約半数を帰し進行を再開する。
先頭に政と信、そして貂の三人が並ぶ。
寳子は相変わらず昌文君の傍らにあり、他も必死に後を追っていた。
(・・まだ襲ってこないか。
あれは仲間内の合図でまだ我々には―――――――)
気付いていないのか。
そう彼女が思った矢先に事が起きる。
前方より声が上がり、それは騒ぎとなって波状を成す。
寳子は昌文君に目配せすると貸していた肩を解き、政の元へ駆ける。
目前は疎か、周囲の殆どを多くの山の民が席巻し道を塞いだ。
「王を御守りしろ!王を中心に円陣を組むのだ!」
昌文君の指揮に迅速とまではいかないものの、懸命に陣を構える皆々。
山の民のいきりに気圧される中、体制を崩す者はいない。
寳子は政の前を陣取り、剣を構え護りの体勢をとる。
眼前には山の民。鋭く睨み付けるが相手はまるで獲物を前にした獣そのものだった。
息巻くその者はしかし、違和に気付くと一時息を潜めた。
確信を持つ寳子の眼光は鈍く燈る。
次第に前方に近い、周辺を占める民達ほど騒めき出す。
その異変の意味に気付く者は前に立つ寳子と王、そして遠く昌文君のみだった。
「騒ぐな!!」
政の一声に両者間をとる。
騒ぎとは果たして両者会した事か、それとも別事における牽制か。
歩み寄る政。怯む事もなく、堂々と山の民に対峙した。
「その気ならとっくに襲われている。双方刃を納めよ」
「出迎えにしちゃ物騒なモン持ってんじゃねぇか、よォ山の民!!」
止めろ、と一瞥をくれる政に妙に威風堂々とする信。
固唾をのむ私兵の面々は、息さえ殺す状況にあってしかし精鋭。
相手の手を読もうと物の機微に敏感に気を張っていた。
騒ぎが収まり一寸。
山の民で構成されたこの異様な『軍』の長らしき者が言葉を発した。
「――――――ココハ我々ノ世界。
平地ノ民が来タ場合、両目ヲ抉ッテ滝ニ落トス」
「!?」
(平地の言葉を話している・・!外交、側近!?上には違いないか!)
寳子は目前の青い仮面を被る者に構えを改める。
現状把握に努める彼女は殺気こそ抑えるが、その気迫は並々ならぬものを放っていた。
それに過剰に反応するでもない男は、腕を組み淡々と話す。
否、提示する。
「我ラノ王ニ会イニ来タ、―――――ソノ理由デ決メル」
そぐわねば殺すと、男は言った。
「我ラノ王ハ何デモ知ッテイル。
秦ノ王。我ラノ王ガ待ッテイル。オ前ダケ、連レテユク」
逸早く反応した信は飛び掛かるとその身を投げ捨てられる。
男は大目に見たのか、それとも捨て置いたのか。
再度淡々と語り出す。
「連レテ行クノハ王一人ダ。他ハ下山シロ、シナケレバ全員殺ス」
連れ出そうと山の民の一人が政に手を出そうとした瞬間に横槍が入る。
信は手を出そうとした別の大男を殴り、寳子は政の眼前近くに重なる様にして躍り出た。
「そっちの言い分はわかった!次はこっちの言い分だ!!
てめぇらも殺されたくなきゃ政と一緒に俺達を連れて行け!!」
皆の声を代弁する。
両者臨戦態勢をとる中で再び政が声を上げた。
「待てっっ!!」
止めに入る政の姿に削がれる面々。
その表情には疑問の念が浮かぶ。
「山の民の要求通り、俺一人で会いに行く」
「お待ちください!」
反射的に寳子は振り向き、それを制する。
次に驚愕の体を成したのは政の番だった。
「山の民よ、私は王の盾だ。私と王の二名を連れていけ」
『!?』
双方騒めく。しかし声大きく騒いだのは自陣の側だった。
彼女の言を聞き、やはり微動だにしない青い仮面の男は淡々と語る。
「剣ヲ持チ、面白イ事ヲ云ウ。・・貴様カラ先ニ殺スゾ」
至極当然。
それこそ矛盾であると。
「失礼した。ならこれではどうか」
構えを解き、剣を下ろす。
相手の目前で拝手し、非礼を詫びると寳子は地に剣を置いた。
その行動に殊更驚くもやはり自陣の兵達であった。
しかし彼女もただ剣を手放した訳ではなかった。
「我が身こそ最上の盾。
――――――切り裂けば万物に賜う貴殿らは只では済まんだろう」
絶句する民の代わりに、木々の戦ぎが大きく発する。
先程までの威勢は鳴りを潜め、ただただ奇妙だ。
まるで場自体が薙いでしまったかのように静まり返る。
その刻を占めるもの。それは彼らにとっての恐怖だった。
「・・・貴様、ソノ――――」
「さあ決めろ今すぐだ余計な事を言えばこの一帯の全てを殺す。
山の王よ!全てを見通しておられるというなら直ぐさま伝者を送られよ!!
我が存在を、山の民と定めた生ける者達全てを!生かすも殺すも王次第っ!!!」
彼らにとっての恐怖。
それは天敵を前にして、動物的本能に訴える弱者の。
それは毒を前にして、狼狽える。
―――――如何ともし難い観念。
語る少女は人である。
しかしその人の姿は、彼らにとっての絶望が闊歩して成す体に相違なかった。
「おい・・山の民全員動かねぇぜ」
「一体どうなっているんだ・・」
信と壁が探る中、昌文君と政だけがその動向を冷静に見守る。
ともすれば全員連れて行くよう提示を出来たものを、そうしなかったのは彼女の算段ゆえ。
彼女は万が一の為に、昌文君と王の剣を切り離した。
無論、自身が盾となって王を送るに足る人材を残す為に。
暫く息を呑む状態が続いた中、山深くから一人の山の民が降りてきた。
青い仮面を付けた隊長格と思しき山の民に、耳打ちし去って行く。
組んだ腕を解き、彼は何の感慨もなく言い放った。
「王ト盾ヲ、連レテユク」
『!!?』
希望、否。
強請は受け入れられた。
「他は下山して帰りを待て。―――――これは王の命令だ」
「・・政」
信だけではない。
護ろうと奮起していた兵達は、王と盾を見詰め他の言を促す。
しかし二人はそれを躱す。
「話し合いに剣はいらない」
傍とする信に、政は表情一つ変える事無くそのまま前を向く。
「寳子!」
元より前を向いていた少女は動かない。
しかし届くと信じて想いを託す。
「・・・政を頼んだぜ」
無論だと。
握った拳を軽く挙げた。
下山途中。
私兵達は疑問にしかし、投げかける気力もない。
更に言えば『彼女』に関しての疑問事は浮上させぬが暗黙のものであった。
ただ歩を進め、倒れないよう姿を維持する事に注力する。
その中にあってただ一人、壁は昌文君に問いかける。
欹てるに要する呟きは、疑問にしては力ないものだった。
「・・殿、寳子は―――――」
その後が続かない。
伺いの体が決して興味本位なものではないとわかっている。
壁は只の兵以上に、唯、兄分として疑を口にしようとした。
それほど近しい者でも知り得なかった此度の『盾』の存在と意義。
黙して暫く。
軍配は躊躇いが勝る結果となった。
続かなければ問いではないと、昌文君は口を噤んだ。
最後尾を歩く信はそれを聞くが、自身がその続きを語ろうとはしない。
『王と盾が離れた』
それだけが彼の中での全ての答えだった。
山の民に囲まれながら険狭を歩く。
政に寄り添い、傍に立つ寳子の気の張りは近く周囲に伝わる。
先頭を歩くのはやはり青い仮面の男だった。
四方は屈強な民で占められ、しかしこれが語るに容易な状況を作り出していた。
「私は人の前では剣を持ち、盾となりましょう」
平地の言葉を知る者は、恐らく先頭を行く者一人。
しかし風に消え入りそうなほどの音で
肩が当たる程に隣になければ聞こえない
独白のようなその物言いは。
「人遠かれば、この身が盾となりましょう」
やはり彼女自身に、向けられたものだったのか。
「・・・・・・・」
王は返さない。
彼女を盾―――毒―――と、言いたくはなかった。
険路のまま、しかし人の足によって幾分慣れた路に出る。
空気の通りから拓けた場所に出た事を感じ取ると、下に向けていた視線も自ずと持ち上がる。
眼前に広がる光景に、政と寳子は息を呑んだ。
「なっ・・!」
立ち止まり、躊躇する彼女を山の民の一人が小突く。
半ば強引に押される様にして連行される彼女は横目に流れる景色を目に焼き付ける。
(山の民というからもっと粗雑な暮らしを想像していたが――――――これではまるで要塞じゃないかっ・・!)
ただの寄せ集めではない、計算された居住の配置も勿論の事
この場が戦場になった時に備えての路の確保と、応戦に際する狭間の存在など無駄のない造りが目を引く。
自然もそのまま残されている部分が多くあり、物見や号令を敷くに適う場と見受けられた。
(秦と交流があった為か装飾に名残がある・・融合とまではいかないが、折衷にしては出来ている。
外観として在る建物とは別に、岩も利用し居住を分け、機能している)
立ち止まり落ち着いて見られぬ事が口惜しい。
ならばと視線を細かく移し、寳子は把握に努める。
彼女ほどではないが、同じく様を呈する政は思考の有りの儘を口にする。
「文化が取り込まれた儘だな。使える物は使うといった所か」
「そうですね。その受入れの良さはこちらとしても望ましい所です。
――――――若しくは未だ交流がある、という可能性も視野に入れて問題ないかと」
彼女の言葉に引っ掛かりを感じた政は、一拍思案ののち問い返す。
「・・秦以外でか」
「いえ、秦においてもです。利害が一致さえすれば、協力はできなくとも取引という立場自体は成立します。
人というそれその者は平地山岳といった閾に関係ありません。
寧ろ利用という体においては、身内よりも他がより遣り易いというものです」
非難も出ず、気付きもない程度。
小事の繰り返しが彼らの今現在に浸透し、
それが恰も自然と装えば、それは彼らの文化に還るも同義。
巡るものの子細の在り処など民には関係のないもの。
当然を疑う余地がなければ、それはただの真実だと寳子は言った。
「事情様々あるものと思いましたので。・・上が知る知らぬは別として。
お捨て置き下さい。妄言の類です」
言って切り捨てる彼女に政は言葉をかけようとする。
しかし突然の青い仮面の男の行動がそれを制する。
何かに気付いたのか、高い崖を一気に駆け上り合図をした。
(何だ?)
寳子は只ならぬ予感に神経を張る。
大事に備え政の前に出た。
(物見・・敵でも見つけたか?)
山界の王を頂くこの場において、余所からの働きかけは珍しくはないだろう。
彼女の気掛かりはただ一つ。
現時点において山の民と大王の交渉が控えている今、
他部族との戦に巻き込まれる事だけは避けねばならないということ。
(全く客の多い事だ・・――――――弱小であればいいが)
彼女の考えの纏まらぬ内。
早々に連れられた先で立ち止まると、堅牢な建物が一際目を引く。
それは通ずれば盟友、ともすれば大敵の住まう王城に違いなかった。
青い仮面の男ともう一人、側近と思われる引率者二名が政と寳子を城奥へと導く。
(他の者は門前で待機か。いよいよだな)
政も寳子にももはや交わす言葉はない。
長い廊を行くと大広間に出る。
目に入る装飾からはやはり近しい文化の存在を感じずにはいられない。
天井は高く、見渡しがいい。
山の王に達するまでの道はやはり長く、目に見える物見えない物、
その両方における両者の距離というものが明るみに出ていた。
両脇を山の民が得物を持ち待機する。
彼らは寳子を認めるなり警戒を強めた。
刑場ではない筈の神聖な王間にあってこの異様な空気はしかし、謁見するに足る緊張感を齎していた。
(ここまで歓迎されていないと、逆にやり易い)
不敵不敵しい心持を胸中に留める寳子。
従者然としたまま、当てられる周囲の殺気を流す。
相手が如何に殺そうと刃を研いだ所で、現状政は話し合いの場を持つべく訪れている。
故に手前の殺気を持つに値する時宜。
彼女はその瞬間を読む事のみに気を傾けていた。
政が前を歩き、寳子は一間開けて付き従う。
半ばに来る頃には両膝をつき、その場にて陣をとる。
視線の先を追うと玉座に横たわる強大が見えた。
人など簡単に食い殺せそうな獣を多く侍らせ、
易くその上に君臨すると言わんばかりの体は実を以て存在した。
「第三十一代秦国王、贏政だ」
「我ガ山ノ王、楊端和デアル」
双方王と。
彼の厚く厳つい仮面越しの声は内に籠り、野太い男の声に聞こえる。
見下すままの山の王は詰まらぬ一興と言わんばかりに装甲指を鳴らす。
しかし耳障りのその音は来訪者を逆撫でるには不足に過ぎるものであった。
「ソシテ後ロニ侍ル貴様。名ハ何ト言ウ」
「はっ。我が名は秦王の側近にして盾。名を寳子と申します」
格を下げ、しかし卑下はせず。
立ち上がり拝手する、その堂々とした風貌に楊端和は一拍置いて問い質す。
「我ニ訴エタハ貴様カ童女」
先程の脅しはお前かと、指を鳴らすのも止めて言を投げかける。
次第によっては先程まで鳴らしていた金の凶爪で目を抉るぞと、山界の王は指に力を込める。
認める寳子は微動だにせずそれを受け、切り返した。
「如何にも。一帯の山々を統べる王に対し、まずは謝罪を。
―――――しかしながら私も王を持つ身なれば、察し余る体、どうかご容赦下さい」
件においては謙ると、彼女は素直に謝罪をする。
王として従者を構える手前、山の王自らもこの答を無下にはできない。
そう思ってか否かは不明だが、何れにせよ罪の在り処は余所に移された。
「フッ、容赦モ何モ。
コノ場ニ参ジタ時カラソノ所在ヲ推シテ知ルベキダナ」
訝しむ寳子は一礼すると言葉を返す事なく拝礼を象る。
俯せた面は楊端和に対する不信に満ちていた。
さて、とした所で山界の王は政に経緯を尋ねる。
何某かの答を臭わせ、さも素知らぬと欺瞞を被って。
「秦王贏政・・弟ニ玉座ヲ追ワレ、寡少ニ過ギル臣共ヲ率イテ逃亡ノ路ニ身ヲ置イテイル・・。
デハコノ山ニ踏ミ入ッタ理由ヲ聞カセテモラオウカ」
「力を借りに来た」
政の率直な言葉に周囲の民より嗤いが起こる。
答を知って、という点では山の民全てが共謀者だった。
「当テガ外レタナ秦王ヨ。我々ハ貴様ラヲ裁ク為ニ此処ニ連行シテキタノダ」
「何の裁きだ」
「知ラヌトハ言ワセン・・秦ノ民ガ我ラニ何ヲシテキタノカ」
当てられていただけの殺気が噛みつく様に威力を増す。
積年のそれは生半可なものではないと暗に訴えていた。
「四百年前。我ラト秦ガ友好ヲ気付イタ時、平地ヘト降リタ同胞達ハ世ノ広ガリノ兆シヲ見タ。
ダガ秦人ハソレヲ良シトセズ、害ヲ成シ・・全テハ幻ノ内ト気付カサレタ」
信頼は穆公のみ。
友好も、共存も、盟も何もかも彼の王の知る所でのみ映った夢であった。
他秦人は盟を一方的に反故にしただけでなく執拗な害を与え、
平地に降りた山民を再び山に追いやった。
「山ヘト帰ッタガソレデモ貴様ラハ迫リ惨劇ノ限リヲ尽クシタ。
目ニツク我ラガ同胞ヲ斬リ、撃チ、焼キ、嬲ッタ。
コレラ数多ノ罪ヲ贖ウベク、清算スルニハモハヤ現秦王ノ貴様ノ首ヲ刎ネネバナラン。
――――――何カ言ウ事ハアルカ、権ナキ若王、贏政」
恨み辛みはその首でのみ清算される。
それで同胞たちは浮かばれる。
山界の王は声高らかに、しかし重くこれら罪の成り立ちを語った。
殺気を迸らせる山の民。
さも当然の如く贖いを求める山の王。
これらを目の前にして秦王とその従者は、ただ然として憚らなかった。
「非はこちらに在る。過去の愚考、秦国の代表として心から謝罪する。
だがそれは俺の首を刎ねる理由にはならない」
寳子には、この場においての発言権はない。
故に心中にて同意の構えを見せた。
これに楊端和も黙っていない。
「ソレハ何故ダ。理由ニヨッテハ首ガ飛ブゾ」
装甲指が再び音を上げる。
苛立ちと憎しみの狭間の音は、叫びとも泣き声とも言って相違ない。
それを薙ぐようにして政は秦王足る発言を以てして臨んだ。
先の時代より異なるそれぞれが交わる時に際し、血が流れない事はなかった。
元よりあったものに別のものを組み入れる。
互いが互い自身を謳う以上、易々とは通せぬ事である。
他を圧倒するというならそこに争いが起こるのは必定。
流れた血の分だけ、命の分だけ当然の如く生まれる差別や侮蔑が消える訳がない。
秦人だろうが王だろうが、そんなもの贖えるものではないと。
軋轢が消え去る事など無いと、政は言った。
「裏切ラレタ方ガ愚カト申スカ」
「俺の首を刎ねる事は何の解決にもならないと言っている」
「解決ニナラヌカラ!何モセズコレマデノ事ヲ水ニ流セト言ウノカ!!」
脇に控えていた民の一人が政に剣を向ける。
切先の触れた首からは血が一筋に垂れる。
「大王に近付くな!!」
拝礼を崩し寳子は叫び制する。
他の民が前に出、これも刃を彼女に突きつけた。
これに関知せず、王共のやり取りは進む。
「復讐よりも前にやるべき事は山ほどある」
「人ノ痛ミノワカラヌ者メ・・ナラバ貴様ニモ思イ知ラセテヤロウカ」
王の言葉に呼応するようにして第三者が入場する。
首のみを晒され後ろ手に縛られるという格好で処刑台に乗る。
背後から現れたその三名の招かれざる客人共は喚き散らす形で晒された。
「!信、貂っ・・!?それに壁兄まで一体な」
傍と気付いた時には遅い。
壁はこの状況にあって、その呼び名に懐思を抱かずにはおれない。
寳子に至っては勢い余っての失言に手で口を塞いだ。
それに信は突っ込む事もせず冷や汗を流し、至極不味い体で言ってのける。
「いやー、ちょっとヘマしちまって・・」
乾いた笑いを浮かべる信に、寳子はぽつり。
「・・なるほど、弱小」一名を除いて
呟いた。
眼をくれる信に何でもない、と目を逸らす。
彼女はここでようやく青い仮面の男の不審な行動に合点がいった。
「捕まる為にやってくるとは奇特だな」
「なワケねぇだろっっ!!」
政の言葉に噛みつく信。
彼だけはどうにも元気盛んといった風だった。
しかし両隣の貂と壁に関してはそうでもない様で、項垂れている。
そんな問答が一通り終わると、脇に控えていた民が貂に近寄る。
『人の痛み』
その辛さを目前で見舞おうという王の言に従い、
処刑人は大きく得物を振り上げると貂の首めがけて落としにかかった。
「待て!!」
秦王の声が通る。
その王命は山の民の耳にさえ届いた。
「俺はその痛みを十分に知っている。
王が恨みの念で剣を取れば恨みの渦に呑まれ国は滅ぶぞ。
楊端和、お前も王なら人を生かす為に剣をとれ」
戯言と嗤うは山の王。
その狂言はもはや伝家の宝刀、秦国お決まりかと言わんばかりである。
しかし政は侮蔑を受けようとて言を止めない。
「人も国も。分けてしまうから摩擦が起こる。
奪い合い、殺し合いを続ける。内と外、敵味方を明確にするが故の弊害だ。
国ごとの一時の安定では駄目なのだ、楊端和!」
「ナラバドウスル秦王ヨ!」
「全国境の廃止!!」
吃驚の声は集まり大きな騒めきへと変わる。
寳子は訴える政の背を黙って見つめていた。
平地と山岳、共に皆が唖然と成り行きを見守る。
「受ケ入レル国ガアルト思ウカ?若王ハサスガ理想ニ富ム」
「力ずくでやるまでだ」
「生カス剣トオ前ハ言ッタガ、笑ワセル。結局ハ力デ捻ジ伏セル死剣デハナイカ」
「違う!!俺はこれより起こり得るであろう争乱の刻を無くす為に剣を取るのだ!」
信は近く寳子を呼ぶ。
擦り寄るようにして傍に行くと、信は彼女に訊いた。
「おい寳子。ここには奪われた玉座を取り返す為の援けを頼みに来たんだよな・・?」
「黙って聞いておけ。これは贏政さま・・ ・・秦王が盟約の元に宣誓しておられるんだ。
玉座奪還は飽くまで過程。王は既にその先を、ずっと前から見詰めていらっしゃった」
彼女の頑とする物言いに気圧される。
黙れと言われた以上、吃る声は音となり空に消えた。
「俺は中華を統一する。それが俺の道だ。
―――――中華全土の、始まりの王になる!!」
響動めく。
しかし今度は嘲笑う者はいない。
「他の国を滅ぼして、秦一国にするって事か!?」
「そうだ」
さすがの信も口出しせずにはおれない程の大望。
彼の大将軍になるというそれに匹敵する夢。
「だっ、大王様・・!そのようなこと出来る訳がっ!中華に記す長き年月を見ても・・」
「それをやるのだ。そうすれば全民はかつてない世の広がりを見る」
壁の意見を一蹴する。
しかし誰もが意見を同じくする事は言うに及ばない。
政の言葉に山の王、楊端和は黙る。
広間に落ち着きが戻ろうとしたその時。
鈴の音が聞こえると家老と思しき者が二名、姿を現した。
流暢な平地の言葉に徳が高いと知る。
「何をこのような者達の言に耳を傾けておいでか、王」
「一族の晴らすべく、早くに首を刎ねてしまわれればよろしい」
『この者達の裁きは我らにお任せを!』
老が指示を出すと、剣を携える民の一人が再び貂めがけて獲物を振り下ろそうとする。
飛び上がり狙い定める民に合わせ、寳子が逸早く動いた。
「オレばっかかよぉおおお!!!」
叫ぶ貂の悲鳴が木霊する中、彼女は低く屈み右腕を深く引く。
成すより早く廊を蹴り上げ、敵前に見えた寳子の拳は男の鳩尾部分を抉る。
それに負けじと捕らえられていた筈の信は身を乗り出し、男の顔面を蹴り上げた。
動いたのは彼女だけではなかった。
「信っ!?いつの間に!」
「こんな事もあろうかと縄抜けも漂と特訓済みだぜっ!」
「マジかよっ!」
明るい様子の貂に対し、苦笑いを禁じ得ない寳子。
「本当に『お前達』は色んな事をやっているな、全く・・」
「どーだ政!寳子!お前らビビッたろ!!」
『別に』
「っざけんなよなぁあああ!!」
「何をしておる!早く捕らえよ!!」
信の不満の声も、老共の声に呼応した民等に掻き消される。
広間一帯にいた民だけのものではない。
後に控えていた山の民が続々と姿を現した。
「万事休す・・ 剣 は 剣 を 持っていないしな」
「るっせーんだよっ!お前だって盾のクセして持ってねぇだろ!」
信の荒々しい、売り言葉に買い言葉といったものに
寳子の反応は意外なものだった。
「私が盾だよ。信」
「っ、え。・・・はああっ!?」
嫋やかに。
そも売った覚えもないと飄々と。
(いざとなれば、この身を裂く)
大勢の山の民に囲まれる大王側の皆は一様に成す術なしとその場に尽す。
民の手には得物。何れも目を見張る凶刃であった。
このままでは万事休すと。
誰もが思う中で、彼女だけが別に思いを馳せていた。
『寳子よ。よく聞くが良い』
殿より聞いた昔話。
昌文君はまだ彼女が両の手で高く掲げる事の出来る頃、こんな話をしていた。
『お前の体に刻まれるもの。それは護りの力だ』
少女が自らの姿にまみえる度に、ただ悲しかった時のこと。
誰に聞いたのだろうとも思わなかった。
目前のその人は全てを知っていて、知ってくれていて、少女の全てだった。
しかし俄に信じ難いその話は、語る者の実を以て証明されるに至る。
『平地に生き、人らしき人に接する分には何ら問題はない。
・・問題は、地域とその種類にある』
天に近き者にほど厄と化す。
地に近き者をただ糧にして。
『護りの恩恵を最大限に与るには、文字通り身を切って行う必要がある。
他に斬られては只の徒労。―――――
己が決めた、己の意志で死に能う必要がある』
天は忌避し、地は侍る。
『お前は護る為に地を殺し、護る為に天にその身を捧げる。そうすればその力を享受する事ができる。
しかしこれには多くの糧を得る必要があり、未熟な体ですれば自身は疎か、周囲にも災厄が降りかかる』
護る為に生き、死ね。
その為に見極めよ。
『不必要に血を流す事のなき様にせよ。・・その為に、強くなれ。寳子』
あってはならぬ事だが。
秦国最大の窮地に陥ろうものならば、十二分に間に合うよう、身を賭しておけと。
そう、言っていた。
(殿・・ ・・・・父上―――――――――)
小さい頃はわからなかった言葉の意味を
次第に理解して、呑み下すにはそう時間はかからなかった。
今がこの時かと。
手に剣はない。奪う者に目を付ける。
気がかりといえば、未だ自身の未熟さ。
聞き及ぶ災厄というものの、自身の与り知らぬ不逞の存在だった。
(そこはどうにかやってくれよ。王の剣)
その役割は一元に非ず。
盾は剣に、自身の始末の夢を託していた。
縄を解き、民を足蹴にして佇む信に山界の王、楊端和は語りかける。
「バジオウノ報告ニアッタ通リ面白イ少年ダナ。サテ、次ハドウスル」
「別にどうもしねぇよ」
「何―――――――」
(信・・!)
信の言葉に今度は、血気盛んであった山の民共々が漠然と佇む。
民に初手を仕掛けようとしていた寳子は思い留まった。
「お前達が協力してくれないなら他を当たるだけだ!」
「ここから無事に下山できるとでも思っておるのか貴様っ!」
「だったら別に暴れてもいいけどよ!
・・あんま戦いたくねぇ奴もいるしなぁ」
見覚えのある青い仮面の男の隣。橙色の仮面の大男を見やる。
事情を知らぬ大多数がこれを呆気ととる。
この状況にあって、今更何が戦いたくないというのか。
「なぁ仮面のでっかいオッサン。簡単に言うとコイツ困ってんだよ。
人助けだと思って力貸してやれよ、後ででっかく恩が返ってくるかもだぜっ!」
政を指さし、山の王相手にまるで隣人にでも話す体の信。
貂と壁は死を覚悟する。
政と寳子は未だと待った。
「愚か者がっ!貴様らは祖先の無念を晴らすため八つ裂きに」
「無念無念ってウッセーーーんだよ!!!
だいたい一番の無念は夢見たものが幻に終わったって事だろうがっ!!」
場の空気が変わる。
恐らくはここに会する者たち全てが感じ得る出来事だった。
待ちに徹した二名ほどが、長きに渡り膠着した怨嗟の刻が進む実感を得る。
「もしお前らが!本気で死んだ奴らの事を想うなら!!
奴らの見た夢を現実のものに変えてやれよ!!!」
見えずに終わった夢の続きを、今度こそ見よと、剣は掲げた。
場の空気が完全に転じる。
それは問答の決した事を告げた。
変じた空気にやっと気付き、狼狽える信。
見兼ねた王は最上の褒め言葉というものを、いつもの通りで以てして掛ける。
「・・お前にしては上出来だ」
「はい。労も報われるというものです」
「だからお前ら何なんだよその遠まわしにバカにした感じな」
それに乗る寳子も同罪だと信は咎めた。
一変した場は静閑とした中にも、穏やかな刻が滲んでいた。
夢見た世。
平地と山の者とが住まう世。
隔たりのない、外郭を取り払った広き夢――――――
請い止まなかったそれぞれの大望というものが描かれた時、
そこには最早、怨嗟の念は過去のものとなっていた。
「楊端和よ。俺は今は何の力もない弱き王だ。
だが中華統一は空虚な世迷言ではない。確かな俺の道だ。
共に行かば、広大な国の広がりを見るぞ。―――――俺に力を貸してくれ」
差し伸べたそれは国であり、王自身であった。
「秦王ヨ。一ツ質問ガアル」
そしてそれに、山界は力強く応える。
「我ラハ手荒イ。玉座奪還ノ際、王宮ハ血ノ海ニナルヤモ知レンガ、ソレデモイイカ」
皆が騒めく。否とも応とも。
しかし圧倒的に後者が勝る事は、この場に在る殆どが知る所に寄る。
秦王贏政の呼び掛けに、山界の王、楊端和はここに受諾した。
「血の海など今更。そうやって奪われた、何の躊躇があろうか」
「王よ!ならんぞ!!我らの祖せ「黙レ!!古キ怨念ノ所在ハ貴様ラノ口ヨリ出デルモノ!二度ト語ルデナイワ!!」
王の決断に臣の言はもはや意味を成さない。
仮面を脱いだ楊端和は、あらんばかりの声を張り上げて号令を上げた。
「皆の者よく聞け!山界の王、楊端和は秦王贏政と強固な盟をここに結ぶ!!」
「おっ・・女だっ・・!」
(女・・こ、この顔はっ・・!)
寳子は恐る恐る後方を見やる。
壁の瞳には輝きが宿っていた。
確実に好みに当たったという恍惚の表情がそこにあった。
案の定の景色に寳子は至極まともに、何事もなかった体で密やかに前を向いた。
「これより不当に追われた秦王の玉座を奪還しに行く!!
周囲の山々からも兵を集めよ!全軍!死闘の覚悟で出陣準備っ!!
目指すは秦国、王都咸陽なり!!」
ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!
民が雄叫びを上げる。
罪人は永い目で見て冤罪とまではいかないが、今この先において潔白と自由を勝ち取った。
政と貂は民に半ば押される様にして広間を出、王城を出る。
信と寳子も広間から出ようとした際、彼女は彼に声を掛けた。
「・・お前に救われたな」
「あ?そうなのか?・・へっ、感謝しろよー!」
調子のいい信に小言は出ない。
寳子はただ飛び出していく信の背を見詰めた。
(安易に身を裂こうとしたこと。改めねばならんな)
道がある。道理がある。
それを訴えずして何が護れるものか。
(この身一つを呈して意識もなく、その場限りに終わろうなどと愚の骨頂)
しかも王路の過程において、実に早計であったと寳子は恥じ入る。
王の盾などと、笑わせる。
そう自嘲して。
(この身はまだまだ多くを『護る』必要があるんだ。
まだ死ねない。死んでなるものか。――――――能わないんだ、こんな所じゃ)
誓いを新たにする寳子。
そんな彼女の背後に何者かが忍び寄る。
気を感じて振り返る寳子の目の前に、山の王、楊端和はそこにいた。
拝手の体で道を開き、脇に控える寳子は俄に焦る。
高い体躯に気持ち圧されるが、これも表には出さない。
「此度の盟約、秦にとっても山界にとっても、史上に残る栄聞と相成りましょう」
しかしそんな彼女の言葉を振り切って、山の王は彼女を一瞥すると言い放った。
「―――――――貴様
呪われているな」
焦りは潜み、厭に冴えが働く。
山の王の言に、寳子は答えない。
「山の民には極力近付くな。・・私にもな。息苦しくて堪らん。
壁を取り払うといっても、お前の壁は訳が違う。許せよ」
「承知しております」
踵を返し、皆と合流を図る寳子。
その背に彼の声だけが語りかけ、脳裏に木霊する。
「地に在れば在るほどに高まり、天に向かえば向かう程に威を為す。
――――――その体。数多に結われ、もはや新たな呪と化すか。
よく耐えられたものだ。生き延び、人を恨まぬとはいじらしい」
足が止まる。
止める気はなかった。
振り返らない。
振り返る気はなかった。
「山の王。・・この身は足りぬ人の身なればこそ。
―――――――故に、これ以上の言は余りある」
踏み入るな、と。
少女は山界の女王に、鋭く護りの一線を引いた。
「フッ・・ならば言うまい。しかしな、
人を殺せば殺すほど、血を浴びれば浴びる程にその体は意味を成すぞ。
励めよ『人の子』。天さえ忌避する障の者よ」
反応は、一言のみ。
「一つだけお伝えしておきましょう」
おそらく今後、こうして話す事もないだろうと思えばこそ。
「私は人を愛でこそすれ、恨む事は決してない」
天に近きは猛毒であっても
そうでない居場所を作ってくれる人々がいる。
地に屠る我在って、それでも必要としてくれる国と多くの夢がある。
彼女の目に寄せられるそれは決して沁み垂れたものではなく
決意を新たにした眩いばかりの鋭い眼光。
女王はしっかりと重みを背負う少女の後ろ姿を目に焼き付ける。
そして餞別と言わんばかりに節介を投げて寄越した。
「『よしみ』で教えておいてやろう。
自らの毒にやられぬ事だ。解毒の者を置いて損はない」
「・・・・」
「毒を消し、消し続け。また、打ち勝つ事の出来る者をな」
言う意味はわかる。
しかし言葉の意味を寳子はこの時、深くは知り得ていなかった。
「助言、痛み入ります」
駆けて王城を出る寳子。
皆が馬を駆り出す最中に混じり、
遅れを問われた彼女は何事もないと皆に平然と振る舞った。
馬に乗る組み合わせが決定する。
政と貂、信と寳子に決まり、前組はともかく後組は互いに苦渋を露にして見やった。
しかし思い付いたとばかりに手を合わせる寳子の様は朗らかだ。
未だ苦い顔の信に提案する彼女は別段変わりない。
そんな彼女の姿を、たった一人だけが思い煩うようにして見詰めていた。
今は昔。
国と同じく、それ以上に部族はより数を成していた。
(その部族は古来より祭祀など天に対する儀に対し、呪詛の方面で台頭した。
―――――戦より狩猟の域で保ち、騎馬に定評のある者達だった)
山界の王は双眸を伏せると俯き、馳せる。
父王の言を手繰る。
口伝のみで、実際に垣間見る事は未だかつてなかった。
(品の売買など平地と交わる生活も営んでいた為に部族そのものが半端者として見られていた。
余りにも凶悪な『力』を前に平地は取引以外、他部族は根本から関わらないでいた。
血が濃くあったのもこれに起因する。呪としての毒性を護り、強める為に他を撥ねたのだ)
稀に他と関係を持つ者が出たが、親子共に例外なく沙汰された。
沙汰とは所謂、呪そのものとして扱われる事だ。
平地は凡として。一族は言うまでもなく。
(国を相手取り人から隊、軍から国、地域の規模に至るまで。彼らは呪詛を掛ける事を生業としていた。
殷の刻に盛んであったそれは末に濃く生き続け、平地の一部の国や者以外には活動はおろか存在さえ黙殺されていた)
彼らにとっての死とはただの死ではない。
肉は燃やされるのではなく、主に『埋められる』。
(生まれて直ぐに施される呪は年を重ねると共に増やされ、そのぶん強大さを増した。
寿命で死ぬ頃には体中にその呪が在るのだという。
それこそが『呪そのもの』。通常呪詛には物から動物、人を用いて行われるが―――――)
弔いがない。
この一族の肉は毒と見れば猛毒。
呪にあっては上物と言わざるを得ない程の憚りなきものだった。
海に流せば海を。地に埋めれば地を。
生きたまま殺せば天をも侵す屍肉となった。
楊端和は醒めるようにして重く瞼を開ける。
何という事はない。
誰に会ったからと言う訳でもない。
山界の王はただ、昔話を思い出していただけだった。
(体の呪について確か、例外があった筈だが・・)
根城を抜け、荒い風を一身に纏う。
山の民並びに秦王共は準備万端と馬に跨り待機していた。
(今はその者達の存在は全てが謎と制され、また抹消されている。
消えて久しいが、散り、尚も残党が残っていたとするならば)
通り様に誰彼を見やる。
―――――紅紫紺の瞳のその者は、女王の動きそのままに横目に見据えていた。
(それは血と毒と呪を象徴するのだという)
この価値に気付く者は少ない。
山民において知り得るは、王族のみ。
(呪を重ねて掛けるには不足ない)
血の濃い者には、相応の物で以てして。
赤髪は一族の業の深さ故、死んでも抜けきらぬものと伝わった。
これ以上の適者はいない。
呪い殺し、殺される存在はそういない。
(自身、それまでの答えには達していないか――――――)
女王は悠々と愛馬に跨ると号令を放つ。
同時に我先にと先陣を切った。
(また、達する事もないだろう)
知り得るは寡少。
伝えるつもりは、ない。
部族の名を焉(えん)族。
蔑の意味を込めて死焉とも呼ばれた。
これら記憶はもはや、この代までの事と決する。
そして秦国兵、秦人寳子の名を楊端和は心に留めた。
2013 0227