「・・漂が 死んだ?」
「そうだっ・・!てめぇの親父に政に似てるからって連れて行かれて!
下僕を王宮に召し抱えて、夢見せて嵌めやがって!!!」
極々近い距離。
訴えも怒りも何もかもを伝え、伝わる距離に二人はいた。
「漂・・ 嘘」
「嘘なわけ!!」
「――――――と、言えたなら。まだ、良かったな」
「な――――――――」
信の手に突き立てられた寳子の指は力一杯の爪痕を残し、そして食い込んで彼の肉を裂いた。
滲み滴る血溜まりは、何の抵抗もなくただ肌を滑り落ちる。
手のおうとつに沿って、その軌道は作為なく無機的だ。
そして彼女から発せられた言葉もまた、ただ平淡なものだった。
「・・離せ」
ともすればとっくに受け入れていたかも知れない事象。
これまで発した言葉はそれをどこか覆したいと願っていた、自身の抵抗が生み出した意識。
顕在せぬようにと知らない振りで自身を取り繕って、彼女が『忘れていた』思いを信は事実で抉った。
「離せぇええっっ!!」
弾かれる様に後退する。
血の筋が作為的に線を描いた。
彼女は爪を立てた姿勢のまま、指の先を赤く染めたまま
平静に。
淡々と。
ゆっくりと顔を上げ、信を見やって言を持った。
「教えてくれないか」
そこには涙も、震える声もありはしなかった。
「漂はどうやって、どんな風に死んだ?」
二択の内の、生存を望んでいただけのこと。
それがただ、事実はもう片方の死亡という結果に終わっただけのこと。
そのどちらも在り得る体ではいたと。
しかしただ、もしかしたらと。
都合のいい選択を、自らに敷いていただけの事と。
「馬鹿かてめ「お前が言えば!」
答えを自分の中に落とすために
「・・・私も、言う」
彼女は望んだ未来を切り捨てる為に
もう一人の自分を殺せと、信に言った。
信は語った。漂が出て一月の後、ある晩に血塗れで自身の前に現れたこと。
黒卑村への地図を受け取り、剣を託されそして大将軍の想いも託されたこと。
「そのあと漂そっくりの政に出会って、王さまの替え玉にされて漂が死んだって知った」
その場で政を殺してやろうと思った。
王族だの内々の争いなど自分には関係ない。
信はただ身内を殺された恨みを晴らす為、拳を政にぶつけたが
体力的にも精神的にも伸されてしまった、と怒りのままにふてぶてしく言った。
寳子はその話から、現状を鑑みても保留にせざるを得なかった事態を呑み込む。
下ろされた先の赤い手は、微動だにせず地面を指していた。
「・・食事の時とは違う話になる」
食卓を囲んでいた時の、戦場の様子と昌文君を軸とした話ではない、と寳子は言った。
双方立ち竦んだまま、過去から動けぬまま語り、聴き合う。
「――――――――私は王騎将軍を置いて、王の待つ御車へと向かった」
全速力で。馬の胴を小突き、前のめりに気持ちばかりを先行させて。
御車を守る隊と合流し、まずは副官とやりとりをした事を明かした。
「壁副長っ!!」
壁と呼ばれたその者は気付くと、馬を彼女の方へと寄せた。
「寳子!殿は・・殿は如何された!」
言葉が出ない。言えば士気が下がるだろう。
しかし言わねば先へも進めない。寳子は真実を重い口を開けて言いかける。
「っ・・・殿はっ・・ ・・・王騎将軍に・・っ」
「一騎打ちに連れられた筈だ!お前も付いて行った筈だろう!」
言葉が詰まる。代わりに込み上げてくる弱さに彼女は唇を噛む。
そうこうする間にも敵兵は攻撃を繰り出す手を休めはしない。
壁は寳子の後ろの敵を、寳子は壁の真横に迫る敵を互いに串刺した。
血しぶきは届かない。落馬した敵兵はもはや視界のなか点にも満たない。
それだけの、もはや逃げに転ずると言っていい程の疾走の中で彼らはやりとりをしていた。
「〜〜〜っ・・!」
「!壁副長!!御車がっ・・!」
隊列の乱れる中で御車は孤立。
更に敵の伏兵も次第に距離を詰め始める。
まともに話し合いもできぬまま、寳子が速度を上げ御車に近付いた。
御車を攻撃しようとする敵兵を一気に薙ぐ。
しかし半側面から競り上がる敵を仕留めるには、いくら長刀といえど無理に過ぎた。
御者は打たれ、車は先導を失う。不安定に揺らぎ速度を落とすそれを敵兵は見過ごしはしなかった。
目前に広がる絶望の荒野。
寳子の大王の名を叫ぶ声が木霊する。
もう終わりだと誰もが意志を削がれるなか――――――
起こったその出来事は、奇跡に近いものだった。
大王、否。
漂は敵兵を蹴り上げ馬を奪い、自ら先陣を切った。
「諦めるな!隊列を組み直せ!!密集して突破を図るぞっ!!!」
大王の檄に、響く応の声。
兵達のこれまでにない闘争の火は、大火となって戦場を燈した。
屈強と謳われる王騎軍を前に我先にと切り込む漂。
その姿に俄然士気は上がり、皆一様に先駆けようと馬を走らせた。
後に続く壁と寳子。
(漂・・!!)
寳子は本当は大声で名を叫んで伝えたかった。
雄姿を見ている。貴方に率いられて皆が、私がいると。
しかし替え玉と知っているのは昌文君、壁、寳子の三者のみ。
頬を伝う何かは存ぜぬ。
彼女は震える唇で叫んだ。
「大王はここにいらっしゃる!!
敵味方、全兵括目せよ!!これが秦国王、『贏政』の真の雄姿ぞ!!!」
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!
少女の声は戦場に高く届いた。
剣を掲げる『大王』を幾つもの眼が認める。
味方は畏敬の念を、そして敵は畏怖を込めて。
漂の姿はもはや下僕のものではない。
ただ大王然と、皆々の目に焼き付けた。
「(流石だな寳子・・殿の子という身分を差し引いてもその英姿は上に立つに余りある!)
寳子!前に出て大王を御守りしろ!この勢いならば行けるっ!!」
「はっ!!」
壁が令を出すと、寳子は勢いよく両足で馬の胴を蹴る。
土煙を上げて迫る彼女を待たずして、『大王』はその命を下した。
「壁副長!隊を二分し片方を昌文君の救援に向かわせよ!これは命令だっ!!」
「なっ・・」
まさにこれからという時の、王の言。
暫しの時もなく寳子が傍に駆け付け言った。
「漂!待って!このままなら突破できる!兵を二分しては駄目っ!!」
「寳子!」
やっとの思いで本来の彼の名を呼ぶことが出来た寳子。
大王の姿が重なる漂の目に、彼本人の目が映る。
彼女を認めるその体にもはや大王は存在しなかった。
「王には昌文君が必要なんだ・・!」
「!」
真っ直ぐにそう答える漂の衣を掴む。
手綱を掴んだまま、しかし指先で強く引き留める。
「もう・・無理なのよっ・・!殿はもう・・!!」
「何・・それは」
彼女の涙の意味を知っている。
弱さを嫌う彼女の流す涙の意味を、漂は厭という程に知っていた。
「殿は王騎にっ・・谷底に゛っ・・!急流に、呑まれっ・・!」
漂の手が一時揺らぐ。
零れる涙の玉を拭ってやることもできない。
なら、と。
漂は手綱と剣を持つ手に一層の力を込めた。
「諦めちゃ、それこそ駄目だ!寳子!!」
両者目前に迫る敵を薙ぎ払いながら戦場を駆ける。
先を漂が、控えて寳子が構える。
その様子は一将とその右腕と言っても過言ではなかった。
「寳子、君は昌文君の遺体を見たのか」
首を横に振る。
「殺された所は?」
更に強く横に振った。
「なら希望はある。――――――諦めるな。
きっと昌文君は生きておられる。・・君がそんなに弱気になるなんてらしくない!」
得物を振るう敵に諸共せず、それを躱し相手の首に剣を差し込む。
敵兵の叫び声は近く、そして直ぐに遠くなっていった。
手の甲で荒々しく涙を拭う寳子。
昌文君の安否こそ未だ確たるものではないが、少なくとも彼女の気は強のものへと転じていた。
漂はその様子に笑顔で返し、
そしてまた笑顔で言った。
「それじゃあ、しばらくお別れだ」
頭の中が真白になる。
え、と。呟かれた言葉が、彼女の精いっぱいだった。
漂は寳子の乗る馬の尻を強く蹴った。
一気に真白の世界に色が戻ると、彼女は叫んだ。
「だめっ!待って!貴方は『漂』なのよっ!?大王じゃない!!
貴方は大将軍になって、それでっ・・それで私は!!」
しかしその声は馬蹄の音と砂塵に撒かれ、他は疎か伝えるべく者に届いたかさえ知れない。
馬は縦横無尽に暴走し、軌道が定まる頃には漂の姿は遠く、辛うじて認める事のできるものだった。
騎乗の得意な彼女であったが、一度暴走した馬が――――しかも走り続けながら――――操者の命に従う筈もない。
無闇やたらの抵抗虚しく、彼女だけが戦場を後にした。
「寳子」
呼ぶその者に、彼の声は届かない。
「約束。絶対に守るから」
しかし伝える意図でないとするならばそれは
「でももし。もしも守れないその時は・・」
最後の言葉は辛うじてか、それとも空に消えたか。
言い終わる前に敵の刃が漂を襲う。
「そう簡単には、退かないみたいだな」
剣を構えると、誓うように。
そして祈る様にして掲げる。
(信っ・・力を貸してくれ)
斜めに薙ぐと、一気に速度を上げた。
(寳子・・!大王と信を頼むっ・・!!)
託す。
もはや見える事がないかもしれない。
言いそびれたか、言わずにおいたか。
故に彼はそっと、彼女へ向け胸の内で呟いた。
(そして生きてまた逢えたなら)
その時は
(君に俺の全部・・すべての想いを伝えるから―――――――!!)
『大王』が一人丘へ駆け上がった頃。
寳子は一人戦場を抜け、走り続けていた。
興奮と混乱で手綱を引いても止まらぬ軍馬を制する事もできず
ただ俯き、身を小さくして馬上に留まっていた。
風を切るその音の中に、複数の馬蹄の音に気付く。
しかし寳子が顔を上げる事はない。
その音は次第に近付き、彼女の後ろに就くようにして一定を保った。
次いで武器を構える音がする。
凡そ両の手で足る程度の数だろうか。
何事もなく、ともすれば罵詈雑言の一つや二つ。
人数分くらいは浴びるものと寳子は思ったが、
すぐ後ろを走る敵がその予測の範囲を超えてきた。
「昌文君の子、寳子――――――故あって其方の首・・貰い受ける・・!」
得物を彼女に狙い定めて、隊長であろう敵兵の一人が言い放つ。
勇猛ながら些かの粗野が目立つ筈の王騎軍を以てして、
しかし即座に斬りかからなかったのは、そこに敬意があった為だ。
「王騎軍・・・」
ただ静かに。自分にか敵にか、その言を向けられた相手は知れない。
「私を知らぬでないな」
振り向いてはいない。
彼女はただ、垂れる頭を持ち上げ
一寸逸らすだけの幾許の関心を敵兵にくれてやる。
しかし相手を視止めるには十分だった。
後方を覗く眼は、翳りの中で鈍く光っていた。
「―――――――――我が軍で貴女を知らぬのは新参のみ」
「そうか。なら安心した。
入れ替えのそう行われぬ精鋭集う王騎軍だ。
・・確かお前は、方元(ほうげん)と言ったか」
名を呼ばれる苦しみ。
名を掴まれては否応なく、過ぎた景色が脳裏を掠める。
視止める限りの数の、敵兵である彼らの名を次々と呼ぶ寳子。
敵の顔が曇る。その数は什騎にも及んでいた。
「・・寳子」
「不在の将を鑑みるに、この布陣は妙と言わざるを得ないが―――――
・・両者不足ないな。私の力量を知らんとは言わせんぞ」
長刀を構える。
少なくともお前達とは五分にやり合えると。
彼女の背がそう語る。
「死ぬ覚悟は、できているな」
一対什。
裁量の範疇においては圧倒的戦力差の見込まれる数値である。
しかしこの時、彼らの間にはある考えの相違が生まれていた。
敵兵は一体辺り五分、隊長自身においては有利と考え、
寳子は 一 隊 辺 り 五分として考え決断を下していた。
覚めた馬の手綱を思い切り引き、急な婉曲を描いて相まみえる。
山林はすぐそこ。しかし打って出る彼女に迷いはない。
什の猛者に挑むもまた修羅。
怒濤の一刀はその什の隊の横腹に突き刺さった。
言葉を失う信を前に、寳子はやはり真直ぐと体勢を崩さない。
頃合いにして、彼女の指先の血が乾くぐらいであったろうか。
そして彼女はまた淡々とし、話を締め括った。
「あとは・・体よく蹴散らせて。途中で長刀は捨てて。
気持ちばかりの護りと、それこそ気持ちだけで山中を歩きお前達に辿り着いた」
話が終わった。
王都脱出の旨の、更に仔細。
王騎という名の将の存在とその軍、御車を必死に守る兵達、昌文君、寳子。
守り切りたかったが、どうしても守りきれなかった。
不覚に頭を垂れ、そこまでの理由を聞かされて。
これ以上何を、どう責めていいのかこの時の信はわからずにいた。
否、もう既にわかっていたのかも知れない。
『これ以上はない』
その事に信は潜在的に気が付いていた。
そんな彼が口にしたやっとの言葉は意外なものだった。
「・・よく、迷わなかったな。この、ここ」
無愛想に指を立て、地面を何度か指す。
先程までの二人を包む空気が変わった。
それに気付いた寳子も、素直に答えた。
「二〜三度来たことがある。殿に連れられてな。
―――――もし何かあった時は、ここが合流地点の一つになる、って」
目印も方角も全部頭に叩き込んだ、と。
延々動かさずにいた手で頭を小突く。
傍とする。乾いた血であったが、やはり多少の赤が付いた。
「私もどこか避けてたんだ」
しかしその赤は目立たない。
放置をして黒ずんだ故もあるだろう。
だがその最もたる理由は彼女自身の髪色もまた、
黒に染まりきらぬ赤を含んでいた為だろう。
それは語りの外でただ朧げに映った。
(・・コイツの髪、やっぱ何か赤いよな)
「漂がもし死んでしまっていたなら、
殺したのは作戦を企て、且つ指揮した昌文君。罪の所在は殿にある」
そして承知した我らにもな、と。
溜息を吐き言う。
兵とは国があり、仕えるべき王あっての者。
王と影とを天秤にかけるまでもない。
「私もそれを認めたくはなかったのだろう。
・・漂が王の影になると決まった時から、覚悟していたつもりだったが」
しかし彼女は二つの天秤を持ち出してしまった。
兵としてのそれと、もう一つは。
「うまくはいかないものだな」
指先を見詰める。
指先どころではない。
もっと広く自身を染め上げたであろう色を凝視する。
彼女には慣れ過ぎた色だった。
「それで、お前はどうする」
「!?」
朧に落ちていた意識が色を持つ。
一寸思案するが、落ちる所には既に落ちている。
しかし怒れと言われれば抵抗なく怒れる意気は、未だ持ち合わせていた。
「私を殴るか?犯すか?・・それとも殺すか?」
「なにっ・・」
一歩二歩と寳子は信に近付く。
本来向かうべき当人は一歩後退してしまう。
「今の私から奪えるものといえば、精々このくらいか。
・・前二つは許容できるとして、殺されてはやれんな」
「てめぇ・・ふざけてんのか」
和らいだ空気も束の間、先程の怒気一辺倒の空気ではない。
再び訪れたその空間は、どこか冷めていた。
語り合うには程遠い。冷静に。冷徹に寳子は真実を告げた。
「ふざける?
・・・・そんな貴様は先程から寝言ばかりだな」
「なんだとっ!?」
「夢を見せられて嵌められた?・・それに掛けたのが漂なんだろう。
―――――――叶える事ができずに死んだ。兵のあるべき姿だ」
「は・・・」
「言ったぞ。彼は確かにその時、王であり将であったと」
語られた話を思い出す。
何よりその雄姿を謳ったのは他ならぬ寳子だった。
大義であったと、彼女は言っている。
「お前、大将軍になると聞いていたが」
「そうだっ・・漂の分まで!漂の夢を俺は―――――」
信が言い終わるのを待たずして、彼女は一刀、斬り込んだ。
「人を殺さずして、お前はどこの将になろうというんだ。信」
これ程までに死に拘って。
親類、親友。
身近な類が死ねばお前は毎回こうして悔やむのかと。
止まる足で何を成すつもりなのかと、寳子は問うていた。
「開祖にでもなるか?新たに国を築くか。
――――――――――ならば秦国兵として、私が貴様を殺さずにおく理由はないな」
強く一歩を踏み込む。
近い距離で眼を飛ばし合うこの光景は、もはや板につきつつあった
互いが互いに、漂を想って憤っている事に変わりはない。
「この命は殿のもの。そして国のもの。・・王のものだ。くれてはやれん」
瞬き一つしない。
紅紫紺の瞳は信を明朗に映し出す。
そして寳子は真直ぐとした体と同様に、歯に衣着せぬ物言いで信を捉えた。
「それとも殺した数だけ一族に謝りに行くか?恩賞を携えて。数を考えれば実に過少なものとなるだろう。
敵国の将の、そんな覚悟も何もない懺悔の押し付けを受け取る者がいるなら見てみたいが」
握る拳は振るわれない。
振るう道理が見つからない。
「大将軍になる。その決意には感服する。だがお前は言っているだけだ」
何一つ。
「食事の際に聞いた言葉の意味も、お前は単に考えていなかっただけか」
拳はただ握られるのみ。
「残念だ、無名の少年。――――――お前は下僕のまま、その一生を終えていろ」
とどめを刺す。
確実に心の臓を打ち抜かれる。
しかし血が迸る事はない。
代わりに散ったものは以上に禍々しい、
足を掬い、歩みを留めていたもの。
彼女の殺した者は、もう一人の信だった。
拳が解放される。
歪に解かれるそれはぎこちなく、そしてただ垂れた。
「俺はなんにも知らねぇ」
そこには明らかに以前とは違う信が立っていた。
己が無知を晒す信に、寳子は括目する。
「さっきお前と話したがったのだって、何つってもお前は俺より色々知ってたからだ」
信は勢いよく寳子の腕を掴んだ。
驚愕する彼女を余所に、語る口を止めない。
「俺は大将軍になる。ぜってぇなるっつったらなる!
漂との約束なんだ・・てめぇの一言なんかで諦めるかよ馬鹿野郎っ!!」
薄く開けた口は、緩んだ口元は。
何も言わずとも彼女の感を代弁していた。
無論、信は気付いていない。
「お前に馬鹿と言われたら終わりだな」
笑って腕を振り、信の手を解く。
その言葉を待っていたと言わんばかりに、寳子も先程とは違う自身で相対する。
それに信も気付き、声を張り上げた手前更に間を持て余す。
(・・殿に怒られてしまうかな)
空を見上げる。
およそ六刻は経ったろうか。
月が天を指すにはまだ早い。
しかし闇も深まり、宵を楽しむには過ぎた頃合いとなった。
「んだよ急に・・っとやりづれぇ。
調子狂うっつの!、―――――どうかしたか?」
粗暴に。半ば呆れて。
既に興は削がれていた。
問いに寳子は答えない。
見上げたまま、思案する。
相も変わらず月の光は天から地を照らし、有らん限りを包み込む。
穏やかに見えるそれはしかし、彼女にとっては気忙しく、無粋で、粗暴なものだった。
暴くものと。
包むようでいてそれは閉じ込めるものと同義だと
彼女は耐え難い感情を抱いていた。
一息吐くと、一息に投げかける。
「提案がある」
次いでつらつらと。
彼女の口から出た言葉は信を困惑させる。
それは信にとって意外なものであり、とてもではないが
荒いやりとりの末に語られる内容には到底そぐうものではなかった。
「殿は自らを大王の剣とし、盾とする為に私を選ばれた。
しかし殿は文官の道を極めんがせんとその位置に立った。全ては王を支える為に」
水を打った様の場に、語る声は殊に響いた。
「・・何が言いてーんだよ」
「殿はお強い。文官の内とて、もし大王が戦場に立たれるような急時あらば
その脇に控えて自ら剣となられるだろう。・・しかし」
水の立たぬ水面に、月光は殊のほか強く反する。
揺らめく事のないその光は一途に目前の者を容赦なく透いた。
「それはもはや懐剣。文官の体でもってしての剣なんだ」
戦場で振るうには心許ない。
人を殺す事はできるだろう。
受け止める事だってできるだろう。
しかしながら装飾が施され内々に納まった剣は、大戦には向かぬ。
折れる恐れがあるならいっそ
延々王宮に飾っておきたい『者』だと、彼女は言った。
すれば実を持つものなら尚更。
寳子は父を、昌文君をもはや血に塗れる戦場に出さずにおけるならと、そんな思いを抱いていた。
「殿は強い。時には彼の王騎と肩を並べ戦場を駆け、時には六将の一人摎の傍らに在った。
死なずに戦場に長く在るという事は、どんな功を挙げるよりも尊いものだと思っている。
・・その中で大きく場を荒し、自他共に畏れられる活躍をした者が六将と言われ持て囃されただけの事」
昌文君だけではない。
目に見えぬ、耳にも届かぬ所にもそれは大勢あると。
『人を、兵を、仲間を殺すな』
死ぬなら能う場所で。
彼女の言った言葉は一概ではない。
生きるという事のその先を見るものとして、大きく意味を持つものだった。
「王も強い。状況がそうさせた。
私は贏政さまが真の大王となられるまでの時を守り、
それを破ろうとする郎党共からお護りしたい」
それはまるでよく知る光。
包むでもない直射的で、眩しい。
それでも当たらずにはおれない。
なら月を嫌っても、何ら不思議な話ではないと。
信はただ不意にそう思った。
「―――――――信。お前、王をこの中華の覇へと導く・・
他を征する剣になる覚悟はあるか」
強い意志を持って信を見る。
彼女の光が、意志が止め処なく降り注ぎ実感を得る。
擬を持たず確信へと、その思いは至る。
「もうあの方が辛い思いをしない、悲しまない。
憂いなく王の威を持ち、民を愛で、国を導いてゆける。
兵として私は、そんな世の安寧を差し上げたい」
きっと王には言わずの言葉。
吐露される胸の内は、ただ一人。信にのみ伝えられた。
「それがひいては秦国の、中華の全土の民のためになると信じて私は戦う。
力を貸してくれ、信。お前の強さを、秦国にくれ」
まだ兵になってもいない下僕を前にだ。
下げられる頭に、どれ程の願いがあるかは知れない。
叶えられるもの。そうでないもの。
それを選りすぐって、それでも捨てられない物が、事がある。
そんなアンタの頭ってのはよっぽど、知るには途方もねぇほど
―――――――重くてかなわないんだろうな、寳子。
「・・お前みたいに、忠義だの国の為だのってのはまだわからねぇが」
軽く頭を浮かせる。
しかし視線は彼の足元に。
「その話、要は大将軍になるって話と同じだろ?
・・俺と漂の夢はぜってぇ叶えるからな。
そのついでで良いってんなら、なってやってもいいぜ。王の剣ってのによ」
垂れていた頭を上げる。
微笑んだ顔は、想像した光よりも違う。
彼女は十分だと、そう一言応えた。
今度は信が彼女に問いかける番だった。
といってもその題や『心得』。
しかも細かくはわからないという理由から、広域に。
吹き出す彼女は最早慣れたといった体で『掻い摘んで』と答える。
頭の隅から捻り出した精一杯のものとしては十分だった。
「兵になったとて惹かれるものはそれぞれだ。
私のような忠義や愛国心といったものは現状、この世情からすれば余りに希薄なもの。
我欲や体裁が尤もらしい。あとは、仕える将に心底『惚れる』。人が動く理由はこれだな」
将を目指す者の心得として。
彼女としても兵よりも、それをまとめる将としての然を教えた。
「兵にとって命を懸けるというのは至極当然の事のようだが、よく考えてもみろ。・・『命』だ」
腕を組み、見据える視線の先も真剣だった。
「金と取りかえるにしても、そこには躊躇が生まれる。
誇りを抱こうとも、それが内々のみの決意なら揺らがせるのもまた己の心だ。
―――――しかし『惚れる』というのはな。先に足が前へ出るものなんだよ」
へぇと。
しかし惚れるという言葉に漠然とする信は、どこか浮ついたまま話を聞く。
それを察する寳子も、関して強くは言わない。
「じゃあ王サマが直接率いたら、とんでもねぇんじゃねぇか?」
「・・王が畏怖でなく、敬愛すべき何かを以てすれば、或いは」
「よーするに・・あー、・・何だ?」
「惚れられる、という意味では王という存在は余りに遠い。王は国と同義。
形あっても、それは民や一兵卒にとっては日常的なものに過ぎていてな。極端に興味のない輩とている。
信、それはお前の方がよくわかる話なんじゃないのか?」
ある言葉が脳裏を過る。
まだまだ、今以上に王だの国だのの枠の外にいた頃の言葉を思い出す。
否、今この時でさえそうだと。
大将軍になる意志はあるが、いざ国の為と奮起している訳ではない。
ただ夢の為の、自分達だけの野望。
広く大望というには些か粗野に過ぎるものだった。
「さて、目下剣と盾が揃った訳だが。
しかしこれは、飽くまでお前と私だけの決め事だ。・・こんな事、殿に知れたらどやされる」
都合悪く呟いたと思えば、そののち少し声を上げて笑った。
明るい様子の寳子は、どこか吹っ切れた面持ちを見せる。
「お前ってけっこー、無茶するよな」
苦く笑う。
兵士で、偉そうで、政の側近で、側近の昌文君の子で。
きっと漂の事が好きであったろう女。
「お前にたくさん、伝えたいことがあるんだ」
目前の彼に。伝えきれなかった誰かに。
よくも抜け抜けと都合のいい事ばかりを言うと、信は胸中で文句を垂れる。
しかしこちらにも損はないと。
命と夢とをかけて、そんなもの火を見るよりも明らかだと。
「・・今の言葉、忘れねぇぞ」
「忘れられてたまるか」
お前こそ、と軽く握った拳で信の胸を打つとそのまま擦り抜けてゆく。
「王都を取り戻し、それでも納得できぬと言うならそれでいい。
まずは私を殺しに来い。私も殺せないようなら、決して王を討てぬと知れ」
彼女の言葉に何も返さない。
背を見続け、そして視線を逸らす。
既に明確な答えは出ていた。
「まずは王弟より玉座を取り戻す。・・信」
寳子は振り返らない。
もう一度彼女の背を見やる。
思いの外に小さな背中は、何を背負っても常に真直ぐに在った。
「死ぬなよ」
宮へ向けて歩き出す。
踏みしめる一歩の重みを傍に感じる。
「ああ。そんなトコじゃまだまだ、『能わねぇ』からな」
彼女の歩みは少し遅れ、
そしてまた力強く地を踏みしめた。
『能う場所で死ね』
これは要は
『能わぬなら生きろ』
と言うと同義。
――――――彼女は生き続けろと、そう言っている。
悪くはない括りだと、信はそう思った。
「寳子」
呼び止めたい訳ではなかった。
何を確認したいでもない。
ついさっきとて、友のそれだと。
しかし口を衝いた言葉は、彼自身に幾許の動揺を催すものだった。
「お前は政に惚れてんだな」
一度投げかけた事をもう一度。
だから彼女も、もう一度。
「いいや」
やっと歩みを止めて。
「私は『国』に、惚れているんだ」
やはり振り向かず、再び歩き出した。
受け入れてくれたこの国に。
人に。殿に。
・・そして秦王に。
しかし彼女の背は語らず
この晩は互いに手を掲げるだけの別れを告げ、明日の約束をした。
歩くには少し長い。
しかし尋ねるともなると短い路に、彼女はいた。
彼と別れた後、彼女の足は真直ぐにある場所へと向かっていた。
答えは得た。
他に何が欲しい。
もうこれ以上、亡くすものは何もないというのに。
自問自答をするにはやはり、この路は短すぎた。
扉の前で立ち止まる。
未だ思案している。
手を翳したその時
「・・寳子か」
扉の向こうで声が聞こえた。
翳した手をついて、彼女は応えた。
簡素な部屋はそのままに。
視線の先には寝床に腰掛ける王がいた。
「夜分遅く、無礼をお許しくださいませ、王」
「遅いという程でもない。何だ」
淡々とする政を前に、彼女は暫し止まる。
何かを伝えようと薄く口を開けている分、
政の訝しげな視線が居心地の悪さを強調させる。
「よ、よく・・お分かりになられましたね、私だと」
違う、と。
即座に反応したのは他ならぬ彼女自身だった。
表情に影が差す。
知ってか知らずか政は投げかけられた問いに答える。
「そうだな。貂なら用があれば即座に扉を叩くだろうし、
その他に関しては蹴破るくらいはしそうなものだからな」
その他の正体を即座に理解した寳子は吹き出し、手を口元に添える。
しかし王を前にしての自身の態度に添えた手で口を塞ぎ、拝手一礼する。
そんな彼女の行動に、今度は政が笑う番だった。
「気は紛れたか?」
「お心遣い痛み入ります、王・・」
「そんな仰々しいものではない。で、どうした。言い難い事か」
促され、顔を上げた寳子はやっとの思いで言を連ねる。
「誠に、痛み入ります。――――――――漂のことに関しても」
まずは黙っていてくれた事に、感謝を述べる。
聞いた側が息を呑む、というような事はなかった。
些か驚いた、という体だ。
それも彼女が漂の事実に気付いた事というよりも
「・・・知ったか。だが、それで俺に何の用だ」
何故自分をわざわざ訪ねたのか、という疑問。
強いて言えば、彼女のその行動に驚いていた。
「・・・、いえ。きっと、何用もないのです」
下ろした手は寸でで離れず、未だ拝手を成したまま。
「申し訳のない事です。
・・すみません、私・・理解しているのですが。どうして・・」
既にこの世に漂はいないという事実を、寳子は受け止めた筈だった。
亡くす者は既にない。
何故ならついさっき、とどめを刺された故。
実際に今この時でさえ理解している。
つい先程までの事。
ほんの幾許の希望を抱いていた自身は、内深くいくら浚っても存在しない。
あるのはただ、この場に足を運んだ自身の不可思議さだけだ。
そして自身で解決できぬ問題の答えは
いつだって外部から訪れる。
「俺に会いに来たか?」
その言葉に寳子は括目し、瞳一杯に政を映し出した。
「――――――――お前は『誰に』会いに来た。寳子」
心臓が跳ねる感覚、というもの知る。
喉を押し上げる程の圧力。
こんなにも息苦しいものかと、彼女は唇を噛んだ。
押し込めようとして押し込めるものでもない。
彼女は失敗し、結果狼狽した。
「もっ、申し訳・・」
体が崩れる。
その様というのは外から見えるよりも遥かに不恰好だ。
外が崩れれば内も崩れる。
否、内が崩れて外が追った。
向けられる眼差しを逃げるようにして腰が引く。
退ける。
一番答えを導いて欲しくない相手に齎された答え。
その事象を導き出した自身に、えも言われぬ後悔の念が押し寄せる。
「もうしわけっ・・ござ―――――――」
途端の事だった。
双眸から零れ出す大粒のそれに、彼女が愕然とする。
これには流石の政も驚きの体を隠せなかった。
「寳子」
「すみ、ま・・ ・・床、汚し」
「寳子、待て」
「ごめ・・なさ、えいせ・・さ ・・っ!!」
声が曇る。それは手で口を覆った所為であると自らに説く。
そして自分の愚かしさに、追い打ちをかける様に憤怒の念に駆られる。
政が立ち上がると同時に寳子は部屋を飛び出した。
それを追いかけるでもない。
大王はその場に立ち尽くし、暫く動けずにいた。
割り当てられた自室に戻った寳子は、必死に目を手で押さえていた。
零さぬのが関の山だが、それでも彼女は止めない。
寝床の真中に陣取り、座りながら身を前方へと屈めて居た。
一刻ほどだろうか。
音もなく離すと、生乾きのそれは手を濡らすまま
外より差し込む光に照らされていた。
煌々とするそれは、認めたくはないその存在を一層引き立てて見せた。
握りしめる。
だから―――無粋も、余分も―――好かないと、握った拳を静かに双眸に寄せた。
鈍い音がした。
思えば随分塞き止めていたと
一向に止まぬそれに、一時の許しを以った。
2013 0212