「よし出来た。次!」

避暑地の一角が集まった昌文君の私兵達で埋まる。
貂が干し肉を配る中、寳子は衛生に当たっていた。

「へぇ〜、手慣れたモンなんだなぁ」
「基本の事しかできない。ただの応急処置だ。
   あと簡単な薬の煎じ方とかな・・お前にも出来る事だから後で教えてやる」

周囲に兵がいるからか、気持ち語気が強い。
応と言わずして立ち去れぬ空気に、貂は取り敢えず頷いた。

「それにしても寳子様も、ご健勝のほど何よりです。
   殿は大王様はもちろん貴女様の事も心配しておいででしたから」
「殿が・・」

手当ての済んだ壮年の兵が拝手し、話し掛ける。
それに手を止める寳子は、実感のなさそうな声で応えた。
素直に喜ぶべき所で、彼女の心には同時に疑問も浮かんでいた。


「当然ですよ!寳子様は殿のご息女なのですから!」


私兵に埋もれる誰彼の明るい声が聞こえた。
止めていた手を動かし、寳子は淡々と処置を施す。
私兵の言う言葉に彼女の返事はない。

「跡目は他が継がれるにしても、
   このように豪胆で在らせられると益々男でなかった事が悔やまれますなあ!」

はっはっは、と大きな笑い声が木霊する。
それにつられて数名が笑い合う。
和気藹々とした空間に寳子も口の端を上げて微笑むが、その姿はどこか現実味を帯びない。

「いやー、それにしても殿からこのような珠の子がお生まれになられるとは!今でも俄に信じがた・・」
「馬鹿っ!その話はっ・・」

先程のように手は止まらない。
止まったのは周囲の者達だけだった。


(・・久々だな。このやりとり)


彼女は慣れていた。
故に何の機微も見受けられない。
否とも応とも反応せぬ事こそ最良であると、彼女は実経験から悟っていた。

話題にした者は隠す事こそおかしな話だと常々思っていた。
指摘した方は暗に触れてはならないと注意を払っていた。結果同罪となる。


昌文君と寳子の、父と子としての存在の揺れ。
それは顔の骨格、部位、そんな問題ではなかった。
髪の色、瞳の色から違うそれは最早似ていない以前の話だった。
『捨子』『継子』『不義の子』、等々。
内々において黒い噂が立つ事もあり、それら全てを揉み消していった。

口にしたもの。姓を介、名を殻。(かいかく)
制したもの。姓を介、名を良。(かいりょう)
彼らは昌文君の私兵の身にあって、どちらも成年に達して幾許。
同じ介の姓を名乗りながらして出自は別にある。
同じ姓から一族と思しき所ではあるが、あっても遠縁、
若しくは国を跨ぐ族であろうという関係だった。


(この時ほどお前と同じ姓であった事を恥じた事はないぞっ!!)
(ばぁか隠すからマズいって思っちまうんだろうが!!)


「場を騒がせた介兄弟は後でキツい薬を塗ってやろう」
『ですから兄弟じゃありませんって!!』

息の合った返答に笑う寳子。
それを見る一同は安心とばかりに胸を撫で下ろす。
二人も安堵の体を見せるが、諍い足りないという気に満ちていた。

「さて、一通り手当ては済んだな。
     一度宮へ戻る。お前達はそのまま休んでいろ」
『は、ハッ!』

寳子の声にその場にいた私兵全員が向き直り拝手して応える。
その光景を見る信と貂は、改めて彼女が昌文君の子の位置にあり、
秦兵として決して弱くない立場に在る事を実感した。

「信!」
「ぁあ゛っ!?」
「貂も。一緒に来てくれ」
「お、おうっ!」

急な指名を受け驚く間もなく連れ出される。
信の返事に悪意はなく半ば反射的なものだったが、それを介殻は聞き逃さなかった。

「てめーおら下僕!寳子様に向かって何て口の利き方だボケェ!!」
「うっせー弱小兵士がっ!傷だらけでカッコわりぃったらねーなー!!」


振り返り介殻を眼光で制する寳子。
そして戻り様に信の頭を叩いた。
お前が言うな、とは最早言わぬ貂であった。

「いっって!!何しやが「黙れ喋るな騒いだら剣の錆にする」

淡々と寳子は口早に信を言い包めると、そのまま先に宮内へと入って行った。
声を出すと取り敢えず殺されるという事なので、無言のまま振り返り中指を立てる信。
同じく中指を立て迫ろうとする介殻を介良は両脇を背後から押さえて制した。





宮に入ると遅れを咎めるようにして、ジト目の寳子が腕を組んで待っていた。
黙ったままの信の目が泳ぐ。
貂に至っては蓑を被ったままでもわかる程の冷汗を流していた。
溜息を吐き、また歩き出す寳子。
両者それについて行くと、宮の中で一番広い部屋の前に着いた。

「ここでいま大王と殿、そして副長の御三方で話し合いをされている最中だ。
    日頃の素行からもはや正しくしろとは言わんが、慎んで行動するように」
「は、はい」
「うぇーぃ」

咄嗟に寳子の手が信の首元にかかる。
動脈を圧し、掌の付け根、底の部分で彼の喉骨を撫でた。

「男はここが壊れると声が高くなるらしいんだが、試してみるか信」
ごはっ・・!ワリ、・・も、しな」

白目を剥く信を開放し、彼女は些かの怒気を纏い至極真っ当な事を言う。

「私が真剣に話をしている時は真摯に対応しろ」
「・・・、」
「わかったな?」
「わ、わーったよ」

やれやれと。
こんな所でまで小言を言いたくはないが、と前置きして。

「返事もちゃんと出来るようにしろ。でなければ周りが迷惑するようになる。
   ちなみに兵がいる場所では上の者に特に気を配れ。私兵はまだしも軍の正規兵の前では間違いを冒すなよ」
「めんどくせ・・」
「少なくとも、いま私に対するような態度を殿や副長にはするな。・・したら私が許さない」

怒気以上の殺気を以てして臨む。
ムタの時のそれではないが、冷や汗が止め処なく溢れる事態に信は恐々とした。
すっかり小さく収まる二人を尻目に、寳子は扉を叩く。


ふいの音が三方の在する部屋に響く。
入室を促す声に寳子は、一糸乱れぬ体で参上した。

「失礼致します。寳子他二名、参りました」

拝手をする彼女の脇を固める信と貂。
おどおどとする仕草は比べて殊に酷い。
見渡すと寳子のものと思われる空席が目立っていた。

「・・このまま参加してよろしいでしょうか」
「何を言ってるんだ寳子、お前は座りなさい」

着席を促す壁に、彼女は脇の落ち着かない二名を一瞥する。


「何か不測があった場合に手が届きませんので」


寳子の言葉に小さく吹き出す者が一名。
その様子を見た昌文君は驚きの体を隠せずにいた。

「だ、大王・・」
「許す。三人はそこで立っていろ」

大王の言葉に―――――こんな仕様もない事で、反する事も出来ず
昌文君は両の手を両の膝に当て、大きく息を吐いた。

「ご容赦、ご理解感謝致します、大王。
  ・・では本題の筋は現在どのような様を呈しておられるのでしょうか」
「お前から事の次第は大体聞いていたからな。先の作戦を立てていた所だ。
   ちなみにそこの不審者二名に関しても話しておいたから安心しろ」

成る程、道理で殿が斬りかからない理由が頷ける、と
寳子は心の中で深く理解し、拝手した。
政の言葉もそうだが、寳子の奥ゆかしい行動や信と貂の挙動不審な態度から
副長と呼ばれる壁はついに吹き出してしまう。
それを謝る姿も未だ冷めやらぬといった相だ。

「しっ、失礼致しました!」
「んだよなに笑ってんだよ」
「い、いやな。お前達の行動もそうなんだが、大王と寳子の対するものが如何とも・・」

そう語ったのち、皆に一斉に見詰められている事に気が付き
重ね重ね――――失礼致しました、と一つ咳払いをして事は正常に戻る。
巻き返しを図るという風に、饒舌に壁は語り出した。

「大王様から御伺いした事情は、二人が大王の脱出に加担しこれを成功させたこと、
   そこの下僕の少年に至っては、身分を相当飛び越えた大望を抱いていることだ。
     まず徴集兵になるにも全ては王都を奪還してからの話だからな。そこの蓑の子、河了貂も含めて」

(贏政さまから・・?)

お話しただろうか。大王に。
信が仕官希望の旨を。

寳子は疑を抱くが、事に依れば既にそういった話を二人でしていても不思議ではない。
彼女は特に考え込む事もなく、頭を次へと切り替えた。

「ちなみに寳子。ここに入る前に随分と手を焼いていたようだが」
「!・・、お聞き苦しい所を」
「気に病むな。兵でもない者の言葉遣いや素行をいちいち咎めてなどいられない。
   それにこの先、存在自体に構っている暇などないだろう。大王にもご承諾いただいている」

壁の言葉に真直ぐに過ぎた姿勢も崩れる。
異を唱えようと彼女が一歩踏み出すが、同時に信が声高らかに答えた。

「構うも何も俺が活躍して王都を取り戻すんだっつの!じゃねーと兵になれねぇし!」

深。
黙ったままの寳子からは殺気が迸る。
それを制し、政は達観した様子で見ると言った。

「と、いう事だ。昨日今日で変わるはずもない。
   突然変わったとしてもそれはそれで気持ちが悪い」
「おいてめぇ政!ケンカ売ってんのか!!」
「ああっ!今度は殿がっ!!」

止めに入る壁の必死な形相から昌文君の本気が窺える。
政が制止の一言でこれも止まる。
姿こそ似ていないが、その様と精神は見事に親子と認めざるを得ないものと
冷や汗を掻きつつ、信は何ともなしに思った。

「使えなければ打ち捨てて行くぞ小僧」
「しかしながら殿も副長も・・それでは私の立つ瀬がないではありませんか」

扉の前でさえ注意を促したと言うのに、無下にとまではいかないが
脇に置かれてしまいどこか居心地の悪い寳子。

「おら昌文君のおっさん!俺はここまで刺客二人を倒してんだ!強ぇに決まってんだろ!!
   で、聞いた事情ってのはそんくらいか?あと大将軍になってすげーデケェ家にスゲェ数の召使いに・・」

「まあ、それは知らんが」大将軍になって以下
「そこ知っとけよ!!」

何だかんだ波長が合うのか、信と話すにも易そうな壁。
すっかり騒がしい場になって久しい中、昌文君が冷水を掛けた。



「漂の事も大王より伺った」


突如打水に静まり返る面々。
無言の信に気を遣うようにして壁は言葉を続けた。

「信・・彼の事はすまないと思っている。
   大王の影とはいえ、王と同等に守りきる所存ではいたのだが」

思案する。
何を言えるものか、言ってよいものか。
しかし言うべき事はただ一つだった。

「申し訳ない事をした。至らないばかりに犠牲を出した・・ ・・本当に、すまなかった」

合わせて昌文君の私兵の懸命さを訴え、心底から謝る。
それは大王を援けた少年に対するものでもあり、また
ここにはいない窮地を抉じ開けたもう一人の少年への謝罪だった。


「ったくよお!」


響く一声。ああそうだと言わんばかりの尊大さでもって対峙する。
そこには非難の声もなく、寧ろ辟易とした様子さえ露にする彼がいた。

「・・政とコイツに正論言われたら言われたで腹が立ったが――――――」

コイツ、と指す相手は三者並ぶうち中央を陣取る寳子。
彼女から向かって右隣の貂は蓑を被ったままだ。
左隣の信に至っては、既に憤る事に疲れたといった体だった。


「あんたみたいに簡単に謝られても、結局どーしよーもねーな」


腕を組み、最早そこに怒気はない。
怒り飽きたとまではいかない。
怒れと言われればいくらでも暴れ倒す自信はある。
しかし信がそうしない理由。
それは昨夜に得た答えが、信の腑に落ちた故だった。

「寳子から色々聞いてる。だから全部、わかったつもりだ」
「・・・そうか」

なら、この話はもうよそうと。
一堂に会する皆は暗黙の内にこの話を各々の胸に収めた。


壁はそんな重い空気を飛ばすようにして朗らかに言った。

「それにしても寳子、本当に無事で良かった。
    またこうして会えて喜ばしい事この上ない」
「壁に・・ ・・副長も、お元気そうで安心しました」

朗らか過ぎたのが裏目に出たのか、
つい普段呼びをしてしまいそうになる寳子は、少し照れながら申し訳なさそうに俯く。
壁は少し笑うと、今度は表情を引き締め言った。

「お前が戦場を抜けていき、その後を王騎軍の兵什騎が追っていった時は流石に肝を冷やした」

光景が蘇る。
彼女の苦い表情に気が付いたのか、話を若干逸らす壁。

「だ、だが武勇において既に卓越したものを持っているお前だ。どこか安心はしていた」
「何を仰られるやら、まだまだ勢いだけの未熟者ですよ。運が良かっただけです」
「それこそ何を言うか!お前はあの王騎将軍に―――――」
「・・も、もう止めにしましょう。居た堪れません」

私兵内においては褒められ慣れている筈だった。
約一名を置いては。
寳子はそわそわと落ち着かない様子で対する。
目先には昌文君。
ほんの一瞬目が合い、どちらともなく逸らす。
隣で笑う信に気付き肘で小突く。小突くと言ってもそこは彼の者。
垂直に伝わる衝撃に信は咽た。

「寳子」
「は、ハッ!」

昌文君の張った声に、寳子は瞬時に背筋を伸ばす。
返事は少し上擦っていた。


「浮つくな。精進せよ」

「――――ハッ!」



背も、手足でさえ。
拝手の腕先まで真直ぐと。
もはや一つの型をとる格好のそれはしかし、実の伴う重みのあるものだった。

「して、話の続きだが」

一瞥をくれ、昌文君は何事もなく話を進める。
寳子はそれを認めると、音もなく解いた。
他二名は慣れた風に。
もう他二名は怪訝な体でそれを見詰めていた。




「王都奪還、この命題をどう扱うかという事で話し合っておったのだ」

大王側のほんの一握り。
昌文君が傷付いた私兵と共に帰ったという現状のみ。
これより他に在る兵を掻き集めたとて至難と言わざるを得ない。
時を待つ、この方向で彼らは一旦話を止めていた。

「王都を奪還したとて、都合よく戻るであろう呂氏はどう申し開きをするものやら」
「何を言う寳子・・呂丞相は遠征の最中、この事態をまだ―――――」
「寳子、やめよ」

昌文君の制する声に応え、拝手し伏せる寳子。
事情を知る政、昌文君、寳子以外は呆気にとられていた。

「呂氏は俺が死んで弟が即位する時を待っている。
     
成矯の反乱を咎め呂軍を持ち出しこれを討つ為に」
「まさか!呂丞相は大王側の!!」

席を立つ壁に、大王の眼光が射抜く。
竭氏と対する唯一の勢力と、しかしその言葉は続かない。

「数は二十万。呂氏は大義名分が通れば易々とこれを扱い、『彼らにとっての敵』を討つ・・」
「無論王族もそれに含まれる。王族がいなくなれば人々は誰を王に据えると思う」
「りょ・・ああ!思い出したぞ『りょふい』か!何か色々聞いてた気がするぜ!!
   寳子が妙に嫌がった名前で、と・・」

寳子と政の話に割り込む様にして、信の呆気ない合点の声が入る。
壁は呂氏の存在の事実を目の当たりにし、暫し固まって席に着いた。
一方驚きを呈する寳子は、意外といって言を持つ。

「呂不韋は秦にあって秦の敵。・・もはやお話になられていたとは」
「こいつは兵でも何でもない下僕だったからな。仮に漏れたとしても誰も信じる者はいない。
   それにこうして大半は忘れている。ここにきて丁度いい塩梅というわけだ」
「なるほど合点がいきました」
「なぁお前ら俺の事すんっげぇ馬鹿にしてねぇか?」

今更、という空気の充満する場に、敢えて問うはただ一人。
それを躱して政は淡々と話を続ける。


「結果だけ浚えば、何度考えを巡らせようと敵だらけという事だ」


改めて。
さてどうすると大王は言った。

「先程打ち止めた通り、時を待つか?」
「しかし呂氏竭氏がぶつかり王都が火の海になる前に、大王が玉座に就かれる必要があります」
「寳子慎め!そう簡単にできぬから・・!」
「構わん!俺も同意見だ」
「大王・・!」

体勢ごとを彼女に向け、大王贏政は言を促す。
焦る様子もなく、どこか余裕を持つ彼の王に
寳子は独特の意図を感じ取ると口の端を気持ち上げた。

「で、どうする寳子。この『弱』王が王都まで乗り込み呂竭を出し抜く算段はあるか」
「ご冗談を」


飛び交うものは、『徒な子供達』の言葉遊びの残滓。


「大王。知る所に寄る問いとは、些か無粋ではありませんか?」
「寳子!!」


咎める殿は叱る親のようだと。
どこか懐かしく、乗って悪戯っぽく呆れてみせる寳子を前に
政は小さく笑うと、目を細め言った。

「すまなかった。・・ああ、俺は答を得ている。お前は?」
「そうですね。では一斉と致しましょうか」

謝罪の言葉は感謝と同義。
『徒』は鳴りを潜める。


彼らはきっと、二人だけの話をしていた。



『っせー・・のっ』


『せ』、とは口に出さず。
両者は蓑を被って突っ立っていた貂に目をくれる。
その様子に気付いた昌文君は席を立った。

「まさかっ・・!」

括目に眼光鋭く。
壁も同じくしてその様相を呈する。

「ぎ、寳子・・」
「そう。貂と話していた時、ひっかかったのはこの事だったんだ」

したり顔の寳子は満足そうに。
貂はそんな彼女に対するように、引き攣った表情で応えた。

「呂氏竭氏に与さぬといえば、もはや彼らしかおりません」
「しっ、しかしその者達とは四百年も前に―――――」

驚愕の昌文君、壁を前に一拍置いて信が応と声を上げる。
貂に至っては白羽の矢が立った自身に気付き、無駄に構えをとっていた。

「会いに行くしかない。・・山の民とその王に」

政が直接口にするその名は未だ漠然と横たわる。
語るに易いがその実、存在は未知数に過ぐ。
彼らはこの瞬間から強大な者達を相手取る覚悟を決めた。


















碌に休むこともなく、山の民に会いに険しい道を歩む。
先頭には政と貂。
次いで昌文君の肩を持ち共に歩く寳子。
次に信。その後ろに壁。
以下私兵と続き、連なるようにして歩いていた。

先頭の両者は別として。
私兵の内にあって誰も喋らない、喋れない中で信は一人思い返していた。

昨夜寳子に示された答え。



『私は、『国』に惚れているんだ』




(何だよそれ)

さも当たり前といった風に。
兵然と。


(それって結局、
    ―――――――『政』って事じゃねぇのかよ)



しかし彼女の呼んだ名前。
再開の時。相対する場で叫んだ名は確かに友のものだった。

謎かけの意図のない謎ほど、厄介なものはない。

何故なら彼女は自ら『答え』を呈している。
謎と疑って掛かっているのは信の勝手だった。


溜息を吐く。
考える事を止める。
所詮自分には関係のないものだと。
ただ疲弊しただけの問答はしかし
彼の気付かぬ内に、一つの答えを出していた。

思考を止めた代償が脳裏を過る。
もう一つの約束を思い出す。


漂との別れの際に聞いた、
今となっては馴染みのある名を思い出す。



『信』

政が彼女の名を呼んだ時


『寳子っていう、女の子がいる』


信は自身にえも言われぬ緊張が走った事を思い出す。
それは友が口にした名と同じものだった。


『本当は・・俺が護りたかったけど。 ・・・・無理そうだ』


息絶え絶えに彼は
心底に困ったと。
ただ残念そうに。
苦く笑った顔に哀情を以てして信に伝えた。

『だから、頼む』

最後の最後に託された想いは
信の感情の外にあるにも関わらず


『他の奴じゃ・・嫌だからさ。

     お前ならいいと、思うから――――――――』



俺が信の事を話すのと同じくらい
      彼女はずっと、何かを護る事ばかり話していたから



『だから』




そこまで思い出して、落とす。
その後は嫌な光景しか蘇らない。
何度でも繰り返し再生される悪夢を、
彼は無理にでも切って遠ざけるしか忘れる術を持たなかった。

「・・あんなの。俺いらねぇだろ」

兵として国に手を貸せ、とは言われたものの。
寳子本人を護る事は疎か、手を貸そうものならどんな謗りを受けるか。
容易に想像をする。
想像の中の彼女は多くの敵を前に怯まず、人の気遣いを足蹴にしていた。
そんな邪念をさすがに不躾と悟ったのか払う。
溜息を吐いたかと思うと、続いた言葉に何ら意志はなかった。


「あいつ、本当は・・」


口にして、気付いて止める。
馬鹿馬鹿しいと己を一蹴した。





一人では何かと手持無沙汰と、信は後方にいる壁の元へ向かう。
壁は杖をつきながら、前のめりに今にも倒れそうな体でへばっていた。

「おら、肩貸してやるよ」
「お前は・・」

姿を認めると一寸躊躇したものの、壁は素直に信の肩を借りた。
一息吐く壁を横目に、信は世間話と言わんばかりに語り出す。

「ちゃんとした甲冑着てても、肝心の着る奴がこんなんじゃタダの重しだな」
「なっ・・!」

声こそ上がるが張れず。
歯を食いしばりながら壁は体力を温存すべく黙る。
猶予のあった信達とは違い、昨日の今日で休めずにいる彼らの心境や如何許りか。

「ここにいる奴ら全員、要するにちゃんとした兵って事だよな」
「・・そうだ」
「どいつもこいつもロクな顔してやがらねぇのに、わっかんねぇモンだなぁ」俺のがぜってぇかっこいい
(みな健在であれば殺されているぞコイツっ・・!)

肩を借りる中にあっても、信のその不遜さに言葉を失う壁。
もはや体力気力云々の話ではなかった。


「ったく寳子の奴もよ。よりによって昌文君のおっさんの子ってんだから、
    エラそーなのも強そーなのもわかるってモンだぜ」
(お、おっさん・・!)・・何を言う。
    彼女は本来頭の低い方だぞ。あと!強そう、ではなく強いんだっ」

自分に対するもの、そしてムタと対峙した時の彼女の在り方を思い出す。
しかし自身が手合わせした際は疲弊の体、験する体からその実力の程は計れてはいない。
何事も音に聞くだけで実を見ておらず、曖昧な予想で頭打ちという現状だった。

特に反するでもなく、頷くでもなく。
傍とすると何を思ったか、壁の目前に嫌らしく笑いながら小指を立てた。
無論冗談として。

「な〜、もしかして・・」
「バカを言うな。寳子は妹のようなもので、彼女も私の事を兄と言って慕ってくれている。
   私だけではない。殿の私兵の多くが彼女に愛敬の念を持つが故に、妹や娘といって親身に関わる事ができるんだ」
「あっやしーなぁ〜!」なんつって
「またそれを彼女は許してくれている・・って色付くな童がっ!」

作った拳の先で小突く。
しかし疲労を成す壁に、信を張り倒すだけの力はない。
彼は幾許傾き、逆に人差し指一本で壁を押すとその体は簡単に崩れた。

「こ、こら童!副長に何をする!」
「童じゃねー!信ってんだよおっさん!!」
「おっ・・!?(俺『まだ』30って思いたいんだけどー!)」
「ぁあ・・よい、よいから叫ぶより体力を温存せよ」

力なく応える兵の足取りは重い。
こそこそとしてする話に切り替わる両者の姿は、
背後に連なる兵達にとって実に違和感に満ちたものだった。

「壁のあんちゃんがやるからだろー!?」
(あ、あんちゃん・・)ま、まあ何だ。惚れたのなら止めておけ。彼女には既に厄介な・・」

「あ、それない。ぜんっぜんない。」死んだってねーわ
「・・・・・・・」

否定の声だけ大声で。
壁はこのとき瞬時にある覚悟をした。

「まあ、お前ではどのみち相手にならん。・・いやだがやはり、位を鑑みて可笑しな話だが・・うーん」
「なーにが『相手にならん』だ!俺は俺に似合う、もっと美人でもっと従順でもっともっと・・
    まぁガキはたくさん産めそーなガタイの良さはあ」

そこまで言って壁に反応がない事を知る。
青ざめながら見る先には、ほんの少しばかり
顔をこちらに向ける寳子の眼光が鋭く両者を射抜いていた。
自分は関係ないと首を横に振る壁であったが、
彼女の目は同罪と無情な審判を下していた。

「壁副長」
「・・ ・・・は、はぃ」
「余り為にならぬ事を仰られないように」

気付くと昌文君もこちらを向き――――――馬鹿者。
そんな内の言葉を吐き捨て直った。


「・・・後で共に死地に赴くぞ信」
「俺の分まで頼むわ壁のあんちゃん・・」


更に歩みが遅くなる。
本来必要でなかったはずの懸念案が頭から足先までを侵食する。
項垂れる両者を余所に、寳子は力強く昌文君を先導していた。



「全く・・」
「・・・・」

力強く、しかし壊れ物を扱うようにして穏やかに。

「殿」

その気遣いは確かに彼の者に伝わっていた。


「体の軸をもっとこちらへ。
     ―――――――傷に障ります」


傍とする昌文君。
気付かれていた事への驚きと、それを気付かずにいた己の恥に黙する。
王の脱出の手立てから戦場、合流の一連の指揮を執っていたその男は足を負傷していた。

「寳子」
「!?は、はいっ!」

唐突な呼びかけに寳子はつい大きく声を上げる。
しかしその声は、口に出される名を聞くなり音を失った。


「・・・・漂のこと」


これは十二分。
余りだと、彼女は思った。




「―――――――――すまなかった」






否とも。
応とはとても。

彼女は静かに首を横に往復させると、さも何事もなかったかのような体で対する。
ただ違う点といえば。

声を発する事ができない。
それだけの事だった。


そして掛けられた言葉に、皮肉にも声を取り戻す。


「護る為に、お前は儂の元へ授けられた者だ」


糸が張り詰めるかの如く
彼女の瞳に奥底からの光が宿る。


「その為に育ててきた。・・お前は生きてきた。
                   努々忘れるでないぞ。寳子」

「・・はっ」


切り取られた時間が、砕かれた様を以てして蘇る。
不良の記憶は、もはや自身のものでないと彼女は語る。


「この命は護り、報いる為のもの。
   切り刻まれようが、たとえ膝をついたとて。
     この身が灰と化すまで、受けたご恩―――――必ず秦(殿)へお返し致します」



そこに在るのは、親と子の会話ではない。


自らのこの存在は
そうでなければこの身は


一切の意味を持たないと。




望んだ筈の言葉はしかし
何より昌文君の頭を擡げた。









「元より殿は女が戦場に立つ事を良しとせぬお方だったが・・
     まさかご自身の子がそうなるとは思っても見なかっただろう」

死地を覚悟した二人が妙な連帯感を生んだのか。
もとより気安い者同士なのか、自然と言葉を交わし合う仲になっていた。
彼女にとっての『余計な事』も、今となっては何ら躊躇するに至らない。

「あいつは何歳で仕官したんだ?」
「十三だ」
「最近じゃねーか!・・たった一年で什騎も相手に出来るモンなのかよ」
「だが剣を持ったのは七の頃、世話係と称して実際の戦場に出たのは齢八だ」

驚きの体に間に合わず。
遅れて驚愕の声が上がった。
人差し指を己が口元に当てて、沈黙を促す壁。

「ざっけんなよ・・」
「馬の扱いが殊の外うまくてな。難所も諸共しない。
   殿とも手合せし、更に貴士族、名家の子らと武に知に勤しんでいた」
「詳しいな壁のあんちゃん・・」
「当たり前だ。私はその近くに在ったのだから」

そう語る様子は嬉々としている。
誇示をするようにも似ていたがしかし、先の彼女を見る目はどこか哀愁を帯びていた。


「・・あの子にあって、この環境は恐ろしく適したものだったんだ」


呟く声は、信には届かなかった。
代わりに脈絡のない信の問が壁の耳に届く。

「ちなみによ。その、位って何になるんだ?寳子のやつ」

至極明るく。もちろん他意はない。
よく知りもしないであろう信だったが、単に興味の範疇で物を言っていた。

「信。お前はどこまで知っている」

え、と。合わさる視線を外し言う。

「いや、どこまでって・・いま聞いたくらいしか」
「じゃあ駄目だ」
「はぁ!?んだよ別にいいだろ減るモンじゃねーし」
「減る減らんの問題ではない。無駄口を叩く時間は終わりだ、登るぞっ!」
「俺は余裕なんだよ!壁のあんちゃんがヤベーんだろ!?」
「ぐっ・・」

しかし項垂れ飽きたと、即座に直る壁は信よりも力強く一歩を踏み出す。

「おぉっ!?」
「・・強いて言えば」

信の見上げる先には、歯を食いしばって歩を進める壁の姿があった。
唐突な気力の盛り返しに信は言を持たない。


「今ここにいる彼女は、楽に得物を握り立っている訳ではないという事だ」


服する者ならば皆そうだが、と。
彼女はやり方、在り方が尋常ではないと、そう付け加えて。

遠く先の当人を見やる。
やはり見えるは距離からして指先ほどの小さい背。
添う昌文君と比べるとなお引き立つ。

信は壁以上の気力で以てして、足を踏み出した。






暫く歩き、乱れた息と呻きが聞こえ始める。
それを感知した壁は後続の者達を気に掛けた。

(遅れ始めた者が多くいるな・・無理もない。
   脱出の緊張感に王騎軍の猛攻から、合流まで。我々は殆ど息を吐けていないのだから・・!)

壁自身も息荒く、苦心を重ねた末は姿にも表情にも浮き出ていた。

「!」

急に顔を上げる寳子に昌文君は驚く。

「いま笛の音が・・」
「なにっ!?」

全く気付く様子の無かった昌文君を置いて、暫く耳を澄ます。
深く探る程に身を屈める彼女は、しかしこれを逃がす。

(何かの合図・・―――――!)

軍の追手が音など、相手に知られる危険のある手段で連絡を取り合う筈もない。
せめて狼煙。しかしそんな広域に渡り包囲されている気配もない。

(こんな山中の荒地で疲弊する我々を長く放置する意味も、兵を割く理由もない。・・なら)

「王!殿!お待ちを・・皆がっ!!」

壁の突然の声が通る。続々と膝を折る兵達。
もはや限界の体に昌文君の大声が響き渡る。

「歩けぬ者は下山して避暑地で待機せよ!付いて来れぬ者は離脱させる!」
「なっ・・殿、お待ちを!」

壁の制止する声に交じり多くの兵の拒否の声が上がる。

「俺はまだまだいけますっ!!!」
「介殻・・―――――おっ、わ、私もまだ!!」
「そうです殿!我々はまだ行けます!!」

介氏の二名が声を上げ、壁も乗るがこれを寳子が制する。

「いえ副長、殿の申されるよう対応を考えた方が良さそうです。
     先ほど笛のような音が聞こえました・・次第によっては」

来る、と。
単なる内々の合図なのか、こちらに気付いてのものなのか。
登頂も近い中、気付かれていない可能性を考える方が難い。
暗黙の了を以てして応える。
昌文君と寳子は広がり立って、皆に現状の旨を話す。

「山の民が本気で来たら兵がいようがいまいが関係ない。馬酒兵の子孫共だ。一筋縄ではいかん」

「特定の場に根を張る諸民族は、その大体が恐ろしい戦闘民族。
   特に此処の山の民は秦人を憎んでいるだろう。
     より不利という事が目に見えている。戦を乱すだけの人員なら降れ」


流すだけの血で足場を悪くする位なら、大人しく離脱せよ。

寳子の言葉に昌文君は何も言わず、目前の兵達は閉口する。
結局進もうが退こうが。
数が多かろうが少なかろうが
現状は全くの無問題。
もちろん手立てがないという意味でだった。

(避暑地に人員を割ければ、最悪・・王と殿だけでも逃す事ができれば立て直しは図れる)

後にも先にも絶望的ではあるが、と。
全くの不可能ではない可能性。
己の存在の、『特定の条件』における必然性。
彼女の中でのある自負が、その考えに至らせた。


若しくは手立てと言えば
諸言通りの、組み立てとも言えぬ代物。

奇跡であろう一種。
その事実を改めて公言する人間が、一人だけ、居た。


「恐ろしい戦闘民族、だからこそ味方にする値打ちがあるっ!」
「!」


強気そのもので臨む信は前しか向いていない。
振り返り見詰めた背は、少年のそれにも拘わらず力強いものだった。

「元々そのつもりなんだ。
   最悪ばっか考えてっからこーなるんだよ!!」

こうなる、とは。
指揮親子が憚り、兵共が俯き、王はもはや語らず傍観を決め込んでいる、という状況。

「・・・信」
「疲れてロクに戦えねぇで死ぬより!
   一旦帰って休んで納得できる戦いをして死んだ方がまだマシだろ!!」


振り返り睨み付けるようにして放つその言葉は、
憤怒以上に希望を孕んでいた。


「『ここ』が最後じゃねぇぞ!!
        王都を取り戻す!これが目的なんだろうが!!!」



皆括目する。陰鬱とした霧が晴れる。
固唾を呑み、信の言葉を前に動けないものを
敢えて動 か な い も のと見た信は大手を振り兵共に向かう。
胸倉を掴むと後方へと投げ捨てた。

「なっ・・!?」
「ったくよー!だったら俺が選んでやるよ!!
   お前とお前!それとお前らと・・」
『まとめんなっつの!!』

吼える介『義』兄弟はしかし、信に足蹴にされながら降る。
背を向け様を露さない王と、引きに引きまくる貂。
言葉を失う一同を前に、その様子を見る寳子は控えめに微笑んだ。






 

 





2013 0222