明朝。
場に未だ人はない。
葉擦れの音に耳を傾ける中、宮の一室においてそれは憚られる。
凡そ二つの声が響く。
政と寳子は面と向き合って語りに入っていた。
片や意気の纏った真摯の体。
片や長く煩わしさを抱える体。
共に在る二人は各体にあって落差を滲ませていた。
「・・・という者なのです。どうかご留意下さいませ」
何をせずとも耳には入る。
大王贏政は眉間に皺を寄せていた。
「宜しいですか」
「取り敢えずはな」
辟易と。
その理由は目前にある。
しかし彼女は更に追い打ちとばかりに、従者として尤もたる進言を遣わせた。
「妻を娶り、子を持つ事も大王の大事な勤め。
王都を取り戻せば決して無下には出来ぬ事案なのですよ?」
良い話があると聞いてみれば。
何の事はない。
只の報せ。只の然とした連絡の類。
それが殊に良い物だと、彼女が持って寄越しただけの事だった。
「わかっている。それにそう何人も顔も知らぬ宮女の名を出された所で、今はどうしようもないだろう」
席を立ち、その場を去りたい衝動に駆られる政。
王都にない内からこの堅苦しさ。
以前から提言された分を合わせて既に八人目。
あの数から厳選を重ねたであろう事は窺い知れる。
しかし今日この日、作戦の前にあって何の嫌味かと問うてみたい。
そう眼で以て睨みを利かせてはみるものの、頑として質にも満たぬと題に上る事はなかった。
「向という宮女は信頼できます。気遣いもでき、素直です。
あの者であれば大王様に心から尽くし誠心誠意の内に添い遂げ、寛大な愛を以て御子をお守りする事でしょう」
推しも推す。
今回ばかりは殊に殊更とその弁は熱い。
「陽は士族の女故か、あの気質では無謀に過ぎ命を落とす危険性があります。
彼女達は仲が良い。向の側女としてであれば優秀に足る存在となり得るでしょう」彼女には悪いのですが・・
「わかった。・・わかったから、もう言うな」
「ご留意下さい。次代を担う大事なればこそ」
「・・・・・・」
気圧されるでもないが政は小さく溜息を吐くと、目前にある水を呷り不満と共に奥に流した。
「お前の言は信用している。
―――――――直に後宮に関わっていたんだ。何より詳しいだろう」
「・・まだ後宮に行くか仕官するかで迷っていた時期ですね」
以前。一年と少し前までの話である。
少女寳子の身は後宮にもあった。
彼女は昌文君の子として在り、七の頃より礼儀作法等を学ぶという体でその場に属していた。
宮女の世話係という名目のもので、頻繁にではないが足を運んでいたのである。
周囲の者達もゆくゆくは後宮に入るものと思っていた。
それを讃する者もいれば、政(まつりごと)の一手と侮蔑を露にする者もいた。
しかし昌文君と寳子は共に明け透けと意に介さなかった。
双方、考えは別の所にあった故の事だった。
彼女は言わずもがな。
願いは仕官の側に傾いていたが、昌文君の勧めからこれを受けた。
武以外の倣いというものを身に付けて内外に見聞を広めるに至る。
一方で昌文君、彼の者の狙いは内外の異の享受。
これは刻と共に自ずと達せられたが、
果たしてそれだけが目的であったのかと言えば甚だ疑問である、とは内の弁である。
「あの頃は中々に鍛えられました」
彼女は微笑むが肩を竦めるその姿には含みがある。
政はこれを認めると苦笑いを呈した。
「王宮に顔を出し、後宮で使われ。
・・昌文君の元や王騎、他軍の遠征についていく時の方が生き生きとしていたな」
「でも殿が文官となり、場を王宮に移されて・・。
贏政さまが咸陽に御出でになられてからというもの、私も随分内に気安く在れたように思います」
労としては内外問わず厳しいものだった。
しかし苦の付く内に比べれば、多くの英傑と共に在れた外場は寳子にとって僥倖の至り。
ほんの些細な用立ても過大な痛手も、今この時を通し彼女にとって全て糧となった。
比べるべくもない中にあって、政と昌文君の存在はそれを釣り合せるに足るものであったと彼女は言う。
目前の少女を見やる政。
王都を脱出する少し前に離れたきり、こうしてよくよく見える事もなかった。
日数にして然程経ってはいない。
しかし眼前に侍るその者の纏う気が、以前とは違うと否応もなく訴える。
不意に彼女に、よく知る幼子の影が重なる。
久しいと政は少し口の端をあげて笑った。
「お前と出会ってもう五年か」
「・・そうですね。十になって暫くの頃でしたか」
話の転換に寳子も懐想する。
二人になるとどうしても過去が首を擡げると、これをまた二人して笑った。
「お前は遠征から帰ってきて強引に 着 飾 ら れ
た という体で姿を現したな。・・顔に泥をつけて」
「きっ、急事だったのです何もかもっ!
報せは受けていましたが内密と子細は伝えられず・・
しかも離宮にあって、どこぞの貴族かと思えば目前に御子なんて!・・謀りもいい所でした」
過去にあって不平と宣う。
寳子は衣の着崩れに、顔の泥と合わせて落ちた昌文君の雷を思い出し青ざめる。
今となっては信じられない体と青から一転、今度は憤りながら恥と紅潮した。
それを相変わらず忙しないと、政は穏やかに見詰めていた。
「『贏政さま』の呼びもその頃からだな」
「御名を拝し、嬉しくてつい口にしてしまって・・そ、それでまた殿の雷(略
で、でもっ!贏政さまが二人の時は許すと仰って下さったから助かったんですよね」
焦げる所でした、と。
乾いた笑いを見せる彼女が若干涙目なのは気のせいだろう。
「しかしそんな昌文君があんな大胆な気遣いを見せるとはな。
夜にお前が忍びで会いに来た時はさすがに驚いた」
「あれは私も驚きました!殿が贏政さまの話し相手になれと言って、
私で良いものかと思案して入ったら剣を突きつけられるんですから!」
てっきり話を合わせているものと思っていた寳子は、扉の前に立ってすぐ命の危機に瀕した。
後に聞けば知るのは昌文君その人とその息の掛かった衛兵のみだという。
これには昌文君の成す事は唯一と慕い敬う彼女も引いたという。
「俺に言えば即却下されると思ったんだろう」
「言い得て妙です」
だがあんまりと、彼女の目は遠く想い馳せた。
結局その時は政の機転と寳子の必死の説明で難を逃れたが、双方どこか腑に落ちぬ体であった。
「贏政さまは易々と動き回る事が出来ませんでしたし、王宮を歩けばいらぬ者が列を成して付いてきましたから」
「次期王として連れて来られた者に媚び諂う姿は文官として常套。小物とわかるだけ安全だった」
ただ只管に面倒ではあった、と政は付け加える。
「お前の話は面白かった。あと王都の様子を知るのにこれ以上はなかったからな」
「そ、そうですか?(ロクなこと言ってなかったような・・)」
「思えばこの頃から、お前とは気安く話せるようになった気がする」
「そう言って頂けると嬉しいです。あ!ちょっとした言葉遊びで殿をからかったりしましたね」二人で
「ああ、懐かしいな。
・・お前がいなければ、もっと然としていただろうな。俺は」
王の器を前にして。
王然と求め求められ。
次期王として淡々とその場に在ったのだろう、というもう一つの夢の話。
「寝そべって簡をいくつも広げて」
「ああだこうだと語って。寝落ちて起きないままのお前には少し焦った」
「ごく近場まで忍んで降りて、丈のしっかりした草を手に打ち合って」
「音を気にするにしても、もっとやりようがあっただろうにな」
くすくすと笑う。
思い出して笑って、
えも言われぬ虚無を払うようにして。
「疲れて寝そべって」
「空を見た」
「話してたら贏政さま、月を見て黙るから・・」
だからかも知れない。
いつしか月が、眩しすぎる程に見え辛くなったのは。
「なんだか置いていかれたみたいで、その時は――――――」
次いで彼女は語らない。
形の見えかけた答を、まるで朧と雲に隠す。
そしてまた彼女は『隠れた』と、心底に落とすのだろう。
「あの時、あの頃の夜は俺にとって唯一、肩肘を張らずにいられた」
政の言葉に傍とする寳子。
否、言葉だけではなかった。
机上にある彼女の手に彼の手が添えられていた。
手を伝う熱さも感触も。
辛み嘆き、そして希望も。
全て。
―――――苦い想いを、思い出す。
十三の頃。
王位に就いた直ぐの頃。
弱王でしかいられなかった者と
剣を携える事を覚悟した者。
彼らが二人で決断した時の事を。
宣誓の前に彼の者は言った。
政が大王となった時を見計らっての事かは知れない。
『またこの言葉を言う羽目になろうとはな』
事情は少し違うが。
昌文君はそう言って寳子に向き合った。
しかしその面持ちは険しいものではない。
『寳子。お前は女だ。
―――――剣を迎えずとも、それもまた一つの道だろう』
彼女が武官となって戦場に出る事は彼の望む所でもあった。
それを蹴ってまで勧める意義。
それはただ父であろうとする親の姿。
また忠臣であろうとする従者のそれだった。
これまでの道を否定する言。
これまでの血と汗を如何とする旨か。
憤ると思われた少女の反応はしかし、自身においても意外なものだった。
正式に剣を賜った訳ではない。
少女には未だ選択の余地があった。
幾許の虚脱と、そして
『・・・・ありがとうございます、殿』
拒否の言葉はなかった。
しかしそれが答えという訳でもなかった。
最終的に彼の方に相談して決めよう。
その答え如何で、後宮に身を置くかどうか決めよう。
そう思っての、後の夜の事だった。
「私もあの日、あの時。貴方の御傍にいられた事を誇りに思います」
「・・・・」
「あの日を境に私は兵となり盾となりました。
身を挺する事が出来る。・・これ以上の事はありません」
その言葉を聞き、政は音もなく彼女の手を放す。
何かを恐れた事に間違いはない。
「・・そこまで言うのならもう止めろ。
『お前でない誰か』が、もう後宮にいる必要はない」
綱渡りの状態の彼女に釘を刺す。
口を噤む。
寳子は首を横に振った。
―――――在って無い者。
しかし内情を知っておくには、これ以上はないと自負している。
そう語るかのように。
それより、と。
寳子は昨晩の作戦に関して伺いを立てると、政は会議の子細を語った。
昌文君の咸陽に送った諜報員により王都の様が大きく変わったとの報せ。
彼の死が触れ回り、竭氏の注意は呂氏に移ったこと。
竭氏八万の兵が咸陽に集結、対し山の民三千でこれに向かう。
一見して不利だが策を施すには余りあると政は強気に語り、
出発前に造ってもらう物があると提言した。
「味方として咸陽に潜り込む・・!?」
「そうすれば数の差は問題ではなくなる」
黙る寳子の次の言葉を待つ。
今の彼女は疑を持っているのではない。
既に作戦の様を模索しているのだと政はわかっていた。
「・・それしかありませんね。
刻もなく、数を埋めて向かうにはこれ以外に方法がないくらいに」
「余程奇を衒うやり方を以てしても、八万と三千は難いからな。
籠城でもないのだから、この数の解決策は必至だった」
そして至るに、急造を以てすると。
「策はそれとして、潜り込む為には俺達も山の民のように擬装する必要がある」
「竭氏が呂氏を視野に入れたとなれば、山民族の手は借りたい。
我々目先の『山の民』が三千であっても、仲間にすれば楊端和制する山界が手に入るも同義」
「あの権に塗れた竭氏がこれを逃そう筈もない」
「同感です。・・そしてこれから扮するに必要な物を作るという事ですね」
頷く。
さすが、話が早いと共に確信を得た。
「あの、大王。一つ宜しいですか」
「何だ」
「―――――――私と貂は、その作業を離れても宜しいでしょうか」
「?何か用事でもあるのか」
急を要する事とは彼女も承知だろう。
その上での進言。何事かと政は些か面食らう。
「新たに集まった者達はまだマシなのですが、
それ以前に合流した兵達は未だ憔悴しきっています」
「確かに、困憊の体が見て取れるな」
「刻がない事はわかっていますが、この先を考えると
逆に今この刻しか纏まった時間が無いのも事実です」
成る程と。
政が寳子の言いたい事に気付く頃には、答が彼女の口から出ていた。
「『薬』を取りに行っても宜しいでしょうか」それで貂の手を借りたいのです
「・・煎じたりと手間がいるのではないのか」貂は構わんが
「比較的即効性のあるもの故、朝餉の代わりにもご用意致します」
「?ああ。わかった。しかし迅速にな」
「・・・採れるかな」
応と拝手すると寳子は席を立つ。
その体はどこか浮ついたように明るい。
疑問を抱く大王を余所に駆けだそうとする彼女を彼は引き留める。
「寳子」
大王の声に返事をする。
振り返り合せた姿は、合致しない。
「――――――――もう『お前』は、後宮に身を置く気はないのだな」
次に面食らうのは彼女の方だった。
食らって出た言葉は
「はい」
応と。
ただ然とする。
「私は剣を持ち、貴方を・・国を護る盾となります。大王」
立てた誓いを翳す。
それは両者にとって果てしなく重い。
娶る事が出来ない、という訳ではない。
ただ戦場に出て、且つ指揮官。
将軍という位にまでなれば手元に置く事は至難。
彼女がその位置まで達するかは別にして。
しかしこれは体面の事である。
無理にでもという手前ならこれ以上早い話はない。
ただ彼女の固い意志を無下にし、囲えばそれこそ死に体。
ひいては二人の誓いを反故にする事になる。
正式な機関として在る後宮の不信を買う事にも繋がり、不安要素は過大と容易に予測できる。
若く王に据えられ、権なきは彼の所為ではない。
しかし彼にとって抗えぬものであったそれは
少なからず影を落とし、引け目となっていた。
彼女の存在を心安く置く事が出来るとすればそれは
他国より攻撃を受けない。
兵を駆り出さずに済む世。
己が力が他に行き届くまでになった頃合い。
一体いつの話か。
故に王は言った。
「わかった。
―――――飽く迄人のものにならず、その生を戦場に費やすというのであれば」
「贏政さま・・?」
これも然と、王は兵に言い放った。
「お前は死んでも俺に仕え続けろ。寳子」
この時代にくれてやる。
見え、語るこの者はくれてやる。
しかし永久は己のものであると宣言する。
王の言葉に少女は答えない。
―――――答えられない。
何故か。
その心境は如何許りか。
(もしこの先・・ ・・共に歩める刻があるとすれば)
きっと遠く長い、末のこと。
世さえ憚るだろうと政は心底に想いを落とした。
「あっ寳子!おはよー!」
「お、おはよう・・貂」
反応の鈍い寳子に貂は怪訝に顔を覗き込む。
彼女はこれを嫋やかに躱した。
「そ、そうだ!貂にある手伝いをして欲しくて。
大きな布と・・あと弓と、火種と枯れ木と・・剣。軽いの持ってくれる?」
「あれ?でもオレ仮面作らないと・・」
「大王に許可はとってあるから、行こう!」
何が何やらと事情が呑み込めぬままの貂を引き摺って行く。
冷や汗を掻きながらも既に諦観の念から、貂の纏うそれはもはや熟練の気であった。
歩いてほんの近場での出来事。
不意に横目で見る姿は見知らぬ者のそれではない。
青い仮面に荘厳を纏う彼を、貂は放ってはおかなかった。
「あ。あれ隊長だ!」
何事と駆け寄る。
それを寳子は含みのある体で緩と追いかけた。
二人の影に気付いたバジオウは言もなく向かう。
得物こそ手にはしないが、そこには幾許の殺気が漂っていた。
怯み、寳子の背に隠れる貂に代わり、彼女がその者に問いかける。
恐らく嫌だろうが、と念頭に置いて控え目に。
山の王の側近であろう剛の者を前にして。
「確かバジオウ、さん。でしたか。こんな所で何を?皆は―――――」
「・・ドコダ」
「え」
「ドコダ」
皆は何処にいるかと、目前は問うた。
それを拒絶ととった寳子は、極力言を交わさぬようにと道なりに指をさす。
この道を真っ直ぐ、と。
ただ真直ぐと伝える。
知るとバジオウは特に言葉もなく指さす方へと向かった。
淡々と歩き、向かう。
淡々と向かい、そして言った。
「・・『サン』ハ、イラナイ」
「?さん・・?」
鈍いと。
隊長は足を止め、振り返らずに言った。
「バジオウ、ダ。呪ノ者ヨ」
それだけを言うと再び歩き出す。
『ジュ』を音としてしか捉えない貂は疑問符を浮かべ首を傾げる。
山の民は歓迎はしないが、義理は立てた様だった。
「呼び捨てを許してもらえて有難いが、私は『寳子』と言うんだ。バジオウ」
よろしく、とは言えなかった。
何事もなく、何も言わず去って行く。
その彼の姿を二人して見送った。
「こんな中途半端な所で何の用だったのかな?隊長」
「山の民が森に迷う筈もないしね」しかもこんな近くで
「そんなの当たり前だろ寳子ー!本人に言ったらぜってー怒るぜっ!」
彼女達は言わないに決まってる、と笑いながら。
一方、指し示された先をただ真直ぐに歩きながら、彼の者バジオウは盛大なクシャミをした。
森を掻き分け暫くすると、見覚えのある独特の風貌を目にする。
二度と見えたくはなかった者の姿はしかし、横たわり身動ぎさえしない。
「うわっ!ムタだ・・ ・・死んでる」
「貂、余りまじまじと見るものじゃない」
「あーあ。でもコイツの使ってた吹き矢があれば、オレもちっとは役に立てたかも」
「そんな事は気にしないでいいの。貂は今後、戦場には立たないでしょ?」
「うん・・その予定。政に金せびって贅沢に暮らそうかと・・」
「なら余計にね。貂は王都奪還後は幸せに暮らせばそれでいい。
結婚して、子を産んで、次代を担う力になる。それがきっと、安全に役立つ方法だと思う」
寳子の言葉に後ずさる貂。
そんな貂に寳子は首を傾げる。
「けっ、結婚て・・!誰が!!
そんなら寳子だってしろよ!オレに言った以上はな!!」
紅潮しつつ物凄い剣幕で捲し立てる彼女に寳子は俯いた。
「私は、駄目だよ」
言って首元を撫でる。
疑を向ける貂にしかし寳子は答えない。
向けられる当たりの強い質疑に、彼女は無言で歩を進めた。
「何でだよ!戦に出る女が結婚しちゃいけない理由なんてないだろっ!?」
「・・ないよ」
「なら!」
「結婚したら大概が内に籠らないといけなくなる。
・・子ができたら少なくとも十月十日は動けない。体力だって低下する・・必然的に無理が生じる」
それにこんな、戦場に出れば血みどろ。普段から得物を振るう跳ねっ返り。伎芸など女らしい取り柄もない。
貰い手なんて―――――
・・一つはあるか、と。
期待もせぬ体で、口には出さず。
淡々とする目前に貂は怒りと、そして相応の悲しみを抱く。
知らず涙を湛える彼女に寳子は息を呑んだ。
「それも別に絶対じゃないだろぉ・・?戦に出たっていーじゃん。
オレが子供なら両親が戦場に出て戦って、って・・まぁ、心配は心配だけど。
あと相手が文官でも内と外でいいと思う。何か逆な感じだけど」
嬉しいと思う。何かカッコいーし、と。
貂は寳子の為にいつの間にか涙を流していた。
曰く『勝手に理由付けて無理に諦めてるのが腹立たしい』。
諦めたくて諦めんじゃないなら望めと貂は言った。
だからこれは憤怒の涙だと、厭々と払うその姿に寳子は不謹慎にも笑ってしまった。
「・・私は自らを秦国のものだと豪語している。いつ死んだって、武人として死に場所が決められたら僥倖だと。
男はそれでいいだろう。子も一人で生き抜くに足る年であるなら問題ない。
しかし幼子には親が、父がいなければ母親が要る。―――――その母親も戦場に出て命を落としたら」
寳子―――――彼女だからこそ、この悩みは根深い。
天涯孤独の身の貂は押し黙る。
この時世、親がいない子供は珍しくない。
しかし。
だからこそ彼女は口を噤んだ。
「中には将となっても婚姻して子を生した人物もいる。
だが私にはそこまで開き直る気概がない。
護るものの為に捨てる命に、揺れが生じてしまうだろう」
為されるならまだ道理が立つ。
しかし己が手に持つ刃で以てするならば、途端にその意義は崩れる。
「私のような僥倖に恵まれる者は、一握りだっていないんだ」
寳子に元の親の記憶はない。
縋っている訳でもない。
彼女にとってこの世の親とは唯一無二。
それを幸と感じるからこそ
自身は恵まれていただけの、ともすれば只の呪に化していた事を知るからこそ留まり憚る。
契り、血肉を以てした存在を悲しませるような真似は出来ない。
敢えて選択するには、様々に立場を置き過ぎたと塞ぎ込んだ。
「こんな思考の女では私を選んでくれた者へも、生まれた子にも申し訳が立たない。
存亡の危機と已むに已まれぬ理由から、ひいてはそれを護る為であるならまだしも。
・・子には親が必要だと思っている。殿の存在は感謝してもしきれない。・・それにこの身体じゃ」
「身体・・?」
微動だにせず。
ただ、頷く。
疑もある。
好奇が無いと言えば嘘になる。
しかしそれ以上を口にする事のない彼女を前に、貂が詮索する事はなかった。
「わかった!」
目的地近く。
陣を取り寳子は持っていた道具を広げ用途別に分ける。
その中で唐突に貂は声を上げた。
「だったら政が全部の国治めたら!戦がなくなればいーんだ!」
「・・それまでに何年、何十年かかるかな」
貂の渾身の妙案と言わんばかりの体に即座に斬り込む寳子。
さすが秦兵、昌文君の子は容赦を知らない。
「だーっ!もおおっ!!だったらつべこべ考えずに好き合ったらとっとと結婚してガキ産んで!
戦場に立っても絶対死ななきゃいいだけの話だろ!?寳子!!!」
こっちにしろ!!
辛抱堪らんと指差された寳子は枯れ木に火を点ける最中だった。
呆気と手を止め、二人は見合う。
これは世話好きで節介焼きだと、寳子が真っ先に笑った。
「・・これは器量深く聡い者か、危なっかしい似た者同士かな」
「は!?何か言ったかっ!!?」
「ううん。何でもない」
言って作業を進め、指示を出す寳子。
未だ微笑む彼女に貂は不信感を煽られる。
「好きになったら、か」
その不信も彼女の一言で吹き飛び、固唾を呑む。
それを寳子は『しょーもない』と一蹴し行動を促した。
(私はやっぱり好き、だったんだよね)
その人の右腕になって。
自身が将軍になれなくてもいいから
その人の、大将軍の右腕になって護れたならそれは。
(結局話したい事って何だったの・・漂)
相手の気持ちも
自分の気持ちも
確かめるつもりだった、その約束を思い出す。
(でもこの想いは私だけの都合だったのかも知れない・・)
もしあのまま生きて再会できたとして。
自分が期待する以外の、
他愛もない事を言われていたのかも知れない。
独り善がりの気持ちであった可能性。
今となってはもう、知る由もない。
「お!帰ってきたか。お前らの仮面は俺が―――――・・って寳子は?」
「・・・何か、調理するって」
「ふーん。って何だ貂、お前やつれてんぞ」
気軽に声を掛ける信に、貂はこれまでの経緯を話した。
煙で燻しおびき出すまでは恐々ながら作業をこなしていた。
しかし這い出る無数のそれに貂は一目散に逃げ出したという武勇伝。
「蜂だよ蜂っ!!蜂の巣!!!
すげーんだぜっていうか酷いんだぜ!!煙やったら蜂がドバァーってさぁ!!」
「ぶわっはっは!!んで逃げたってか!貂お前カッコわりーなぁーー!!」
「蓑着てるから大丈夫って!バッカ手と足出てんだろってさあ!!」
何故かわざわざ梟の被り物を装着し、身振り手振りで熱く説明する貂。
しかし珍妙過ぎるその体に信は腹を抱えて笑うしかない。
「ひー!ハラいてー!!んでもお前全然刺されてねーじゃんか」
「・・・出てくる蜂、全部寳子が剣で斬ってた」
「は!?」
「斬ってた」
貂の強い口調に最早応とする術しか持ち合わせない信。
言の儘であると、この事に関しては貂は佇み閑として言った。
曰く『高所にあって煙で燻され警戒し出てくるが、目標の定まらない蜂の動きは鈍く向かってきても直線的。
バラけても他の蜂の誘導を頼る為に薙ぐ事自体は簡単』との事である。
「素人は真似するなって・・!」おおくわばら〜!
「誰がするか」お前らがバカか
小刻みに震え語る貂に信は間髪入れずに一蹴する。
信の小言を聞き逃さずにいた貂は彼を足蹴にし、一方は手刀をくらわせた。
「あと煙でフラついて飛んでる蜂は両手で叩いてた」飛んでたら針出さないとかって
「な、なんだそれ・・」ムチャだろ
「最後に持ってた弓で巣を落として終わり。布で包んで持って帰ってきた」
「はー、ご苦労なこった」
今頃顔ボコボコなんじゃねーのアイツ。
蜂に刺されてと、そんな信の疑問に貂は問題ないと親指を立てた。
暫くして場が俄に騒がしくなる。
と言っても一角。消耗する兵の一団にその姿はあった。
寳子は疲弊した兵に蜂蜜水と調味した蜂の子を振る舞う。
手際よく配り終えると、周囲の他兵の一人づつに声をかけまた別に配り始めた。
受け取った飲み物を口にすると誰もが顔を綻ばせる。
最高の甘味を冠する金色の薬は傷を負う者、状況に苦心する者、憂う者を選ばず一服を与えた。
「いやー!寳子様の蜂の子料理は絶品だぜーー!!」
「この場に在って、懐かしく胸打たれます」
「介殻、介良。持ち上げすぎだ」塩ふって炒めただけだ。
だから兄弟じゃ(略
特に触れられていないにも関わらず二人して反応する。
言いたいだけか。そう寳子は淡々と一刀に伏した。
そんななか他の一兵が歩み寄る。
「ありがとうございます寳子様、生き返ります」
「お前達の分は薄いだろう。疲弊してる兵を優先している、すまないな」
とんでもない、と言葉を掛けた兵は手にある器を落としそうになるほど動じ否定する。
可笑しく笑うとその兵に王と殿と副長の分と言って、器を三つ持たせ送った。
「おらーー!!信っ!!何なんだこの仮面わーーーっっ!!」
「何だよ力作なんだぞっ!!作ってもらって文句言うなっ!!」
寳子の方に一服する暇もなく次なる嵐が迫る。
一息吐く頃には貂が寳子の背に回り匿えとの体を醸す。
「よォ寳子。おら、お前のも作ってやったぜ?」
至ってにこやかに差し出されるそれを見て寳子は固まった。
まるで背景に戦慄きの稲妻が迸るが如く。
それを手にし、まじまじと見る彼女は次第に青ざめていった。
「・・な、何故こんな嘆きの表情なんだ信・・!」
「渾身なんだよ・・」
「いや。信コラ。寳子もフツーに答えなくていいから」マジメかっ!
嘆きの仮面を手に憚られる彼女に、おずおずと別の仮面を差し出す兵が一人と数名。
「寳子様の分は我々が作り直しましたので・・よろしければこれを」
「なに勝手な事やってんだよこのやろおおっっ!!」
怒号を撒く信を余所に新たな面を見やる寳子。
手渡されたそれは蔓と花をあしらった、素朴でしかし女子の心を擽るに足る作りの物だった。
「あ、可愛い・・」
―――――深。
刻が止まるとはこの事と貂は思った。
信は聞いていなかったのか疑問符を浮かべたまま取り敢えずと止まる。
周囲の変わる空気を感じ取った寳子は、咳払いをするとスタスタと逃げる様に宮へ帰っていった。
けんもほろろなその態度に一同は項垂れ感じ入る。
年の行く老年に関しては涙する程だった。
昌文君の私兵皆は寳子の兵然とするそれを、飽くまで強いている事と既に汲み取っていた。
(そうだった・・寳子様、カワイイものキレイもの好きだもんな・・花とか)ほろほろ
(やっぱ女の子なんだなぁ)戈ブン回すけど
(女の子なんだよなぁ)すんごい回すけど
にやけ顔で寳子の去った跡を見やる兵達。
しかしそこで思わぬ伏兵に出くわした。
付き添いのその人物は実にばつが悪いと目を泳がせる。
その体、頑躯にて厳顔。
手に持った器の中身が飛び散る程に意気や良し。
聳え立つ伏兵、昌文君の鋭い眼光に射抜かれると皆一様にその場から散った。
ある一室に影一つ。
食材の粗方は今日が立つ日と定めての空。
しかし影の目的はそれではない。
目前のそれを一つまみすると、待ちに待ったと謂わんばかりに口に放り込んだ。
「・・・・ ・・・・・・・・・・んんん゛〜〜〜〜・・・ ・・・!!」
渾身の、心底からの歓喜。
小さい叫びは彼女自身を更に鼓舞するのにこれ以上はないと内で木霊した。
感動に打ち震える中で物音に気付く。
追いかけ、様子見であろうか。
信が入り口近くで立ってその始終を見ていた。
―――――――間。
このとき繕った笑顔に、一体如何ほどの価値があったのか。
「おらみんな聞けコイツつまみ食いして『ん〜♪』とかってよぉおおおお!!!」
「黙れぇええええええええええええええ!!!!」
野に放たれる前に確保する。
否、胸倉を掴んで室方へと投げ飛ばした。
「ってぇええ!!お前なあ!!」
「容赦だのは身の振りを鑑みて言え!馬鹿ものっ!!!」
羞恥に顔が赤い寳子。
一方打撲によって赤みを為す信は両の手で顔を覆った。
「んで、何をそんなに幸せそーに食ってたんだよ・・」イテテ
「は、蜂の巣だ。蜜を絞った残り物だっ」一部そのまま食べたが。
彼女の答に絶句する。
巣をそのまま食べるという行為が俄に信じられない故だった。
立ち上がり並ぶ珍物を注視する。
信は友と森に立ち入り、形こそ知ってはいたがその実、未知。
怪訝に顔を顰めた。
「・・何だこの虫」
「蜂の子だ」
「蜂の子?・・ってうおキメェ!!」こっち見んな!
「こら。気が養われると言われている。食べてみろ」食感が面白い
寳子が一匹指で摘む。
口の傍にやると一旦避ける信。
眉間に皺を寄せ、若干の戦慄きを見せつつも彼女の手首を掴み渋々食べた。
「おー・・んー? 何か弾けるな。うん。あと甘い。
マズかねぇ。でも腹の足しにはなんねぇな」
「沢山食べればいいじゃないか」また取ってやってもいいぞ?
「この見た目で腹いっぱいってのもなぁ・・」
気が気でないと信は腰に手を当てて盛大に溜息を吐く。
そんな彼を見兼ねてか、寳子は別の物を差し出す。
「ならこっちの良い物をやろう」
「おおっ!お前が唸ってたヤツか!!」
実は自分の為にと彼女が少し残しておいた巣蜜である。
手の内に小さく収まる程度のそれは、役得と潜ませていた物だった。
「おぉおおーーー!何かスゲェ光ってんな!!」
「語彙が少な過ぎるだろお前・・」
「は?ご?なに?」
「もういい」
こんな気の満ち満ちた奴にくれてやるのは不満だが、と。
内心ぶつくさと呟きながら巣を匙で崩し、煩い信の口に放る。
「!!うわうっめ!何だこれ!!ホントにこれ薬かよ!騙してんじゃねーのか!?」
「人聞きの悪いこと言うなっ!
どーだ。これで私が唸るのもわかるだろ?」
「ははっ、悪かった悪かった!こりゃ唸るな!!」
鼻高々といった寳子を素直に賞賛する信。
呆気と。
些か拍子抜けと、寳子はバツ悪く笑った。
その後、暫くしても後一口と強請る信に辟易とする彼女の姿があった。
「余り食べ過ぎるとキツいぞ?」
「んなヤワな身体してねぇって!」
以上に困憊の体であった。
彼女が匙を取らねば一気に掻き込む恐れがある為にこれを手放せない。
一口、また一口と信の口に運ぶ。
この妙な光景に一番疑を抱いていたのは彼女自身だった。
(何故私がこんな事を・・ ・・召使いかっ)
しかし手放せば郎党に落ちる。いや既に落城しかかっているが。
巣蜜は斯くしてその姿を脆くも崩すのである。
(・・・私の巣蜜・・ ・・とっておいたのに)
結局丸々を腹に収めた信は満悦と幸福に浸っていた。
一方の寳子は口を真一に、盗人猛々しいとこれを睨む。
自身が施したに違いないが、遠慮するのが道理だろうと内心で叫ぶ。
そして同時に、目前に道理を求めた己を呪った。
「あーうまかった!また採ってきてくれよ寳子!」
「・・これで借りは返したからな」
借りとは出会い頭の背負いの事だった。
ロクな利子がつく前にと彼女は言う。
しかし借りを返したと言うのにその表情は冴えない。
「はぁー!?こんなんでかよセコいだろっ!!」
「こんなんとは何だっ!!人が心血注いで採ってきた大事な蜜をっ・・!」
立ち上がり文句を言う信を、これまた立ち上がり迎え撃つ寳子。その目は少し涙目だ。
「心血ってんな大袈裟・・ ・・イテテ」
「!大丈夫か信っ!!だからあんなにっ」
上体を崩す信の肩を抱き支える彼女に、一番驚いたのは
「な、な〜んつって・・」
彼自身。
諍いが始まる前に少し脅かしてやろう、くらいの悪戯の心算だったのだろう。
しかし思いの外に真に受ける彼女を前に、信はそれこそ遠慮がちに冗談めかした。
黙る彼女に謝罪を口にしようとしたその時。
寳子は大層戦慄くと――――良い音のしそうな頭――――は避け、
蜜を食べすっかり艶の出た頬を本気で叩いた。
「悪かったって」
遅れて出るその言葉に彼女は反応しない。
要領よく後片付けをする寳子の傍を、手の形をそのままに。
赤く腫れた頬を下げて、手持無沙汰とうろつく信。
避けて動く彼女の前に憚る。
また憚る。
謝罪付きで。
それを飽きもせず連続で何回もやられれば、この後の事も考えて折れない訳にはいかなかった。
「・・ああいう冗談は今後一切やめろ」
やっと口を開いた寳子に応と勢いよく、また助かったと信は喜び勇む。
作戦前にこんなに疲れていいものかと、寳子は何度目かの殊更に深い溜息を吐いた。
「物が物だったから、本気で心配した。
薬餌に関しては施す側に責任が掛かるから一層な」
止めなかった責任は自身にあると彼女もこれを謝罪した。
寳子を堅物とは思っていた信だが、いよいよ冗談を言う場に気遣わねば居心地が悪いと理解する。
このままでは謝罪の応酬になると踏んだ信は、大きく話題の転換を呼んだ。
しかし彼から出た次の言葉は、良からぬ結果を招く事となる。
「いやー、マジで悪かったって!にしてもこの蜜な!これスゲーわ!
体にも良くて甘いなんてよ、サイコーじゃねぇか!なあ寳子!!」
まるで凍り付くように、彼女は押し黙る。
間が空いた事を知る。
信は何も出来ずに立ち竦んだ。
これに追い打ちをかける様に、しかし助け舟を出したのはやはり彼女だった。
「やっぱりお前のこと、嫌いだ」
「はああっ!?何だそれっ!!」
途端に台に両手をつき、俯く寳子。
―――――――まだ、動けずにいる。
「・・ちゃんと、忘れていかないといけないな」
今すぐには、難しいとしても。
自身への言葉。
早々に思い出にして仕舞えと。
声を殺して彼女は、泣いた。
『ねえ漂、蜂蜜って知ってる?』
これまた得意げに語る彼女は嬉しそうで
きっと相手が喜ぶだろう話題であるからと、察し余りある。
『?何それ、知らないけど・・』蜂は知ってる
『薬』
『えぇえっ・・!に、苦いの?』
『・・あま〜い、薬なんだっ』
漂の表情が明るくなる。
彼女はこの時が何より好きだった。
『甘い薬なんてあるの!?
へー、凄いな。色々あるんだ薬って』
『・・ね、ちゃんとね』
――――――この作戦が、成功したら
『蜂蜜、食べさせてあげる』
『ホント!?』
『本当』
『やった!!楽しみだなぁ・・!
体にも良くて甘いなんて、サイコーだね!寳子!』
『ふふっ、・・うん』
だからぜったい。
絶対に、成功させようね。
絶対に、させるからね――――――――――――
まずはこの思い出を、寳子は記憶の片隅に仕舞った。
2013 0309