何故なら、当人の過程は知らなくとも

その結果は、知っているから。


彼女の知らぬ先を知る政は、自身の知らぬ過程を聞く素振りをして
彼女に、意味のない。
今後を鑑みて、ただ酷な問いを投げかけただけだった。
自身にとってだけの、意味を得る為に。


「大丈夫です。必ず」


彼女に背を向ける政の顔も、彼女には見えない。
そして彼にも、彼女が一体どんな顔をして答えたのか、知れない。
諸刃の剣だ。
自身を大層、傷付けたいらしいと。


「漂は、強いです。彼は大将軍になりますから」


彼女は笑っているだろう。
当たり前か。

―――――――――――愛する者の事を、語っているのだから。


「・・お休みなさい、贏政さま」


その名が口にされる事自体ではない。
その名を口にした人物が発する事の懐かしさ。

酷く優しい声を置き土産に、寳子は部屋を出た。


一体何がしたかったのか。
彼女から諦観の念を窺いたかったとでも。
何の為に。何故。そんな事をして。そんな――――――――――


一年前にも似た鼓動を聞いた事がある。
平時、ただ生きている間には聞けぬ音だ。
だが気付いた傍から串刺された。
『彼女』の持つ剣に、穿たれた。


「その、筈だったな。・・・寳子」


そのとき自分は、彼女は誓った。
互いが互いに線を引いた。

飾りを前に、護るために。


お前は剣を、とったんだ。




寝息が聞こえる。
安らかな音が、響くことなく、昏々と。
大王と呼ばれる少年の眠りは、
暫くの安寧を以てして訪れた。











「よっ!見回りごくろーさん!」

宮に戻る前より。廊を渡る時には確たるその芳しい様子に表情は穏やかだ。
唯一起き、出る前に挨拶をした貂に声を掛けるべく調理場に足を踏み入れる。
作り上げられた料理の数々に寳子は感嘆の声を上げた。

「これはまた・・ ・・宮廷料理も顔負けだな」
「どぉーだ!あがめたてまつれぇ〜いっ」

言ってわざわざ蓑を被り決めの姿勢を凛々しく保つ。
後光が見える可くもないが、何故か腰が退けるのは単に、引いているだけなのだろう。
相も変わらず鼻高々の貂に寳子は、気持ち屈んで声を掛ける。

「ふふ、そうだな。私ではこうはいかないから」

下手ではない、上手くないだけだぞ?
そう加える彼女の見詰める先は何か妙だ。
彼女の柔らかい言葉付きに一時、深となる貂だったが気を取り直して話を続ける。

「あああええっと!で、ど、どうだった?何かアヤシイ奴いたか!?」
「いや、何ら異常はない。追跡を振り切ったかな・・」

あ。と貂は口に手を添える。
言葉とは裏腹に寳子が警戒を解くことはない。
その様子は再び、貂の知る彼女のそれに戻っていた。

「まー今ない心配をするよりはさ!寳子、飯食おうぜ飯!運んでくれ!
   飯だぞーー!飯飯!!起きろ〜〜!!」

貂は調理場にある器同士を打ち鳴らし、寝惚けているであろう者共の目覚めを促す。
その様子に微笑みながら、寳子は料理を黙々と運び出した。



「うぉおおおおおっっ!!!これお前がぜんうぐっ!もぐっ!!
「食うか喋るかどっちかにしろぉおお!!」
つかはえーよ!
(き、汚い・・・)
(・・・・)

食卓に品鮮やかな料理が並び、全員揃い、さて頂こうとしたところ。
寳子が次第の報告を促す中、食事の後で構わないと言った傍から。
怒濤の如く。
我先にと料理に手を付ける暴徒の出現により、已む無く興は削がれた。
只管に掻っ込むその姿に、信以外の皆が口を閉ざす。
一様な反応に気付かないまま食事を促す信を前に、貂が喚き散らす。
寳子は呆れ、政は静かに食事に手を付けた。

(ほ、骨まで食すとは・・ ・・強い)
「寳子。気にしていたらきりがない」

呆れつつも謎の劣等感を露にする彼女に政は言い放つが、その反応は芳しくない。
腑に落ちぬ体で料理に手を伸ばす。
一変、彼女の表情は明るさを取り戻した。

「美味しい!」

満面の笑みで食べ進める。
立て続く緊張感に、忘れられていた空腹感が呼び戻される。
菜から肉、汁物。それらを中心に数ある料理を楽しそうに選び取り口に運ぶ。
その姿たるや、とても剣を携え返り血を浴び、兵士然とする者のそれではなかった。

「・・・お前もけっこー食うじゃねえか」

驚の体か、喜の体か。
共にしていてもどこか浮き立つ存在だった彼女が身近に感じられたのか、
にやにやと含み笑いをしながら食を進める信。
はたと動きを止め反論する彼女はしかし、どこかあどけなさを隠しきれてはいない。

「う、うるさい。普段はこうではない。今は体力を戻すのが先決だからな」
「あー・・、まあ、そんなに食べてもらえれば、オレは嬉しいよ」
「て、貂!別に空腹なだけでこんなに食べている訳じゃないからな?ちゃんと美味しいから・・」
「んだよ〜。別に女が大喰らいでもいいんじゃねぇか?食わねぇよか「いいからお前は黙って食え!」

それにお前のように下品じゃない!そう豪語する寳子に
今し方、品を語るに能わない、とは流石の政は口にしなかった。


「いいか。貴士族と相伴与る際はそのように食さぬことだ。
   時と場合にも寄るが、・・・大将軍を目指すというのなら尚更にな」

大将軍。
その名と、その名の出所を巡らせて一拍置く。

「何事にも相応というものがある。上に行けば行くほど、内に外に身の程を弁えてゆかねば最上には届かない」
「俺が大将軍目指してるってこと、漂から聞いたのか?」
「そうだ。お前達が下僕の身であるという事も知っている。だから尚更に釘を刺しているんだ。
    功を挙げて他を黙らせておけるのは、武将にとっては戦場だけだ。表に出ぬ分、内の方が厄介と知れ」

見据える先の少年の目も、彼女を見据え瞬きもない。

「――――――隔絶された場所とは一つの世と相違ない。
        それは自国とて同じ。留意するに越した事はないぞ」

随分と遠い話だろうがな。
そう語る彼女の口ぶりは軽い。
しかしそれは内部の揉め事を数多掻い潜ったもののように雄弁に。
彼女の素性が知れぬ分、いらぬ思惑まで巡る。
そしてこの口ぶりに、どこか思い当たる節がある。
嫌な予感。
しかしそれは彼の惑を外れ、未だ浮上する事はない。

「家名があれば位だのは幾らか分かる話だが、下僕だとそうもいかない。
   そも下僕という身分の者を前に、こうして大将軍、一兵の話をする現状でさえ疑わしい」

だが寳子の信を見る目は一途に過ぎていた。
今後、仮に含みがあったとしてもそれ以上に信は、受け入れ跳ね返すくらいの気概を持っていると。
見返す程の眼力で彼女に言ってのける。

「―――――――はっ、そんなもん。 要はその最上に行きゃいいだけの話だろ」

「ばっ、だからそこに辿り着くまでの――――――!」

急いで身を乗り出し反する言葉を口にしようとする。
そんな自分に気付いた寳子は、口の端を上げると、笑った。

「ふふっ・・・ははは」

そのまま杯に注がれた水を一口。
彼女の様子に、話に聞き入っていた二人もはたと我に返る。
真直ぐに見つめていた彼女の鋭い眼光は、今は穏やかに燈るばかりだった。

「いや悪い。許せよ。
   ・・思い出しただけだ」

思い出を映す瞳は、ただただ優しい。


「彼は、漂は大将軍になると言っていた。・・友と一緒になって戦場を駆けると」


始終を聞く誰彼が
水を湛える杯を、持って。
近く寄せ、そしてそのまま手に余す。

「お前の話をよく聞いた。何度も何度も聞いた。・・私もよく飽きもせず。
   だから私はお前の事をよく知っている。話の上ではな」

それを置き、思いついて次は匙に手を伸ばす。
が、底を一度突いて再び匙を置き、余す。

そんな自分の行動に気付き、しかし微動だにしない。
綻ぶ笑顔の寳子に対し、大王贏政はその翳を深く落とした。


「だがお前は、話に聞いていた以上に―――――――――酷い」
「はァ!?」

席を立ち身を乗り出す信に、寳子は体ごと向け同程度の威勢を払う。
眼を付け合い拮抗する二人の間に、先ず割って入ったのは彼女の言だった。

「全く!控えめに見積もっても酷い!
     ・・・これだけ突き抜ければ、良い意味でな」
「!」

信は面食らい後ずさる。寳子から出た意外な言葉に貂も政も驚きを隠せない。


「早く漂にお前を会わせてやりたいよ。
   お前の言っていた信って奴は、何倍も、何十倍も不遜じゃないかって!」


続いた彼女の言葉に凍りつく。
そして文句を言ってやる、と。
笑う寳子を前に、三者は暫し言葉を失う。

王は知っている。彼と彼女の、たった、否、一月もの代え難き思い出を。
信と貂は出会いから感付いていた。王を彼と見誤った際の彼女の異様さを。

垣間見えた感情の丈はきっと、大凡語れるものではないのだろうと。


いま言うか。
言うべきか。
言わざるべきか。
今この時か―――――――――


「な、なぁそれにしてもさ!ここって何でこんなに綺麗なんだ!?誰か手入れでもしてくれてんのかな!」


言わざる。
幾許動揺の残る体のままに開口一番、貂は彼女に真実を伝えない選択をした。
まだ言う時ではないと推したのか、はたまた言う気概に達しなかったのか。
それを合図と取るや否や、政は話に乗る様にして語り始める。

「四百年前に、穆公という王がいた」

稀にみる明君であり、差別なく人に対してその明瞭な心は位をも諸共としない。
穆公という王の寛容な人物は、距離も国境も、種さえ超えた。

最もたる例として、秦より更に西にある森に住まう山の民の名を持ち出す。
聞けば穆公の軍馬が山の民に襲われ喰われたという。
通常であれば咎の対象となる所を、この賢人は罪科どころか馬肉に合う酒を山の民に齎したという。
これにより秦王と山の民の王は盟約を交わし、西の山界を味方に付けたという話だった。
争いで血を流さず、彼の王は百里の地を築いたと。

「しかし穆公亡き後、盟約は秦側から一方的に絶たれた。
   ここは元々彼らとの交流の場所だったが、以降我々秦人と山の民との交流はない」

「・・寧ろ彼らは私達を憎んでいるだろう。当然の事ながらな」

政が話を括ると、矢継ぎ早に寳子が答える。
平地の民が、山の民の受け入れを拒否した。
時を経た今となっては書面において、その事実が記載されるのみだ。
しかし種が種を沙汰すという事は、つまり平和的解決は望むべくもない。
一方的に起こしたというなら尚更、ただで山の民を山界に帰したとは考え難い。
己が生まれる前の世の事ながら、と。寳子の語る表情は険しいものだった。

「それでもここを守ってくれているのだから、彼らの情の篤さが窺える・・」
「え!山の民がここを世話してくれてんのかっ!?」
「彼らはここを穆公との神聖な場所と捉えている。そのため尽くしてくれているのだろう。永きに渡ってな」

話し終わり各々一息つく中で、勝手に燃え上がるその男はやはり勝手に吼え出した。

「ぅおおおおおおぼっこーすげぇええええ!!!!
   俺も四百年語られる男になってやるぜぇええ!!!」

「えぇ〜話やぁ〜〜・・ってオラァ!だから人がカンドーしてる時にうるせーってばこのっ!!」

貂がすかさず突っ込むが聞き入れない。
食事中に託けてか、無駄に気合の入った信は未だ食卓に上がる料理を貪り食い続ける。
貂の尽力空しく、信の横暴限りない様子に言葉を失う約二名。

「・・・大王。この者達、いつまで」
「寳子。きりがない」

脱力する彼女を尻目に、匙で一掬い。
悠々とした秦王のその姿に、一人怒気を纏う己を虚しく思った寳子は、
大人しく杯の水を口に含んだ。







宴の盛りも超え、各人寛ぐなか。
寳子の一刀が安穏とした空気を裂いた。
しかしこれ以上の時宜もない。

「あの、大王。宜しいでしょうか。
   ――――――そろそろ王都脱出の際の次第をお伝えしたく」

緊張が走る。信と政の両名は万端整ったと。貂は満腹で微睡む目を擦り直る。

「・・敵味方、そして昌文君の末を伝えよ」
「はっ!」

寳子は改めて姿勢を正すと、静かに語り始めた。
王宮脱出までは滞りなく済んだ事。
咸陽は脱したものの予想外の事に、中立を保っていた筈の王騎軍が動き出し追撃に難を強いられた事。
昌文君は王騎を引き離し一騎打ちに持ち込むものの決さず、寳子が援けに入り
自身と昌文君とで王騎を説得、若しくは打つ算段をするも適わず、
昌文君は王騎に撃たれ谷底へと落ち、急流に呑まれてしまった事。

束達の丘にて双方の伏兵が合致し、援見込むもこれ適わず。
元いた王騎兵の存在により兵は裂かれ、王の御車は孤立。
これに寳子は王騎との打ち合いを見合わせ、副長の壁と合流し御車の護衛へと就いた事。
彼女はそこまでを話し、一旦息をついた。


(昌文君・・ヤロォもいやがったのか。
  けど崖から落ちて急流に呑まれたって事は・・)

合流地点に来る可能性は、極めて低い。
誰もがそう思った。

「大王、どうか気を落とされぬよう。・・首が斬られた訳ではありません」
「ああ。・・話を続けてくれ」

頷くと、先程よりも重苦しい体で語り始める。
護衛に付き、壁と話し二隊に分かれ応戦するも、溢れた敵増援により一向に数が減らぬ事。
ついに敵が御車に手を付けた事。そして

「―――――――そして、王自らが戦場に参じる事態と相成りました」
『!!』

王自ら、それは。

「漂が・・!?」

音もなく頷く彼女の表は知れない。
ただ淡々と語り続ける。
王が御車を飛び出し、後方敵を退けそのまま馬を奪い、陣頭に立った事を。

「漂が王の影と知っていたのは殿と副長と私だけだ。他兵にとってみれば、
  王自らが先陣を切るというという事、これ以上の鼓舞はない。
   士気は格段に上がり、我が軍は次々に敵を突破していった」

当時の驚きと、どこか喜びと、そして悲しみとを湛えて。

「漂は既に無名の少年などではなかった。
  ・・王を映した、その意志は大将軍のものと言って相違ない程に」

雄々しく、そして気高いものだったと。
食い入るようにして聴く三者に向き直り、再び口を開ける。

王は二分された内一つの隊を昌文君救出に向かわせる事を提案した事。
その中で、次々と現れる新手に王は自ら身を挺し向かう事で更に敵兵力を分散させた事。

「それから、どうなった」

話の先を促す政に、寳子の答えは意外なものだった。

「・・・分からぬのです」

三者顔を見合わせる。一体どういう事なのか。

「計三隊に分かれました。王お一人と、副長と、私です。
  ――――――王は、漂はまず私を戦場の外へと逃したんです」
「じゃあ何か、お前は・・」
「そうだ。分隊されたまでは知っているが、その先は・・王がどうなったのか。
  殿の救出隊、副長はどうなったのか等は皆目見当がつかない」

寳子に付いた兵は敵に倒され、彼女のみとなる中で敵兵が大凡什騎追撃してきたとの事。
それを全て薙ぎ、馬も剣も失い合流地を目指す最中で大王に落ち合い、僥倖であったと。
始終を聞き終え、一同に息をつく。
そして誰も『王の行く末』について、触れる者はいなかった。

「申し訳なき所存にございます・・私が至らぬばかりに、こんな、不足の情報ばかりで。
  ・・十二分に扱えぬとも、我が宝刀。手中にあれば、このような失態・・」

「王騎が立ちはだかったとなれば、得物などもはや問題ではない。
   寧ろ下手に討ち合わなかっただけ、それこそ僥倖だ」

確実に殺されていた、と。そう政は付け加えた。

「それでも、王を護り敵を蹴散らすには以て他はありませんでした。・・悔いるばかりです」
「悔いるな。そんな事をしても事態が変わる訳でもない。
  合流の目途が立たぬ以上、これより更に尽力してもらうぞ、寳子」
「はっ・・!」

拝手の体は力強い。その姿を認めた王もまた、強く言い放った。

「大義であった。―――――状況は絶望的という事だ。
   各自食事が終わり次第早めに休め。明日の朝に会議を開くぞ。・・俺達で何とかせねばならない」

言葉無く全員が頷く。
後片付けも程ほどに各自、部屋を後にした。








宮の足元。背後に岩壁を添えた湖畔近くに彼女はいた。
辺りはすっかり陽を落とし、月光が夜の帳を唯一割いて在った。
湖の水面に光が反射し、彼女の目を眩ませる。
沓を脱ぎ、足を洗い冷やす。
足先の肉刺に全体的な赤み。皮は捲れ、血が滲んでいた。
水を当てる心地よさに目を閉じる。
無言の中、口をついた言葉。

「ふう・・食べすぎたな」

胃近くを摩る。次いで腹を撫でる頃、出会ってしまった。

「お!」

面倒臭いという体が一気に露したのか、対する信も苛と向かう。

「何だよオレがここに来ちゃ駄目なのかよ」
「私は何も言ってないぞ」
「顔が言ってンだよ顔がっっ!!!」

ぐぬぬぬ、と両者睨み合いの体。
しかし先に折れたのは寳子の方だった。

「お前も足を冷やしておけ。私を背負って走ってくれたからな・・」
「あー、そうだった。すんげー重かったからなぁ」
「頭も冷やしておけ。それが賢明だ」

隣り合った寸での事。
同時に胸倉を掴み合い、背後には闘争の炎が燃え上がる、が。

「やめだ、やめ。こんな下らぬ事、王の側近として恥ずべき事だ」
「けっ。エラソーに。どうしてこう、兵士ってのは偉そうなんだ」
「お前・・私でそんな事を言っていたら、とてもじゃないがやっていけないぞ。王賁なんて前にしてみ」

と。
そこまで言って淀む。
歯切れの悪い反応に、首を傾げる信。
何を思い出したのか。
困惑するその表情は、月光に充てられた所為か幾許、赤い。

「とっ、とにかく!・・色んな者がいるんだ。
   外面内面、共に相応というものを身に付けて損はないっ!大望があるなら尚更な!!」
「・・・お前」

言いたげな信に、寳子はしたり顔で応える。

「大将軍になるんだろうが。王に仕え、功を挙げるが早い。
  頭の動きの鈍いお前でもそう考えているものだと思っていたが、違うのか?」

この際、鈍いだのの雑音は置いておくとして。
信はその言葉に身を乗り出して聞き返す。

「なあ!下僕でもやっぱなれんのか!?
   オレそこんトコよくわかんねぇで言ってたんだけどよ!」

項垂れる。寳子は頭を抱えて、ながら信を見遣る。

「・・・お前」

言いかけてやめた。
恐らくこの先言い続けなければならぬような事態を予測し、更に辟易する。
故に留めようと、寳子なりの(互いの為の)気遣いだった。

「極端に言えば、なれる」
「そうかっ!やっぱなぁっ!!」
「だが生半可なものではない。特例中の特例だ。
   義子になるでもなく、身寄りのないお前はそれこそ身一つでどうにかするしかない。
     お前は出発点が他より随分後方であり、分がこれ以上ないほどに悪い事を肝に銘じておけ」
(だっから・・エラそー・・)
「偉そうに言うのは、実際、現時点で私の方が偉いからだ」

読まれた、と。ぎくりと括目する信に、溜息混じりで寳子は言う。

「お前はこのままでは仕官できん。
   下僕という身分ながらに功を挙げ、それを底上げするしかない」
「お、おぉ・・」
「幸いお前はいま、一つだけ他の下僕より恵まれている事がある」

向かい合い、答を促す。

「・・国を追われた王を助けようとしてる」
「そうだ」

既に言わんとする事はわかる。
寳子は子細話し始めた。

「通常仕官するにもまずそれなりの身分が必要だ。父母から、それが持つ土地の規模、勲功、諸々査定され決められる。
  貴士族の中には金があるならあるだけはたいて、子の位を叩き上げようとする奴もいる。
   故に歩兵から始める者もいれば騎兵から始める者もいる。間もなく小隊長を務める者もいるが、往々にしてすぐ死ぬ」

内情を話す。
何も知らぬであろう少年に、物の組み立ちとそれより窺い知れる人の手の内というものを伝える為に。

「だから無難な所から始めさせて、功がなくとも金を宛がって位を上げてゆく仕様が多いな。
  結局力なくば死ぬし、その根回し資金も膨大なものだから上げると言ってもある一定は保たれているがな。
   とまあ、ここまで言って何だが無論、お前には全く関係のない話だ」
「てめー・・んな事言って、お前も根回しってヤツしてんじゃ」

言い終わる前に口傍の頬をつねられる。
最早なにを言っても届かぬというものだった。

「慎む、という事をまず覚えるんだな信。私はいま立ち位置的には王の手前、お前の味方と認識している。
  『味方』は大切にするんだ。特に間違いのない者に関しては丁重にな」
「ひべべべべっ!!」
「・・それに私は裏金など一切使っていない生粋の武人であり、親類もそれを良しとしない高潔な者ばかりだ。いいな」

彼女の語る最中、上に下に。右往左往とひっぱられる。
首を大きく縦に振り、ようやく解放された。

(ひっでぇええええええ〜〜〜〜し痛ってぇええええええ!!!)
「さて。ここまでは前説」
「だから長ぇっての!!」

ここからが本題だと言わんばかりに、彼女は信に向き合った。

「お前の希望。それは王にその能力を直訴できる立場にあるという事だ。
   ――――――強いんだろう?お前は」

息を呑む。引き伸ばされた頬は未だに赤み、腫れている。
それを摩る手は止まっていた。

「しかも漏れなく王はお前の素行も身分もご存じだ。
  その上で、煩わしい第三者機関を通さずお前は上に行ける」
「!そんな事できんのかっ!?」
「ともすれば我々側近がそれに当たり、推薦する事もできる。
   お前は漂の友。親類にさえ当たる仲だと聞いている。・・あの方だって力を貸して下さるさ」
「寳子・・お前」
「だから私ではない。私は武官だ。親類に文官の者がいる。
   文官においては新参とはいえ、口添えするには余りある影響力を持つ方だ」

全ては王都奪還が前提だ、と続けて。
そして王すら、お前の肩をもつだろう。
それだけ有力者に囲まれている現状。
これこそお前の希望、僥倖であると
信と同年代、しかし立場に圧倒的開きのあるであろう目前の少女は力強く言い放った。

「下っ端の頃はがむしゃらにいけ。そんな勝手が出来るのも下の内だからな。
  敵を倒せば倒すほど、将の首なんぞ持って帰ろうものなら皆黙る。
    それこそ我らの力添えなど必要ないほどに」


握り拳で胸を打たれる。
打って離すでもなく、拳を信の胸に当てたまま寳子は言った。


「ただ死ぬな。とにかく功をあげろ。質がいい。無理なら数を上げろ。
    ―――――それを続ければ、お前は大将軍への足掛かりなんてもの、簡単に飛び越えて行ける」


誰かの言葉を思い出す。
『そんなに飛んで行ける奴、本当にいるなら見てみたい』
そう言った事を、覚えている。

「私はその為の踏切板になってやる」
「・・なんだよ、それ」
「お前が飛ぶに邪魔な敵を薙いで、より高く飛ばしてやる。・・そういう意味だ」

彼女の瞳に希望が映る。
彼の瞳には希望が燈った。

拳を下げる。やれやれ、と。寳子は冷やしていた足を引き上げた。

「なんでそんなに、してくれるんだ。
   自分で言うのも何だが・・ただの下僕だぞ」
「信、お前の事は知っている。 話 の 上 で 。・・そう言ったろう」


――――――お前の事を、誰より教えてくれた奴がいる――――――


「『お前だけ』じゃ、ないんだよ」



大きく声を上げて笑うでもなく。
しかしその体はそれまでの横暴な貴士族のものでもなく。

別の誰かの希望を背負った微笑みは、どこか憂いを含み、そして
   相応以上の輝きを以てして月光に対峙した。



茫とする信の腫れた頬を軽く打つ。
声なき声で飛び上がるが、そこに非難の声はない。

「もう一つだけ言っておく」
「な、なんだよっ・・」

不貞腐れたような、照れくさそうな様子で目を合わせたり、そうでなかったり。
不審に思いつつ、状態を脇にやる寳子。
よく聞けと釘を刺し、彼女自身真っ直ぐに信を見詰めて言った。


「仲間を無駄に殺すな。・・覚えておけ。
    死んでいいのは、死に能う場所でだけだ」


言い終わるが早いか言い出すが早いか。
信はまるで突きつけられた切先を弾き返すようにして、寳子の言を切り伏せた。

「仲間を無駄に殺すわけねぇだろ」

頑とする信を、彼女は瞬きもせず見つめる。

「皆生きて、皆で武功も恩賞も分けるんだ。
   帰る場所のある奴らを、無駄死になんてさせてたまるか」

意気が伝わる。久々の清涼とばかりに、寳子は穏やかに目を閉じる。
その様子を見た信はもちろん成す術もなく、彼女の目前に手を振ってみせる。
そよぐ風に少し笑いながら、彼女はある提案をした。

「腹ごなしにどうだ?」

手を伸ばし、握った両の手を上下に組み合わせる。
上から下、下から薙ぐように上へ。
冷やした足も少し動かすと、調子の度合を測る。

「・・そういえば蔵の中に木剣があったな」

互いにやる気を確認すると、言葉なく二人は立ち上がった。







夜が更ける程に、月明かりの明度が目立つ。
その光を頼りに相手を認め、その隙をつくようにして切り込む。

「っぁ・・!っぶね!!」

躱しそのまま振り上げた木剣を軌道に乗せたまま強く振り下ろす。
乾いた剣戟が閑散とした森に響く。
避暑地に到っては周囲の多くを岩が囲んでいるため外部に漏れ難くなっていた。

「お前っ・・いいヤツかもなっ!」

打ち合いながら言葉も交わす。
動きと連動するやり取りは、相手の息が読み取れる。
これはあくまで腹ごなし、勝敗のない手合せだ。
相手の息を読みあい、信と寳子はお互いの剣を受け合っていた。

「舌をっ・・噛むぞっ!」

しかし確かな互いの技術を叩き込む。
気を抜けば先程の馳走を無駄にする事は必至。
どちらともそんな貂の機嫌を損ねかねない失態を冒す訳にはいかない。

「んなトコで死ねるかっ!!」

横に勢いよく薙ぎ払う。円を描く軌道はしかし彼女には届かない。
寳子は瞬時に後方に退き、それを容易く躱すと
大振りで隙のできた信の背後に回り、下から斜め上へと胴めがけて切り上げた。
身を翻し、それを寸での所で剣で受け止める信。
それを認めた寳子はまたも信との間に一定の距離を置いた。

半刻は割いたろうか。
じとりと汗ばむ肌が衣類に滲みてどこか窮屈に感じる。
丁度心地よい風が吹き抜け、場に溜まる熱を攫って行く。
頃合いと見たのか寳子は木剣を大地に突き立てた。
背を伸ばし、ただ一途に先を見やる。
その姿は、どこか威風堂々として誇りを纏っていた。

「お。なんだよもう仕舞い――――」
「・・1253戦中587引き分けと、2戦」

何を言い出すかと思えば。
そんな思いを信がそのまま口に出そうとした矢先だった。


見間違えてしまいそうになる。
そんなに打ち合ったかと、つい自身の具合を確認してしまう程に。

しかし然程の疲労もなく、間違いではないと気付く。


そして成る程、そういう事かと。
その誇りは、誰に向けられたものかを知る。



「お前の剣は
   ―――――――漂に似てるな、信」



喚くでもない。
いっそ喚けばからかえる。

綺麗に一筋、笑って流すそれは



(こいつにとっての漂の存在ってやつは


      俺にはぜってぇ、わかんねぇんだろうな)


逆に然り。
彼女にも信と漂の在った時など知る由もない。
しかし漂という存在を介した二人の間には
確かに彼との、互いの思い出が行き交っていた。






「・・なあ。ここの水って飲めんのか?」

豊かに湛える湖を目前に、信は鼻先近く前のめりになって寳子に問いかける。
あのあと信は気付かぬ風体で休憩に入り、あとは明日に備えて寝るかと彼女が提案した矢先だった。

「飲めそうだが、飲まない方が賢明ではある。一番安心できるのは雨水だ。
  ただし降った際に木々を介したり、煙塵巻く場所では論外だ。降ったものを直接・・」

言い終わるまでに飲んでいた。
直接水面に口を付け音を鳴らして飲んでいた。
ぷはー、と荒々しく口元を拭った時には彼の中の疑問は全てが払拭されていたらしい。

「あ?ワリ、聞いてなかった」
「なぜ聞いた。それだけ教えろ」

じとりと見やる彼女を前に
『いや、とりあえず』。
寳子は右の手で握り拳をつくり構えたが、左手がそれをやんわりと制止した。

「そうだな・・私の右手が憐れなだけだ」
(うわ何だこいつ勝手に独り言かよ)きめぇ・・!

した左手が信の頬を張る。
余計な一言が彼女の耳に入ったとかいないとか。

「!?・・か、勝手に左手が」ぷるぷる
「んなわけあるかぁあああ!!!」

ぎゃいぎゃいと気忙しい音が響く。
この分だけではとても王を匿い、追われる身とは思えない。
そしてとても、半日のうちに出会ったばかりの二人とは思えないものであった。
年相応の少年少女が興ずる様は、どこか安穏とし、自然だ。
月光の差し込む、硝子の隔たる宮の内側で
同じ年頃のその者はどこか朧げに、そんな両者を見詰めていた。


「でも政も大変だよなぁ、十三で王になるってよ」

寝るぞ、と寳子は言った。
それを無視し、つらつらと話を続ける信に
彼女は溜息を吐きながらも付き合っていた。

「・・・・」
「何だよ話疲れたのか?」
「いや・・」

再三の溜息だ。しかしどのみち眠るには早い。
話す事は伝える事。
王に仕えようという人物。何より、漂の推す者であれば尚更。
寳子は信に己が知り得る物事をそれなり、曲りなりにでも
教授しようと熟考の末、言葉を続けた。

「王という位自体は、権力を行使する為の器に過ぎん。
  行使するには器に足る必要がある。・・贏政さまは確かにそれに足る存在となられるだろう」
「なら、れる」
「器は常に万端の状態で用意されている。しかし人はそうもいかない。
    ―――――早すぎたんだ。それは周知、だからこそ呂不韋は・・」

はたと止まる。
彼女はばつが悪そうに俯いた。

「りょふい・・」
「忘れてくれ。あと不用意にその名を口にするな。この名はお前にはまだ早い」
「何だよ、敵は政の弟なんだよな?あと、何かその後ろの」
「・・・・・・」

黙する。
どうやらどう粘っても、この話題に関して
彼女が話す限度はここまでらしかった。


「贏政さまは・・王なんかでなければ」
「!お前いま、王なんか、って・・」

まるで王という名を軽んじる彼女の言動に、さすがの信も慌てる。
そんな彼を認める寳子の体は裏腹に、どこか冷めていた。

「言ったろう。・・・『王』そのもの自体は器。ただの飾りなんだよ」

膝を抱え、半面を隠すように。
彼女の見据えるものの果てのなさだけは感じる。

「飾りを飾って、飾り者になればただの木偶。
   ・・王とは、大王とはな、信。その飾りを己の威のものとせねばならない」

隣に在るにも関わらず、遠い。


「それが王たる者の力。大王の本質なんだ」


何を掴もうとしたのか。知らず、彼の手は宙を彷徨う。

「?何してる」
「へ!?あ、いや・・」

急いで仕舞う。彼自身も手を差し出した理由を知らない。
意図の所在は不明。
故に、答えに行きつこうとも思わず、疑問は記憶の端に追いやられる。

「あの方は朝も、昼も、夕時、夜だって空を見る」
「はっ、何だそれ」
「殊更に月がお好きなようで、中でも満ちた月を見る眼差しは別段だ」

言って彼女は月を見る。
つられてとりあえず信も月を見やった。
煌々とする月は、深と穏やかにさえ見える。

「だが、私は嫌いだ」
「は」

てっきり。
王が好むものならば、と。
そう高をくくっていた傍からこの少女の予期もしない言葉。
そのややこしさに信は唸る様にした後、首を大きく横に傾げてみせた。
寳子は嫌いと言ったきり、月の話にはそれ以上触れる事はなかった。

「書も嗜まれる。・・あの方は本来静閑とされ、またそのようなものを好まれる」

顔を信に向け、笑った。
虚をつかれ、しどろもどろとする彼を置いて話し続ける。
勿論信を笑った訳ではなかった。
そして信は、彼女が笑った人を知る。


「私は、あの方しかいないと思う反面、あの方でなければ良かったのにと思うんだ」


彼女は自分を哂っていた。
だがそうも言っていられない、と。すっくと立ち上がる。

「・・何を言っているんだか。喋り過ぎた」
「寳子、お前」
「今後お前は私と同じ秦国兵になるのにな。
   誰にも言うなよ?まあ、それまでに死んでしまったら書き捨てか」

冗談だ、と。大きく笑ってみせる寳子だったが、
まさか相手が乗ってこないとは思わず。
顔の見えない相手の様子を窺う。屈むと同時に、信が顔を上げた。

「なあ。お前って政と仲良さそーで、しかも側近とかで、一体何者なんだよ。
  背負ってる時もそんな話になったけど、何か避けてたよな」

寳子の動きが止まる。
予想外の質疑だといわんばかりに固まる。
顔を上げたまま、屈んだ姿勢のまま。
双方互いの目を見合って動かない。
口火を切ったのは寳子の方からだった。

「そんな事を、ずっと?」
「お前の話から王宮の偉い奴ら皆がお前ほど王を想ってるとは思えねぇ。
   そんな中で王を脱出させてここまで来るって・・来た奴らって、どんな仲なんだよ。
     ただの兵の集まりなのか?忠義ってやつの塊ってのはわかってる。
        隠してんなら隠してるって言え。もう聞かねぇから」

少し前にも顕在こそしなかった嫌な予感を、この時の信は確かに感じていた。

「・・余計な事を口にして
     この気楽な関係を崩したくなかったのかも知れない」

この嫌な予感を外したい。
外れないなら、いっそ聞きたくもない。

「お前は兵になる。同じ戦場を駆ける同志に。
   ・・でも今のお前は、そんな事情の外にいるものな」

どうせ後に知るものかと。
彼女は姿勢を正し、一歩引いて向き直る。
薄く開けた口から、滑らかに紡がれてゆく言葉。


「我が父は大王の側近中の側近。
      しかし決して宮中の位が高いとは言い難い」



いっそ
何故聞いてしまったのか、と。
しかし聞かずにはおれない理由が、信にはあった。




「御名を昌文君。その身は武官より文官へと移り間もないが、
   未だ剣を振るい、確かな知識と経験則から王を支える秦国きっての猛者だ」





我が誇りだと、胸を打って。
寳子は確かにその胸にあるであろう誇りを掲げて言う。
しかしはにかむ様子の彼女は、どこか慣れぬ様子だ。

「・・・ ・・・我が父、か」

照れくさそうに、どこか落ち着きなく呟く。
寳子が頬を掻き、視線を下に落としたその時だった。

「っけんなよ・・」
「え・・」

「っっっざけんなあっ!!!」

寳子の胸倉を掴み、近くの岩に背から叩きつける。
小さく呻き、自らを掴み離さない信の手に己が手を添える。

「ど・・なん、で」
「何が秦国きっての猛者だ・・何が誇りだ何が父親だ!!」

掴みかかる信の両手は握られたまま強く押し込まれる。
圧迫される痛みと息苦しさで意識も絶え絶えの中、怒号ばかりが耳を劈く。

「てめぇはただの昌文君のおっさんの部下で!側近っつっても奴ほどじゃあねぇと思って・・
   漂が身代わりだって事も直前に聞いて従ったモンだと思ってた!!」


信の手を掴む寳子の指先にも力が入る。
爪痕が付こうとも、諸共しない。

「漂を守れなかった事をお前はオレに謝った・・!打ち合って漂を思い出して泣いた!!
   政を漂に間違えた時だって、心底アイツを心配して、探してたんだろうって!!だからお前はって・・」


「し・・ ・・・ん・・」

「てめぇの親父のせいで!!漂は死んだんだぞ!!!」


括目する。その目には
『何故止めてくれなかった』
そう訴える信の姿が映る。

言葉はなく
息をする事さえ、忘れてしまっていたのかも知れない。

彼の射抜く眼差しは怒りと共に
    多くの悲しみを湛えていた。


 

 






2013 0207