寳子の去った後の広場では相変わらずの乱戦が繰り広げられていた。
竭氏側は肆氏を筆頭に増え続ける衛兵を数に任せ押し込む。
一方の大王側は騎乗した昌文君が鉾を振るう事でこれを散らす。
形勢逆転とまではいかないものの、死者は確実に減っていた。
敵に対抗し持ち得る体勢が整いつつあったが、事実不利である事に変わりはなかった。


「馬の足を狙えッ!昌文君を止めよ!!」


肆氏の号に、脇に控えていた兵が広く列を成し前へ出る。
厚みと幅を利かせるそれに昌文君は疾駆しこれを切り抜けようとするが
向けられる槍に馬が嫌がり、立ち往生を余儀なくされる。
列の両端が昌文君の背後をとり、彼を囲むように円陣を組んだ。
にじり寄る敵に目を配らせる。
やはり攻撃の手は緩い。
狼狽える様にして馬を軸に回らせるが乱れはない。
実際昌文君は落ち着き払っていた。

数の上の薄さではない。
気の薄さを感じると鉾で一閃を引く。
槍の柄を狙い穂先を斬り落とすと、勢いよく馬の上体をあげ敵兵の海に飛び込みこれを薙いだ。

「儂は紅寳のように甘くはないぞッ!!
   
武を向けるならば決死の覚悟で以て前に出よッ!!!」

槍を突きもせず、前に出すような防陣や警戒の類を持ち込むなと。
敵を内に込めるも攻めに転じない時点でどちらの勝利かは明白である。
昌文君は慄く敵兵に武威を見せつける様に鉾を振った。

路の真直ぐに肆氏と昌文君が相まみえる。
それを遮る様にして新たに排出された衛兵が躍り出る。
これを退け、堂々と敵前に姿を現したのは肆氏の方だった。

「流石、というべきか昌文君。数に負けずよくぞここまで間を詰めたものだ」

「賛辞を欲してここまで来たのではない。
    ・・しかし貴様を斬る為に前へと出た訳でもない」

昌文君に得物を向ける衛兵を制する肆氏。
また肆氏および衛兵に牙を向ける山の民も昌文君が制する。
その思惑や各々が知る所であると、両者の対話に両軍は手を出せずにいた。

「竭氏参謀、肆氏。貴様こそさすが、寳子の嫌う言をよくもああしてやれたものよ」
「何が言いたい」

「危うく貴様が殺されてしまう所だった、という事だ」

昌文君の言葉に目前より周囲から響動めきが起こる。
暫し置き、静けさが戻ると昌文君は切り出した。


「先程の寳子への挑発、どういう訳かは敢えて聞かん。
    肆氏、お前には成矯竭氏が去んだ後にもしてもらいたい事がある」


響動めきはなく、それは余りの言葉にただ声を失う体。
しかし肆氏だけは昌文君を見据え、口を結んでいた。



















「答えの用意は出来たか、寳子」

剣の柄を持つ手と口以外は微動だにせず、騰は彼女に問いかける。
しかし用意の有無を投げ掛けられる寳子が何か身を振る訳でもない。


「この剣が完全に引き抜かれる前に答えろ」


瞬きもなく、その瞳は一途に彼女を見据える。
そしてまた彼女もそれに負けぬよう見返した。


しかしそれは早々としたものだった。


齎される間は問題ではない。
ただ彼女がその答を、どうこの副官を前に告げたものかという、それだけの時間であった。



答えなどとうに出ている。

用意などいつの話だと、それは憤ってさえいた。




次第に刀身の面が見えてくる。
輝きは暗がりの中にあって鈍く衒う。
鞘より出でて中腹、そして切先が抜ける寸での所で声が上がった。




「―――――王命は必至を以て臨むものである」



右腕の動きが止まる。
切先は未だ鞘に収まったまま動かない。

答えを探しているのは騰の方だった。



「では。時間がありませんので」


応答が逆転する。
否、答を求めるのは彼方であって此方ではない。
代わって質問する気も、した心算もない。

騰の答えは自身の知る所ではないというのである。


故に背を向ける。
後は行動で示すと彼女は言った。


駆け出す背を追わない。
思いの外、刀身を仕舞うに刻を要したようだった。


ならば仕方がないと―――――騰は剣を鞘に戻し、何ら騒ぐ事もなく留まる。
先の彼女の動向を見やる。
足音も遠く、姿も見えなくなった所で踵を返す。


それは彼の中で答が出たという合図。

彼女は合否の理解もなく去り、ここに決死の結果は出た。



「・・・ココココ・・」

怪鳥に遣わされたその者は不気味に鳴くと、暗闇に姿を消した。





寳子は迷う事なく先を目指す。
  別働隊―――――信たちを追いかけ走って行く。



(あの場には殿もいる、大王だっている・・山の王も、民だって!)

場に瀕するという大王の側を思わぬ訳がない。
しかしそれ以上に彼女を突き動かしたのは他ならぬ彼らの存在であった。

戻ればそれこそ一刀の元に伏されるだろう。
その者達に。
何より自分自身に。

そんなに信頼に能わないかと、誰もが望まぬ結末を生む。


(なら私は私の託された道を行くのみ!!
       
これが私の答えだ!王騎将軍ッッ!!!)


寳子は自身の正解など端から答える気はなかった。
皆との想いを纏めれば、自ずとそれが答えになる。

故に別の、何らかの正解が用意されているとするならば―――――それこそが不正解に他ならない。

そして彼女の内に在る試験官は、その不正解を抱くほど呆けてもいなかった。



彼女はよく知っていた。

将軍王騎はそれを求めない。


求めたのは、自他共の内に存在する覚悟であると。



二択は彼女にとって選択ではない。
覚悟を示す上での採択。
ただのそれであった。








回廊を抜け本殿に近く通ずる路を行く。
場を踏み荒され、状態もわからぬ文官達が肩を震わせ小さく蹲っていた。
これに関わる事なく寳子は、一瞥をくれてやると避けて進む。
腐肉に興味はないとこの場を後にした。

程なくして目指す先より音が届く。
声と形容するには些か無粋なまでのそれは、彼女を足を更に速める。

(もう少し・・ いま行くっ・・!!)

問答にどれだけ刻を費やしたかは知る所ではない。
故に彼女は焦っていた。
成矯竭氏、他臣共は捨て置くにせよ、それが問題ではない。


何かを飼っている、とは知っていた。


しかしそれが一体如何なるものかは、政の側にいた彼女は近寄り知るべくもなかった。
夜な夜な地鳴りのような音を聞いた事もあった。
その声らしきは高く、時には重く。
そして時には悲痛な叫び声のように聞こえた。

獰猛な獣か、はたまた。

考えが過るものの、打ち消してきたのも事実。
彼女が無力に徹するより他なかったのである。


本殿への入り口が近付くにつれ音の応酬が路にも響く。
彼女は扉の目前に立つと隠れる様にして内部を窺った。




「純血の王族が聞いて呆れるぜ!!
   欺き、殺し、奪う!
てめぇの言う愚民そのものじゃねぇかッ!!!」


話の筋を理解する。
愚が愚を説いた事だけはわかった。

「わからぬか蛮民めが!!政の排除は国の正しい在り方―――――」

「わっかんねぇなぁ!!てめぇが逆恨み野郎ってこと以外はよォ!
   『これ』が国のあり方か!?この、
身を張ってお前(王)を護ろうとする奴のいねぇ状態が正しいってのか!!!」


正に、と。
怒鳴る信を見やる。
傍から見れば困り顔、しかし彼女の口元は笑んでいた。

信の指摘に、流石の成矯も言で対する事を諦める。
代わりに剣を持ち出すと、周囲の臣共に命令した。


「おい誰か!そいつら愚民共を連れて来い!!王自ら首を落としてやる!!」


しかし反応はない。
騒めきばかりが起き、何人たりとも動こうとはしなかった。
これを良しとする自称秦王ではない。
気を立てると更に追い打ちをかける様にして急かした。

「貴様ら従者の分際でっ・・全員ランカイの餌食になりたいか!!」

その名を出されては堪らないと臣共は俄に動きを見せる。
竭氏の令も下り、数名の足が信に向き歩き出したその時。



「では恐れながら愚王弟、私めがまず貴方様の首を頂戴しに参っても宜しいでしょうか」



弁を立て、かつ不穏。
扉に傍立つ誰彼を見るや否や、みな口を凡と開け括目した。


「貴様っ・・寳子!!」


一部を除き味方の登場に興起する。
壁はその最もたるであったが如何せん負傷の体から表す事も難しい。
信と貂は例の敵を倒して参じたとばかり思っていた。
彼らの視線を受け、彼女もそれに対すると状況の把握に努める。

(・・はたまた、人の類か)

沈痛な面持ちで天を突くかと思われる巨躯を見やる。
遠く叫びが耳奥で聞こえた気がした。

敵方は血に塗れたままの彼女を認めると誰もが慄き震える。
成矯に向き直ると寳子は拝手し、仮初の王に言を述べた。


「久方ぶりでございます成矯様。
   ―――――此度は貴様と竭氏の首を刈に来た。国を正す為にな」


驚から一転、首を刈ると宣ぜられた成矯は
高らかに笑うと寳子を見下し剣を向けた。


「くくっ・・!無礼者が。誰かと思えば政に尻を振り仕えていた雌豚ではないか。
   何だ、見捨てられ此処へ来たか?見世物として置くにも厭いたか政の奴め」


これに目に見えて激昂する壁。
しかし剣を持っていれば突きつけていたであろう意志は、目前の信によって叶えられる。

深くは知らない、わからない。
しかし気に入らないという事だけはわかると。
信は成矯に眼を飛ばし、切先を向ける。
寳子は無言でこれを制した。

「許す。近く寄るがいい。
   貴様の眼、その珍珠に関しては目を見張らんでもない。
      抉り取ってこの俺の治める世というものを延々見せてやろうではないか」

見下す己が眼に合わせられる紅紫紺の瞳を愛でる。
これに映す価値もないと寳子は目を伏せ答える。
相手の挑発に気は乗せず、彼女はただ口を乗せた。


「ご冗談を。そのような詰まらないものを見せられるくらいなら
   ―――――色のない墨中にでも落とされた方がまだ収まりがいい」


いの一番に吹き出し笑う信。
壁は呆気と、しかし小気味よいと握り拳を小さく引いた。
これに成矯の狼狽ぶりときたら、眼下の臣の中にも口を押え背を向ける者多数。
横目に流す寳子も笑ってしまう程だった。
余りの屈辱に言を弄する気も失せたのか、成矯の怒号が響く。


「こっ・・ンの雌豚がぁああああああああ!!」


「民を愚と豚と罵る貴様に、王の資格はないッ!!」


剣を抜き切先を向ける。
寳子のその行動に成矯は、手を空に仰々しく翳すと号を下した。

「何をしている!さっさと奴らを捕らえろ!!」

「せ、成矯様の仰せであるっ!今すぐその者達を―――――」

竭氏の声を裂くようにして薙ぐ。
これに郎共は往生し、身を身で固める。


「一歩でも近付けば斬り伏せる!・・動いた順に殺す。
    この血に濡れた体が見えぬ者は前へ出るがいい!!」


声を上げる寳子に前へ出る所か後退する。
剰え仲間を押しやる狡猾ぶりである。
しかしこのやり取り自体はそう悪いものではなかった。

(そうだ、来るなよ。竭氏の手に染まる臣下共は腐ろうが数の内。
   家名のある者は残しておきたい所だが・・)

対するは成矯竭氏。
しかし彼女は先の敵にも意識を払っていた。
順当に反乱を押さえたとして、それで秦国が穏便極まるという訳ではない。

―――――遠征より戻らぬ呂氏の存在。
伝令一つ寄越さぬが不穏の証と、長くわかりきった答えも過るに厭いた。
これに対応し得るに年月も無ければ数も無い。
故からこんな下らぬ、下世話に過ぎる小物の乱を治めに奮起する事態にも我慢ならない。
寳子は自身がどうこうと況を変えられる程の者であればと幾度となく思った。
しかし思う事さえ烏滸がましいと、昌文君に未熟者と叱咤され今に至る。

少なくとも数は捕獲する。
下手に向かってこられても厄介であると、彼女は臣下を前に睨みを利かせた。
その横を余裕と言わんばかりに通り過ぎると、信は成矯の前にしたり顔で見える。


「さァてそこを退いてもらおうか成矯。政が外で怒ってんぞ!!」


嫌らしい笑みを浮かべ迫る信に成矯は不快感を露にした。


「呆気がァ・・!こちらにランカイがいる以上、
   貴様らに勝ち目など!!
万に一つもありはしないッッ!!!」

主の声に呼応し暴れる巨躯の獣。
その体は傷付き血が滲むものの、止まる気配はなかった。


(ランカイ・・これ程までに傷付き、疲弊しているというのに立って闘う事を強いられている)


相手からして絆などという情から繋がれている訳でもないだろう。
なら何故闘うというのか。

(闘争心が強い部族の出・・主従・・刷込み・・)

寳子は幾つか数を上げる。
しかし考え得るには多すぎるそれを決定付ける言が耳に届く。

「いいかランカイ!一人残らず殺せッ!!
    
膝をつくな倒れるな!!無様な姿を見せればお仕置きだからなッッ!!!」

その全てが雁字搦めに結われていると知る。
生きる事も死ぬ事も、倒れても立ち上がり
闘い続ける事も何もかもが強いられている事を知った。


剣の柄を持つ手に力が入る。


(悪に染めたのは貴様か成矯ッ・・!)


拾ったか買ったか。
精々玩具として、見世物として手込めにしたのだろう。
そして人を前に在らんばかりの力を繰り出す様は、何ら情の混じりがない。
人命を弄ぶ術しか教わっていない存在は、余りに凶悪に育ち過ぎた。


(誰に、何に拾われるかでその者の先は決まる)


彼女は鏡を見ていた。


(これも生まれた時と場所が違えば・・何か変わったのだろうか)


存在の在り処は、余りに似すぎていた。



(時で言えばこの戦乱の世はこの子に合っていたろうに―――――)




ふと



ある案が巡った。



ランカイの乱暴な様に一人逃げ回り、柱で頭を打つ貂。
痛みに悶えていると笑う寳子の姿が目に飛び込んだ。

「くっそー!なに笑ってんだよ寳子ッ!」

「・・掛ける価値はある」

「は?」


コブを擦り呆気とする貂に構う事もない。

彼の存在は確かに黒に過ぎるだろう。
しかしそれが本質からではなく、強いられたものであるとするならば。


可能性はある。


こんな所で死する理由はない。


武を黒とし内包させ、体面を白く塗りつぶせたならどうだと。
生まれ変わる余地は十二分にあると、寳子は笑った。

彼女へと与えられた恩は、他の何者かに返されようとしていた。




「ルァアアアアアアアアアア!!!」

信が勢いよくランカイの足を斬りつけるが、皮を切るのみで身はおろか筋骨に達する気配もない。

「どうなってンだこいつの身体ッ!!」
「ランカイの皮膚は人のそれじゃない!余程重くでなくては無闇に斬りつけても意味はないぞ!!」

尚も止まぬランカイの勢い。
未だ近く在る貂に指示を出しながら寳子は声を張る。
その隙にも信の身体は獣の剛堅な足先に抉られ宙を舞った。

「痛っつ・・ ・・どうしろってんだよ!剣じゃ駄目なのか!!」
「それは違う!剣を言い訳にするな!!」

壁の声が響く方向へと信は注視する。
重症を負い、辛い体に鞭を打つと壁は身を乗り出して伝えた。

「剣とは中華の争乱が生み出した最強の武器だ!
   敵を討つ事に特化し、進化してきた!全ては使い手次第なんだ!!」

「使い手次第・・ ・・!」

そう言われては黙っている信ではない。
剣を見詰め息巻く信に、乗せる様にして寳子は言った。

「剣とは幅も利き、突きと斬りを効率よく行える大胆かつ小回りの利く武器だ。
   これが鉄を崩すとなれば話は別だが、相手は事情は違えど衣を被った人に相違ない。
     斬 れ な い 訳 が な い んだ。若しくは―――――」


寳子は傍目に見やり、ランカイが信に気を取られている内に目前を走り去る。
騒めきが起こる中で彼女は本殿の隅に備えられた灯を持ち出すと
厚く、剣をも通さぬ右腿の硬い皮膚にそれを押し付けた。

叫び声と共に肉の焼ける臭いが辺りを包む。
彼女がどんな表情でそれをやってのけたのかは窺い知れない。

化猿の焦げる臭いなど知らない。
獣にしては不似合いだ。
そこには知った臭いがあった。


―――――人の焼ける臭いがした。




本殿中に響く喚きに皆息を呑む。
そして寳子は持っていた剣で焼け爛れた傷口に剣を穿った。
更に号が響く。
剣は深く突き刺さり、ランカイは膝をつき前のめりに両手をついた。
もはや叫びの尤もたるは出尽くした。

「こういうやり方もある。
      『変質』させる。
         凍った水で人を殺せるように、焼かれた筋は斬り易い」
     
やりようは得物でも対象でもいいと。
その両方を用いればなお有利だろうと寳子は言った。


「寳子っ!なぜ脇腹を焼かなかった!?臓物を狙えば―――――!」


壁の言葉に寳子は答えない。
敵前に必死な振りをした。


「懐に入り込む事を恐れたな!!
    今だ立てランカイっ!その女を血祭りにあげろッ!!!」


でなければ仕置きと、再三にわたり耳障りな言葉を吐く。
恐怖で支配された見た目だけの獣は、成矯の声が届く度に震えていた。

信が剣を構え、寳子を超え悠々と前に躍り出る。


「へっ。どーも説明ごくろーさん。
  けどな寳子、俺にはよくわかんねぇしメンドくせぇからよ。
    『コレ』で十分だってトコ、お前に見せてやるよ」

威勢を張る。
小細工なしで、何にだって自分の腕で乗り切ってみせると彼は言った。


大将軍になる男だからなと、聞こえた気がした。



「そうか。・・そうだな。信、その方がお前らしい」


寳子の予想外の言葉に信はどこか鼻高く笑う。
調子づくを諫めようとした所で彼女は手首を掴まれた。
これを引き込むと信は向かって耳打ちをする。
傍とする寳子は暫くして頷いた。

言われる通りに鞘の紐で彼の剣と手とを縛る。
そして急ぎ離れると寳子は山の民の勢と合流した。


「隊長!寳子!五つ数えるまででいい!!
   
その大猿の動き、止めてくんねぇか!!」

「イイダロウ」
「五だな」


指名された彼らは得物を構え応と返す。
バジオウは他に合図を送ると彼らの位置は決定した。

一方倒れていたランカイは今生、最たる雄叫びを上げ立ち上がる。

「(何とか意識を断つまでには持っていかねば―――――でなければ)信ッッ!!」

「!?」


絶たねばならない。
ただ徒に施されただけの、巨躯には到底釣り合わぬ小さな命を。


断片的な記憶が脳裏に浮かぶ。
もはや思い出とも呼べぬその代物は重く、彼女の心を潰そうともがく。

それを払うかのように叫び、呼ぶ寳子の声に反応する信。


「お前は剣が得手だと豪語しているな。
    ―――――なら加減の仕方というのも見せてはくれないか」


傍と。
信は気付く。

相手に対して加減をしてやる義理も謂われもないが、気付いてしまった。


この堅物で仕方のない、
   敢えて無益を選ぶほどの隙もなく、出来てもいない彼女がだ。




請うている。
現状の局面において最大の敵を前にして、戯言と言わざるを得ないを抜け抜けと。


故に信は剣を強く握り、寳子に向けて見せる。
目に見えて明るくなったのがわかった。
壁は柱近くで奇をゆくその動向に口を挟む事ができなかった。


(一体何の心算だ寳子―――――!)

「ハッハッハ!!ランカイを手中に収め利用しようとでも言うのか!?
   馬鹿めがっ!!この化猿は俺の言う事しか聞かん!!引き離した所で手遅れなほどになっ!!!」

「手遅れなのは貴様だ成矯ッ!!
   
その捻じ曲がった性根、もはや焼いて叩き直すより他あるまい!!!」


それでも屑ばかりなら、全てが炎を前に消え去るは道理。
残る物さえなければ鉄より劣る。

暗に死んでも治らないと、容赦のない言葉を浴びせたのである。



ランカイにシュンメンとバジオウが斬りかかる。
肉にまで届かぬそれは、ただ鉄と鉄の圧し合いに至る。
動かぬ勝負に機を投じたのは山の民の一人だった。

「タジフ!!」

信が叫ぶ。
タジフは獣の足首にしがみ付き、決死を以て動きを止めた。
バジオウと寳子もそれに続き身を挺する。

「コレデドウダ少年!!」
「行け!!信ッッ!!!」


五つ。
それまでに信は高く飛び上がり、ランカイの背後高くに位置する。
垂直に。
力を入れるのではなく、自らが力そのものとなるように。
剣と一体になる。
揺れる事無く一点を狙い定め、貫いた。

位置は首より遠く、また背の骨より外れて穿たれる。


暴れるランカイに振り落とされる信だったが、すぐさま体勢を立て直す。
対峙し、目を合わせると同時に獣は身を横たえる。
しかし歓喜するには余りに労し、そして無益な戦いだった。

「どうしたランカイ!!立てッ!
   立ってその虫けら共を潰せェ!!
でなければお仕置き―――――」

「いい加減にしろッッ!!!」

寳子の声が本殿中に響き渡る。
怯む成矯は足を下げるが、玉座に阻まれ逃げる事を許されない。

己が一番に望んだ証に阻まれている。
滑稽だと、しかし彼女は笑わない。

ただ剣を持つ手だけが震えていた。



皆が驚愕の最中、それは倒れる獣も同様であった。
主の叱咤が止んだ理由を、別の何某かの声のお陰という事は理解していた。

その主である筈の成矯の声にランカイは反応を示さない。
そして彼が再び立ち上がる事はなかった。


「何が仕置きか馬鹿者がぁッ・・!
    その仕置きとやらを言ってみろ・・私がお前に、一体どんなものか試してやるッ!!」


寳子の迸る覇気に、もはや誰もが声を掛けられない。
それどころか近付く事さえ困難だった。
彼女は愚物に一歩、また一歩とにじり寄る。
情けない悲鳴を上げる成矯を信達は睨み付けた。

「ランカイっ!ランっ ・・くそッッ!!」

「そいつぁもう立てねぇよ。―――――終わりだ、成矯」


切先を向ける信。
この事態に成矯もついに黙ると、歯を食いしばり怒りに震えた。

成矯の危機に臣共は背を向け走り出す。
命からがら逃れようと王の器と丞相を捨て、扉の前で団子状に固まっていた。

「きっ、貴様ら戦わんかっ!!でなければ死罪だっ!死罪に処すぞっ!!」

扉を引こうとするが犇めき合う為に適わない。
その下らぬ光景に取り合いたくもないと寳子は
成矯から視線を逸らすと、足元に倒れるランカイを覗き込んだ。

彼女が近付くと化猿と呼ばれていたその存在は呻き、涙を流した。


「・・泣くな。殺さない。
    自分の意志で泣けるのなら、お前はちゃんとした人なのだから」


糸の切れた今、人として在れる。
意味がわからぬのか嘆きの体の止まぬランカイ。
恐怖のままではおちおち気を失ってもおれぬだろうと
寳子は屈み、伝わらぬ事を何とか伝えようと止め処なく溢れるそれを拭った。


いくら言葉を以てしても伝わらない意志がある。
その事を考えると、このように示した方が幾分早いのかもなと、寳子は苦く笑った。


人と人も、国と国も。
人と国の違いも含めて。

そして彼女は剣を掲げて誇示する自分をも、笑ったのである。




「眠った・・・ ・・」

驚きと、強敵の落ちた体に安堵の様子を見せる壁。
成矯は展開される事態の様に圧倒されたままだった。
扉前の騒ぎは相も変わらず。
寳子は静かに立ち上がった。

「な。寳子」

傍とする。
未だ振り向かない。


「ちゃんと見せてやったぜ?剣の強さも、加減の仕方も」


俺の強さも。
そう自信満々に語る信に、やっと振り返ると寳子も笑った。

ありがとう、と感謝の意を述べて。

そして再び彼女は床に突っ伏すランカイを見やった。


(私の言う事で聞き入れてくれるかどうかわからんが・・。
      しかしこの身柄を平地に置くにはまだ、存在が大きすぎる)


平地の器が、世が広がりを持つその時まで。
そうだ、と。
寳子は彼方を振り返る。

視線の先の壁は疑問符を浮かべながら彼女を見つめ返していた。





相も変わらず扉の前でごたつく郎共、その中で幾つもの嘆きの声が木霊する。
『終わりだ』
場が決している事は誰の目にも明らかだった。
しかしこの誰彼の語った言に、一番に反応したのは丞相竭氏その人であった。


「終わりだと・・?」


不穏を纏う。
大王側の各々の手は、自然と得物に伸びていた。


「儂はまだ終わってはおらぬわぁッッ!!!」


臣共の海を割って入ると我先に扉の前へ立つ。
力強く扉を引くが能わず、周辺の者を殴り蹴り、退けると改めて扉に向かった。

「見苦しさもここまで来ると憐れだな・・」

遠目に見る壁は勿論、寳子は言うに及ばず。
バジオウや他の者達までその体は呆気と構えられていた。

「成矯、お前もな」

信の言葉の元に集う。
成矯も反応し振り向くが、彼らは既に玉座の足元に身を据えていた。


「愚民の分際で王族のこの俺を斬ろうとでも言うのかッ!!」

「てめぇと遊びに来たんじゃねーんだ。決まってんだろ」


喚く成矯に反し、信の応じるそれは冷ややかだった。


「馬鹿がッ!!そんな事が許されるとでも思っているのかぁっ!
   我は秦国の王―――――」

「あるんだよ。・・戦争だからなっ・・!!」


愚民と自ら罵った者の気迫に負ける成矯。
言を上げる力も失い、玉座にへたり込むようにして腰掛ける。


そして信の言葉に強く反応する者がもう一人いた。
同じような事を彼に言った本人である。

言葉自体にではない。


以前とは明らかに様を変えた彼自身に、
寳子は何より気付きを受け、その姿を腑に落としたのだった。






竭氏が扉を開けると同時に、鈍い光が一閃する。
屈む竭氏以外、それは吃驚呈する者共の首を一瞬にして刎ねた。

何事と見やる。
見て括目する。
左扉より出でし者の名を、彼女は知っていた。


「残念ながら此処を通す訳には参りません。
   我が殿の命により、扉に近付く者は全て切り捨てさせて頂きます」


将軍王騎率いる軍の副官、騰の存在。
相も変わらず淡々と、ともすれば悠々と彼は姿を現した。

「騰副官っ・・!?」
「何故王騎将軍の副官がっ・・!」

壁も合わせて呟くが、それ以上に竭氏側の逃亡に注視する。
騰は任ぜられてはいない、逃げる郎党を追う事はない。
声のする方へと無駄なく視線を移すと、変わらぬ表情、変わらぬ体で扉を死守し続ける。

対する扉を守る命は受けてはいない。

王騎の右腕はただ在りのままに佇んでいた。
これを口に手を当て笑う者が一人。
それに気付かぬ右腕でもない。


「寳子か。何か愉快な事でも」

「ふふっ・・いえ、全く其方の殿の人使いの荒さと言ったら。
   右に左にとお疲れ様でございました、騰副官」


拝手し、笑い冷めやらぬといった体で見つめ返す。
騰はこれに特に答える事はなかった。

そんな余興も束の間、竭氏の動向を見詰めていた壁が声を張り上げる。


「竭氏を逃がすなっ!戦を終わらせるにはそいつの首が必要だっ!!」


それを聞いたバジオウ他が動き出す。
しかし信は動かない。

理由はただ一つ。


竭氏の走る目前には、寳子が剣を構え佇んでいた。



(死んでたまるかっ・・ こんな所で死んで堪るかァアアアッ!!!)

必死の形相をして逃げる竭氏を、彼女は一途に見据えていた。
紅に映える瞳は燃える意志か、はたまた竭氏の流す血潮を既知する故か。

「どけェッ!!寳子!!!」

「貴方の時代は終わった。
   早々に、せめて最期くらいは潔く幕を引かれよ」

「儂はっ・・!儂はまだこの大秦国ッッ・・!!」


「欲に駆られた亡者めっ・・
   多くの血を流し過ぎた!貴様は貴様自身を贖うべく血を流せ!!
     
残夢も見ぬほどに殺しきるッ・・ 覚悟せよ!!竭丞相―――――ッッ!!!」


深く構えに入る寳子に、竭氏は足を止めず真っ向から立ち向かう。
目に映るのは目前の彼女ではなく、逃げへ通ずる回廊への扉だけであった。

寳子は意気込むと正面から竭氏を捉え、剣を突き立てると肩から腰にかけてを剣で裂いた。

上がる叫は飛沫を前に 聞 こ え な い 。
次いで螺旋を描く様に、剣を心の臓めがけて穿つ。

竭氏の断末魔が起こる中、得物を抜くと再び血飛沫に身を濡らす。
耳障りと言わんばかりに柄を持ち替え、握りしめると崩れる竭氏より先に
全力で以てして刃を真一に払い、彼の者の首を落とした。




遠く転がる首は成矯の足元にまで及ぶ。
どれ程この一刀に力が込められていたかが窺える。
始終の様子に臣共は状況を呑み込めずにいるのか、ただ呆然と立ち尽くしていた。

自身にへばり付く血をただ汚いと、しかし彼女は拭わない。
自ら触れるという行為に拒絶の体を示した。



(こんな汚い首一つで、国が変わる)


それ程までに王の近臣とは重要性を含む。
この丞相にあってあの王とは、全く
皮肉を通り越して悲劇にしかなり得ないと項垂れた。

悪漢を討ち、仇の一つを討った。


これ以上ない始末。
何より望んだ結果だった。




(秦は変わるぞ。
   ・・一国に留まらず、この中華全土を変える)



そんな国に生まれ変われるよう願った。
願うだけでは足りないと刃を以て身を染める決意をした事も、今は昔。

例えどれ程の刻を経ようとも構わない。


毒を出し、膿を出し。
隔たりを無くし、誰もがただ人として在れる世。

飢えず、迷わず。
もう争いで血が流れぬ、流さぬでおける世だ。


故に彼女は思っていた。


自国においても、他国に於いても。
大本の首を上げてゆけば、自ずと国の夜明けを見るだろうと。
憂いに対抗し得る力をつけ、そうして世へ打って出てゆく。
大望の足掛かりを前に、さぞ喜びに打ち震える事だろうと。

国に、人に。
指標となれる己が働きを前に、やっと自身の姿を誇れる時が来るのだろうと。



そして今。

国にとって『これ』は確かな足掛かりであった。



首さえあればいい。
横たわる胴は残骸だ。




しかし彼女にとってのこれは、果たしてその意味を成したのであろうか否か。


項垂れた視線の先を向ける。
睨み付けるは玉座の愚。

自国の尻拭いをしているのだからと、足りないと思ったかは知れない。




(気など一向に晴れぬではないか、糞―――――――)







こんな事をあと何年、何十年も繰り返す恐れを、
しかし彼女は血の付いた剣を振り払う事で掻き消した。





竭氏の失脚とその無残な様に成矯は動かない。
臣共はやっとの思いで意識を引き戻すも狼狽える儘である。
紅寳は選別するかのようにそれを見る。

生かす者、際しては殺す者。
それ以外に感慨はなかった。


しかし彼女は最中、一つの違和を抱く。
臣を見据える中で何かがおかしい事に気付く。

「―――――足りない」

括目する。
以前に残すべきと見定めていた臣の一、名家の一人が失せている。
左扉、騰の傍を見てもいない。
急いて目の届く範囲を一望する。
いない。
或いはと、把握した頃には遅かった。


『え・・』


場は斜め後ろに。
離れて重なる疑の言葉は、互いに自覚する前に口を衝いた。
それに周囲も気付き始める。

貂は目前の男が迫り、直後痛みが走った事を知り、
寳子は少女の狼狽が腹部に刺さる凶刃から為る事に気付く。

余りの事に追い付かないでいる。



場の刻が止まった。



輪を抜け、右扉へと臨む男が道すがら柱に隠れていた貂を襲ったという事。
仕込んでいた懐刀を己が敵前に構え、刃を突き出したという事。


口が戦慄く。


それが貂で

貂が刺されたという事を理解してやっと、時は戻る。



「てぇえええええええええんッッ!!!」



惨状に見える寳子は彼女の名を叫ぶ。
大きく踏み込み、数歩もかけず臣に寄り懐に潜り込むと、構えた柄頭で腹を抉る。
宙に浮いた虚ろな目の男は吹き飛ぶと、転がりながら苦悶に喘いだ。

その隙を見て玉座を蹴り、逃げ出す成矯。
壁はすかさず声を上げた。

「信っ!!成矯を追うんだ!!」
「っ・・くそォ!!」

一度は戸惑うものの、場を寳子に任せると信は成矯を追う。
残された者達は本殿を揺らすほどの怒号に包まれる事となった。



「散れぇええええええ!!!」


もはや何人たりとも近付くなと、それは命令の何物でもなかった。
貂を刺した男も何が何と、自分の行為に依然実感が湧かぬといった様子だ。
もぬけの殻にやっと身が入った程度の男を前にする。
寳子は対峙すると胸倉を掴んだ。

「王位簒奪に与し、本殿を穢し、そして武器も持たない幼子に刃を穿つ・・!
   
貴様のような下衆ッ!殺してやりたいだがっ!!
      
国の為に殺せぬ理由がある!!!それを肝に銘じ精々生き長らえるがいいッッッ!!!」

そのまま床に叩き付ける様にして放る。
罵られ放心しきりのそれは、向けられる切先を前に気を失った。
周囲も総崩れ、もはや逃げようとする者はいない。
山の民らはそれを纏めると得物で以て牽制する。
遠く彼女の様子を見詰めていた騰は、依然左扉の前に佇み、そして薄く笑った。


散れと言われてそのままであっては埒が明かない。
寳子に気圧されぬよう、こちらも重症の壁が必死に貂に寄る。
彼女の手首に指を当てると、脈が正常に打つ事を確認しこれを寳子に伝えた。

「すみません壁副長・・激昂して気が回りませんでした・・」

「お前が落ち込む必要はない!
   貂の事は任された、急ぎ信と共に成矯を追うんだ寳子ッ!!」

貂を悔いるようにして見詰め、意気消沈な彼女に壁は声を掛ける。
『寧ろよく耐えたと褒めてやりたい』
そう言う彼の気遣いに寳子は気持ち明るく振る舞うと、声なく頷いた。


一拍。

意識を切り替えるには十分―――― 十分とした彼女は居直り言った。

「・・バジオウ。竭氏の首、頼む」
「・・・・・」

黙する。
しかし否と唱える事のないその間は、応と同義であった。












城壁を超え門を潜り、逃げ続ける成矯。
それを背後から追う信は速攻で以て仕掛けようとしていた。


「俺が王だぁあああああ!!!」

「ちげぇええっつってんだろこの野郎ォオオ!!!」



寝言は寝て言えと足を引っ掛けこれを倒す。
見事に俯せて寝る体勢となった成矯はやはり寝言を吐き続ける。

前のめる儘に這いずる成矯の耳に、追い打ちを掛けるかの如く声が響いた。


恐怖に身を縮め固まる。
しかし背後から迫る怒気迸る声が、彼を嫌々振り向かせた。



「せぇええいきょぉおおおおオオオオオ!!!!」



謀反者の名を上げて鬼気迫る程に駆けつける寳子。
成矯はその様子を見るや否や、半ば狂乱の体で叫び腰を抜かした。
これには流石の信も割って入らねば只事ではないと悟る。

「おらっ、落ち着けって!俺がちゃんと止めといたからよ」

「落ち着いているっ!!」

「てねーから言ってんだろォがッ!!」


バカ、といらぬ一言を付け加えると信は寳子の腕を強引に取る。
彼女は口をへの字に曲げると信、成矯を共に睨むが気を向けて語るに吝かでないと納得する。
息を整えると静かに信の手を払い除けた。


「・・・、成矯」

「ぐっ・・ ・・きさまらがぁっ・・貴様らなどがぁあっ・・!」



「お前・・ ・・・何の為なら、死ねる」


傍と近くの信は見詰める。
寳子の問いに涙も鼻も垂らすままの子供は、呆気と彼女を見やる。


「死ねと言うんじゃない。・・お前が自分で選ぶんだ」


暫くすると笑いながら成矯は、
  王が死ぬ必要は何を以てしてもないと、そう言った。

寳子は双眸を閉じ、そのまま言を口にする。


「貴様の命は貴様だけのモノなんだろうな、成矯」

「当たり前だッ!!俺の命は俺だけのものだ!
   
少なくとも貴様らのような穢れた愚民にくれてやるものではないッ!!」


「そう、お前だけの・・
   ・・・『お前なんかの命一つ』で、落ちた千余もの命と釣り合うと思うなよ・・!!」

「ハ―――――くだらんッ・・!!
   俺の命はこの秦国全ての民と量っても釣り合わ」



言い終わる前に成矯の前に切先が向けられる。
剣の点が眉間を刺し、血を滴らせる。
これ以上声も上がらぬと成矯は押し黙った。


「成矯。お前に一つ 問 題 がある」


質問ではなく、問題であると彼女は言った。
この体は今なお秦国を旋回する何者かを髣髴とさせる。

正解の存在するこの問いに、彼がいつか話した、彼女がいつか聞いた言をそのまま用いる。


故に失敗など有り得ない だ ろ う な と、脅しの語勢で問いかけた。




「お前にとっての愚民が。 王に目通り死罪、話して死罪、同じ空気を吸って死罪・・」


王とは畏れ多い者。
しかしそれを問うているのではなかった。


彼は耳に慣れた言葉だと思った。
言い返そうにも剣を伝い、注がれる怒気に声が出ない。




「なら王の罪とは何だと思う」



王の罪。
この言葉に成矯はやっと気を戻し、剣を払うと声を張り上げた。


「馬鹿がっ!!王に罪などない!王は絶対だ!!王が規律だ王が理だ!!!
   貴様ら愚民とは違うと何度言っ
「っの―――――痴れ者がぁああああああああッッ!!!!」



吃驚に声を漏らす信を余所に、寳子は
成矯の胸倉を掴むと背負い、そして投げ飛ばした。
顔を庇う為か無理な体勢で地面へ落ちる。
右側面の肩や腕を抱え込むと絶叫した。


問いに対する不正解。
故に彼女は失格者への刑を執行した。


足元に転がる成矯の剣を、寳子は蹴って返す。
もはや信さえ傍観するより他ない状況である。
先程のように腕を掴み、制止しようものなら自身が同じ末路を辿ると本能から察する。

地面を転がり回り、痛みに悶え苦しむ路である。


(完っ全に・・)


キレてやがる。

寳子の熱に信も始めこそ動揺するが、今となっては冷静に現状を見守っていた。


「ひぎゃあああああ!!腕っ、が!あっ・・ぐぅっ・・!」


「王の罪とは無知!!
   世を知らぬ国を知らぬ民を知らぬ!!
         
そして!王の質を知らぬ事だ!!!」


「がぁああああ!!きっさまぁああ・・!
   王の、王族のっ・・ ・・正統なこの俺をよくもォっ・・!!」

「王族、中でも王とは尊き者・・
      だがな。天しか見ずに地・・即ち民を顧みない者が持つ威など高が知れている」


一歩一歩近づいてゆく。
獲物を見るような目の寳子に怯む成矯。
痛む腕を抱え、それでも踵で地を蹴り逃げようとするが僅かであった。


「お前は暗愚となるだけでは飽き足らず、反乱を起こし!ただ戦犯となり下がった!!
    そんな者、もはや王でも!!
人でさえもないわこの大馬鹿者がッッ!!!」



死罪であると。
剣を高く掲げる。

このような王を天が許すというのであれば、天をも殺すと突き付けた。


下る一閃は筋となり、見詰めるその者の瞳を裂く。
死したと勘違いしたのかも知れない。
剣を向けられた当人の身体は、呼吸をする事を忘れていた。
固まるまま蒼白のままの成矯は、猛る目前の、ただ秦兵を見やる。

裂かれたと思った瞳は無事。


血は、出ていなかった。



すると身体がやっと理解をしたと、一閃の末が耳奥で残響する。
すぐ傍に打ち立てられた剣を視線のみで追う。
成矯の頬には薄く血の筋が浮かんでいた。

刀身に呆気と映る自己を見詰める。
それさえ反応する余裕のない彼は、自身の前に立つそれにも気が回らない。

寳子は目前にあって、憮然とするままの成矯を見下し言った。


「・・立て」

「は・・ひ」

「立て」


命令をしていると、彼女は言っている。

幾許意識を戻す成矯は後退り、急ぎ距離をとる。
寳子はそれに目もくれず、詰まらぬを相手にしたと。
疲れたと言わんばかりに気怠そうにすると、地に刺さる剣を抜いた。
彼女より前に出る信は、剣を余すと成矯を追い立てるように言を掛ける。


「・・さっさと行けっつってんだよ。じゃねーと俺達がやっちまうからな」

「裁くのは大王贏政・・
  貴様の死路に、さっさと案内せよと言っておるのだ愚王弟!!!」


暫く黙りを決め込むと思われた寳子からの一再ならぬ叱咤に、成矯は剣を取ると泣き叫び走り出す。
右腕を抱きながらの不恰好な後ろ姿に信はやれやれとして手を腰にやる。

「ざまーねーな。・・竭氏やあんなガキに漂が殺されたかと思うと、やりきれねぇ」

諦観にも似ていたろうか。
しかし信自身は草臥れたと深く息を吐いた。
これには寳子も同じくする。

傍と目を合わせると、互いに笑った。


「ああ。・・結局は成矯とて周囲に惑わされ、血の重さに耐えきれなかった器の一つだ」


竭氏に惑わされてやったと、利用してやったと思っているのは当人だけであると彼女は言う。

幼い身に余りある。
あれもまたもう一人の誰彼であったと、寳子は遠く小さな背を見送った。


「だがあいつはそれを良しとし、兄王の死のみを望み国を捨てた。一番の悲劇は自分だと言ってな。
    それが真の王などと笑わせる。無知であり、また恥を知らぬ。・・私はそれに一番腹が立ったんだ」


小さく笑う信に疑を投げかける寳子の姿は、既に普段の様に戻っていた。
それに安心したとは、この場にいる何者も気付いてはいない。


「―――――いや、いいキレっぷりだったぜ寳子。スカッとした」

ふと。

「そうか?・・そうだな。私もスカッとした」


しかし言葉に表すほどに確たるものを感じた訳ではない。

馬鹿を正当に叱咤できて爽快であったと。
そう言うと寳子は伸びをし、一息吐いた。

彼女の言葉に面食らい、大きく笑う信。
そんな彼を前に寳子も幾許荷が下りたとまた二人で笑った。










眼前に広がる景色は只管に乱戦であった。
寳子が去った後も相変わらずの入り乱れる状況に変わりはない。
広場に到着する成矯は碌にこれを見ずに、息を切らせたまま戦場端に佇む。
これに控えていた参謀肆氏は気が付いた。

「成矯様っ!?何故お一人でこんな―――――まさか本殿で何か!?」

「竭氏の奴も・・他も、殺された」


短く、そして余りに急な事実を前に息を呑む。
成矯の言葉を俄に信じ難い肆氏は有り得ない事と、自分に言い聞かせるよう反する。

一体誰が。
そう言う自身の脳裏には何者かの姿が映っていた。

「回廊から入ってきた猿共が殺しきりおったわッッ!!!」

(左慈が・・抜かれた!?)

事実を呑むと急ぎ思案する肆氏。
しかし巡らせる案の辿り着く先は一つであった。

(竭丞相が死んだとなると・・今この時を以てして我々は)

目前には肆氏を罵り、彼に剣を振るう成矯の姿があった。
双頭あればと言ったのは飽くまで寳子を挑発する為のもの。

王弟側の負けは必至だった。


「お止め下さい成矯様・・!」

「ならば貴様が何とかせんかぁあああッッ!!!」

騒ぎに気付く昌文君。
成矯の姿を認めると本殿の様を察した。



しかし急には急を呼び寄せる。
役者が揃うなか、招かれざる者が姿を現した。


頭上から将軍王騎が降る。
様の儘、確かに身を高くから降らせると眼前に乱戦の状を置いたのだった。


響動めきの起こる中、自軍を引き連れ悠々と横入りを果たす。
剣戟は止み、全ての視線は将軍王騎へと注がれた。

「王騎・・いたのか」

(一体何をしに・・)

呟く昌文君に一瞥をくれる王騎。
一方、内に呟く肆氏は焦っていた。

昌文君の偽の首を差し出した王騎はもはや竭氏、王弟の側でない事は明白であった。

魏興の居ぬ今、王弟を匿う側に切り札はない。
ただでさえ騎乗の体の昌文君を相手に窮するという事態だ。
さしもの雄を失ったのであるから、肆氏の表情も苦い。

王騎は歩を進め、大王贏政の前に立つと高く天を見上げた。



「降りそうで降らないこの曇天。
   ―――――嫌いじゃァ、ありませんねェ」



陽を雲が厚く覆い、如何にも空色怪しいといった体。
内に込めきれず轟く雷鳴に、王騎は心地よいと耳を傾ける。
楊端和と昌文君は王の前に立ち警戒を強めた。

「何をしに来た王騎!
   成矯を裏切り我らに就くとでも言うのか!!」


「ンフフフ。ご冗談を、昌文君。
   貴方達が余りにも楽しそうにジャレていたものですから。・・場を濁しに来ただけですよォ」

悠長に笑う王騎に昌文君が熱る。
それを大王自らが打ち払った。

「将軍王騎。要件があるなら早く言え。
   俺達は忙しい―――――お前に構っている暇はない」


冷淡な言葉に政を見下ろすと、王騎は言い放った。



「貴方の命を、頂きに来ました」



答え次第でと、王騎は言う。
その答えの要る質問を王騎は口にした。


「質問はただ一つ―――――
   貴方様は、一体どの様な王を目指しておられるか・・と、いう事です」

言うに事欠くではないが。
誰もが何と、疑を抱くには存分な質問だった。


「じっくりと考えてから、お答えください」


刻はある。
敢えてくれてやると目前は言う。


「私の宝刀は不遜な言葉を許しませんよォ・・?」


滾る宝刀を構えると、大王贏政へと向ける。

違えば本気で殺しにかかると、王騎は長らく研いできたその刃を惜しみもなく現した。



これに怯む秦王ではない。


「中華の!唯一王だッ!!」


物怖じ一つせぬ体。

当たり前だ。
違おう筈もない。

答えは内にある、それを言ったまでと政は王騎を前にして堂々と言い放った。


驚きもしない。
その答かと彼を見詰める。

王騎は知っていた。

ある少女より聞き及んでいたものを、確かめたまで。
誰にも聞こえない声は、王騎の中に内在していた。


「この五百年続く大乱の中―――――・・あの方も、そんな事を言っておられました」

「昭王の名は口にするな。それがお前の為だ」


かつて戦神と言われたその者の名を口にしようとする王騎を、政が止める。
今後のお前には必要ないと、二度と語る事を禁じた。
皆が括目する。
昌文君はその名を目前に出す危うさを知っていた。


「我が曾祖父を慕っていたのはお前だけではない。
   あらゆる者、あらゆる国がその名を知らぬでないだろう。
     しかし崩じて七年!昭王の影を追う限り!お前の降り立つ地は無いぞ!!」


無論こちらから止まり木になってやる気もないと突っぱねる。


「俺と共に戦いたいと願うなら、昭王の死を受け入れ―――――
   
そして再び中華へと羽ばたくがいいっ!秦国の怪鳥、王騎よッ!!」


答えきったと、政は王騎を見詰める。
宝刀の滾りは鳴りを潜めたようだった。





(寳子・・あのとき聞いた言葉が妄言の類ではないと、ちゃアんと確認が出来ました)


本気で夢を描く瞳―――――――

その輝きを、王騎は己の満足のゆくまで見詰める事ができたと。


(貴女も王も本物。
   ・・合格ですよォンフフフフ)


同志の勇へと向き直る。

「昌文君。貴方がバカに熱くなっている理由が少しだけわかりましたよォ。
   王と剣と、そして盾。駒は揃えたようですねェ」

ぐうの音を上げる昌文君に笑い呈する王騎。
久方ぶりの語り合いを楽しむ様にも見えた。

問答は終えたと引き上げを宣言する王騎に、皆が一時の場の収束を感じる。


「秦王。私が貴方の元で戦いたいなどと、自意識過剰も程ほどになさい。
   王弟の反乱如きで手を焼いている暇はありませんよォ・・?」

翻り外套を棚引かせると、王騎は背を向け軍を退く。
撤収の声が響くと並ぶ隊列が整然と向きを変える。
降りてきた城壁の梯子を前に、遅れて来る何某が悠々とこれを以て降りる。
その様子を見た王騎は、騰にも個別に撤収を言い渡す。
ただ応と返事は返された。



「で!?貂の調子はどーなんだよっ!」
「壁兄が見てくれているっ!・・そうこう言っている内に着―――――」

遅れて来る者がここにも二名。
門を過ぎ、二人は成矯と肆氏を尻目に括目する。
片や圧倒的な武威の気配に、片や大きすぎるその存在にである。
遠く将軍王騎を認める二人は言葉を無くし、その場に留まっていた。


(王騎・・・将軍っ・・・!!)


何かを語ろうと、叫ぼうとするが出ず。
だからと言って駆け寄る事もせず、寳子は去ってゆく王騎の後姿を見詰めていた。

すると途中で振り返る王騎。
傍とする彼女を彼も認める。


早鐘を鳴らす鼓動は忙しない。
それを知ってか知らずか王騎は、彼女のよく知る体で笑った。


無視できぬそれに―――――いっそ、笑うより他あるまいと溢す。


即して鐘は止み、寳子は安穏とさえする心地を掴む。
万事、彼方においてはうまくいったのだと、自然にそう思った。




「なん・・なんだよ、アイツ。あの、すっげぇ遠いのに、ヤバい感じがした」

「王騎将軍・・その武威は言葉に表す事ができない。それほど」


強い。
この言を紡ぐ事さえ厭く程にと、寳子は敢えて口にはしない。
佇む二人を前に狼狽える成矯を庇い、構える肆氏。
これに信と寳子も気付くと、睨み合いが始まった。

(場を収めたか王騎・・今なら竭丞相の死を悟られぬ内に勝負を付けられるが・・)

「諦めろ肆氏。勝負は決した」    

「フ・・」

寳子の言に余裕の体で以て臨む肆氏。
その怪訝な様に彼女は改めて剣を構える。

「どうせ其処な者に聞いているんだろう。
    竭氏は死んだ。その器で再興を図ろうにもそれは脆いぞ、肆氏」

わかっているのだろうと、そう聞こえた。
しかし尚も挑発を続ける肆氏に、寳子は厭いたと剣を空に薙ぎ制する。

「よくよく考えてみればあの挑発も出来過ぎていた感がある。
   ―――――――私にお前を斬らせて、まさかそれが本望とは言うまいな」


「・・・・・」

「そんな路の開け方でッ!勝手に一人満足して死に逝こうなどと許さぬからなッッ!!!
   何より自軍の兵にどう死に顔を向ける気だ!笑ってかっ!?
     皆が満足して死ねぬなか一人!!ただ兵は死ねと言ったお前がッ!!」


謀るも大概にせよと、寳子は声を張った。


「私を!王を!国をッ!!侮った罪は贖ってもらう!! お前は降れ!肆氏ッ!!」



唖然と口を凡とするならまだ救える。

―――――降伏を迫られ笑うなどどうかしていると、肆氏は竭氏参謀の肩書きを捨てた。



「皆の者よく聞けッ!!双頭の内一つ、竭丞相は死んだッ!!
   
首魁を失い!小物の首一つで持つ秦国ではないぞッッッ!!!」



本殿を共に制し、政も昌文君も在る姿を認める寳子に憂いはない。
その声は人が感じ得る全ての音で以て遠く、そして高く天に届いた。


響動めきが起こる中、敵兵の声が上がる。

「うっ、嘘だ!!丞相が死んだなどとっ・・
   奴らの謀りだっ!偽言に過ぎんっ!!惑わされるなーーーッッ!!」


「ところが嘘じゃねーんだなぁ」


信の言葉に全兵が其方を向く。
成矯は信、寳子はもちろん、状況の益々の悪化を恐れ自ら肆氏の背を脱し逃げる。
肆氏も体は傾け、しかしこれを追わず寳子らと距離を置いた。
その間にも背後にバジオウら山の民が、竭氏の首を掲げ参じた。

「信・・寳子」

「よォ生きてんな政!・・って事でよ。
    おらテメェらッ!!親玉の首はここにあんぞ!!!
      よォーっく見とけよ!この首も!!
誰が本当の王に相応しいかもなァ!!」

場の全体を通して声を張る。
寳子はその姿を安堵の体で見詰める。

何より信が王の在り処を語る事に意義があった。


「秦の王サマは政だっ!!文句のある奴ァかかって来いッッ!!!」


威勢はいい。
だが甚だしいと、敵を刺激するなと寳子から拳を食らう。
文句を言うが受け入れない。
打って変わっての様相に呆気とする者多数であった。

その間にも成矯は衛兵の内に紛れ逃げてゆく。
兄王との再会、成矯は大敵に自ずと対峙した。

「ぁっぐ・・!!」

徒ならぬ気迫の政を前に成矯は剣を構え睨み付ける。
場の只中で揃う二者の行く末を、両陣共に固唾を呑む。


「何をしておるか貴様らァあああ!!
   さっさとコイツを斬れっ!殺せぇええええ!!!」



宣う成矯と衛兵達の間に明らかな温度差が見受けられる。
激昂の儘の王弟、そして戸惑う儘の兵共に成す術はない。

諸共せぬと政は真直ぐに成矯を目指す。
剣の遥か届く距離。
大王は眼力で以て射殺すようにして彼の目前に立った。


「成矯。お前は人の生まれの良さが全てと勘違いした只の愚か者だ。
   お前には決して王など務まらぬ!!」

「半端者が偉そうに―――――ではお前に王が務まるとでも言うのか。
   高々王族の戯れで出来た庶民の血を引く貴様がっ!民を支配できるとでも言うのかッッ!!!」


「出来る!!」


疑いのない、宣誓にも似た言葉に成矯は抱える内からも、後ずさる外からも負けていた。



「ッたく半端モンとかンな馬鹿馬鹿しいこと言ってんなよって。なぁ?寳子」
「・・・そうだな。
   血の濃さだけで優劣が決まるというのなら、
     これほど簡単な事もなく、また愚かな事もない」


「ただ血自体は意味を持つ。王族の青(碧)き血というものは人に畏敬の念を齎すからな。
   いま王族と言われている一族も初めはただの人で、集まりのなか台頭した。
     この戦乱の世、王を倒せばその者、その一族が次なる王を名乗るだろう」

「は?血は赤いだろ」
「そうだな」

もはや語るまいと適当に応えたのが知れたのか、彼女の淡泊さに噛みつく信。
こんな時に面倒臭さこの上ないと、儘ならぬ直球の質問に考えあぐねた結果、寳子は語る事に決める。

「青とは現とは別の世のモノの象徴でもある。
   暗に王は人らしからぬ、また同一であってもいけないという見方だ」

「へー。・・そんじゃあお前のその目もスゲェんじゃねーのか?」
「え・・」

色々混じってるけど、と。
まさか、何を言われるでもない。
何を言われたとしても、意にも介さない筈と。

「化物なんじゃねーのーっ!なんつって・・」


何かを期待するならば、した誰彼が悪いと彼女は遅れて笑う。

彼にとっては完全なる冗談の類。
有り得ない故。
しかし彼女にとってはそうではない。

しかし。

そうかもな、と。
何食わぬ顔で流す妙さに信は、慌てて訂正に入った。


「んだよこういう時に怒ってこいっつーの!・・嘘だからな!嘘!」

「私も嘘だ。化物になどなってやる心算はない。
                 ・・私はただの人だよ。信」


斬られれば血を流す、心臓を穿たれれば命を落とすと。

雰囲気の変わる寳子に信は若干の狼狽えを見せる。
気付いた彼女は信の頬をつねる。
軽くつねるそれに、大袈裟に振る舞う信。
離し、やれやれと息を吐く。


呪われた毒の体とは、口が裂けても言える筈がなかった。



「眼の色などどうだっていい。髪だって。
   ・・私が気にせずとも、気にしてくるのは周囲の方だ。
      やたらと好奇の目を引くだけ面倒とは思う。特に成矯のような愚を前にな」


「なに言ってんだよ。周囲がどーだろーが関係ねぇ。
   結局お前も周り気にして、その髪も目も自分で気にしちまってるって事じゃねーのかよ」


唖然とする。
そんな寳子に構わず言った言葉も不味かった。

信の言葉と存在そのものが、彼女の内に土足で踏み入る事の間々あるもの故に。


「でもよ、その目」


何者かを介して、それは訪れる。




「俺はいいと思うぜ。綺麗じゃねーか」



どうしてこうも似るのか。


(お前には悪いが)


親類ほどにとは聞いていたが、これではまるで―――――




(・・・居づらいな。全く)



こうも頻繁に過ぎると遣り辛い。
首を横に振る。
重ねて見るなど有り得ないと、可笑しいと短く嗤った。



語る間にも剣戟が響く。
信と寳子は身を乗り出すと、声を揃えて王の名を叫ぶ。
成矯が政に斬りかかっていた。


「認めぬ・・純血の俺がお前如きに劣ろうなどと一切認めぬッ・・!
   
俺が民を支配し!!国を強くするのだァあああああッッ!!!」

「曲がった教育を受けたな成矯・・!
   俺やお前が思う程、民は単純ではないぞッ!」
      高みで反り返り民を知らぬままただ見下すッ!!
         
世を知らぬ!人を知らぬからお前は今も一人なのだ成矯ッッ!!!」


政をその言と共に斬るかのように、成矯は再び剣を振り下ろす。
これを政は剣で受けない。
皆括目する中で、しかし声を上げたのは成矯の方だった。

腕を切る程度。
血も噴出さず垂れる程度。
骨に達さず肉の切れる程度。

その全ての程度が低かった。


政の剣が成矯の身を斬る。
大袈裟に倒れ込む成矯に政は冷ややかな言葉を浴びせた。
至極尤もな言に、しかし成矯に聞き入れる余裕はない。


「いまお前が流すそれ以上の、到底量り知れない血が無駄に流れていったんだ。
    お前の気まぐれの為に。多くの者が命を落としたんだぞっ・・わかっているのか成矯ッ!!」

「贏政貴様ァあああッ!!この半端者がぁあッ!!!
   
俺にこんな事をして只で済むと思うなよッ!!覚えてろよいつか「言いたい事はそれだけかッッ!!!」

地に仰向き倒れる成矯を殴った。
胸倉を掴み引き上げると、更に右の拳を引いた。



「成矯ッ!!お前は人の痛みを知れッッ!!!」



地に倒れる事は許さぬと、胸倉を掴みながら殴り続ける。
繰り返される謝罪の言葉は未だ足りぬと、政は黙って彼を殴り続けた。

みな唖然と光景を見やる。
加勢しようとする者も、止めようとする者もいない。

たった二人だけの、この乱最後の戦場がそこにはあった。
斬り合いの生きる死ぬの話ではない。
殴り合い、と言っても一方的な。
  兄から弟への教育的指導と言えば聞こえがいい。

己の拳が赤く腫れようと只管に殴り続ける政。
こんなもの、いくら殴った所で知れている。

だがやっておかねばならない理由があると、彼の拳は成矯を打った。


信も寳子もそれを遠く黙って見やる。
首を取らねばならない相手だ。
取ってやりたい相手だと寳子は思う。
しかし剣の柄を持つ自身の手の、気がない事に憂う。

こんな事でどうすると
こんなだから甘いと言われるのだと自身への非難を反芻する。

繰り返し繰り返し
それこそ成矯が殴られ続ける程に繰り返す。

しかし彼女は傍と
  そんな非難を放り投げてしまう。



(殺し合いより、ずっといい)


少し笑んでしまったかも知れない。
そう思うと一人、愚か者と呟いた。



「戦いで死んだ者達の思い、受けた痛みはこの比ではないぞ。
    勝敗が決した今
―――――お前を殺す価値もないッ・・・!!」


殺せるが殺さぬ。
この言葉で勝敗は決した。


「下らぬ事で血を流し過ぎたッ!これ以上の争いは無用!!
    全員の命を保証してやる故、直ちに投降せよッッ!!!
      
成矯、竭氏の倒れた今を以て!!ここに反乱の決着とするッ!!!」


刃向った衛兵、敵全員の命を保証すると大王贏政は高らかに宣言する。
極刑を免れないと危ぶんでいた皆々も、これには開いた口が塞がらない。
信と、もう一人を除いては。

(贏政さま・・)

先に見える姿に敬服する。
寳子は自ずと拝手し、政はそんな彼女を認めると険しい表情を緩める。
そして彼女も確信を込めて微笑み、頷いた。


(貴方は必ず、この中華の王となられる―――――――・・!)


暫くして場は決したと、信と寳子が兵の中を分け入る。
その風体は堂々としたものだった。


「聞こえねぇのかっ!?武器捨てて降伏しやがれってんだよォっ!!」

「急げッ!!我々は既に多くの命も!刻も捨て去ったッ!!
   
あとは取り戻してゆくのみ!!生き長らえた命を絶やすな!!
      
能う限りで以て国を築く礎となれッッ!!!」


信の声に敵方の持つ得物の先は地を指し、
寳子の声に俯く者は再び頭を上げた。

人も場も、決した瞬間であった。


「この戦っ・・・俺達の勝利だァああああああッッ!!!」

ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!


敵味方、否、もはや秦人しかおらぬ場の中心で勝鬨を上げる。
崩れ落ちる兵はそのままに、元大王側の者達は大きく拳を振り上げた。






元王弟側の者達が連行される。
それは成矯も同様であり、連れられ遠く寳子の方に近付いてくる。

(この者の毒・・消えるだろうか。
   隠して仕舞うには心許なきも事実・・しかし)
    
寳子の目の前を成矯が通る。
通ってゆくと思われたその者は彼女を前に止まった。

「・・・・」

「・・ ・・・ぼ、えておけよ・・」

時が経ち、腫れあがった顔面は既に見るに堪えない程の打撲の跡を残していた。
寳子はこれを目を細め痛々しく見詰める。
成矯はそれが気に食わないのか身を乗り出すと引率の兵に制止された。

瘤に隠れた眼が隙間から鋭く彼女を睨み付ける。
全く動じないと、寳子は微動だにしない。


「覚えておけよ寳子ッ・・!王族を拝するにあるまじき言動の数々ッ!
    お前の塵のような命と引き換えても到底贖えぬぞッッ・・・!!」


「・・忘れるものか。竭氏と結託し、非道の限りを尽くした業の数々。
     貴様が先、いくら知らぬ存ぜぬを通した所でこれは消えぬぞ。
       死んでも消えない。消さないっ・・!私はお前を許さないからなッ!!成矯ッッ!!!」


矮小に過ぎる体を気にはしないが、雑言の一切に耐える事は出来なかった。

寳子は最後の最後で殺し合いに準じなかった決着を、確かに喜ばしいと思っていた。
しかし仲間の姿、漂の姿が脳裏を掠めると暴言を禁じ得ない。


命あっては佳き事と、しかしその存在を許容できる程に―――――今すぐ許しきれるかと言えば、否であった。


兵として、民としてこの王族の傍若無人を許したい。
しかし許していいのか。
許せる時が来る。来るだろうか。否応。
ここまでに持ち込む事で精いっぱいだった。

囲われ封じられるまでは、未だ彼女の中で成矯は反逆者である。
寳子の直さぬ言葉遣いに彼は不敵に笑う。
許しを請う気もないと。
変わらぬ耳障りな嗤い声はまるで、彼女を罵るようでもあった。

秦国に仇名すを示唆する。
そんな含みを持つ体に杞憂であると切り捨てる。
二度と見える事のない先を信じ、これを後にした。


「怒りの矛を収めよ寳子」

昌文君の声に仮にも王族を前にして、傍若無人は自身であったと恥じ入る。
彼女は連行される王弟の背に向かい拝手をすると、慎み深くして後ろに下がった。

「暫くは表に立つ事もあるまい」
「はい・・」

気持ちはわかると言わんばかりに昌文君は寳子に声を掛ける。
自身辛みを知らぬ筈のない体を前に、彼女は益々先程の己が矮小さを悔いた。

そんな彼女の前に止まる足音が一つ。
元竭氏参謀、肆氏であった。

「寳子」

「・・肆氏、様」

敵同士ではあったものの、どこか不可思議な邂逅である。
長きに渡り味方であったような空気を、彼らは具に感じ取っていた。

「よくやった、と私が言うのも可笑しな話だ」

「いえ、可笑しくはないと思います。
  ・・貴方にはやはり、竭氏の側は似合わなかった」


あのとき王が割り込んでいなければ
どちらか、若しくは双方が戦場に散っていたと寳子は語る。

最悪を免れ、最良を選択できた事の喜びを湛える様に互いに微笑んだ。

「貴方の此度の考えは仕える者が竭氏であったから、まだ事を成すに能うかも知れませんでしたが・・
   大王贏政の元に在っては今後、慎んでいただきたいものです。
     また、我らが王は貴方にそのような考えをさせるお方ではありませんが」

肆氏が承知している、と短く返事をすると頷く寳子。
そして多少言い辛そうにその者の名を上げる。

「・・魏興様の事は・・・」

その名を聞くなり肆氏は嗚呼、と。
大袈裟に騒ぐでもなく淡々とした物言いで向かう。
思う所がないといえば嘘であった。


「仕方のない事だ。我々は戦をしていたのだから」

   
伝える肆氏の言葉に応えるが反応はいま一つ。
相変わらずの苦い体の彼女に肆氏は言葉を足す。
それに寳子は気付くと下手に笑って見せた。

「それにしても中々に得てしていたろう、私の挑発は」
「・・はい。私が激昂して粋がるには十分な程に」

つい声を出して笑う寳子であったが、それ以上に大きく笑う肆氏の声に掻き消される。
周囲は何事と窺うより他なく、昌文君もその類であった。


「しかしな寳子。先のお前への挑発。
   あれは目的こそ別にあったが、投げ掛けにしては本質的な部分で偽りではない」



『命の如何』
それであると肆氏は言った。


「魏興の事もそうだが、戦乱の世にあって多く奪った命を決して振り返るな。
   奪われた命を悲しむのも一刻の事とせよ。
      全てを振り返られるその時まで、お前は前だけを見ておけ」


向かい合い佇む二人。
わかっている、しかし実行に難い事も両者知っていた。
故に言う者は言い、聴く者は音もなく聴いていた。

「お前は甘い。しかしその甘さは戦のなき世であれば確かな優しさとなるだろう。
   大王の仰った統一が叶うまで、それは表には出さず奥へと抱いておけ。
     お前のそれは多く振り返れば振り返るだけ、穢されてゆくだろうからな」

言って肆氏は両手首を共に縛られながらも、その体で寳子に拳を差し出した。
一時思案する彼女も、この意を汲み取ると右拳をそれに当てる。

言葉はなくとも熱は伝わる。
すると突然肆氏は両の手を広げ、彼女の拳を包んだ。



「綽名を、『紅寳』」


急に呼ばれるその名を、寳子は受け止める。


「その綽名、厭というなら転化してみせろ」



傍観していた昌文君も流石に警戒はするものの、当の彼女が怯まぬのだから心強い。


「元々その名はお前が『紅寳』たらしめる行いより来ている。
   ・・後の世であれば、その紅を血と蔑む者もいなくなる」


本来とは相反するその色の意味を、己が力で以て塗り替えよ。

被ったとしても栄誉であると。
称える程の転化を以てせよと。

拳を包む手を、今度は彼女が掴む。
肆氏は目前を見、あの頃より格段に伸びた背に、面持ちに安堵する。
寳子は朗らかに直ると、そのまま手を離した。




拝手もし終わり、肆氏の背も見送る。
その最中に信と政が寳子の元へやってくる。
昌文君は政に拝手するが、彼女は未だ遠くを見詰めていた。

「おい寳――――――」



「いなくなるだろうか・・」


挨拶しそびれた信は傍と止まると政を見やる。
しかし彼は彼女の背を見詰めていた。


「後の世・・・」


甘さが優しさに変わる頃。



「英雄はただの人殺しになる―――――――・・」




奪った、奪われた命を振り返る頃。
人殺しとしての自分に相対する頃。

蔑の意は形を変え、再び齎される事となるだろう。





(それがどうした)


そんなもの今更。
受ける度量は既にある――――万事呑み尽くすと定め、
故に彼女の瞳に揺れはなかった。

(魏興様の事も同じ秦の者であったから気に留めたまで・・それも今回で終わりだ。
   
   他国は勿論、憚れば内の者であろうと私は容赦しない。
     途中刃が鈍ったのは己が声で首を絞めたまでの事だ、二度はない。
       
私は護る者の為に躊躇なく、これまで通りに戈を振るってみせる)

両の手を握りしめる。
首を小さく横に振る。
微動なそれは右に左と、一度づつ行き交った。

(戦乱の世で、他を制しようとする中で消える命を気にするなど傲慢だ。そんな余裕を持つこと自体が甚だしい。
   戦場で死地に立てば必死にならざるを得ない。そうすればそんな気も回せなくなる。
     ―――――足りないんだ。もっと倒して、討って、薙いで・・呼吸をするようにして、慣れろ)


秦国に仇名すを、憚るを殺す。
甘さも優しさも要らないと彼女は言った。


(私は負けない。押し潰されてなんかやらない。
   紅寳だろうが血狂いだろうが言わせてやる。
     
私は私の殺した分だけの証を・・秦の繁栄を以て齎すんだ。必ず・・・!)


秦の雄として台頭する。
彼女は願いを振り翳し、その威を飾る背を王と剣は確かに見届ける。
昌文君は揺れる事のなくなった彼女の姿を、感慨深く見詰めていた。











本殿へと続く階段を上る。
玉座に就かねば制圧とは言えない。
つい先程まで慌ただしく駆け降りていた事も今は昔、懐かしささえ覚える体であった。
前を政と信、そしてその後ろに寳子が控えていた。

「大王、宜しいですか」
「何だ」

声を掛ける寳子に応じる政。
その内容は単純なものだった。


「先を行っても、宜しいでしょうか・・」


再び呟かれる同じ言葉はしかし、その意味を変える。
そんな事かと許可すると、彼女は礼をして弾かれる様に駆け上って行った。

「本殿にまだ何かあるのか」
「あー・・いや、多分貂だ」
「・・貂に何かあったのか」

淡々とする政ではあるが、その実、焦りが見て取れる。

「刺された。・・壁のあんちゃんがついてっから大丈夫とは思「急ぐぞ」
「おっ、おうっ!(ん?貂を心配してだよな?壁のあんちゃんが不安って訳・・)」

一抹の不安を抱きつつ、二人は寳子の後を追った。


「貂ッッ!!!」

本殿に響く声に壁は目を覚ます。
余程疲れていたのか壁は貂と寄り添い、間の隅で二人眠っていた。

「貂っ!?壁兄ッ!」
「だっ、大丈夫!大丈夫だ寳子!傷は負ったが命に別状はない!」

鬼気迫る彼女に慌てて説明する壁。
寳子は聞くや否や仁王立ちの体を解き、膝をついて貂の頭を撫でる。

「そうかぁ・・!貂・・良かった・・本当に良かった・・」

眠りこける貂は擽ったそうに身動ぎをすると、寳子はすまなそうに手を引き込める。
貂を見守り続けた壁に感謝を述べると、今度は壁の傷を窺う。

「しかし壁兄もその深手・・急ぎ看ましょう。
   ご自身で何か違和を感じられる所はありますか?」

「いや、いい。それよりも広間はどうなった・・」
「我々の勝利です。・・輩は多く失いましたが、王や殿、山の王も健在です」
「そ、そうか・・安心した」

壁の右肩に寳子が触れる。
痛みに声を上げると我慢を促す彼女の容赦ない言葉が浴びせられた。

「・・少し骨は見えますが削れているくらいですか。
    湯で周りを拭いてから薬を塗り込みましょう。後は木を当てて安静に。あと熱が出ますから―――――」
「(み、見えてるのか・・)あぁ、そうだ。寳子聞いてくれ。
                 怪我の程度を見るため仕方のない事だったんだが・・」

「え?」

「貂は・・ ・・女の子だったんだッ・・!!」

割り合い大きめの声で言う壁を前に、寳子は薄く口を開けるが言葉を発しない。
暫くして、対して驚く事もなく寳子は言い放った。

「壁兄」
「う、うん?」アレ?
「他に言ってはいけませんからね。絶対。決して」
「まさか寳子知っ・・はっ!こんな童女が戦場―――――」

もはや何から驚けばいいやら。
壁の困惑の体を放り、寳子は彼の右腕の側の衣を剥ぐ。
布と化したそれを剣で裂き、両肩を引き付けるようにして縛る。
大小の呻きも虚しく、届かないと彼女は強く固定した。

「・・その事に関して私は彼女に何も言えません。
     しかし私も壁兄と同じように、貂が戦場に出続けるというのは感心しません」

「ならやはり他にも言っておいた方が・・!」

「彼女はこの反乱が終われば謝礼を元に暮らし、戦からは離れると言っていました。
   ・・・私はその言葉を信じたい。だから今は彼女の意を尊重してあげて下さい」

「貂が、黙っていて欲しいと・・」
「言っていました。幼いだけでも都合が悪いのに、女と知られては居づらいのでしょう」


環境は違えど気持ちはわかると言い、寳子は貂を庇う。
自身の周囲に恵まれた環境であっても苦労したというのに、
彼女の場合は身寄りもない、更に言えば黒卑村という治安の悪い中での生活を送ってきた。
それがどれ程の苦労、また心細いものかは想像に難い。

彼女は幾許であるが貂に、昔の自分を重ねていた。




「ぅおおおおーーーーーーいっっ!!!」


と、壁と寳子が語らう中で轟音が響く。
彼女は静かに立ち上がると信に向かう。


「貂を起こすな。斬るぞ」
「おっかなすぎんだろお前・・」


極端すぎる!差別だ!
宣う信に寳子は区別だと頑と言い放つ。

信が寳子の胸倉を掴む。
寳子が信の胸倉を掴む。

背丈の似通う二人はぎりぎりと近距離で睨み合う。
そんな両者を壁は、程度は同じと黙って切り捨てた。

呆れふと前を見やると、見慣れる姿が目に入る。
壁は背を正しその者の名を呼んだ。


「!?大王っ、よくぞご無事でっ!!」
「ああ・・お前達もな」

政は既に玉座近く。
横目で彼らの始終を見詰め、放っていた。
その様子に信の胸倉を離す寳子。
急に恥じ入る彼女に小さく悪態を吐きながら信は彼方を見やった。


政は周囲を見渡すと、自身が血の海の只中にいる事がわかる。
思い描くより凄惨な場を前に、本殿での戦いの壮絶さを知った。

玉座を見上げると、程なくして段を上りそこに就く。


―――――制圧である。

秦国はこの時やっと、あるべき王を受け入れ、あるべき姿を得た。

長い道であったと、項垂れる政の姿に寳子は喜び以上に胸を痛める。
しかし政が面を上げ一息吐くと、彼女も肩の荷が下りたように息を吐いた。


「へっ、オッサンみてぇだな」


すかさず信の頬をつねる寳子。
騒ぎ立てる彼を、然とする彼女を。


「ほっとけ」


相変わらずだと、政は笑った。



















そして日も暮れ、辺りが暗がり夜を迎えた頃。
戦場であったその場は、喜びに沸く会場と化していた。
あちらこちらの砦や路、広場から笑い声が絶えず響いてくる。
月を背に火を囲むと、山や平地関係なく酒が酌み交わされる。
秦王贏政と山界の王楊端和の盟約は、まずは秦国より広がりを見せる事となった。


「(貂もちゃんと眠ってくれたし、あとは・・)壁兄、壁兄・・!」

「ん?何だ寳子か、珍しいな・・お前が酒宴に顔を出すなんて」
「酒を飲みに来たのではありません。
   壁兄にお願いがあって・・然る方に伝言をと」

宴も酣とする中、それを掻い潜り壁を呼び出す寳子。
壁は怪訝に席を立つと彼女に遠く連れ出される。

「?何だ急に。私でないと駄目なのか?」
「楊端和、そしてバジオウ・・山の民に」
「たっ・・!!?」

ちゃんと後者の名は耳に入ったろうか。
壁の余りの為体に寳子は多少の距離を取った。



「ランカイを、山の民に預ける・・!?」

寳子の伝言を聞くや否や壁の顔色が変わる。
同時に本殿における戦いの中で、妙に寳子が気を割いていた理由を知った。

「山でなら居場所があると思うんです。
   山の民とてその界隈において戦が絶えぬはず。
     彼らの手荒い歓迎も、ランカイにとっては丁度いい躾にもなるでしょう」

「とは言っても・・あんな化物を」

敵として脅威であったそれを。
面子だってあるんだぞと言いたげな壁に対し、寳子は頭を下げた。


「この通りです。お願いです壁副長・・
    弄ばれ、捕らわれ終わる生など悲しすぎる・・!」


救えぬものは数あれど。
目に見えるものを援けられる機会があるなら尚更に。


頼めるのは壁しかいないと付け加える。
何故そこまでするのかと、壁は口にする前に思い留まった。

彼自身、普段意識せぬ事ではあるが、おそらくと推測する。
自問自答の内に終わり、壁は寳子に答えた。


「わかった。わかったが相手方次第だからな?向こうが拒否したら―――――」


壁が言い終わる前に怒濤の体当たりが彼を襲う。
初動は耐えたものの、首に巻き付きご機嫌に回り始める彼女を止める事は出来なかった。

「ありがとう壁兄ッ!!ありがとうございますっ!大好きっ!!!」

「ぐわぁああああッッ!!!痛っ・・
    私は大怪我をしてるんだぞォおおおッッ!!!」

傍と回転を止めるとその場に突っ伏す壁。
それを謝りながら寳子は程度を見量ると肩を貸した。



 



機嫌よく壁を戻し、宴の間を歩く。
酔っ払い共に誘われる中を一つ一つ断ってゆく。
山の民に遠慮している事もそうだが、何より彼女には別の目的があった。
周囲を見回すが、該当する者達は見当たらなかった。


(贏政さま・・信もいないな)

『寳子さまー!』

立ち止まり声のする方へと視線を向ける。
他の宴より少し離れた隅に彼らはいた。

「介兄弟か。どうしたこんな隅で」

「もういっそ認めた方が楽になれる気がする・・」
「諦めんなよッッ!!!」

大袈裟に涙する(フリをする)彼らに笑う寳子。
聞けば独自に今回の戦の総まとめ(参戦もしていない)に入っていたらしい。

「ううっ!反乱のとき俺らずっと城の外にいて
   もう殿も寳子様も野郎共も皆心配で心配で・・!」

「途中で変なジィさん二匹が出てきて窘めてきますし・・」

余りに音沙汰がなかった為に突撃を仕掛けようという話になったらしく、
それを止めたのが山の民らしき者達だったと介良は言う。

「それは助かった。お前達が妙に動いて騒動になれば危うかったぞあれは」
「面目ありません・・」
「王騎軍との戦いであんなに怪我しなけりゃ俺らも行けたのによー!」

悪態をつく介殻はしかし、不甲斐ない自分に一番腹を立てていた。
終わった事だ、次に役立てよとは寳子の言である。


「ところで寳子様はどちらへ?何か探しておいでのようでしたが」
「ああ、大王と信を探しているんだが・・お前達知らないか?」

顔を見合わせる介共。
右左別々に首を捻った。

「うーん・・すみません、見ていませんね」
「そうか。いや、いいんだ。大王に関しては思い当たる場所があるから」

そうなんですか?と介良が返すも介殻が割って入る。

「あの童はほっとくにしても、大王様は皆と飲めばいいのになー!」奪還成功したんだし!
「馬鹿か。正式なものならまだしも、こんな雑多な酒宴に参加されるものか。
   されても近しい者とだけだろう。ひいては我々に気を遣って下さってるのさ大王様は」

二人との会話もそこそこに、寳子は応とすると踵を返す。
そんな彼女に介共は酒の入った杯二つを土産に持たせる。

「会いに行かれるならコレ持っていって下さい!
      そして王と二人きりで飲んでくださいっ!!」 童 は 放 置 で !!

「なっ・・私は飲まな「はーいはいはいさっさとどーぞ寳子さま、っと」

介殻に背を押され飛び出すようにして宴の輪を離れる。
酒を零さぬように用心して止まる寳子。
気持ち振り返る表情は如何ともし難い、だが言うには及ばずと渋々去って行った。



「強引に送ったなぁ良」
「殻だって送ったろ?それに俺はあのドヤ顔士族に寳子様とられるくらいなら大王様派だからな」
「そうかぁ?俺は寳子様に王后なんて面倒なモンに就かれるくらいなら、一つ下の王家か蒙家の倅共だな」

先の訪問者を肴に語る。
彼女の宣う意志などこの際関係がなかった。
当人に知れれば手酷いが去った今、それはもはや杞憂でしかない。
介良は一気に酒を呷ると乱暴に杯を置いた。

「冗談だろ〜!大王様と寳子様ぜったい好き合ってるのに勿体ねーよぉおお!!」
「ばっか声デケェよ。・・俺は恋だの愛だの超えちまった感じするけどな。少なくとも・・ ・・・。
                               ・・よし。やっぱドヤだろうが王家のがマシだな」

「いやいやいやいや五百歩譲って蒙家だろ何言ってんの」
「お前の王家の倅嫌いは異常」

互いが互いを指差し、その指を圧し合う。
ぎりぎりと拮抗する力の張り合いは暫くして介殻に軍配が上がる。
負けの介良は己が曲がった指を別の手で握ると、痛みに悶え転げまわっていた。

「王家のはあんなんでも寳子様に本気で惚れてるっぽいからな。昔より色々マシになったし。
   蒙家のは仲が良すぎてわからん。女好きでよく侍らすし。何より王家のを後押ししてる節がある」あそこは本人より周りがウルサイ。

(王家の倅の不憫な所は、その好意に寳子様が本気で気付いてない所なんだよなぁ・・)

何かと理由を付けて、と。
思う理由もわからんでもないが、あんまりであると介殻は思う。

(『少なくとも嫌われてはいない、好意は持ってくれている・・はずだもんなぁ・・ハズって何だよ)男として同情もするぜ。

あんなに堂々と乗り込まれて、よくあそこまで
自分を低く見れるものだと当時謎の感動すら覚えたと。

相も変わらず転がる介良を介殻は足蹴にして止めた。

「ゼェ・・ハァ・・ ・・でもこれだけ言ってて何だけど、
             あの信って童にとられたらどうする?」

「いやーもー言うに事欠いてブッ殺すな」

「気持ちはわかるがお前が殺されるに100穆公」
「やめろよそんな気がするに100昭王」


笑いが起こり意味が分からんとアッケラカンに終わる。
秦国の王族先祖の祟りか、くだらんと言わんばかりに薪が弾け、二人に火の粉が掛かると騒ぎ酒を零す。
火力の増す焚火を慌てて消火し、彼らの宴は色んな意味で消沈した。

「・・・ ・・更にこれで誰とも知れない馬の骨に盗られたら俺は泣く」
「俺も泣く。そして共に飲もうぜ兄弟」

きょーだいじゃねーよっっ!!
知ってるッッ!!!


二人して杯と酒を持ち出すと他に場を移す。
兵共の宴はこうして延々と、一部を除き滞りなく行われた。






「ふぅ。杯なんて返せば良かったかな・・」

並々ではなくとも、酒の注がれた二杯を持って移動するには気を張る。
防具を脱いでいるとはいえ殊に段を長々と上るともなると少々骨が折れた。

夜風を感じ外へ出ると、誰彼の話し声に寳子は聞き耳を立てる。


「二十歳になり加冠したその時、呂氏から権力を剥ぎ取る。
   ―――――そして俺は中華に出る。・・信、それまでに必ず昇って来い」

「おう」


(贏政さま・・それに信もいる)

双方を探してはいたが、その二人がこうして城の高みに居るのだから
道理で見つからない訳だと納得する寳子。
一通りの話は終わったのか、信が威勢よく言を発する。

「っし!腹も減ったし、俺はこのあと皆と合流して飯食うけど、お前はどうする」

「さすがに疲れた。部屋に戻って寝る」
「んだよ、飯ぐれーちゃんと食っとかないと力でねーぜ?」だからヒョレ〜んだよ

言って政の両肩を両手で以てして大袈裟に音が鳴るくらいに叩く。
ついでと言って腹の辺りも叩くとこれを払われる。

「いちいち触るな」
「カカッ!案外筋肉あんじゃねーか政!
   そりゃ広場で戦えてたんだから当然っちゃトーゼンかっ!」

高らかに笑って見せる信に政は何も答えない。
挨拶もほどほどに、信は片手をあげてその場を去ろうとする。
これに寳子は慌てた。


(うわっ!うわわわわっ!!)

「・・ん?」

石像宜しく、隅の方に寄り背を向け固まる寳子を信は見つける。
立ち止まる信の異変に、遠く見ていた政も気が付いた。
暫し黙する。
信は思った。


(なーにやってんだこのバカ。)


気付かれているを気付いている。
しかし像となった身は相手から声が掛からねば実に解きにくい。
依然話し掛けてこない信に痺れを切らした寳子が、先に動き出そうとしたその時―――――

「ひゃぁあああっっ!!?」

「・・寳子?」
「ぶわっはっはっは!!」

なんとか杯を落とさず持ち堪え振り返る。
真っ赤になる寳子は別の意味で赤くなる信を睨み付けた。

「何をするっ!!」
「っはっは!!くくく・・って、おま、何・・
   それで見つからないなんて―――――はははっ!!」

「うるさいっ!笑うなっ!!
   人の背を指でなぞるなど不躾だっ!
この変態っっ!!」


「へんっ・・!?あのなあっ!お前がバカな事し・・
             ・・・お前、人の事そういう風に言っていいのかよ」

「は・・?」

急に優位と言わんばかりに態度を変える信を彼女は警戒する。
寳子は自身の持つ杯を前に身を固めると、信は不敵に笑った。


「さっきの技に関して言やあ、俺は村一番の達人だった」割と泣かせてた。色んな意味で。

(どうでもいい・・)


実に興味がないと寳子は警戒を解きそうになる。
しかし油断したも束の間、信は目を瞑り両の手を持ち上げる。
宛らその光景は何かしらの儀式でも行うかのような荘厳さだった。


「背中の弱ぇ奴ぁ―――――横腹も脇も弱い」


言って括目する目は狩人のそれであった。
知り尽くしていると言わんばかりに。
この両の手で狩るは数知れずと言わんばかりに指をならす。

狩る者狩られる者の図がここに完成する。
鬼気迫る状況を、しかし政は関わりたくないと遠くから気怠そうに眺めていた。

(・・・邪魔で帰れん)

「覚悟はいいなぁ寳子っ!!!日頃の恨み、思い知りやがれっ!!」
「恩を仇で返すとはこの事だ信っ!!掛かって来い、この両の手にある酒でお前を・・」


傍と、信の気が変わる。
両手を下ろし寳子に近付くと、彼女の持つ杯を覗き込んだ。

「んだよ酒持ってるならそー言えよ!
   おーい政!寳子が酒持ってるってよ!二人で飲もーぜー!」

「何が二人でだっ!これは大王と私の酒でっ!って私は飲まないんだが・・
   だっ、だからとにかくっ!お前は去れというんだバカものっ!」


何から何まで勝手であると噛みつく寳子。
彼にも用事があった筈であるが、彼女の頭からはすっかり抜け落ちていた。

信はそれに反しようとするも言葉を打ち止める。
暫くの思案の後、寳子を避けると素直に入り口へと向かった。


「・・・何だよ、そーいう事なら早く言えっつーの」
「え・・」


「やっぱ好きなんじゃねーか。政のこと」

「・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

小さく耳打ちされ、そのまま肩を叩かれる。
皆まで言うな、そう聞こえた。



(・・・何だろうか。いま、とてつもない誤解を生んだ気がする)


前にも言った心算だが、信には全く通じてはいなかった。
解かねば、と思う反面、いや好きではある、と嵌る。
寳子は堂々巡りな考えを抱いたまま動かず。
そしてそれを救ったのは政だった。

「・・終わったのか?」
「え!あ、始まってもいませんっ!!」

(何がだ・・)

もはや語るも疲れたと、政は立って眼下に点在する宴の火を見詰め、そして伸びをする。
そこに寳子は申し訳なさそうに近く佇んだ。
政はそれに気付くと再び腰を下ろす。
自身を真直ぐに見詰めてくる政に、寳子は先程の信の言葉を思い出すと顔を赤く染めた。
戸惑うが暗がりでは気付かれまいと、そう言い聞かせる。

「酒か?」
「あ、はいっ、あの・・よろしければ、と」
「酒が飲めるようになったのか、寳子」
「いいえ!その、持ってきたというより・・持たせられた、というか」
「・・そうか」

言葉短くする政は手を差し出し、寳子も杯の一つを渡そうとするが止まる。

「どうした」
「あ、いえ。何も飲まず食わずで酒を入れると、体に悪いと聞いておりますので・・」
「気にするな。一杯くらいで死にはしない」
「きっ、気にします!王のお体は国の大事と―――――きゃっ!」

政の伸びる手は杯にではなく、彼女の手首を掴んだ。
そのまま強引に座らされた寳子は目を点にする。
隙を狙い杯を奪う政は一口含むと咳き込んだ。

「だっ、大丈夫ですかっ!?」
「・・・ ・・熱い」
「―――――、言ったのに・・ ・・・ふふっ」

政は悪戯と顔を上げ、それに寳子は困ったように微笑んだ。
この場に在ってこの二人の図に安堵する。

再び咸陽の地を踏み、こうして親しんだ場所で
二人、生きて語らう事の出来る刻に何よりの喜びを見出す。

違う事と言えば、今は天の星ではなく地上の星を眺めているという事。
人の命と、その喜びの光を二人で見詰めていた。


その真新しさにまた、彼らは顔を見合わせて微笑むのだった。





一つ、また一つと途切れ途切れに、そしてゆっくりと言葉を交わしてゆく。
その間に政は少しづつ酒を口にし、寳子は相変わらず手の内に収めていた。

いくつかのやり取りがなされたのち、その名は急を以て現れた。



「・・漂の事は、吹っ切れたか?」


驚く寳子に、目を合わせていた政は視線を外した。
少し酔ったと、彼は杯を近く置いた。

「今のは、流してくれていい。
   反乱が治まって・・つい気が緩んでしまった」

「大丈夫ですよ、贏政さま。
   漂の事はもう・・大丈夫です。  忘れる事に、しましたから」


聞こえた言葉に驚く政は再び彼女を見やる。
しかし彼女は何も変わらず、ただ微笑むだけだった。


「忘れる・・・?」

「はい。漂をこうして語るのも、敢えて思い出すのも・・今、このとき限りにしようと思うんです」

政は何も言わず。
言えず、下方へと視線を落とす。
何を言うべきか、言えるというのか、それを知ろうにも聞くべき相手が悪すぎた。


寳子はこの場にはいない、王都奪還における一番の勲功を上げたであろう者を思い出す。



漂の面影を脳裏に映す。


それは国から見た大勢であり、彼女の傍の無勢であった。


「漂・・」


呟いてしまった。
言うつもりのなかった名が彼女の口を衝く。
右の手で口を覆うと、双眸から大粒の涙が零れ落ちた。


泣くつもりもなかった。

しかし止め処ないそれは、そんな心算など知らないと流れる。


それを勝手と咎めようにも
   勝手はお前達だと諫められているように思うから、また性質が悪い。




政は声も出せず。
しかし誰彼に染まる彼女を、見てはいられなかった。

差し伸べた手で彼女の腕を掴む。



「寳子、お前は・・」


やっとの思いで口にした言葉は



「漂の事を―――――」




敗者の言といわれて、相違なかった。





置いた杯を再び掴むと政は酒を一気に煽る。
これには寳子も目を涙に腫らすままに凝視する。
空になった杯を捨て、寳子の持つ杯までも奪う。
制止に入る彼女を振り切ってこれも煽ると、また杯を捨てた。


「・・・・・」
「・・・ ・・・・・」

肩で息をする政に、今度は寳子が言葉を失う。
政は寳子の腕を掴んだまま、そして強く引き寄せた。

政の内に納まる彼女は、激しく鼓動する彼の命の音を聞いた。


「お前はっ・・ ・・・俺のっ・・ ・・・!!」


力の限りに抱き締められるが、息苦しさや羞恥は薄い。
驚愕、困惑といった感情が鬩ぎ合い、
何が起こっているのかさえ彼女は理解できずにいた。


ひとしきり抱き締め、しかし続く言葉はない。

腕の力が緩んだと知り、顔を上げる寳子。



彼らは呼吸さえ近いほどの距離にいた。


鼻先を掠めそうになる。

近付いて掠める。


寄せているのか
寄せられているのか


一息の内に変わる状況。

彼女に追い付ける筈がなかった。



引き寄せる者はその唇に、寄せる唇を――――――



 







逸らして。


彼女の口元近くの頬に、少し触れた。




「・・漂の事・・ ・・忘れるな」


ここで初めて、彼女は反応らしい反応を見せる。


酒のにおいがしたと、漠然と、そう思った。





「そうすれば、お前は」




誰彼への言葉が過る。


誤解している者の名を、やはり彼女は知らない。




「あ、の・・ ・・・贏政さま」

緩やかに懐を抜ける。
胸に添えていた手を滑らせるようにして彼の腕へ、そして両の手を繋いだ。
政は声もなくその繋がる手を見やる。
暫く見詰めて、目を瞑った。

「疲れておいでなのです。
   寝所までお供いたしますから、どうかお休みください。立てますか?」


「・・・いい」

「え」


拒否の言葉に揺らぐ寳子。
政は薄く目を開けると、一途に彼女を見た。

睨みほど居心地の悪いものではない。
しかし力強く、真直ぐに過ぎる視線は彼女を捉えて離さない。


胸騒ぎを覚える。
鼓動が一度だけ大きく跳ねると、呼吸をする事も忘れていた。


普段であれば強引に連れ行く所を
寳子は今回ばかりと身を引いた。


彼女自身その意味が


よくは、わからなかった。




「・・お水、飲んでから寝て下さい。
    そのままでは・・お体に障りますから」


捉えを解く。
場を離れようとするその者の手を、彼の手は強く引き留めた。

傍とする彼女は止まる。
しかしもう一度手を引くと、絡む手は今度はいとも簡単に解けた。


寳子は拝手し、礼をすると杯を拾い去ってゆく。

一度だけ振り返る。


力なく垂れる手と外界を見やる体からは
元より知るべくもない彼の思惑を、彼女が推し量る事などできる筈がなかった。









 

 

 

 

 



指でなぞる様にして壁を伝い、やっとの思いで皆の集まる宴の場へと戻る。

(・・頭がくらくらする・・)

自室に戻り休むなり、眠れないなりに今後の準備等に刻を割けば良いものを。
そんな考えは既に彼女の頭を幾度と巡り、その上で足を向けた先が気忙しいこの場所だった。

暫く立ちつくし、眺める。
地上の星は暖かいと、朧げに思った。


歩む足に力はない。
流れるように、吸い寄せられるようにして星の道を当て所なく彷徨う。
そんな彼女に出来上がった周囲は気付かずにいた。


(きっと酒に中てられたから・・ ・・)



飲んではいない。
しかし呑まれた者に包まれたからには


飲まされたのだと。

そう信じて、疑わなかった。




「ぅおおおーーーいっ!おーーーいぎょくしーーー!!!」

ふらつく足がやっと地を踏む感覚を得る。
名を呼ばれた彼女の視線の先には信、そして介共とバジオウら山の民が揃っていた。
煩わしい筈であるそれも、いまはどこか安らげるから不思議だと彼女は笑む。
手招きをする信だが山の民が同席している時点で寳子は、気を遣い手と首を横に振る。

彼女はただ一人でない場所で揺蕩っていたかったのだろう。
その筈、だったのだが。

「ばっかお前!早くこいっつってんだろっ〜!」ぎゃははー
「・・信。お前酔ってるな」

駆け寄ると信は腕を寳子の首に廻し機嫌よく酒宴に誘う。
これに彼女は酒臭いと頬をつねる。
しかし相当出来上がっているのか、抓られるその顔は笑顔のままだった。

「(不気味だ・・)山の民がいるから私はいい。お前達だけで楽しめ」
「んな気にしねーって!てか何だ?ケンカでもしてんのか?」

会いに行った時の事は忘れろよと、全く的外れな事を言う信に彼女は大きく溜息を吐く。
その様子にも気付かず、信は寳子の持つ二つの空の杯を覗く。
見るや否や彼女の手を掴むと強引に酒宴の輪へと連れて行った。

「ちょっ・・信!」
「(はーん・・フラれたのかコイツ。どーりで静か)
   気にすんなって!そーいうのは若ぇ頃はよくある話だって村のオッサンが言ってたぜ!」

「よ、よくある事なのか・・って、わかるのか?」
「おー!よくあるよくある!っはっはっは!!」

そうか、と呟く寳子を笑いながら引き連れて帰る信。
二人の会話は全く成り立っていなかった。



「おー!寳子様っ!おら野郎どもーー!!華が来たぞ華がーーーっ!!」

ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!!

湧き上がる漢共の中に冷や汗を掻きながら入り込む寳子。
戦場とは別の熱気と酒気が中てられ、再び眩暈を催す。
一方の山の民達は呼応こそしなかったが、彼女を邪険にもする事はなかった。

「介殻・・皆も。声がでかい」というかいつの間に合流・・
「寳子様!信の童の隣なんかではなく、どうぞ私の隣にっ!」

「介良お前からマジでブッコロス」
「槍で死ぬか鉾で死ぬか選べ」


粋がる介良を目前に、信は一杯の酒を手に持つ。
下手にアッと驚くと彼方を指差す。
つられた介良の口に無理矢理に酒を放り、信は難なくこれを倒した。

「介良・・こいつは介一族(他国含む)の中でも最弱・・」
「介殻。お前いい兄貴だな」

兄弟じゃ(略
吼える介殻も同じ要領で倒すと、信は立ち尽くす寳子の肩を押し座らせた。

「信、お前と言う奴は」
「鬼カトタジフガ言ッテイル」


非難轟々さえ酒の肴と笑う。
寳子の隣を陣取ると、彼女の持つ杯に酒を注いだ。


「あっ、いや、だから私は酒は飲まな・・」

「忘れちまえ忘れちまえ!
    いろーんな事!今ぐれぇ忘れちまえっ!」

「こっ、好まないではなく好めないというか・・
   周りが引くくらい酷い体になるらしくて、だな・・それで自分も周りも止め」

「それも忘れて飲んじまえーーっっ!!」


注ぎ終わり寳子の背を叩く信。
自分の言を無視するどころか、振り返りもしない彼に寳子は怪訝な目を向ける。
程ほどに見やり、杯に視線を移すと中の揺れる自分を見て呟いた。

「飲んで、忘れる・・」

極々小さな音で発せられた声は信には届かない。
寳子は勢いよく立ち上がると杯を掲げた。


「飲んで忘れるっ!!」

「おうっ!飲んで忘れちまえっ!」
「・・信、タジフガ止メテオケト「おーらいっき!いっき!!」

バジオウの言は消え入り、いつの間にか輪の全員が調子を合わせる。
寳子は腰に手を当て、杯に口付けると一気に飲み干す。
同時にへたり込む彼女の様子に騒めきが起こった。

「な、何かマズくないか?」
「寳子様って普段酒宴に参加されないから知らなかったが・・」
「大丈夫かこれ?」

「カカカッ!だーいじょーぶだろ一杯くれー!
  周りから止められてたってのもアレじゃねーのか!?
    裸で踊りだしたり殴ったりで手に負えなくなって―――――」

「壁副長呼ぶか?」
「殿に直接は我々が殺されかねん・・!」

焦る私兵を余所に悠々とする信。
しかし彼の言を聞き届ける者はいない。
流石の騒ぎに信も強引に意識を戻し、寳子の肩を揺すった。


「おい。おい寳子、おい!」

返事はない。
項垂れ脱力したままの彼女に一同が不安を覚え始めたその時。


「ぅ・・・」


小さな呻き声が聞こえた。
一時の安堵を齎すも果たして彼女は気持ち悪いのか、吐きそうなのか意識があるのか無いのか否か。
どんな状態であるか窺い知れぬ様に皆が恐々とする。

しかしその答えは呆気なく齎された。


「あー、大丈夫か?んだよ弱ぇってんなら早く「・・・っく・・」




小さく、か細く。
時に大きくなるそれは笑い声でも、ましてや言葉でさえない。


誰もが声を発する事無くただ見守る。
それだけ今の場の奇特さというものが窺えた。


他の酒宴の音さえ掻き消して。
彼女のしゃくり泣く声が輪の中に響いていた。



「・・・・・」
「っふ・・ ・・・なんでぇ・・」

肩に置かれる信の手に頬を寄せる寳子。
縋るものを探していたと、手に手を重ねた。

「どうしてぇ・・」

泣き上戸といえば珍しくもない。
しかし彼女という存在に関して言えば
『とんでもない事をしでかした』
周囲の反応はこれに尽きる。
そして淡々と紡がれる言葉は、彼女の知る自身を大きく揺るがすものだった。




「なんでみんな・・ ・・・死んでっちゃうのぉ・・ ・・」



多くの感情で崩れる顔を諸共せず。
信は縋られるままに後悔した。

決して口にしてはいけない者が、口にされてはいけない者達を前に、酒に負けて言い放つという事態。
これを見詰める者は悲しさ反面、情けなさ反面。
そして嬉しさ反面と、思い思いに視線を逸らした。

急に静かになる酒宴の場を、他の場の者達が怪訝に窺うようになる。
この状況を重く見た誰彼がやっと言葉を発した。

「連レテ行ケ、少年」
「なっ・・何で俺がっ」

「・・・・・ ・・ ・・・、
   タジフモ当然ダロウ、責任ヲ取レト言ッテイル」

バジオウ、タジフ共に信を指名する。
これに力なく抵抗するも、自身を離さずにいる寳子を前に黙して了とした。






信は宴の席を離れ、城壁一枚隔てた隅へと寳子を連れて行く。
小言を呟きながら歩く。
背に在る彼女も脈絡のない言葉を衝動に任せ呟いていた。


「ったく何でまたこーやって、お前を背負わなきゃいけねーんだよ・・」


騒ぎの声も遠く、しかし程よく落ち着ける場所へと腰を下ろす。
向かい合って座る。
信は何をするでもなく、泣きじゃくる彼女を見詰める。
暫く見詰めて、止まぬそれを前に頭を掻いた。

「う゛っ・・ぐすっ・・ ・・ね゛ぇっ・・」
「あ?」
「っ、とに・・っ、のかなぁっ・・ っ」
「何がだよ」

愚図る寳子に信は言葉短く答える。
面倒ではあるが、蔑にする事はなかった。


「いつまでぇっ・・ ・・たたかえばいいっ、の、かなぁっ・・ ・・」


疑問と、弱音。
普段決して口にしない、寧ろ遠ざける嫌いのあるそれを露にして投げかける。

寳子は顔を覆っていた手をどけて信を見詰める。
彼はその顔の余りの酷さに笑い、手を貸した。

「きーったねーなぁー」

片手で彼女の目元を乱暴に掴んだかと思えば涙を拭ってやる。
くぐもる声で呻く彼女を余所に、目元から鼻から拭いてやると払い、地面に擦り付けた。


「知らねーよ。政が中華の王になるまでだ」


泣き濡れ、腫れて虚ろに信を見る。
未だ流れる涙の筋を、彼は寄り、今度は手の甲で拭った。

その手にのめる。
涙を拭われるままに頭を預けようとする寳子に信は慌てて更に寄った。
彼女の額は彼の方に乗り、そのまま動かなくなった。

動かない彼女の肩に手を置く。
揺らして起こすか、引き剥がすか。
しかし信は、そのどちらの選択肢も選ばなかった。




「わすれられるかなぁ・・ ・・」


動かないまま、独白のような問いかけは続く。
しかしその独白はこのとき初めて色を持った。


「ねぇ、信・・」


名を呼ばれる。
応として、彼も動かなかった。






「私、漂のこと・・ ・・・」





知っている。
出会った時から。

知ってはいたが、動揺する。
彼の中にも疑問が生じる。


『』


口が微かに開き、そして閉じられる。

似て非なる二者を思い出す。


思考からも、体勢からも。

信はその場から動けずにいた。



























眩しい、という反射から突然身を起こす。
急の事に眩暈を起こすとそのまま目前に突っ伏した。
自身の纏う酒気に鼻と口を押える。
彼女は見覚えのある部屋を緩やかに、しかし訝しげに見渡すと状況の把握を始めた。

(・・・ ・・・・・・宴はいつ、終わった?)

傍とし自身の姿を確認する。
衣は着たまま、特に乱れもない。

何よりの事である。
それだけでまずは彼女の心に安寧が齎される事となった。

 




「ふぁ〜あ。・・ったくメンドくせぇ」

気怠そうに城内を歩く信。
今朝に出て行き、用意されたという根城に帰る予定ではあったのだが未だここにいる。

(壁のあんちゃんにアイツの部屋教えてもらって、寝床にブン投げてそのまんまだもんな・・)

寳子は昌文君と共にする家の他、王宮にも小ぢんまりとした部屋が別に用意されていた。
曰く付きで避忌され、滅多に人も近付かず放置されていたそこはしかし王宮の一室。
曰くなど自身を前に如何なるものかと気にしなかった彼女は、
上を通して許可を貰うと、基本的に休憩時など雑多に使用していた。
整えれば直ぐに足る部屋となったそこは、中々に人目も少なく彼女にとって格好の基地と化していた。

「しかも地味に行きづれぇし・・さっさと終わらせて飯食って帰るか」

あのあと寳子は静まり返り、気付けば肩を借りたまま彼女は眠っていた。

投げて放った故から信も、さすがに様子くらいは見ておかねばと思ったらしい。
ブツクサとは言いつつも、昨日の今日で心配ではあると寳子の部屋を訪ねようとしていた。




 



寝床に腰掛けたまま思案する。
暫く留守にしていた棲み処は少し埃っぽい。

(でも一体誰が・・壁兄?それにしては乱暴な形で寝ていたな・・)寝相が悪かったのか?

空白の時間を埋めようともがく。
断片化する記憶を集める作業から入るが、
何処もかしこも黒く塗りつぶされたまま意を成さない。
彼女は盛大に溜息を吐いた。

「やはり酒は駄目・・―――――ん?酒?」

目覚めて酒気を感じた事さえ落ちていた。
しっかりしろと両頬を叩く。


(しまったっ・・!!飲んだのか私はっっ・・!!!)


あれほど止められ、避けていたものを。
好きか嫌いと言えば何も言えない。
味覚を感じる前に倒れる。
幼少の頃に初めて出会い、彼女はそれ以来止められていた。




『コココココ・・寳子。起きましたかァ?』
『あ・・王騎さま』

『イイですか。貴女は二度と酒を口にしてはいけませんよォ?』昌文君にも言っときます。
『へ・・あれ、そういえば私、ヒョウ公さまのお酒を舐めて・・』
『あの酒にあって貴女とは、相性最悪というより他ありませんねぇンフフフフ。
   いえね、あんまりにも酷いモノでしたから・・これは言っておかないと、と』

『あの・・ ・・私、何かしたんですか?』

『それは言えませんよォ。ただ、貴女の今後の為です。お酒はダメです、いいですね?
    大丈夫ですよォ!あーんなヒドい態、知られれば私の沽券に関わります。ちゃァ〜んと、他の口止めはしておきましたからっ』

(ぇえええええええ〜〜〜〜っっっ!!!)ひどいって二回言った!





「一体どんなザマを周囲に見せたんだろう・・」

塞ぎ、朝の初めから疲れ果てる寳子。
思い出してしまった記憶は、彼女に陰鬱とした思いしか残さなかった。

(王騎将軍に言われてからは進んで飲む事もなかったのに・・。
   でも何度か飲まされた記憶はあるから、余計に将軍への罪悪感が)

飲まされる前のやり取りこそ思い出す事は出来る。
しかし口に含み、飲んでしまってからはこうして目覚めた後の記憶しかない。

(相手が王賁や蒙恬だったから、今こうして安心できているのかも知れないな)

酌に付き合わされた後の朝は身体の怠さこそあるものの、心は軽くなっている事を自覚していた。
そして曰くの酷い態というものを、彼らも言ってはこない。
脱いで毒を晒したともなれば周囲の目が明らかに変わるはずだがそれもない。
友としてそんな事を許す彼らでもないとどこか自慢げでもある。

という事は笑ったり泣いたりが酷いという事なのか。
程度は不明。
しかし余程のものという事は、彼女自身覚悟はしていた。


(・・確か酒を飲んで)

(飲め飲めって・・)

(誰が・・ ・・・・)


『おーらいっき!いっき!!』



応えて一気に立ち上がる。
思い出したと口を戦慄かせて彼の者の名を呟く。


「信ッッ・・!!!」


しかし思い立つも束の間、飲むと決めたのは自身である。
信が煽った事は事実だが、それを責められるかといえばそうではなかった。

嫌な思いは今でこそ鳴りを潜める。

今朝起きて直ぐ、胸のすく思いがしたのは確かだった。


(信がここまで運んで・・?・・・・)


暫し思案する。

両成敗と、腑に落とした。



「・・湯あみしよう」


暫く碌に湯にも浸かっていないと呟く。
湯あみの際の衣に着替える為、彼女は腰を巻く帯紐に手を掛けた。










「おー、確かここだっけか」

昨日今日での記憶を頼りに辿り着く。
手早く済ませたい信は扉も叩かず、事前に声もかけず信は乗り込んだ。


「おーい起きてっか寳・・」




眼前の光景を凝視する。

彼女が衣を脱ぎ捨て、別の衣を探している最中だった。



寳子は少しばかりの声を上げるが自ら口を塞ぐ。
急いで押し入った彼に背を向けるが、彼女の隠したい物の意としては何の意味も為さなかった。


彼女は衣を探し当てると手早く羽織る。

二人して声もない。

まるでがらんどうのその場に、一石を投じたのは彼女の方だった。



「・・・ ・・本当にお前『達』は、何の縁なんだろうな」



淡々と呟かれる言葉に、信は返さない。



「お前は何て言ってくれるんだろうな」



言うと緩く紐を結い、胸の大きく肌蹴たまま―――――呪いを見せつけるかのように、寳子は信に近付いた。



「知っているのはこれで殿と、漂。・・そして」


お前だと。
寳子は言い、信の頬に手を這わせ優しく抓った。



「寳子、お前・・その、文様」


「言うなよ。絶対に。・・信じていいな?」


まだ怒号響く謗り罵りを受けた方が易いと。
冷淡に過ぎるそれは彼女に余りに不似合いで、ただ恐ろしいものだった。


「・・寳子」

「帰ってくれないか。これから汗を流す。・・それとも共に来るか?」


からかう様にして言う寳子に噛みつこうとするが止まる。
先ほどの体を思い出してか、気持ち信の顔に赤みが増す。
それを彼女は薄く笑った。

「・・あんな身体を見ても意識してくれるのか」
「あのなっ!あ、あんなんとか・・言うなっ、つか、その」
「じゃあ何て言うんだ。傷物の得体の知れない女にお前は何て言ってくれる」

語気が強まる。
意地悪く捲し立てた事に気付くと、彼女は視線を逸らし息を吐く。
落ち着き払おうと努め、息を整えた。

再び信を見やる。
彼は彼女を真剣に見詰めたまま動かなかった。


不味いと背を向けたのは寳子。

しかしそれが不味かった。





「綺麗じゃねーかよ」




瞳の時と同じく

何かの一つ覚えのように



同じ事を言う。


同じ事を言った。




信は漂と、全く同じ事を言っていた。







「・・・もう、やめてくれ」


耳を塞ぐ。
聞こえない訳がない。
自身の慟哭が増して聞こえるだけ酷い。



「おんなじ事ばっかりっ・・・!

    お前が傍にいたら―――――絶対に忘れられないっ・・・!!」



存在を完全には忘れられなくとも
抱えた想いを消してゆく事は出来る。


彼女はそう思っていた。


抱えて生きて行くには余りに重すぎる。


故に努めた。


彼の死を受け入れ、忘れられるようにと意識を向けた。


しかし信の存在はその全てを無下にする。
呼び起こし、丁寧に蓋をしたものを壊してゆく。



恐ろしい事だった。



忘れようとしなければ忘れられない。
今はどんな弱みも取り払いたい彼女にとって、思い出す事は何よりの辛苦であった。


距離を取る。
手を伸ばし近付こうとする信を彼女は先に制した。


「出て行け」


それ以外の言葉が出なかった。



「出ていけぇっ!!!」



渾身の力を込めて叫ぶ。
願いには程遠い子供の強請りを、信は受け入れる。

しかし行動は受け入れるものの、考えまではそうとはいかなかった。



「・・何が忘れるだよ」

たった一つの言葉だけで、寳子は己が心を抉られる気がした。
しかしそれはどこか浮ついていて、まるで自分のものの気がしていなかった。


「お前なんで漂のこと好きになったんだよっ!!そんな簡単に忘れられるものなのかよっ!!
   政が好きだったから漂なのか!?漂が好きだからまた政なのかっ!!?
      それさえもわっかんねぇ!!意味わかんねーんだよお前!!
        想いに押し潰されるくらいなら誰も好きになんかなんじゃねーよバーカッッ!!!」




信は言いたい事だけを言いきり去ってゆく。
最終的に誰が怒り、憤っていたのかはよくわからなくなってしまった。

しかし寳子には確かにわかる事があった。

―――――彼女は自分の心が、やっと自分のものになった気がした。



これから暫く会う事もないというのにと。
思って振り返っても遅い。

彼の姿はとうになかった。



「私は・・・ ・・」


寳子はただ立ち尽くす。
凝り固まっていた、壊された何か。
何をそんなに大切に、意固地になってまで果たそうとしていたのか。
砕けたそれを前にしてはもう、遠い誓いの残滓でしかない。

ただ砕けて楽になった事はいうまでもなかった。


(私が、贏政さまを・・?信にはそう見えていたのか)

信の言葉を反芻する。
己が意識とはかけ離れた彼の見方を思い返す。

(敬愛こそある。それは愛国と同じと言ったはずなのに・・やはりアイツは誤解しているんだ)

以前信から大王への想いを指摘された寳子は、国を愛していると言っていた。


(王を一兵の身から恋い慕うなど烏滸がましい。
    近く、親しく接する事の出来るだけ光栄なんだ。
       だから私は―――――――)


何かに気付きかける。
しかし彼女はやはり、気付かない。

彼と彼女の思いの末が交わる事はなかった。



(私は漂が好き・・ ・・だったんだ。もう、どうしようもないけど)


手を拱く想いを前に呆然とする寳子。
肝心な事は教えていかないと此処にはいない誰かを非難する。

(・・・忘れるなというのなら、どうすればいいんだろう。
     どうしたらいい。・・・・持っておいてどうなるものなんだ、これは)


一頻り考え、やはりどうしようもないと一度胸に収める。
溜息を吐く。

今更ながらに詰まらん遣り取りをしたと、少し後悔をした。


言い過ぎた。


相手もであるが、一方的になったのは彼女からであった。

剣と盾と誇り、共に大王の力になるといった盾から突っぱね破られたのだ。



(謝らないと)



しかし今更追いかけようとも届くはずもない。
届いたとしても追う気力もなければ、準備もなかった。

バカだなと、そう、一言呟いた。



文身の入る身体を撫でる。

痛みもない。
滲みもしない。


ただ在るだけのそれは、彼女の成長に逆らう事無く堂々と身を埋めていた。



「・・・ ・・身体を、拭わないと」


言って不安定に歩き出す。

寳子は湯あみ――――――には行かず



寝床に突っ伏し、息を殺して泣いた。














20130331