遥か昔、春秋戦国と呼ばれる時代の一端。


この時代には龍がいた。




永き年月。

人が人たらしめん徳と業の全てを以て臨み、朽ちゆく姿は鱗としてそれを象ったに違いない。




故に欲望、痛み。
快楽絶望恐怖。



叶い叶わずの残滓は強大なうねりとなって天高く舞い上がる。




棚引き、返しては迸る血が再び地上に激情を齎すと―――――



       人はまた熱き血潮を求め、己が龍の化身と号し時代の風に消えていった。











一人の女が言った。

体は毒、それも猛毒の類であるという。



『我ラが毒ハ 地上に落ちタル龍の血ヲも穢ス』



汗を舐め、血を舐めて致死という訳ではない。

これは自然に齎された毒ではない。
そも滴り落ちた血の穢れより、故意に生み出されたものだと言った。



徳と業のその片方。
更にして言えば業の極みを取り除いた只の滓。

沈殿した膿のようなものだと、その女は遠くを見る。



『我々は業ヨリ造ラれ 天と地ヲ殺す為ニ生まレタ』



天を殺せば龍も住まえまい。
地を殺せば人も現れまい。

血がなければ人も
人がなければ血も


円環の巡りが消えれば解放される。

そのとき初めて一族の願いが成就される。




業の毒として生まれずに済む。
   やっと本当の意味で死ねるのだと、そう言った。




『我らにコノ世を憎まセろ。呪わせロ。殺サセろ。

   ソうすレばこノ世の些末ナ徳と併セ、もハヤ救い難キの業ト纏めテ―――――全てヲ還しテやる』




全てを無に帰す事こそが強いられたる者の役目、体に宿る呪いだと言った。


その為の毒が回っている。
幼き頃から回らせる。


毒となる為に日々毒を彫り、くだらぬ業では決して打ち負けぬ力を得るのだと言った。






天が神を選ぶのなら。

地が人を養い、業を生ませて能うよう毒をこしらえたのだと、薄く嗤う。



しかし、と。
故に女は願ったのかも知れない。



血こそが業ならば、肉を持つ彼らとて人だった。




『ソノ毒が、呪ワず。トもスレば転化しタ場合どうナルか』




見てみたくはないかと、その者はある男に言い寄る。



その女は毒を――――――――宝だと言った。






『お前ニ奇跡ト災厄をクレてやる』





穢し、裏返す事もまた毒であると。

呪わず、この世を愛した者は始終を語り目を閉じた。




























王弟である成矯、そしてその背に立つ竭氏の反乱が治まって暫く。
大王贏政と昌文君、寳子の三名は示し合せ離宮に集結していた。

当面の秦国というものの地盤の安泰に胸を撫で下ろすのも束の間、
大王側の呂氏への対抗勢力を確たるものにすべく、今後如何にするかが目下の議題であった。


『成矯竭氏の反乱をなかった事にするっ・・!?』

「そうだ」


政の言葉に声を上げる二者は目配せで互いを見合わせる。
驚きはしたものの、それが妥当である事は理解に足る所だ。

「・・承知致しました、では内の手配を早めます」

「こちらも使える全ての手で尽力致します(これは骨が折れるぞ・・)」


反乱における罪科、伴う損害を考慮すると極めて正答と言わざるを得ない。

国内反乱から党内抗争へ。
全ては後に控える大敵のため、真は偽を以てして道を成す。
こうして竭氏勢力の断罪は最小限に留められ、その力は竭氏内元参謀の肆氏へと引き継がれた。


(壁兄に六は持ってもらおう)

始末の十のうち六と。
いやいやこれは押し付けなどではなく適材適所なのだと頷いてみせる。
予想に限る内でもってしても、その後処理の厄介さたるや―――――眉間に皺を寄せ悩める二者を見れば易い。



そしてもう一つ、懸念といえば山の民との盟である。
広がりと銘打つ限りは秦国だけでも此度の活躍、そして王同志の契りは人民に広めたい所ではあった。
しかし刻が悪すぎる。
彼らを広めるにはまだ早く、何事も整わぬ内である。
逆にいま迎えた所で、彼らが若王の庇護を受けるには勢力が余りに強大過ぎた。

彼ら同士の盟が潰える訳ではない。
扱いきれぬ剣は鞘に納め、刻が来るまで遠く眺めるに留めておくと政は言った。


(楊端和・・)


あれだけの見果てぬを見ようとする山界の王である。
寳子は憂いこそ口にはせず、彼(か)の名だけを胸中で呟いた。





暫くして沈黙のなか改めてと、政は昌文君と寳子を一瞥する。
それを二者は聞き入る姿勢で向き合った。

「反乱が治まり暫く、内乱などに刻を割いてしまった事が悔やまれるがそのままでもいられない。
   周辺諸国も黙ってはいない。俺達は再び志を同じくして臨んでゆく覚悟が必要だ」


数多の軋轢を継ぎ接いででも。
力は力として、それが如何なものであろうと吸収し行使する。


反乱に際し亡くしたものは数え切れぬ程である。

それでもこれ以上はないと、大王は側近らに誓うようにして声を上げた。



声を掛けた者も掛けられた者も、皆一様に思い耽る。

その最中である。
政は寳子に問いかけた。



「寳子、お前はこの秦国に何を望む。そしてお前はどうする、どうしたい」



どのような国を見たいかと彼女に問う。

急な事に寳子は息を呑み、介さぬと王は答を求める。
一拍置き、咳払いをすると彼女は居直り言を紡いだ。



「・・この乱世にあって、それでもこの国の者であって良かったと・・人が心安く、次代を繋いでゆけるような」


そんな国であって欲しいと、しかし彼女は括らない。
ぽつりぽつりと、願いの断片をそれこそ継ぎ接ぎに音として現す。


「豊かで、あって欲しいです。然が然と、そこに在り続けるさま。
   死ぬ事が易くない世・・親と死別し、孤児となる事が是とならない・・

       抱く大望を努力の次第で―――――何者でも叶えてゆける、そんな」



夢のような国が、世があればいいと願う。
夢を抱く以上、決して絵空事ではない筈であると寳子は暗に同意を求める。


聞かれ、答えるならばこれが望みと、彼女の声は震えていた。



「そして人が恨まず、呪わずに済むほどの幸福を・・・
   
    親が子を手放さずともよい国をっ・・ 子が安心して親と生きてゆける世を望みますっ・・・!!」



不甲斐ないと顔を伏せる寳子の姿を認め、昌文君は視線を外すと口を真一に縛る。

事情を知る二者は黙り込んだまま彼女の言葉に耳を傾けた。


「私を受け入れてくれたこの国に、許して下さった王に・・迎えてくれる民らに。

   そして何より拾い上げて下さった殿に、生涯をかけても返せ得ぬ恩を感じているからこそ―――――
      ――――――誓いを、願いを、叶えるべく。 私はその為の礎になりたいと思っています」


秦という国が世に台頭すべくを願う。
その為ならば惜しまない。

全ては夢の跡と、思い出として語れる。
そんな安穏とした刻が来るまで。


その時までは武も、血も、そして心でさえも惜しまないと彼女は答えた。














会議が終わり寳子は珍しく昌文君と二人きりで城楼に上がる。
寳子は彼方の背と、その遠く先の景色を見つめた。

悪戯に吹き抜ける風に手を焼いては、髪に指を通す。

両者黙ったまま暫くが過ぎ、不意に昌文君が彼女に疑を投げかけた。


何の前触れもない、無粋とも呼べる代物である。
しかし両者にとって一つの区切りを設けるにはこれ以上にない応答だった。



「寳子よ。
   ・・儂を恨んでいるか」


ただ傍とする。
聞き覚えもなければ思い当たる節もない。

少なくとも彼女にとっての、父にあたる人を憎む想いが当たらない。


ならば案としてはこれが当たるだろうかと、寳子はある人物の名を上げた。




「・・・・・漂のこと、ですか?」




昌文君は是非もせず佇む。
ならば是であると彼女は話を、答を進めた。


「感謝こそすれ」


滑る様にして口から出る言葉に偽りはない。



「殿を恨むような愚、足りぬこの身を以てしても・・それは有り得ません」



理由を知らぬ幼子でもない。
吐こうと思えば吐ける要因の一つを取り上げる気もなければ
わざわざ悪辣と仕立てあげ、敢えて醜悪に染まる意味さえ見当たらない。


「殿、貴方様は一人の名も無き少年の夢をお掬いになられた。
    しかしそれは叶う事なく、また彼は命を落としてしまった」

「・・・・・」


「でも漂は夢を描くだけでなく、懸ける事ができた。
   命を賭して・・彼は彼の願いの元に生き抜く事ができた」


でなければあんなに自信に満ちた笑顔で別れ得ないと言う。
寳子を戦線から離す為に彼女の馬をけしかけたとき。
漂は寳子の瞳を真っ直ぐに見つめ、それを通して映る己が決意も見詰めていた。


「私はそんな直向きな彼の姿を・・隣から、正面から。
     そして後ろから、見つめる事ができました」


隣り合い手を繋いだ。
向かい合い言葉を交わした。

そして彼の背を通して、彼の決意と生き様を見守る事ができたと背筋を伸ばした。



「彼は姿こそ本物の王のように―――――また、抱く意気は将軍のそれそのものでした」



本来の夢とは違えども

それでも彼は確かにその一時、己が姿を以てして叶えたのだと、そう口にする。



人の夢を聞き、見て。

共に在る事もまた佳き夢であったと、寳子は頭を垂れた。




「私を漂と引き合わせて下さって・・っ ・・ありがとうございました、殿っ・・・!」




この目は涙を流す為だけにあるのではない。



未だ続く夢を知っている。

それを彼も見ていると信じている。



刻むためにあるのだと、誰かが教えてくれた。




だからこそまた、その背を見守りたいのだと―――――寳子は遠く広がり続ける空を見上げ言った。





昌文君の背に拝手をし立ち去る。
彼らは最後まで互いの姿も見ぬままに閑談を終えた。

仰ぎ見る空はどこまでも果てがない。
昌文君も悪戯に吹き抜ける風に手を焼きながら、目元に指を寄せ、靡く残滓に別れを告げる。



感傷に浸る間もなく、生きる刻は無情にも過ぎてゆく。
国が息を吹き返し、そこに住み行く人もまた活き返る。

決定を下す者、伝え行き奔走する者。
取り決められた決定の後始末とやらに時間を割かれる者。

それぞれがそれぞれの刻の中に生きる。


再び国の、人の。
大地の巡りが興ろうとする頃には、成矯竭氏の反乱より三ヶ月の月日が経とうとしていた。
























土煙を上げ悠々と駆ける様は戦乱の世など遥か遠き事のように思わせる。
しかし見える姿は確かに武官として身を包み、手綱を打つ仕草など洗練され板につく。

黒赤の髪を棚引かせ、己を大王の盾と称するその者―――――寳子は、何にも憚られる事無く荒野を行き馬を走らせていた。



反乱終結の後、寳子はすぐさま昌文君の屋敷に向かうと厩舎の様子を見に行った。
僅かな期待を抱きながらも実際には諦めかけていた手前である。
しかしその予想は見事裏切られ、括目し口を手で覆う程の望まれた景色が彼女の目前に広がっていた。

赤蒐、黒黎、白綸ともに、彼女の愛馬は別れたその時となんら変わりなくその場に佇んでいた。


三頭は寳子の姿を認めると忙しなく騒ぎ始める。
鳴声につられるようにして喜び勇み、駆ける寳子はすぐさま彼らの首に抱きついた。

聞けば不穏のなか微動だにせず、気を立てる事もなくただ主の帰りを待っていたという。
その様は曇らず乾草もしっかりと食し、主の登場と自らの用に備える体であったらしい。



(王騎将軍が王弟側として立ったが故に、殿の身辺は護られたんだ・・)


王騎自らが立たねば昌文君の領地は王弟側の手に落ちていた。

しかし、と。
思わざるを得ない衝動に彼女は目を瞑る。


もしあの追撃がなければ。


叶っていたかも知れない夢の跡に思いを馳せ、そして心に蓋をした。



自身を運ぶ馬を見つめる。
手を差し伸べ撫でると、しなる毛が指の間に滑り込んだ。


「どうだ黎(れい)。風が気持ちいいな」


普段は隠密と銘打つ作戦に出す黒馬である。
元が神経質のため、大軍の場では罷りならない。
故に急を要さぬ場においては、走らせるため率先して連れ出していた。


合わせ駆ける感覚、風を切る感覚。
それらを無心に求めつつも、心の片隅に蓋をした想いが擡げるのを感じる。



「・・・感謝、こそすれ」


その呟きは風に消える。

恨む愚を持ち合わせぬと、しかし未だ割り切れぬものは数知れず。
刻が経てば蓋をしている事にも、蓋の存在さえ忘れてしまうだろう。

そんな望みの薄い願いを抱え、寳子は一際に強く手綱を打った。











思しきを目にすると止まり、馬を歩かせ馴らす。
地図を数回見合わせると納得して馬から降りる。
寳子は目的地に到着するや否や黎の綱を引き暫く歩いた。

よくある風の村である。
畑を見回し体の良い場所を発見すると、馬に括り付けてあったそれを下ろし抱える。


「ふぅ。・・こんなものかな」

ものの一刻もかからぬ内に木材を組み立てると、そのまま力強く穿つ。
手を払い腰に手を当てると息を吐いた。

刻は止め処なくただ流れゆく。
そしてその流れの一端を知らせる立札を置く頃には、既に宵の月が昇っていた。




「ウォオオオオオ!!!」

一頻り歩き、周囲もすっかり暗くなった頃。
夜に似つかわしくない咆哮が野に響き渡る。
鈍い月さえ覚めそうなその声に、誘われたのは黒馬と一人の少女だった。


「全く・・周りに家が少ないのが救いだな」


それでも近くに被る民家の悲惨さよと、少女は少し笑って見せる。
そんな彼女の姿を認めるや否や、声の主は振り上げていた剣を呆気と地に向けた。


「寳子っ・・!?」

「久しいな、信」


単に驚きと、どこか馴染みと。
他人であって友のような、それでいて戦友と呼べる両者の間には妙な空気が流れる。
またその他にも彼らの間には、独特の気恥ずかしさのようなものも存在していた。

「安穏とした生活に腐ってはいないかと心配していたが、杞憂に終わって何よりだ」
「へへっ、そのエラソーな言い方もお前らしくて安心したぜ」

拳を差し出し合わせる。
挨拶といわんばかりに両者が見合い語っていると、黒黎が一つ声を上げる。
寳子は愛馬の機嫌を宥め、近場に繋ぐと話を続けた。

「なかなか『良い家』に住んでるじゃないか。貂が居心地よさそうに眠っていた」
「おいコラ嫌味で言ってんなら安心通り越してブン殴るぞ」

吝かでないとする彼に、彼女は穏やかでないと手を翳し制す。
しかしこんな遣り取りでもどこか安らぎを覚えるのは、既に仲間意識が芽生えているからに他ならないと彼らは苦笑いを呈した。


「はー。まァ、こんな所までわざわざご苦労なこった。
   で?何だよ。俺に会いに来ただけって訳じゃねぇんだろ?」
   
「当たり前だ。私は次の戦での徴兵に関する立札を構えに来たんだ」

しかし夕刻に出てこれなら御の字と天を仰ぐ。
疲労を呈するかのように肩に手を当て回すと、次いで首も軽く捻った。

「おぉっ!やり合うのかよどこの国・・
   つーか何だよお前!竭氏の首取ったっつーのに立札とか、雑用押し付けられてんじゃねーかよ!」カカカッ!

「誰の所為だと思ってる。
   生活力の皆無そうな誰彼を、ついでに見て来いという大王の慈悲がわからんのか」

「あ゛ぁ゛っ!?今なんつった!?」よけーな世話だっつーの!
「貂がいて良かったと言ったんだ。」耳まで悪くなったら終わりだぞお前。



月も醒めよう程の、問答にもならぬ雑言の類である。
暫し応酬を続けると下らないと、正規の側がその意地で以てしたのか話を切った。


「相手は魏だ。
   長く国境の地、榮陽を巡ってきたがこれを取る。 ―――――腕は鈍っていないだろうな」

「聞いてんじゃねーよ」


わざわざ投げかけられる言を信は愚問と言い捨てる。
そんな姿勢に好しと、寳子は剣の柄に手を掛けた。


「魏とやり合う前に確認しておきたいんだが・・」


久々に会って、しかし彼らの体とは至って簡潔なものであった。



「どうだ。私と王の首を刎ねる気になったか?」



とん、と自らの首に手刀を入れてみせる。
漂の仇として、ひいては秦という国そのものに楯突く気は起こったかと問う。
これこそ愚問と―――――悪戯に寳子は、避暑地での会話の続きをしていた。

「はァ!?・・ったくわかってるクセによ!意地が悪いぜ」

「ふふっ、すまない。あれだけ猛っていたからな、念のためというものだ」

言って笑う彼女に信は頭を掻く。
やれやれと、言い返すでもなく彼はただ話として続ける。

「お前らが山の王と会ってる時にな。
   昌文君のオッサンからも、ちゃんと剣になれって言われてよ」

「殿がっ!?」


「・・あと漂の事も俺に謝った。だからもう、仇とか。憎んじゃいねーよ」

「信・・・」


彼女の知る彼方が認め、謝罪を以て臨むなどそうそうにある事ではない。
また目前の少年が一つ難を乗り越え、出会った頃とは比較にならぬ程に成長を遂げる様に寳子は感慨深くそれを見守っていた。


「昌文君のオッサンの許可も貰った事だし!今後とも剣と盾!宜しく頼むぜ寳子!」

「フ・・これからは戦場を広く外に持つというのに、そう易々と私の力を借りられると思うなよ?信」


何だそれは、話が違うと吼えられ聞こえるがこれを流す。
近く寄る信の顔面を掌で押し退けると寳子は淡々と答えた。


「隊として配属されれば居場所は次第による。特殊と名を取っても下に就く事は同じ・・結局は戦監督総司令に寄る所だ。
   私達が戦場における自由を求めるならもっと・・それこそ将軍級、六将ほどを目指さねば無理だ。
      
      いいか信、それでも私達は王の剣と盾に変わりはない。遠く在っても、共に王を御護りするぞ」


寳子の真直ぐな瞳に信は被せる文句を言い損ねる。
あらゆる負の言を纏め上げ、聞こえるそれの程度など知れる。

「ってまァ別に!?お前になんか頼んねーけどよ!!・・・話の流れ的に一緒に戦うって思うじゃねーかフツー」ぶつぶつ。

「そう言うな、頼れる時は頼るといい。その代わり私も頼らせてもらう。

   ―――――剣が錆びついていないか実際に試してやる。
             これでお前の鍛練の成果を見て、仕様もない出来なら今度の魏戦には参加させんからな」


掛けた柄を握り締めると寳子は信に対し剣を構える。
得意げと両者共に笑いが零れる。

信が彼女の剣を己が剣で打ち鳴らすと、それが合図となった。




場を改め行われる試合は真剣同士の打ち合いである。
剣戟が響くなか彼らは語らい、また思い思いに相手の気を受けていた。


「信!お前は先駆け一番、特攻死でもするつもりかっ!!」

「(くっそ受け流されるし躱される!!)ンな訳ねぇだろっ!!!」


寳子の煽りに信の剣は益々軌道を逸れてゆく。
これを易々と躱すと、彼女は信の首に切先を向ける。

微動だにもしない。
動けば死ぬと体が知るのだから、内の筋とて懸命だ。
これを観念と取ると、寳子はそのまま剣の腹で信の頭を叩いた。


「・・・・・・・魏戦、許可できんなこれは」

「ぎぃい痛ってぇえ〜〜〜っっ・・・!!てんめフザけんなっ!」
「開戦までにあと十日ほどある。十分だろう、これで間に合わせろ」

「何が十日だンなもん明日にでもギャフンと言わせてやっからなァ!!」
「いや、それは無理だ」張り倒すぞ。


寳子は轟々とする信の意気に水を打ち、ぴしゃりと言い放つ。
その姿は相も変わらず愛想なく、しかし凛としてその場に佇んでいた。


そしてフと思い出す。


一体何がそうさせたのか、彼の与り知らぬ所である事だけは確かだった。




「お前の癖を言っておく。 攻 め す ぎ だ 」




『信。寳子っていう、女の子がいる』




内なる記憶が語り出す。
その者の表情は殊更に優しいものだった。



「たまには引いてみろ。相手が乗せられて横腹くらい晒してくれるかも知れん」


『本当は・・俺が護りたかったけど。 ・・・・無理そうだ』



そうして笑う顔は辛そうに、それでもどこか満たされていると物語る。



「信、お前肩を痛めているな」
「うっ!?あ・・いや」
「強がるな。先の反乱で受けた傷が完治していないんだろう。・・見てやるから、休憩にしよう」


『だから、頼む』


「だっ、いいって!ほとんど治ってるし大した傷じゃ・・」
「これを治して、やっと参戦を許してやれる程度だと言ってるんだ」
「なにをーーーーーーーーッッ!!?」

「ほら」つん。
「ぁ痛゛っ!!・・ぐぐ」



『他の奴じゃ・・嫌だからさ。

     お前ならいいと、思うから――――――――』







(だから、って・・ ・・・どうすんだよ)


「どうだ?」
「・・・・」

「おい信」

「あ!?お、おぉー軽い軽い!薬とか手当ての事といい、お前やっぱこういうの慣れてんだな!」

思い出を辿る内に一通りの処置が終わっていた。
流石と仰々しく褒め称える信を、寳子は訝しみながらも腰に手を当て満足そうに深く頷く。

「フ、伊達に幼少から多くの背を追っていない」
「あーあ。やっぱ小せぇ頃からだと、こういう差がデケェよなァ」

「・・・羨ましいか?」
「ぜんっぜん!!」

ついでとばかりに眼を付けきっぱりと言い放つ。
漂と重ねた訓練が現在の自分を象り、そして今もなお糧になっていると語る。

「そっちはそっちで良いかも知んねぇけどよ。
   こっちはこっちで俺達にとっての最強の訓練を積んできたんだ。羨ましいとかそんなんねーよ」

「・・ああ。私もそう思う」

体系と種類に違いはあれど、修練を積むに能う志に時と場所は関係ない。
持たぬ事を埋めるには場に飛び込んでからでも遅くはない。
そんなものは差ではない、伸び代と言うのだと信は豪語した。


「ふふっ・・ ・・けど私は少し、羨ましい」
「?」


「・・・、 ・・長く共にいられたお前が」



誰とは言わない。
言わないが、弁えぬ己が言に寳子は口を覆ってしまう。



(・・・やっぱ俺じゃなくてお前だろ、漂)



ここまで出来上がったものを押し付けられてどうしろというのか。
託すだけでなく、全く厄介な頼み事を残してくれたと彼は盛大に溜息を吐いた。









とぼとぼと疲労の体を引きずり帰路につく。
場を移す為とはいえ、森奥とは些か張り切りすぎたと二人は後悔の一念である。


「王弟の反乱から三月、か」


並んで歩き、共に眼前の先を見て足を踏み出す。

彼らが見るものは何なのか。
同じものか、はたまた全く別の物なのかは知る由もない。


「・・まだ怒っているか?」
「あ?」


それは突如として、しかし予め決められていたと言わんばかりに平然な面をしてやってきた。



「すまなかったっ!」



疑を抱き、後に合点を鳴らす。
信は嗚呼と頷きながらも―――――おぼろげな、感嘆のような。
釈然としない声を発すると妙に一人納得していた。


「文身を見られて、その。綺麗と言われて。複雑だった。
   嬉しいとも・・思えなくて。漂の事も併せて当たってしまった。・・・でも今はただ、感謝、している」


蔑まずにおいてくれたこと、避けずに今もこうして在ってくれること。

呟くようにして言う寳子に、大袈裟に耳を寄せる信。
いらぬ事をと、払う彼女の手を避けた。

「ところでお前・・」
「あ?」

ここからが本題と、しかし彼女の視線は信を捉えない。
逆に寳子の体を捉える信を、それこそまた手で払うようにして彼女は無駄に空を裂いた。


「・・・ ・・も、文様もそうだが、他も。
   消しておけよ!・・絶対。 その、あの」あれ。

「は?消す?消すって何・・ ・・・・あー・・」あれな。


「ばっ・・思い出すな馬鹿者ッッ!!!」はずかしめだっ!!

「思い出さねーとどれだかわっかんねーだろ!!」お前がバカかっ!


このような横暴な対応では、彼女の顔が立たぬも道理である。


「おっ、おおお前も謝れっ!
   
勝手に人の部屋に入り込んで裸を見ただろうっ!!」ほら早くッ!

「ああ゛っ!?バカかお前逆に見せられた分の金払えってんだよ!!」ボケてんのか!


「何だとぉっ!」
「やるかぁ!?」


怒りの中にもあんまりと、若干の涙目は愛嬌である。
彼女は傍とこめかみを押さえ、この事態こそバカらしいと両の手を差し出してこの場を治める。


「はぁ!全く・・ ・・・やっぱり、絶対」



―――――――こんな奴。



「んだよ」

「バカの極みだなと改めて思ったんだ」


「喧嘩売ってんのか」
「私の喧嘩は高いぞ」



命を差し出すくらいは覚悟しろと、言いかけて留める。
彼女は喧嘩を売る手間さえ惜しいのか再び両手を差し出す。
場を治めようとするがこれを信に絡め取られ、取っ組み合うようにして彼らは向かい合った。

「なっ!?ちょっ」

「カカッ!じょーだんだよじょーだん!
   にしてもお前・・自分でわかってんのか知んねーけど、けっこー泣くよな」

「はぁ!?」
「ほら今もよ。・・なに思い出した」

言って覗き込む先の瞳は火照り、常時では見えぬであろう光を湛えている。
朗々と見つめられ、寳子は勢いよく顔を背けると彼の眼差しを振り切った。


「違う!わっ、私は自分で泣くんじゃないっ!
    外から、その・・受け取っているだけであって!!」

(それを泣き虫っつーんだろーが)泣かされまくってんじゃねーかよ。


余計にどうなんだと、これ以上を押した所で目前の強固な牙城は崩せまい。
此度のような籠城における、彼女という存在の厄介さは今に知る所ではない。

また必要に迫られている訳でもない。
信は近場の岩にでも腰掛け、その城を悠々と眺めていた。




「まーでも、やっぱどうしたって気にしちまうよな。漂のこと」



こちらも然も当然とした面でやってくる。

言うに事欠き、繋ぐ言にしては些か野暮に過ぎるようにも思える。


しかし寳子は怒る事もなく、大袈裟に驚くでもなく。
捉えられた手を解こうともせずにただ止まる。

言う心算のない感情の多くが脳裏に消える中、開いた口から内一言が漏れ出した。




「・・・ ・・無理を、していた」


ぽつりと零れる。

忘れられないのにと。
信の脳裏に彼女の言葉が木霊する。


「だからもう諦めた。持て余すより、慣れた方が良い」

「・・お前が諦めるっつーと、何か聞き慣れねぇな」
「そうか?私は進退共に潔い部類だぞ?」


おどけて返し、それが悪くない。


「俺もそれで良いと思うし、きっと漂だって思ってるだろーぜ」
「わかるのか?」


「俺と漂は一心同体だからな」



得意げに、そしてこれも悪くなかった。



「・・・何が一心同体だ」


故にどこか、憎らしい言の一つでも吐いてやりたかったのかも知れない。



「ぜんっぜん!・・似てないんだからな、お前達は」



全然と強調する。
外見など論外。
しかし内にある意志は―――――出会った事を後悔したくなる程に、しかし言う訳がない。

無理矢理にでも意識させられる。
逃げたくなるほどに、実際に一度逃げ出してしまった事でもある。

寳子は彼の事、また彼の意志を想い瞳を濡らした。


「何だまだ全然駄目じゃねーかお前」
「!?お、お前だって!」

「俺はとっくに前向いてんだよ!
   ・・じゃねーと漂から貰ったこの剣、ただでさえ重ぇってのに」


振るえやしない。

この剣には二人の夢が宿っていると信は言った。






「まァ、でもよ」

信の言葉に寳子は反応を見せない。
降って湧いた答えは確かに彼女の内にあった。


「よっと」


信は何の躊躇もなく彼女の手首を掴むと引き寄せる。
これには流石に抵抗を見せざるを得ない。

「な、なな何だっ!?」

「お前まだ意地張ってんだろ。そんなんじゃ寝覚め悪いぜ」


少なくとも思い出す度にこうして立ち止まる事のないように。

もう反発せずともいいように。



「おら、身体貸してやっから。・・漂に言いたいこと、全部言えよ」




届くかも知んねぇぜ?



何せ、一心同体だからよ。





全くどんな顔をして何を言うのかと思えば。

相も変わらぬ悪い目つきに、いけしゃあしゃあと当然の事のように言う。


これを笑わずして何に笑うと、彼女は堪えきれず―――――いやきっとこれは溜息であると、そう自分に言い訳をした。



「・・・・・・ ・・ふっ」
「おいコラお前いま俺の事またバカだって思ったろ」


「そうじゃないのか?」さっきから言ってる

「お前ざっけんなよもーぜぇええってぇ慰めてなんかやらねーからなっ!!」


(・・・慰め・・?)



信の言葉に寳子は傍とし、沸き起こる驚はしかし彼女に酷く馴染む。



ああ慰められていたのかと


寳子はやはり、笑っていた。





「・・・届くといいな」




一心同体なんだろう?



豪語したからには大概であると、彼女は静かに顔を伏せた。








「ほんとうに、バカなんだから」




誰に言ったかは知れない。


一人に、ないし二人に。



否、その限りではないのかも知れない。



信の胸に手を当てる。
強く響く鼓動が、遠きを近くに感じさせる。





「・・・・ ・・何で死んだのよ」




心が跳ねる。

信のものであり、しかしその保証はない。



胸に当てた手を握り締めると彼を引き寄せる。
肩に頭を寄せると、せめてもの、これも反発と顔を埋め涙を隠した。



一発、そして二発と信の胸を打つ。

緩やかに打ちつけられる拳は酷く穏やかで、そして重い。


痛みが内に穿たれるようなそれは、何度も何度も信の胸を抉り続けた。




「何でっ・・ ・・・何で勝手に死んじゃったのよっ・・・!」



あのとき彼が彼女を逃がさなければ。

共に戦っていれば。


―――――どうすれば、よかったのかと彼女は縋るようにして問う。




「約束っ、したのに・・ 嘘つきっっ・・・!!」




傍で看取る事さえ叶わなかった。

得てして彼らの道とはそういうものだとしても、後悔せずにはいられない。


最期の会話らしい会話など一人きりの先の話。



幸運の話。



しかしこのとき寳子は知らないでいた。


それこそが彼女に対する―――――――

   漂にとっての先の、満足し得る最期の言葉であった事に未だ気付かないでいる。





「寳・・「でも」



ありがとう、と。


王を、大王贏政を守り抜いてくれて。


戦場から退けてくれて
幸せを願ってくれて


笑顔で送ってくれて



ありがとう。


何度も何度も、そう述べた。






「漂、一体私に何て言ってくれるつもりだったの?」



約束の先は知りたかった。
しかしそれが叶う事はもうない。


「私も言いたいこと・・沢山あったよ」


ここで全てを吐く訳にもいかない。
語り入ればどれほど月の嘲りとやらに対さねばならないかと思えば易い。



「ほんとうに貴方も。
   ・・私も、バカなんだからっ・・・」



どうしようもないそれが三人揃うのだから立ち行かないと。

成る程、ないし三人であったと答を得る。



信は不意に寳子を抱き締めると頭を撫で、そして背を軽く叩く。
これには彼女も動揺し、身動ぐがついにはその腕の中に納まった。


まるで泣き止まぬ赤子をあやす様である。
慰めの手が心音と同化する。

彼女を宥める為の、彼にとって精一杯の慰めだった。



「あーぁ。漂の奴も言われたい放題だな」完全に涙目だろこれ。



しかし信の言葉は彼女に届かない。



この慰め方を知っている。



まただと、しかし咎めるには筋違いと―――――諫めるにも厭いた。



仕様がない。
寳子は反発をやめ、信を見やる。

彼女の泣き腫らす目を見るのが彼であれば、彼のその妙を垣間見るのも彼女であった。


「・・信、なにもお前まで泣かなくてもいいだろう・・?」

「ぁあ?誰が泣・・ ・・・・・・・・」


言われ、頬を撫でると指が滑る。

信の頬には一筋の、願いの残滓がそこにあった。



「・・ばか」

「お前この・・って、何で俺・・ ・・・くそっ」


強引に拭うと一時のものとして収まりを見せる。

それを見て彼女は可笑しな事と、しかし様として笑みを浮かべる。
信は訝しみながら仕様がない体でバツ悪そうに外方を向いた。




「信」
「んだよ」


「お前・・少し背、伸びたか?」

「何の話だよそれ今いう話かっ」


すまない、と。
しかし彼女に悪びれる様子はない。


前まで自分と同じような背丈であった少年と、現在の自身でもって比べてみる。


彼女の天辺から水平に伸びる手は、容易く彼の天辺より下の方で引っかかった。




「刻とは進み続けるものなんだな、信」



当たり前のことを、どんな体で以てして。

しかし聞く彼方もまた、体を同じくするのだから伝わった。



寳子は暫く間を置くと、信に再び声を掛ける。



「信・・」



応と、その声は悲しみではない。




「ありがとう・・・」




慣れぬ慰めとやらをしてやったというのにと。
何処かの誰かにはあれほど大盤振る舞いをした感謝の言を、此度は一言であると悪戯に笑う。

しかし重く聞こえるのは、概して共にある所為であるのか否か。

それに寄る答え、導き出される先の行く末を知る者は未だいない。













「・・ぶはっ」
「なっ、何だっ」

「いやなんつーか・・ぶふっ」カカカ

家路をゆく最中に信のくぐもった笑いが厭でも届く。
思い出したように突如吹き出すその体に、寳子は実にわかり易く妙を顔に書く。
立ち止まるがその都度では延々帰れぬ事を悟った彼女は、信の頬をつねり半ば引き摺る様にして路を急いだ。

「ひうんひぇっ・・って、痛ってーなったく!自分で歩けるっつーんだよ!」
「笑うという事はどうせロクでもない事を思い出したんだろう?
   そんな暇があるならさっさと歩け。・・全く、少し見直したと思ったら・・ ・・・私は先に行くぞ」

「別におめーのハダカ思い出したんじゃねぇーからなっ!?」自惚れんなよっ!!
「誰がそんな事を言った消せと言ったんだぞ私は蒸し返すな大馬鹿者がああッッ!!!」いっそ頭を潰してやろうかっ!!


顔を真っ赤にして対峙する彼女は相応である。
しかし掌から信の頭を鷲掴み、熱る姿はもはや形容し難い。

このままでは命に関わると懸命に謝罪したところ、彼はやっとの思いで解放される。


寳子は捨て置くようにして彼の二歩ほど先をゆくが、笑われた事で次はまたどんな羞恥を思い知らされるか知れないと警戒する。
恐々と背後に憂いを抱え、しかし彼女の耳が塞がれることはない。

「そんな怒ってばっかいんなよなー!見ちまったモンはしゃーねーだろ!?
   どーせ年とったらまた変わんだろーし気にすんなよ! あー忘れた。よし忘れた。これでいいかっ!?」
「いい訳ないだろっ!!口にするからなお悪いんだお前はっ!
   もういい喋るなさっさと帰るぞ!・・はぁ、今からでも王都に帰りたい」

「逆だなーと思ってよ!
   ・・お前と会ったばっかの頃。お前が昌文君のオッサンの子だって知って、掴みかかった時があったろ」


思いのほか疑ってかかる程の話ではないと察し警戒が緩む。

出会ったばかりの頃。
彼らは思い思いの景色を脳裏に映し出していた。



「漂の言った意味もちゃんとわかってねぇで。
   巻き込んだ奴ら全員恨んでばっかだった俺を、お前が口でボッコボコに伸したあれだ」


『残念だ、無名の少年。――――――お前は下僕のまま、その一生を終えていろ』


「・・・・」


今この時はそれほど殺伐としていないがと付け加える。
あれは中々に効いたと、信は昔話を懐かしむようにして語る。


「なんつーか、だからよ。
   笑ったのは・・あんだけ言いたい放題言われて、カッコ悪くて。
      んでもって前と今のお前とか、俺たち比べてみて・・ ・・うまく言えねーけど、思い出したら笑えただけだ」


信の言葉と併せて、寳子はその昔話を今時分の己の心に重ね合わせる。


確かに少し、笑えた気がした。



急に黙り込む彼女を傍目に見る。
つまりはと信は、やっと言いたい事を纏められた様だった。



「お前も俺みたいになるぜ。
   こいつと一緒に、生きていけるようになる」



こいつ、という思い出であり、夢である。


天下に連れて行くと約束した。




「・・一番忘れらんねぇ思い出もってる奴が、簡単に人に忘れろとか言うなよな」



括目し寳子は足を止める。

あれだけ忘れられないと愚図っていた者は誰だったか。



―――――これは辱めであると。
   
   寳子は自分に文句を言い、そして信に一言、ごく小さな声で謝罪した。






「お前はあいつと約束、何かねぇのかよ」


言われ、一通りが内に流れる。
些細なものから、かけがえのない。

決して違う事のできぬ約束までが彼女を通り過ぎる。



『な、なるっ!私幸せになるっ!!』



彼の笑顔を思い出す。

共にとする想いに、漂が頷く事はなかった。




「・・・ ・・・・・ありすぎて、わからないな」



多くの約束の中で何故これを選び取ったのか。
最後の約束だからか、それとも。
彼女は自分に問いかけた。


声が震える。
しかし涙は堪えた。

よく泣くと言われ、また精一杯の反発をしたまでの事だった。


信は立ち止まった寳子の背を押す。
反動で少し前のめる彼女に文句はない。

寳子の顔を覗く事もなく、信は彼女の先を行った。















「今晩はお前達の家に泊まらせてもらう」

「おー。お前飯は」
「途中で干し肉を食べたからな。気遣いの必要はない」
「カカッ!惜しかったなぁ、も少し早けりゃ貂の飯が食えたってのに」
「・・・後悔といえばそこだな」

無駄話を出来るまでには体を保つ。
こういった、様々に話が出来る者も稀少であると寳子は心安く感じていた。

家に着くと寳子は繋いでいた黒黎に面する。
撫でてやると主の帰りを待っていたといわんばかりの様である。
彼女は困ったように笑うと、首に数回手を当て眠るよう促した。

「おー・・黒っぽいけど光に当たると青っぽくてって、何かカッケーなあ!」
「やめておけ。この子は私以外が触ると手がつけられない」

「まだ何もしてねーし!つかいい身分じゃねーか馬のクセによォ!」べったべたに触ってやる!
「やーめーろ、と言っている」幼子でもあるまいし。

息巻く信の頬をつねる。
寳子は空いた片方の手を腰にやり、呆れた口調で信に言った。

「少なくとも私の前では馬のクセにと、侮る様な口調はよせ」
「ひゃはらふへんっ・・ ・・だーっ!! あー・・ってて。
   ったく・・それは、まァ。悪かった。
      つってもなぁ!・・俺らみてーなのはオメーら貴士族みてぇに馬に愛着とかねぇからなぁ」

つねられた頬を撫でながら言う。
そんな信の言葉に寳子は目を伏せると深い溜息を吐いた。


「位は関係ない。什のうち一騎から将軍まで、馬を使い捨てる奴は巨万といる。
   しかし愛着を持つ者も確かにいるという事を知っておいてくれ」


括目し、同列には見られたくないと紅紫紺が訴える。
射抜くように鋭く、しかし艶麗なその瞳は静穏と信を見詰めていた。


「わ、わーってるって・・ ・・・やっぱ愛着とかあると違うモンなのか?」
「是非はあるがな。私のように入れ込む者には、失った際に後を引くと諫言を呈する方もおられた」
「へぇ・・」

「だがな、信。命を託し合うとはその意気からして違うんだ。
   次々と色を変える戦場にあって、対応しきるには馬という存在は必要不可欠だ」


その必要に足る存在に己も見合うよう努めること。
総じて足れば戦場を掌握するに易い、それ程までに要であると寳子は答える。

「己の十で足りなければ他で補うは常套。
   馬は己に最も近く、十を満足に・・また十を十二にまで引き上げる事の出来るものだ」


そしてその上を、上限など知らぬと先を望むなら。

言うなればそのもの正に愛着。
信頼の類であるのだろうと寳子は黎を撫でる。


「己が馬をどこまで使い、また能うよう熟せるかが重要になる。
   両者が互いに力をあらん限り発揮し、それでも敗するようなら仕方のないこと。
      
         結果生き違えたとしても、その絆が消える事はない」



そして寳子は共に死する事こそが最大の悲劇と説く。


主が生きてさえすれば、それまでは永遠だと彼女は言う。

記憶の中でさえ知る者がいなくなったその時こそが、命の本当の終わりなのだと胸を張って空を見上げる。



そして傍と。

彼女は不意に、答えを得たことに気が付いた。



「寳子」


信もそれに気が付く。




「お前わかってんじゃねーか」




わかっている事を、わかってしまった。

知らなければ語れない、その程である。



「お前といると痛みもあるが・・発見も多いな」


内に隠れて見えなかったのだと。
余りの辛みに当て嵌める事ができずにいた。


「・・最後まで迷っていたが、やはり行こう」
「行くって、どこへ」


信の疑問は勿論と、しかし答えずにはぐらかす。
お前のお陰だと、感謝の意だけを述べ歩き出した。

寳子は消えぬ絆を断ち切ろうとしていた自分を顧みる。
彼女が語る言葉の意味を知っていたのもまた、遥か遠くの約束に連なる者だけだった。
















貂の寝息が密やかな家内に籠る。
その中を信と寳子は忍び足で立ち入ると、体のいい場所に二人は腰を落ち着けた。
こそこそと小声で交わされる話にどこかこそばゆさを覚えるが、明朗と笑ってもいられない。

「綺麗とまでは言わねぇが。
   まーでも、お前が来るなんて思ってなかったしよ。我慢してくれ」

「気にするな。戦場に出ている以上、こういった場合にも慣れている。横になれさえすればいい」

「こういった場合ってどういった場合だよ」オラはっきり言えハッキリ。


語を強める信の口元に人差し指を添える。
寳子は恐る恐る貂の様子を覗くが、何とか身動ぎだけで済んだ事を確認する。


「声が大きい」
「お前がっ・・ ・・・ケッ」


座り込み、難も去った所で疲れが出たのか寳子は横になる。
暗がりのなか月の光が差し込む様を茫と見つめ、そして会話は途切れた。
静寂に居心地を悪くした信も彼女に倣い横になる。
すると心安いと、先程までの気忙しい刻が嘘のように遠く感じられる。

静が穏と空気を変える。
妙にしっくりとくる気配に信の瞼が降りようとしたその時だった。


「明日私は先に帰るが、お前達は別に王都に向かってくれ。後で合流する」
「は・・・」

未だ眠ってはいないが水を打たれたようにして意識が覚醒する。
魏戦の報は知った所だが、ここで王都に足を運ぶ理由が見当たらない。


「・・帰って来るんだ。真敵が」


敵が、王都に、帰る。
定まらぬ頭で一旦内に持ち帰ると、避暑地での会話を思い出す。

内なる敵の存在。
当時話を聞くだけでも厄介そうだと眉間に皺を寄せた想いまでもが寄せる。



「頼む。大王の傍にいて欲しい」


秦にとって彼の存在がどういったものなのか実際に認めて欲しいという思い。
そしてそれ以上に、対する大王の気に沿って欲しいと彼女は懇願した。

短い区切りの話である。
しかし寳子の切々とした想いが否応もなく伝わり、信は気付けば応と応えていた。




光の傾きが変わる。
月が未だ夜空を飾るなか、内に聞こえる思い思いの声は彼らに刻を知らせない。

明日も早い、寝なければという声も
思い出したかのように偶に聞こえるが掻き消される。


瞼は閉じた。

故にのち、寝言の類と言って憚るにも易い。



「なあ、信」
「・・何だよ」

「一つ、聞きたい事があるんだが―――――」



微睡むなか、既に夢を見ていたのかもしれない。
天井へ向け吐いた甘言が自らに降ってきたとも言える。

さすがに寝言と言い切るには些か過ぎると恍けて笑う。
一頻りに言を繰り終えると、寳子は目を開け暗闇を見て言った。




「・・・漂は私に、何か言ってたか?」




間際に立ったというのならばと、自身の果たせなかった願いを得た者に問う。

約束の先を知りたいなどと野暮な話ではない。



彼女はただ彼の最期の刻に、己が存在のひと欠片でもあったのだろうかと


   これは希望ではなく期待と、彼女はこれが最後と言わんばかりに自惚れた。




一方の信は問われる間際というものを、心苦く思い出す。
どれほどの刻を積もうが変わらぬであろうそれに対し、漂から寳子に対する言葉を抜き出してゆく。

一つ一つと、そして信は口を開けた。





「・・・なんも言ってねぇよ」




それどころではなかったと言う。

それだけ言うと信は寳子に背を向ける。


彼女は、そうか、とだけ呟いた。





「・・なあ寳子」
「何だ」



「・・・いや、何でもねぇ」

「・・・変な奴」


言われ、暫し考え込む。

お前が言うなと、返そうとする頃には彼女の寝息が聞こえていた。






勘違いをしていた。


(寳子、お前は本当に・・漂の事が―――――――)


全てを知る訳ではない。

それでも、断片だけでも思い知る痛みというものが物語る。



漂の彼女を語る様と、彼女の漂を語る様の容に折り合いがつく。



彼らは好き合い、そして別たれたのだと

厭というほどに、思い知った。




実際のところ漂は夢を託す最中にあって、無論寳子の事も口にしていた。
しかし彼女に問われ答えなかったのは、言伝として漂から寳子にと託される言がなかった故の事である。

ならば長々と語る必要もない。

漂は寳子にではなく、信にその多くの言を託していた。




『お前ならいいと、思うから――――――――だから・・』

『ふざけんなよ何だよその寳子って!
   知るかよそんなもん俺にどうしろってんだよ!!』

『・・・俺の好きな人』
『はぁっ!?馬鹿かお前こんな時に冗談・・』


多くの言を託していた。




『信』





多くの想いを託していた。





『お前もきっと、好きになる』









(なるかっつーの。・・昔っから、お前とは女の、が・・あわな ・・・)


文句は人知れず、しかし最後まで続かない。

安らかな二つの寝息に導かれる様にして信も眠りについた。














月は姿を消し、見える光が陽のものとなる早朝。
寳子が顔を洗おうと外に出ると、貂と鉢合わせた。

「ああ、おはよう貂。久しぶり」
「久しぶりー・・ってじゃねぇだろっ!
   朝起きたら信の他に寳子も転がってて、何がどーなったかって訳わかんなかったんだぞっ!」

それでも起こしにかからなかった辺り彼女の気遣いが見て取れる。
寳子はすまないと苦笑いを呈するより他なかった。

「まぁ、もーいいけどさ。顔洗ったら飯な!」
「・・どうして来たのか聞かないの?」

「寳子が来るって事は何かあったんだろうって思って、近場散歩してたら立札見つけたから読んだ!」

故に知った心算であるし、子細詳しくは及ばないと手を翳し制する。
その様はどこか尊大であり大いに頼もしい。

(文字が読めるのか・・あの黒卑村にあって大したものだ)

「あ、そーだ。・・なあ寳子っ!」


水場に行こうとする寳子を引き留める。
寝惚け顔の目も開ききらぬ彼女の貌は、貂の疑問からその様を大きく変える事となる。

   

「女で戦場に出るには、どうすればいいんだ?」

「え・・」


明るく、照れくさそうに言う貂を凝視する。
寳子の眼差しが鋭さを増した事に彼女も気が付いた。

「・・・どういう事だ」
「あ、いやその!すんっごく大変なんだろうし、甘いこと言ってるってのはわかる!
    でもオレ戦う奴ら見てさ・・ ・・信や政、寳子のこと見て、オレもそこにいたいって思って・・」

「大王から褒美をもらい、豊かに暮らすんじゃなかったのか」

「そのつもりだったよ!・・初めだって巻き込まれただけで、こんな、ロクでもねぇって思ってた。
    変わったんだ!腕っぷしには自信ないけど、でも文字も読めるし。
       同じ女の寳子ならそこらへんわかってて、教えてくれるだろうって・・だから次に会ったら言おうと思ってたんだ!」


一頻りの思いをぶつけ肩で息をする貂。
変わって寳子の様は淡々と、しかし穏やかでない。


「・・もし戦場に出るというのであれば、私もお前との接し方を変えねばならなくなる」


空気の変調を知る。
体感できる程の様に貂は気付かず片方の足を引いていた。


「仲間と友は違う。支えは合っても馴れ合いや甘さはない。
   事を為す覚悟の前に―――――お前の夢は臆せず、そして非情に徹しきる事ができるのか」


身を引く貂を追う様にして、寳子も一歩身を乗り出す。
迫る彼女は一途に、怯む貂から目を逸らさない。
視界からして捕らわれた彼女は、対して目を逸らす事ができなかった。

「なっ・・仲間と友が違うって、寳子には仲間で友達な奴らがいるんだろ!?前に言ってたじゃないか!えーと・・」

「・・今はそういう事にしておこう。
   それに私達は時と場合を弁えている。
      平時に顔を合わせれば無二の友だが、いざ戦場・・作戦の最中にあり、それが勝敗を分ける場面であれば見捨てる事も厭わない」


非情になること、徹すること、あらゆる犠牲をも厭わないこと。


その場を見極め、能わせる事のできる者になれるのか。

お前にそれが出来るのかと、念を押して問う。
内容以前に寳子の気迫が貂の言葉を遮った。

「うっ・・ぐ」
「言に詰まるという事は定まっていない証拠だ。
     止めておけ、この瞬間にお前は死んでいる」


大一番の是非を問う場面で迷うなど話にもならない。

自分だけではない、味方も殺すと寳子は貂の胸の辺りを指で突く。
大きく仰け反る彼女は何とかして耐え、すると声を張り上げて言い返した。


「寳子は貴士族だからいいよ!剣だって習えて馬にだって乗れる!
   でもオレはっ・・オレだけがこんなトコで座って待ってるなんて嫌なんだよぉッ!!」

「――――――――――」


聞き覚えのある音がしたと、今度は寳子が身を引く番だった。

その様子に気付き言い過ぎたと口を押える貂。
恐る恐る寳子を見やると、俯き物言わぬ彼女に不安を覚えた。

「あっ・・ ・・ご、ごめん寳子、オレ」
「いや・・私も急な事で意地の悪いことを言った。
   私は、貂とは友でいたい。・・・・・とりあえず、今の状態では協力はできない。ごめん」


言って返る話も聞かず、寳子は水場へと足を運ぶ。

水を手で掬い、力ない指の間からは無論零れ落ちる。
濡れた手を見つめ、彼女はその手で自らの顔を覆った。







朝餉をとり終わると暫く歓談となった。
朝の出来事がまるでなかったかのように振る舞う寳子に貂も合せる。
何も知らぬ信は久々に集まったと、ここぞとばかりに仕様もない話を振っては寳子に頬をつねられていた。

もう暫く、暫くと刻を先延ばしにするにも限界がくる。
寳子は観念したように立ち上がると、引き留める声もほどほどに聞き流し支度を始めた。


「もー行っちまうのか」
「お前達も早く出ろよ。陽が天高く真上に来るまで、それまでに王都に着いてくれ」

「寳子・・」
「・・・貂も、またあとで」


両者僅かな蟠りを抱えるが、それでも体としては何ら変わりない。
今日の再会を約束すると寳子は愛馬に跨った。


「あと信。・・お前がいた、城戸村だがな」
「ん?」


「・・・どの辺りにある?」



一陣の風が吹いたのは誰かの答えとも。

また、この情けない顔を髪で隠す為の慈悲と、そう思えば煩わしくもない。


「・・行ってどうすんだよ」


昨夜の答えはこれかと、遅れて聞こえるそれに信の態度は不逞不逞しい。

詰められる事は勿論、これに関しては彼も無関係ではない。
故に彼女が隠す道理もなかった。


「・・・・重すぎてな」


隠すどころか、素直でいる。



「少し、置いてくる」



その体は平然と。
何の事はない、ただの道案内であると答えた。

故に彼が隠す道理もない。
信は溜息を吐くと適当な枯れ枝を持ち、地面に道を描く。
寳子がそれには及ばないと手持ちの地図を翳すと、目的地であろう場所が枝で突かれ風穴を開けられる。
中々の不遜に彼女の眉尻が上がるが、ここは素直にと礼を述べた。



「寳子」

何か言いたげな信に、彼女は催促しない。
駆る馬を止め、上体のみを背後の彼らに向ける。



「迷うなよ」


「フ、せいぜい気を付ける」




道も、想いも。

寳子は信らと別れ、勢いよく馬を駆り出した。
























駆け出して暫く、そう遠くない事が幸いしたと馬上から見回す。

(ここが・・・)

入口近くをうろつく者に声をかけ、目的とする村とわかり下馬する。
馬を引き実際に立ち入ると目のかち合う者みなが驚愕した。

村人は恐々と寳子の姿を見つめ、下手に声を掛ける事もない。
愛馬を休ませようと体の良い場所を見つける。
寳子は近場の木に手綱を括り付けると、一番距離の近い者に声を掛けた。

「おいお前、すまないが手持ちの桶一杯に水を入れてこの子にやってくれないか」
「え!は、はぃいっ!!」

「黎、しっかりと草を食べて水を飲んで休んでいるんだぞ。
    帰りの道はお前の足と度胸にかかってる」

撫でながら愛馬に話し掛ける姿は傍目に穏やかである。
しかし少女とはいえ甲冑に身を包み、更に毛並の見事な黒馬を連れているのだから身分など厭でも知れる。
更に言えば滲み出る威厳というものが兵然とたらしめんのだから無理もなかった。

(士族サマがこんな村に一体何の用だよ・・)
(赤い髪で珍しい目の・・なーんか俺聞いたことあんだけどなァ)

「この集落の長はおるかっ!王都咸陽より使者が来たと伝えろッ!!」

『はぃいいいっっ!!!』

声を張り上げ、背筋を伸ばして村人二人は駆け出してゆく。
その先に巨体が立ちはだかり二人は跳ね返り倒れると、他によって既に呼び出されたのだろう所謂この村の長が姿を現した。


「(報され慌てて来てみれば・・)
        わ、私が里典でございます(女!?しかもまだ童じゃないか・・!)何か御用でしょうか?」

「ああ。王都で一時期不穏な動きがあったのは知っているな。
   そのため周辺の城と村を回っている・・何か変わった事はないか、希望等進言でも構わん」

「あぁ・・いえ、こちらは特に・・今まで通りと申しますか」
「そうか。不審者も見ていないか」
「は、はい・・」


里典の返事を聞くとその先に視線を移す。
彼方屋敷の前に多くの華が手向けられていた。



「・・・ ・・・ 誰 か 、死んだのか?」



素知らぬと、存ぜぬを通す。
三月も経ち、それでも絶えぬ献花の様に寳子の然とした表情が崩れそうになる。


「あ、あぁ・・漂って言って。ただの下僕なんですがね、まァ、こいつがイイ奴で」

「・・・・・」


それ以上は里典も口を噤む。
周囲の村人たちも揃って静まり返り、俯いた。


「・・墓はあるのか」
「え?あ、はい。この林を過ぎた森の奥に・・」
「参っていってもいいか?」
「えっ!?」

「こんな世だ。・・こんな世だからこそ、何であれ―――――」


下僕、貴士族、果ては王族さえも関係なく。


命は尊いものだろうと

   奪う手を携え、彼女はそう言い歩き出した。








付いて行こうとした里典を制し、寳子は一人で赴き歩き続ける。

踏み出す歩幅は均一に。
しかしその速度も林を抜ける頃には次第に速く、幅も広くなっていた。


「っは―――――・・!」


もはや歩くとは言えない速度で、ついには走り出し前のめる。
転びそうになる体を立て直し駆け抜ける。
彼の先まで整えられた路に沿って彼女は只管に走り続けた。



「っぐ・・ ・・っっ・・・・漂ッ・・!!!」



返事が返るはずもない。
ただどうしようもなく名を呼びたい一心、そうして出た声は叫びにも似ていた。






「・・・!!」

日当たりのいい、まるで誂え向きと構えられた場所を見つける。
そこには屋敷以上の多くの華が手向けられていた。



「・・・・ ・・  ・・・・・・・」



つい先程まで手を伸ばそうと必死に走っていた者が

いざ彼を、彼の眠る場所を前にするとただ佇む事しか出来ない。


それでも届こうと一つ一つ。
息を吐く度に近付き、懸命に一歩を踏み出してゆく。

走る最中に走馬灯のように駆け巡った想いや約束や文句といったものは
このとき既にない交ぜになって、今現在の彼女を象る。


もはやどれでもない、全てである。


相対するようにしてやっと、彼女は永い月日を経て漂と再会した。






「・・・ ・・・ふふっ」


笑ってしまう。

しかしそれ以前に彼女は泣いていた。


「可笑しいでしょ?―――――ここに来るまで、本気で泣かずにいられるって・・そう思ってた」


墓の前に立つ。

ここにいるのに、いない。

信じたくもない確とした現実が彼女に重く圧し掛かった。




「無理に決まってるのにっ・・・!!!」



墓の前に突っ伏し、泣き崩れる。
寳子は天にも届くであろう程に声を上げ、嗚咽を漏らし泣いた。



一刻では足らないだろう。
二刻だって泣いたかも知れない。


三刻過ぎる頃には止み始め座り込む。

以上は涙が乾く事こそないが、それでもしゃくり声が度々と、落ち着きを取り戻してゆく。



しかし止まろうとする頃にまた涙が滲み、顔がくしゃくしゃに歪む。
胸に拳を添えて定まらぬ情を制しようとする。


無理とわかっている。
それでも伝えたい事があるのだろうと、寳子は自らに問い掛け体を保った。



「本当は言いたいこと、沢山・・あったけど。 でも、もういいんだ」


全てであるが、こう混ざってしまっては難しいと惜しそうに。
しかしその顔は笑みを浮かべている。



「言いたいこと全部っ・・八つ当たりみたいに、信に言ってしまった!」



笑い、双眸を閉じると輪郭をなぞるようにして涙が零れ落ちる。
不器用な笑顔に比べ、綺麗な曲線を描く痕が想いの証を付けるようにして輝いた。


「墓が立ったというからどんなものかと来て見てみれば、何とも居心地が良さそうじゃないか!」



光が差し花々は咲き乱れ、静穏と眠りを妨げるものもなく。

これでは寝入ってしまうなと、寳子は困ったように顔を伏せ、唇を噛んだ。



「・・皆に手厚く送られ、好かれ・・ 
     ―――――そっちはどう?どこまでの世が見える?」



未だ見ぬ世の、何が見える。

それとも見える世の先を、誰かの瞳を通して見ているのか。


「それじゃあ貴方はここにいないじゃない・・ ・・・って、私は何言ってるんだろうな」


俯いた顔を上げ、真直ぐに見つめる。
墓の盛りに手を当てた。


「貴方はこんな所で静かに寝ているような人じゃないのにねっ・・!」


また堰を切ったように想いが溢れ出す。
漏れ出る嗚咽を出さぬよう歯を食いしばり、手の甲で涙を拭う。

呼吸を整え墓を見やると、寳子は声を掛けた。



「・・あなたの涙で、よかったんだよね」



八つ当たりのように――――――
   遣りようのない傲慢で、無粋な想いの丈を聞かせてしまったその人は





「漂、あなただったんだね」




的となった者は戸惑いと、無骨な優しさと。


しかし悲しみは

確かにあの場にいぬ彼のものであっただろうと、彼女はそう言った。





「だだっ広い天からなんかじゃない。


       あなたは信を通してこの世を見渡すんだよね、漂」






ならこれからも見ていてくれるのかな。

私の姿も、声も。



貴方を忘れようとする、私の事も――――――――




「っ・・漂っ・・  漂っっ・・・!!」


縋る様にして手をつき、地に食い込む指は泥に塗れた。




「私っ・・・!
    私あなたの事がっ・・・漂の事が大好きだったよぉっ・・・!!!」





やっと、言えた。

しかし連れては行けないと、想いの先を止める。


大粒の想いが止め処なく溢れ土の色を染める。
纏わりつく泥を落とすのに心許ないそれは、やはり涙と呼べる代物であって然る。



好きになる苦しみも。
失う苦しみも。

楽しみと喜びと
嬉しさと愛しさと

一概に見えて、しかしそうではないと知る。




故に彼女は


代え難き情というものに出会った。






「・・・・でも、受け止めてくれる貴方はもう、いないから」


目に見えない。
触れる事さえ叶わない。


きっといる。

けど、いない事実。



彼女は受け止めていた。



彼が眠りにつくであろう場所を見据える。




「想いは、ここへ置いていく」




貴方が安心して眠れるその時が来たら





「あなたと一緒に・・眠らせて欲しい」







確かな証を置いてゆく。


これを抱いては辛すぎる。



どうせ置くと言っても、到底置ききれるものではないのだからと


    彼らにとっての算段。 これが彼らの、大好きな想いの行き着く先だった。





だから





「だからっ・・ ・・・さようなら、漂―――――――っ・・!!」





彼女は生まれて初めての告白をした。


そして同時に失恋を知る。



消える事のない絆を確認した彼女は力強く立ち上がる。

寳子は己が情の在り処を取り戻し、先の明日へと歩いていった。







20130716



















































































































『ほら信、こうやって抱いて・・こう、あやすんだ』

『ったく何でもかんでもオレ達をこき使いやがって里典のやつ!』

『あんまり大きい声だすなよ。有が起きる』


とある村の一角。
他より比較的敷を取り、構えるその家の傍にはもう一つの―――――家とは呼べぬ、物置の小屋がある。

その中で未だ年端もいかぬ少年二人が、家主の子の世話を引き受けていた。


『信、お前もやってみるか?』
『はぁ!?せっかくコイツ寝たし、いいよオレはっ!』
『まあそう言うなよ。お前だって父親になる日が来るんだ』
『だからって早すぎるだろっ!』

一頻りに文句を言い、拒否する少年をもう一人は頑として受け付けない。
だからといって半ば強引に預けようとする彼の手も払えない。
首の座って間もない赤子は丁寧に、ゆっくりと。
安定感のある腕から恐々とする腕へと渡される。

『そーっと、そーーっと・・』
『うぐぁ〜〜〜触りたくねぇ〜〜〜・・!』

受け取る時の表情もそうであるが全身からして強張る。
預けた少年はそんな彼の姿を見て、声を殺し腹を抱えて笑った。

『ぶふっ!あははっ・・!こ、これだけ恐がる信も珍しいな・・!』っははは!
『笑ってんじゃねーよ漂!ってぅわあああぐずってきたぁ!』

彼らの声に反応し、赤子が顔を顰めて今にも号を発しそうになる。
不味いと、慌てふためくその体こそ同じだった。


『どっ、どどどうすりゃいいんだよ漂!』
『お、俺がさっきやったのと同じ事すればいいんだよっ』
『だぁあーっと、えーと・・!』

そうして必死になって思い出そうとする彼は、閃いたように赤子を抱え込む。


うまく抱えると恐る恐る赤子の頭を撫でる。
次いで背を数回、小さな鼓動に合わせてやる様にして穏やかに、そして不器用に叩いた。



すると赤子のへの字の口も直り、場は静寂を取り戻す。
どっと疲れたと、彼らは噴き出る汗を拭うと持ち直した。


『ごめんごめん。うるさかったよな俺たち』
『あーあ、メンドくせ。
   ・・でもこうされると安心しちまうんだなぁ』よくわかんねーけど
『そうだな。でも俺たちも褒められたりとかして頭撫でられたり、軽く叩かれたりしたら何か嬉しいよな』
『それだな』


そしてやはりわからないがと、突き詰められる答えは思い思いの心の内に沈む。

きっと温かい気持ちで齎されるそれは、嬉しいものなのだという事を彼らが理解した瞬間だった。



『・・何かふにゃんふにゃんで重くて。あっついんだな、赤子って』
『生きてやるーって、燃えてんだぜきっと』


寝入る赤子を二人して見つめる。
自分達がこういった時分、実際の親もこのように接したのだろうかと、このとき思わなくもない。

暫くの沈黙が続いた後、彼らは再び話し始めた。


『でもこれでいつ子供が生まれても大丈夫だよな俺たち』
『ぶわっは!何いってんだよ漂、大将軍になっても子供あやしてるつもりかよ!』

声を張る口を手で張る。
くぐもり反しようとする声は聞かず、お前の声は響くと少年は窘めた。

『俺は全部が全部、奥さんや召使いに任せる気はないんだっ』自分の子だぞ?
『はぁー、オレは面倒だから顔合わせて話してってだけでいいや。
   つってもまぁ無理だってムリムリ!大将軍なんてそんな甘いモンじゃねーんだからよ!』

『それはわかってる、その中でっ・・』
『にしてもほんっと笑えるよなー!子守しながら戦場に出るとかすんっ・・げぇ笑える!』ギャハハハ

『違う、だからそれは極端だって!
   ・・だーもー笑うなよっ!そういう事じゃなくて!!』

大きくなってから背を見て勝手に教われとは、未だ笑い堪えきれぬ者の弁。
そしてもう一人がまた、半ば諦めの体で言い返そうとしたその時だった。

赤子が目を覚まし再び愚図りだす。
固まる両者は一旦思考を停止させると、咳を切ったように応酬を始めた。

『漂の声がデケェから!』
『ばかっ!
お前もっ・・』
『よーしよし!おらさっさと機嫌直せ有!』バシバシ!!
『だーっ!!強すぎだろっ!』加減しろ!

『びぃえええええええええええええええ』

『『どわーーーーーーーーーーーーーッッ!!!』』


『ウルサーいッ!!静かに子守もできんのかお前たちわーーーっっ!!!』


家主が立ち入ると更にして絶叫する少年たち。

里典は彼らの頭にコブを作ると赤子を抱えて去ってゆく。
その背に言葉なく、態悪く出る彼をもう一人の少年が引き止める。


こんな遣り取りもいつもの事と、最後には笑い合う。

それがずっと続くと思い、またそれでは駄目だと彼らは内心奮起していた。





確かに彼らはそこに存在し、息衝いていた。
泣き笑い、常に共に在り――――― 千を超える仕合を繰り広げ己を高めていった。


忘れ得ぬ過去がある。
それは誰もが持ち合わせ、また手放せぬものである。

赤子にしていたあやし方を、まさか数年経ったのちに見知ったばかりの少女にする事になろうとは
この時の信も、そして遠く身を置く寳子自身も、互いに知る所ではない。



遠い記憶が、近く先に届く。

そんな、いつかの昔話。