王都咸陽から見える先が目的地であった。
そこは呼び出しに応じた者の城からも見える、程近くの丘山である。
麓を越えた森奥に秦の双璧が並び立つ。
しかし一方の男の足元には、隠れるようにして小さな影が揺れている。
葉の茂みを避けた陽光が少女の揺れる瞳を映し出す。

違和は感じた。
あどけなさの中に、平地では見えぬ毒がある―――――と、招かれた男は表情一つ変えない。

口の端を上げ、微笑む。
童女が男の子供となって半年が過ぎていた。



「で。私をこんな所に誘い出して・・一体どんな口説き文句を聞かせてくれるんですかァ昌文君ン?」

「気色の悪い事を言うな。
   ・・今日は頼み事をしに来た」



昌文君が後ろ手に少女を捕まえるが中々前に出たがらない。
ならばと男が身を引くと、目前に晒されたのは未だ齢七の幼子だった。

『・・・・・・』

三者だんまりとするのは勿論の事である。
大人共は窺うようにして。少女は上目遣いに怯える様にしてその場に立つ。
しかし意外にも第一声を発したのは、震える小さな童女からであった。

「ア・・ ・・」

言葉にもならない音である。
気まずそうに、また気恥ずかしそうに顔を顰めると少女は再び男の背に隠れてしまった。

「恐れるな。奴のこの獲って食いそうな口唇は天性のものだ」
「昌文君あなたァ・・ちょっと会わない間に随分と気の利いた冗談を言うようになりましたねェ」


嫌いじゃァないですが。
寧ろ好意的であると間を詰めようとする大将軍を、昌文君は手で制し後ずさる。
釣れないと笑い声を溢す怪鳥はこの場面であっても自由である。
空を飛ぶようにしてこの世を駆け巡る秦の強大は、一頻り笑うと腰に手を当てた。

「儂の子となった、名は寳。 ・・そういった類のものらしい。
   本来の名は別にあるじゃろうし、おそらく音も違う」

「フぅん・・・ それ、アナタの趣味ですかァ?」
「なっ・・!あ、ち、違うわいっ!」

必死に否定する戦友を、王騎には珍しく怪訝な表情で見つめる。
はたと気付き、厭々と首を振ると王騎は溜息交じりに言った。

「それこそ違いますよ。
   名もそうですが、子を拾う趣味などアナタにあったかと聞いているんです」

紹介するにしても突然に、それも年端もいかぬ、似ても似つかぬ容姿のそれである。
言の詰まる昌文君に王騎は端切れの悪さを感じ腕を組む。
呼んだ以上はある程度話してもらわねば、此方としても納得がいかないとばかりに押し進める。
進み難いが、進まない訳ではないと王騎は腰を据えた。


「私を呼んだからには、一人でどうこうできない問題を押し付けに来たんでしょう?」


不意を突かれ、どこまで言うか言うまいか、そもそも関わらせた以上は全て話しておくべきかと葛藤が起きる。
やれやれと、王騎は自身も暇ではない旨を述べると踵を返し帰ろうとする。
これには昌文君も止めに入り、意を決したかのように話し出した。


「・・子を拾うなどこれが初めてだ。
    様々あって儂は部族同士の戦場に立ち会い、その時に預けられたのがこの子だ」


返した踵をまた返す。
王騎は促す様にして微笑み、黙り込んだ。

「女は、母親は不思議な事を言っていた。
   ―――――奇跡と災厄。この子をそのようにして称し、預けてきた」

中原に散らばる故から、独特の言い回しというのも頷ける。
己が部族を高傑とするならば、身の丈を知らぬ出任せを言う事もない。
しかし大層に触れ回るにしても余りに不敵な文言である。


「・・・我らが毒は地上の龍の血をも穢す。
    業よりつくられ、天地を殺す為に生まれた、と・・そう言っていた」


王騎の眉が動く。
何かに勘付いた様な仕草を見せるが、口を開く事はなかった。


「確かにこの子の生きる力というのは恐ろしいほどに強い。
   あの窮地にあって今、後を引く事無くここにいる。
      母親も虫の息ながら暫く持っておったからな」

大量の血を流しながらも鞭を振るい、応戦しつつ逃げ果せた。
自他共の血で全身はもちろん、黒赤の髪はしとどになり染め上げられる。
一心不乱に、しかし瞳には何者も映さぬ冷静な猛攻は恐怖さえ感じた、とは男の弁である。

「・・他の者も、その女と同じように戦っていましたか?」
「いや、儂が見た限り長と名乗るその女が桁外れに強かった。あれは・・人の容をした凶器だ」

寧ろ他は不戦とまではいかぬものの、戦というものに不慣れであるように感じたという。
降参する者も多くおり、特に女は敵に寄り分けられ連れて行かれた。
奇妙であったのは長である女、延いては一族の者がそれを何一つ咎める様子がなかったという事である。


(しかし捕虜を連れた敵陣は全滅。 何が起きたのかは今でも読めぬ)


鬼気迫る男に不安を感じたのか、少女は袖を引き制しようとする。
気付いた昌文君は少女の頭に手を置き宥める。
これに王騎も一息吐くが、やはり言を発しようとはしなかった。

「そして女はこうも言っていた。・・呪わせろと。
   そうすれば全てを還す。しかし呪わず、転化すればどうなるか見て見たくはないか、と」

少女は彼らの目を見詰め、視線の交差する辺りを辿って忙しなく首を振る。
平地の言葉を全く知らないではない。
しかし童女は早く難く交わされる言に付いてはゆけず、様子を窺う事で精一杯だった。



「昌文君、あなたに問いましょう」


秦の怪鳥がやっと鳴く。
これ災いと、それは喜ばしい声ではなかった。



「あなたはこの子を、奇跡とやらにしたいですか?
   それとも・・ ・・・秦の為ならば、災厄となる事さえ厭いませんか」



立て掛けていた宝刀を手にし、切先を一瞬にして昌文君の首に突き立てる。
思いもよらない行動に、男は少女を背にして後ずさった。

「なっ、何を本気にしておる王騎!
   あのような世迷言、女が死する際に娘を預ける為の大言を吐いたに過ぎぬ!儂とて話半分にしか聞いておらんわ!!」

「それが事実なら」
「はっ・・・!?」


「貴方は大変な化物を育てようとしているのですよ」



いつになく真摯な様の王騎に、昌文君も応えるようにして相対する。
彼に向けられた切先は、つまりは少女の首も狙われている事と同義であった。


「儂は・・ ・・・秦の為ならと、思う所もある」
   
女が文官、宮中にあっては国の滅びを招くという話は留め置いている。
故に得物を持たせ、武官とし。
戦に栄えるとあらば国の為に育て送り出すのが務めとしたい所である。

後者かと、王騎は矛を振りかぶる。
この目前の無頼の可能性は、今ならばまだ一刀の元に無かった事にすることができる。

―――――――人一人の内で決する事が出来る。

             何の感慨もなく屠る事が出来るのだと、振り下ろそうとしたその時だった。


「しかし!儂の子となった以上、ただ子女として生きる道もあると思っておる!
   あくまで刃を持たせ、秦に仇名すを討ち取る道を与えるが決めるのは!決めるのはこの子だと思っておるのだ・・・!!」

小さい肩を抱き、図らずも意気が籠る。
少女が苦しそうにすると男は慌てて手の力を緩めた。


「・・やはり、私を呼び出した理由はそれですか」


そうであって欲しくはないと、願っていた部分もある。

金輪際。もうやりたくはない。
   もうあのような思いはしたくないと、間に合わなかったあの時を未だ夢に見る。


「平地に生きる為の術、武具の事や体術・・一通りの事はこちらで仕込める。
   じゃが戦場の技術的なコツや勘といったものは、お前にしか頼めんのだ」

少女が今後、武で大成するには基礎的な事以外の実践的な部分が必要不可欠である。
それを気心知れた、馴れた武人、それもとっておきの人材を確保しようという男の目論見であった。


「・・・コココ。それにしても、大胆な事をしましたねぇ」


子を拾うという事。

寧ろそういった考えについては自分以上に厳しい目を持つ者であると認識していただけに驚きもする。

しかし意外ではない。
語りはしたものの、詰まる所。明確な答は一つだけだった。



「・・摎が死んで、弱っていたのかも知れんな」


答を曝す事は、弱さのそれと同等である。
王騎は表情も変えず、しかし言を返さぬ辺りが動揺と、付き合いの長い戦友は無論口にしない。
故にお返しと言わんばかりのそれは、己にも降りかかる諸刃の凶器であった。

「童女に背を見せ、武を授け、追わせる。 それをまた私にやれと。・・フフ」
「王騎」

故に言い難くしていた事まで見抜かれる。
抱く想いをわからぬでないだろうと、流す血は双方似ていた。



「本っ当にアナタは・・ ・・・酷な事を言いますねェ、昌文君」

「・・・・・」



酷い人と、仕方のないという体で。
至極嬉しそうに見えるのは板に付き過ぎている所為だと、話を持ち出したその人が俯くのだから可笑しい。

いや、悲しい。
そうさせているのは自身だと、俯いたその男は陳謝し、目には涙を浮かべていた。



「アナタ」
「(びくっ・・)」


大袈裟に肩を震わせ逃げようとするが、首根っこを掴まれ持ち上げられる。
そのまま王騎の顔に、鼻先が触れあいそうになる程の距離で詰められる。
完全に固まった童女の魂は、きっと空に逃げていた。


「寳『子』、と―――――名乗りなさい」

「王騎!?」


「これを捨てるか、昇華させるかはアナタ次第。いいですねェ?」


虚を名付ける。
寳子と名受けた童女ははたと気付くと、その名の響きに呆然とする。
少女よりも慌てふためくのは親の方である。
持ち上げられ声も発しない子に配慮するが王騎によって通らない。
すると小さいながらも呻くような声が聞こえた。

「う・・ ・・う」
「王騎、離してやってはくれぬかこの子は・・」

「うン・・」
「!!?」

昌文君は驚愕の体のまま声が出ない。
人見知りの子が返事をしただけではなく、頷き応としているのだから急な進歩に付いて行けない。
戦に内事にと忙しいため実子でさえこういった経験は少ない。
  それが自ら選んだ事とはいえである。
成り行きから男手で子育てをする事になり、こうして変化に一喜一憂するとは本人でさえ思っても見なかっただろう。
昌文君は小刻みに震えると先程とは別の意味で少し泣いた。

王騎が寳子をそっと下ろすと、彼女は不思議そうに、しかし嬉しそうに名を呟く。
それを見て王騎は、板につかぬ笑顔を少女に向けた。

「ぎょくし・・」
「そう。私は貴女に名を授けました。ですから、貴女の親にも等しい。わかりますね」
「うン」
「ンフフ。はい、とおっしゃい」
「・・は、はイ」

「では今この刻から私は貴女の母です。いいですね?」
「おっ、王騎っ!?」
「はイ」
「ぎ、寳―――――〜〜〜〜!!」

わなわなとする男に迫力はない。
寧ろよくわからない妙な体でいる男に、寳子は声を出して笑った。

「決まりですね。では、これからもよろしくお願いしますよォ、ア・ナ・タ・・♪」
「やっ、やめんかぁあああーーーーー!!!」


笑い声は高らかと、大きく輪を成して空に消えてゆく。


―――――九年前。

   交わされた約束は彼女を育て、それは力強く大地を踏みしめていた。























信が修行を終え、咸陽へ戻ろうと断崖を登る時だった。
手を伸ばす者は揚々と彼に声を掛けた。


「――――――――フ、少しはサマになったな、信」

「お前のその減らず口は変わんねぇなぁ、寳子」


固く結んだ手を引き上げる。
成果は信の活躍を讃える遠方の声で理解した。

「治めたか。ご苦労、と言いたい所だが吉報だ」
「いよっしゃ!やーっとあの将軍、稽古つけてくれる気になったのか!」

「王騎将軍から伝令だ。
   稽古は後回し、状況が変わった、と」

「はぁ!?んだよそれ話が違」


「戦が始まる」


信と渕は寳子が用意した馬に乗り急ぎ咸陽を目指す。
先の魏戦から四か月後、秦は東の韓に向けて二十万の軍勢でこれに臨み、連戦連勝を飾っていた。

(予想と違い多くの軍勢を仕掛けたものだな・・勝利で飾っておけば、抑止力になる。だが、呂不韋・・)

寳子にとっては単なる対外政策に見えない。
不穏な内部にも気を配りたい所ではあったが、ここで趙軍十万が馬央へと進行しているという報が耳に入るのだから儘ならない。
軍議に馳せ参じる頃には見知る面々が連なり、此度の趙の仕掛けに頭を悩ませていた。
身を隠す様にして音も立てず、背後から昌文君の側に列する。
王宮内部では昌平君が招かれ軍議が開かれると、早々に緊急徴兵令が下り趙への対策が講じられた。

(来たのは趙か・・これはなかなかに、骨のある。馬央を越え、馬陽まで来れば手遅れだ)

蒙ゴウ将軍を戻す刻もなければ不穏がこれを良しとする訳もない。
時に蒙武が秦に存在する事は不幸中の幸いであったが、これも呂氏の手駒とくればそう易く見れるものではなかった。

昌平君が王騎を呼んだとあって呂氏側が少々荒れるも、更に王騎を対趙戦における指揮官に配するとの声に蒙武が黙ってはいなかった。
しかし此度の戦においては攻守が鍵と推す昌文君の声と大王の命もあり、一同収まるが不穏の火は未だ燻り続ける様を呈していた。

(当然だ・・蒙武と王騎将軍。この窮地にあってどちらを選択するなど)

対趙とあっては力だけでは太刀打ちできないであろう事を察するのは、偏に数年前の確執にある。
誰もが力だけでは勝てない、守りと、更には王騎という存在の何かに賭けたがったのである。

指揮官が王騎に決まり、大王側が胸を撫で下ろすなか王騎が皆に退出するよう命じる。
任命の儀という名分を掲げ、不躾に外に出されると寳子は手持無沙汰と辺りを見回した。


「あれ・・信の奴どこへ行ったんだ。まだ話が」

掻き分けても掻き分けても違う顔、ともすれば胡散臭い不穏組のそれに当たるという不運さである。
これ以上気に障っても良くないと階段を降りる。
降りながら、仕方ないと言いつつも未だ探す体はどこか迷い子の様である。

「(全く、剣の手入れはしてあるんだろうな。傷なんて残していないだろうな。
   そういえば百人隊になったと言っていたが馬はどうするんだ。アテはあるんだろうな。あ、そうだ傷薬も・・)って何で私がそこまで!」

何とも器用に自分で乗って突っ込む。
これ以上世話を焼く義理もないと、言い訳のようにブツクサと文句を言う。
自身も戦の準備があるのだと意気込み、階段を駆け下りたその時だった。


「やっほー!寳子ーー!」
「は・・ ・・・蒙恬!!?」

ひらひらと舞う花弁のように、軽やかに現れるのは幼馴染の一。
何故にこうも毎度、狙ったように、狙った時に出くわすのかと今は思案している場合ではない。

「王賁から連絡あった?やっと会ってくれた??」
「いや、それがさっぱりで最近は手簡も・・じゃなくて!お前韓に行ってたんじゃ・・!」
「ちょっとヒマだから帰ってきたんだよねー」
「ちょっ・・ て、暇っ!?」
「だって連勝中だしさ。俺いらないかなって、だから」

わはー、と。決して笑い事ではない。
戦場を放棄するなど、いくら何でもまかり通るものではない。
彼の本来の聡明さを知らぬでない寳子は、声を大にして諫めた。

「いっ、いらないわけないだろ!戻れ!今すぐに!!でないといくら嫡子でも・・!」
「だいじょーぶ。物資の補給に来ただけだよ。近いし。」
「ちかっ・・って、え、あ・・補給、・・・」

馬乗り継いできたしと、適当な事を言う蒙恬に寳子は何とも言えず手で顔を覆う。
この男にとって大義名分というものほど、あやふやな言葉もない。

「それに敵将二、三人討ち取ったし。お役目的には御免って感じでさ」
「凄いじゃないか!なんだ、それこそ惜しい!
   留まってもっと功を挙げれば・・いや、これならもう千人将にはなれるとしてうまくいけば飛び越えて」

「まーいーんじゃないかなとりあえず千で。そんな急に上いっても妬まれるだけだし。それこそ、いくら蒙家嫡子でもさ」
「――――――  ・・全く。蒙恬、貴方という人は」


惜しそうにする体はしかし仕方がないと、呆れるようでいて悪くはない。

無理強いしなくとも彼は出来る。
寳子は何事も器用にこなしてゆく蒙恬に敬服すると、その時ばかりは幼馴染の顔から武官の体に変わっていた。


「あとさ。あの蓑虫の子。きてるよ」
「!」

軍師学校に来ているという話を耳にし、寳子は俄に騒ぐ自身を押し留める。
彼女が軍師になりたいと言った時、どんな思いで、どんな言葉を貂に掛けたか。
いま即事的にあの時の言葉、態度を自ら壊すような真似をする訳にはいかなかった。

「・・・・」
「会いに行かないの?」
「・・貂が軍師になると決めたのなら、私はいま、会うべきじゃない」
「・・・まっじめー」
「はぁ。蒙恬、お前の方こそもうちょっと真面目になれ」


そうすればもっと、名実共に足り得るというものだろうと言ってのける。

いつもの事、いつもの口ぶり、文句である。
故に彼女にとっては気にも留めぬ雑談の域であるが、しかし彼にとって同じかと言えばそうではない。


わかったと、この業の所在は目前と言わんばかりであった。



「寳子」
「ん?」


何も考えていない、何の咎もないであろう自身に疑問を抱く事さえないのだろう。
呆と返す寳子に蒙恬は、望まれたように真面目腐るを体現して言い放った。



「好きだよ」

「え」



「大好き」



咎というものは刃物である。
殊に見えぬ所に、見えぬようにして傷を付け、その身を抉る。

傷も見えなければ血も出ない。
故に実在させるか否かは、発言者の気一つでどうにでもなる。


彼女から貰い受けた咎を咎めるか。
   付けるか、付いた振りにするかは、彼次第であった。


「・・・えーっ、『寳子は俺のこと好きじゃないの』ーっ!?」
「あ、ぁあ、そ、それはもちろん好きだぞ?蒙恬は私の大切な幼馴染だ。当たり前じゃないか!」
「・・・『大』は付かないの?俺の方が気持ち上?」
「は、恥ずかしい奴だな・・蒙恬、どうした?戦で疲れたのか?滋養に効く薬を持ってるが、分けようか?」
「いらない。いいから言って」
「い、言って、って・・」


「言って。 そうしたら俺、頑張れる」



振りにして、嘘にする。

だから何が本物かと言われれば。
その一言こそが一番の薬だと、蒙恬は寳子を抱き寄せ口元に耳を寄せる。
こうなっては聞かないどうしようもなさを、彼女は厭という程に知っている。
横目に暫し思案の後、呟く言に主体性はない。


「・・・・ ・・・大好きだ、ぞ?蒙恬」


疑を抱きつつの言を、今回は許すと言わんばかりに不服そうに、しかし蒙恬は頷く。
ここで止めればいいのに彼は、ちょっとした世話と言わんばかりに減らず口を零す。

自己のどうしようも無さなど、彼はとうに諦めていた。


「王賁にもさ、言ってあげてよ。絶対喜ぶ」
「何言ってるんだ!そ、そんなこと言ったら彼は・・」

記憶の断片に息を呑む。 碌な事にならないと、蒙恬はそれを察した。



「お、お前と違って生真面目な人なんだ。そんなこと軽々しくは・・」


「そうだよね寳子。王賁が無駄に嘘吐いたり冗談も言えない奴だって、わかってる」




ならばなぜ   彼の好意の真を避けるのか。

徒な事だと、嘯いて見せるのか。


この答は彼らだけのものではないと、それは横合いの言い分である。



「・・・やっぱいいや。それじゃ、俺以外には誰にも言わないで?」
「どっちなんだ・・やっぱり今日の蒙恬、変だぞ」
「俺が変なのなんていつもの事じゃーん!
   よし帰ろ!帰ろー爺ちゃん心配だし!勝ってるけど!」
「お前はほんとに勝手だな!余りに過ぎると蒙ゴウのじいさまに言いつけて・・」

「出た!寳子のじーちゃんに言い付けるクセ!大丈夫だもーんじいちゃん俺に甘いから〜!」
「わっ、私にも優しいも・・ (ゴホン)蒙恬!!補給が終わったなら早く帰れ!」
「はいはーい!じゃーね寳子!まったね〜!」

大手を振り、立ち去る姿も華々しい。
やれやれと寳子は花嵐を見送ると手櫛で髪を整えた。


(戦の最中だというのにあれだ。
   でも、ああいった軽やかさを強みにできるのは彼ぐらいのものなんだろう)

余りに気を張り、手を拱いても話にならない。
あのような体でこそ本領を発揮するというのであればこれ以上はない。


「・・でも、やっぱり何か、変だった」


幼少からの付き合いである。
やたら滅多ら口にしても、馴染みの余計な節介にしかならないだろうと溜息を吐く。
もう互いにいい歳と、寳子は杞憂であるように願い先を急ぐ。


趙の手が馬陽にまで届こうとしているこの窮地に際し
   秦国十万は大将軍王騎のもと、始皇三年三月、趙軍を迎え撃つべく進軍を開始した。



























「・・趙の総大将はホウ煖、か」

小高い丘から眼下を見る。
変わらぬ土煙の様に目線を少し上げた時だった。


(伸びてきたな・・)

寳子は無造作に剣を持ち出すと、目にかかる黒赤の髪に当てる。
刃が触れるだけではらはらと散るそれは、彼女の一部に相違ない。


「いっそ」


短く、括る事もなく断ってしまえば気が惑う事もないのかも知れない。

しかしそれをしないのは
   女への未練が残っているからなのだろうなと、彼女はまた遠くを見た。





任命式の後、出立前に事は起きる。
蒙恬と別れ階段を下りた先の広間を悠々と歩いている時だった。
予想もしない、何故か背後から声を掛けられ振り返ると、目前に待ち人が息を切らして立っていた。

「おい寳子!」
「あっ!お前どこから!・・ ・・・。」

特に誰に頼まれたでもなく、更に言えばただの世話焼きの為だけに躍起になって探していた自分が何とも言えず、故に黙る。
どうやら気になる外傷もなく、使いの者が馬も確保し、準備が出来ているように見受けられる。
腕を組み相手の息が整うのを待つと、彼女から声を掛けた。

「何だ信、改まって。お前他より遅れているんだから急げ」
「いや別に改まってもねぇけどよ・・ お前、政に何かしたか?」
「えっ、えええ贏政さまにっ!?
   なっ、なっ、何も無礼な事など・・し、しっ・・して・・ 
・・・した」
「何やったんだよお前・・」

ジト目で見やる信の視線を避けるようにして背を向ける。
聞かなかった気付かなかった出会わなかった軍議の最中から終わり以降にかけて話をする余裕もないため仕方がなかったと様々な言い訳を思いつく。
あくまで大王贏政と、個人的に関わる機会が持てなかったという言い訳を列挙する。
決して避けていた訳ではないと、声なき声のため地味に体で表現されるが信は馬鹿かと一蹴した。

「い、色々あったんだっ!それにお前に馬鹿と言われる筋合いはないッ!」
「お前ってほんっと政の事になるとボロが出るっつーか、・・なんつーかなぁ。」
「そうなのか!?・・・ ・・・そっ、そんなはずないだろう!!!」
(うわやべコイツほんと駄目だ・・)

上ずった声、間のずれた抗議に信でさえ閉口する。
目の前にいる人物は寳子であって、しかし彼の知るその人ではない。


照れ隠しに怒ったり、笑ったり。名家の子女が麗らかに、朗らかに。
本来ならば美麗な衣に身を包み、花を抱く彼女こそ本来のあるべき姿ではないかと、そんな夢を見てしまう程に。

だから寝惚けて、口走ってしまったのだろう。




「そんなに政の事がす・・」



何を憚るでもなく言えた事を、何故か今になって言い淀む。

何、と。
彼女が口を出す前に切り替えた。


「・・政が用あるから来いっつってたぞ」
「うっ!?な、なんでっ・・私だけか!?
   そ、そうだ!お前も来ないか久しぶりに古参の面子で――――」
「俺はもー話した。それにお前急いで戦場行けって言ったろどっちなんだよ」
「あぁ・・えっと」

「政、怒ってないって言ってたぞ」
「!」

目に見えて表情の明るくなる寳子に笑ってしまう。
笑って、少し感じる物悲しさの所為は知らない。

「でっ・・でも、しかしな?あんな事されて怒らない贏政さまではないというか、腹が立てば普通に怒る人だから・・
   その、どう思う!?逆にこれまで呼び出されなかったのが不安なんだ!」
「知るか!ったくそんなの直接本人に聞きゃーいーだろ。
   こうしてる間にも、お前の方がさっさと行ってケリ着けてこいってんだ」

謝らなくちゃならないことを、謝るつもりならさっさと謝れ!
信は軽く拳を作ると、寳子の左肩を小突く。
よろける彼女は心細そうに信を見上げた。

「そんな気になるんならスパッと謝ってこいスパッと!戈振るうみてーにズバッと!先制攻撃してやれ!」
「うぅ・・」
「おら、早く行った行った」

信の気迫に押され、寳子は政の元へとぼとぼと歩き出す。
途中振り返るが信による謎の頷きと意気込みに背を押され、また少し歩く。

(チラッ)
「早く行けっ!」

怒号が飛ぶとやっと彼女の姿が消える。
やれやれと腰に手を当てると、ずっと拝礼していた渕に声を掛けた。

「待たせたな、それじゃ行くか渕さん」
「・・・・・」
「渕さん?」
「寳子様、ですか。出会った際は厳しいお方かと思いましたが、
   でもああした風なのは・・なんというか、年相応でいらして・・」

しかしはたと、こんな事を言っては刑に処されると寳子の去った方に向けて再度拝礼する。
信は溜息をつくと、渕の用意していた馬に跨った。

「渕さん・・
   今の奥さんにもダマされたくち?」尻に敷かれてんだろーなー
「そんなことありませんよぉ!!!」心がえぐれますっ!


抉れる心の何とやらは聞かなかった事にして。
急ぎ、と銘打たれたからには早々に咸陽を後にする。
最中一度振り返ったのは、何の事はない、気紛れである。


( 好きなら、・・・・・別に、俺には関係ねーけどよ)


ああいったグダグダとした事が気に食わない。
更に言えば自分にばかりは上官風を吹かせ、大層立派な名目をほざいては凛とした態度でいられる癖に。
政の事となると途端に破綻する姿勢に妙に違和を感じる。
明らかに自分とは違う態度が目に見えて好かないと、信は誰に愚痴るでもなく、そもそも愚痴とさえ思っていなかった。



玉座に腰掛ける大王贏政と寳子は、互いの姿と認め合うと視線を逸らさない。
気まずそうな寳子とは反対に政は見た目、普段通りと変わりない。
彼らはあの一件以来、政は執務に、寳子は演習にと何くれなく自然と距離を置いていた。

瞬きもせず、延々に思えた刻は実の所そう経ってはいない。

「(せっ・・先制攻撃っ!)あのっ!贏政さま!!」
「戦が始まるな」
「はいっ!!(出鼻を挫かれた―――――――!)」

はらはらと心の汗を流しそうになる寳子を尻目に、政は真顔のまま一つの動揺も見えない。
言を遮る割には話を続けず、寳子の居心地の悪さは極限にまで高まっていた。

「てっ、貂は軍師学校に入ったそうです・・あ、あそこは」
「そうか」
(話を聞いてくれないッ!!)


辛い。
余りに遣り辛い。
しかし逃げられない。一方しか塞がっていないのに逃げられる気がしない。
半端でない威圧感に寳子は直立を保つので精一杯である。
血が引き蒼白になるのがわかる。
少なくとも血色悪く引き攣り笑う顔が不気味に映っているであろう事だけは意識できた。


「寳子。俺は怒っていないと信から聞いたな」
「・・・・・はい」

「あれは嘘だ」
(((((うわぁあああああーーーーーーー!!!)))))


恥ずかしいやら情けないやらもどかしいやらどうしようもないやら。
穴があれば入りたいがそれが出来ない事も痛感している。
もうどうしようもないと抜け殻になる寳子に、冷戦はこのくらいにしてやろうという彼の意向か、ついに政が口を開ける。
しかし飽くまで冷戦を終えただけで、本戦の火蓋は今まさに切って落とされたのだった。


「蒙家嫡子、蒙恬か」

まずは以前の無礼に矛先が向くかと思いきや気抜けする。
聞こえた意外に過ぎる人物は、呂氏四柱のうちの一人に与する者の親類。
つい先程まで話をしていた花の一片の事だった。

「話し込んでここから王騎が去り、信を迎えた時に扉が開いていた事にも気付かなかったようだな」
「」

言葉を失くすとはこの事であると、いっそ卒倒してしまえば楽ではないかと安直に愚に走る。
玉座を立ってまでその様を窺うなど一体どういう了見かなど、もはや疑を上げる状態ではない。

(ほら蒙恬どこで誰に見られているかわかったものじゃないんだぞーーー!!)
「確か蒙家の者は蒙ゴウ、蒙恬共に韓に向かっていると聞いていたが」
「ほ、補給に回ったらしく、その調達に帰っていたようです!
    戦中だというのに馴染みの間柄、話入ってしまったのは大変申し訳のないものと―――――」

「補給に戻り、好意を囁いて帰るとは蒙家の倅、ひいて韓戦はよほど余裕なのだろうな」
「」


倒れたい。
気は失ったと寳子は口を開けない。
彼女は戦前だというのに疲れ果てた自身を応報と捨て置いた。

「ちなみに始終を見ていた。なかなかに外に良い顔をしているようだな?寳子」
(嘘つきーーーーー!!
   怒ってないどころじゃない贏政さまの嘘つき!もの凄く怒ってるじゃないかッ!!)

政の辛辣さと意地悪さに、さすがの寳子も反省を通り越し憤りを覚える。
その様に気付かぬ政ではない。


初めは物珍しいと見て、中には嫌悪していた連中も重なる実績を見ては丸くなったのと同じ様に。
幼少仲の良かった異性の友人が、近しい存在に好意を抱かない理由はない。

嫌いでない限り、寧ろ以前から好いていたとすれば。
この歳になって何かしら行動に出ないのはそれこそ問題であると、思えば思うほどに玉座に在る大王の顔は険しいものになる。


「良い顔、って・・そんな、蒙恬は馴染みです、親友です!
   大好きって、もちろん私だって大切ですし・・出来る限り、望まれる事には応えたい」

(それがいい顔と言うんだ)


政の溜息に気付くと寳子は憤怒を収め下を向く。
仕様もないと、彼は表情を和らげた。


「(何を棚に上げて怒っているんだ。悪いのはそもそも私じゃないか・・)
   あの、以前の無礼をした件・・大変申し訳ありませんでした。
       ちゃんと謝罪もせずこの期に及んで話を逸らそうとした事も重ねて、その」
「・・・・・・」

「私、ゆ、夢を見て。あの朝、彼の・・ ・・夢を見てしまって。
  情けない事に、恋しくなったのでしょう。 貴方様のお顔を・・直視する事ができませんでした」


遠くから、しかも上位にあっての謝罪など、いくらあらん限り叫んだ所で意味を成さない。
それをわかっていながら主君である王を、戦を理由に避け続けた罪は侮辱に値する。
甘い見識に下げた顔を上げられないが、それを政もあげろと無理強いする事はなかった。


「・・ああ。俺はそれに一番腹を立てている。 別の意味でな」


え、と。
疑を浮かべる彼女の名を、政は呼んだ。


「寳子」
「はっ、はいっ!!」

「漂の事を忘れられないのはお前だけじゃない」


彼に出会い、あの反乱を体験した者は決して忘れる事はできないだろう。
それは思い出であり、決して囚われるものではないと言い放った。


「お前は王の器と、将のそれであった者の区別だけはつけておけ」


玉座を降り、呆然とする寳子の元へと足を運ぶ。
罪は問わない。
彼女の罪を突けば彼を救えなかった、否、囮とする事に良しとした自身さえも詰めなければならない。
しかし王たるその身に、そもそれは責めるべくものではない。

漂の選択を生者がとやかく囚われたり、勝手に罪にする事などそれこそが烏滸がましい。
際限がない。彼もそれを望んだ訳ではない。


「あいつはこの国の王にはなれない。
   そして俺も、あいつ程の大将器には、なれない」



器を見紛えるな。

政の声に寳子は再度謝罪をすると、改めて拝礼し己が愚挙を恥じた。



「泣くな」



寳子の真前に立ち、二人は暫く刻が止まったかのように見詰め合う。
微かに涙を浮かべる彼女と、真剣な眼差しの彼との間にはどこか生温い、しかし確実な温度差が広がる。

王の両手が上がるのが見える。
理解していたのに動けなかったのは、動く必要がないと思った故のこと。

直立でなければならない、その必要性を感じたからこそである。


しかし―――――拳と手の平が当たる音がした。
政は拝手をし、寳子に相対する。
それを彼女は反射的に真似、王と従者の画となった。


「武運を」
「・・有難き、お言葉・・ ・・大王も、どうか健勝であらせられますよう・・」


腰を低く一歩下がりそのまま礼。
寳子は政の顔を見ることなくその場を後にした。

それを見送る大王はまた、小さく溜息を吐く。



「・・・言ってみろ。秦国大王・・政・・ ・・・童め」


玉座に腰掛け天井を仰ぐと、手の甲を額に当て目を瞑る。
甚だ君主の吐く言であったかと自問する。
漂の事はまだしも、それまでにとった稚拙な行動は勿論、馴染みの件を執拗に責めた件はどうなのか。

言い訳があるなら言ってみろ。
大王は政に、子供に問うていた。



寳子は足早に王宮を過ぎると立ち止まる。
動かずでいい。手を下ろしたままでいい。
大王が拝手したこと。
それを意外と思った、胸のつかえに自問する。



(・・・・ ・・何で、抱き締められるなんて思ったんだろう)



答えはない。
不謹慎だ。何を考えていると答が出ないのならばきりがない。
深く考えてはいけないと、考えられない場所へと気を急かす。

寳子は愛馬の他に、いくらかの乗り継ぎ用の馬を部下に確保させると隊を率いて咸陽を出立する。
歩兵を追う様にして出る騎兵の中でも、黒赤が目を引いたとは民兵の声であった。













手綱を持つ手が震える。
穏やかに事を終えてもらえたからこそ、自分が犯してしまった幼稚な行動を思い出し悶える。
刻にして一刻も経たずして、寳子の意識は戦場に戻って来た。


「〜〜ッッ・・うわああっ!私は何て・・何てことをっ〜〜〜!!!」

『あっ!控え目に寳子様が呻いておられる!』
『大王に呼び出されてたっての聞いたから何かあったんじゃねーの?』
『え!オレ蒙恬様と一緒にいるトコ見た!』
『いやいやまた例の王家絡みだろ』
『最近妙に元下僕の男と親しいらしいがそれは・・』

「珍しくはないな。・・それとお前達、無駄口はその位にしておけ、戦場だぞ」
「まぁまぁ介殻。まだ始まってないんだしさ。
   ・・敵陣に斬り込む時は一切の迷いなどないのに。けど、ああいったお姿は見ていて愛らしい」


むさ苦しい戦場に咲く一輪の花の様、と言った所で介殻に殴られた。

一方で寳子は一国の王、しかも己が仕えるべき君主に重ね重ねなんたる無礼をと頭を抱える。
その背後には他兵に紛れ介殻、介良の二人も述べては苦笑いを浮かべていた。


和やかな空気とは裏腹に見えるのは殺伐とした乾いた地である。
馬陽の援けと放たれた秦軍であったが実状趙軍は目前にまで迫っており、実際は死守と言う方が確かである。
寳子率いる昴護隊は第五軍、同金軍長のもと本陣を背に趙と相対していた。


「でもホント、あの殿あってこの方ありですよね」
「寳子様は大概の武具もお使いになられるからな」
「そうそう!特に 大 得 意 であらせられる『弓』はな!」

「はっはっは!寳子様はお父上から弓の才は引き継ぎになられなかったですものねぇ☆」

言った瞬間に剣戟よりは生温い、しかし鈍器で殴られたかのようなその音に周囲は水を打ったように静まり返った。
介殻に兜の上から殴られた介良は涙目で彼を睨み付ける。
しかしそんなものは何処吹く風と、介殻は次いで冗談の過ぎた郎党らを小突いた。

「痛ってぇええ〜〜〜んだよ何だよ介殻ッ!俺はこの場を和ませよーと・・」
「お前は頭が悪い」
「殴って後の一声がそれか!」
「周りを見ろ。作戦の話しかしていない。
   あと、寳子様はもはやお仕えする子女のそれではないんだ。貴様ら自覚しろ」
『あ・・』

我らが将に対し何たる無礼と、身体に染みついた馴れの刻を思い出している場合ではないと諫める。
当人に対してもそうであるが、部下がこのように浮足立っていては昴護自体が他隊に嘗められてしまう。


「介殻の言う通りだ。・・私もお前達の命を預かる身。もっと威厳を持たねばならないのだろうが・・」

前方で騒ぎを聞き付けた寳子が駆けつける。
彼女よりもそれを乗せる愛馬、赤蒐(せきしゅう)の方が荒ぶるのは戦前ゆえか否か。

「そっ、そんな事ありませんっ!申し訳ありませんでした寳子様!!」
「重ねてお詫び申し上げます我らが将!!戯言の数々!もはや首を差し出す次第!!」

「(あまり身構えられても遣り辛いがここは戦場だ・・毅然とした態度でいなければ)
   不問に処す。・・わかればいい。あとはその意気を刃に変え敵を討て」

『ハッ!!!!』


寳子は幼少から戦場に出て、武官になる頃には少数ながら隊を率いてもいた。
しかしそこは幼子の元である。
隊長の身を弁えてはいたものの、部下と同士を混合するままに接していた部分が多大であった。
馴れ合いではないが親しみを込め過ぎていた部分もある。

それを諫める声が少なかったのは
   気に掛けてもいない者もいる反面、寳子のそういった態度を嫌う者が多くはなかった為である。
童女がと見蔑む目は、長い刻をかけて別の目へと変化を遂げていた。

だからとこのままで居れないのは事実である。
殊にこの戦場において敵は宿敵趙。
昴護隊と名を受けたからには、端に付く小隊の長のままではいられない。


「隊を整えろ!!介殻、介良は両辺に並べ。あとは気を抑え待機だ!」


寳子の一声で隊が締まる。
それを先程まで好奇の目で見ていた他隊は、自身も身震いするほどの意気を感じ取り口を固く結ぶ。

第五軍大隊の将は別に在る。
しかし―――――何処の隊もそうであるが、その一片である小隊には個々に懸ける者達がいるのである。


(・・・あと弓の才は確かにないが、蜂の巣に当てるくらいは出来るんだぞ、全く)

ようは止まる的であれば要領を得ると、凡庸を声高に挙げているのである。
これを言ってはまたからかわれ空気が緩むと一人ごちる。

そんな中、腕を組む小さな背を見つめる一人の男がいた。
昴護隊のうち戦場に来てから一切口を開かないその人物は、揚とする彼らを無関係と言わんばかりに遠くで眺めていた。






趙軍と対峙して数刻。未だ互いに動きはない。
風はあるのか両国の掲げた旗が落ち着きなくはためいている。

(しかしこんな後方に回されるとは意外だった・・私の武技を知ってなお、ここに配した理由は何だ)

紅寳を間近で見た者であれば誰もが彼女の後方配置に違和を持つ。
紅の由縁を知る者であれば今頃彼女は中央、蒙武軍ないし一軍に組み込まれていても可笑しくはないのである。
心外にも近い気落ちのしようであるが、上がこれを望んだというのであれば無駄に動けるものでもない。
寳子は気の荒ぶる愛馬をなだめると敵方を見据えた。

(鼓舞はしたものの・・この一日は動けないかも知れないな)

部下たちには別の意味で足を棒にしてもらわねばならないと少し笑う。
少し笑って、気配を察する。
決して歓迎しない、またされていないそれに彼女は目を向けた。


「・・・・・」

「方元、貴方には各隊の援護を頼みたい。
   作戦通りだ。隊長である私が率先し指揮を執る。両辺に合せる場合は介殻、介良に従ってくれ」

号が届く範囲に―――――と。
言い掛けて相手が返事をする気もない事に気付く。
周囲は方元の怪訝さににじり寄るが、これを寳子が制した。

「・・・・・」
「昴護隊に身を置く以上勝手は許さない。
   演習では大目に見ていたが、実戦では従ってもらう。反するようなら処罰も辞さない」

「・・ずだ」

やっと口を開いたかと思えば微かな音の類。
そこには寳子の見知る方元という男は存在しなかった。


『言った筈だ』


聞こえぬ声は二度響かない。
方元は己が率いる三什騎からも離れ、昴護隊と距離を置く様に移動する。

「・・介殻、追って伝えてくれ。此度の大将の事を思えばこそ、冷静に動いてくれと」
「はっ」

隊内の僅かな移動でも、現状からして心証の良いものではない。
やれやれと呆れた口調で介良は寳子に近付いてきた。

「寳子様。あんな奴に騎馬三什も持たせすぎではありませんか?」
「いや、弓兵による追撃の重要性を考えると打倒だろう。
   それに彼とて元王騎軍。その気概を裏切って欲しくはない所だが・・」
「寳子様の直轄が精鋭什、俺が三什で介殻も同数、と」
「私に数を回しても仕方がないからな。その分を充てた」

ふむ、と介良は顎に手をやり納得と一つ頷く。
やはり気掛かりは皆思うところ同じかと寳子は溜息を吐いた。

「あーあ。蒙恬は韓の方に行っちゃったんですよねー。残念、祝杯一緒に挙げたかったのに」
「介良、油断するな。趙兵は甘くない」
「す、すみません・・  へへ、わかってますよ。
   戦場の恨みなぞ両成敗、それを何年経っても忘れられん怨霊ドモにトドメさしてやりますよ」
「・・・・それを無駄口と言うんだ」

語る両者共に、あの惨劇を目の当たりにした訳ではない。
それをしたり顔で語る辺りが何とも気持ち悪いと、寳子は口を噤んだ。
余りの真剣な眼差しに介良はおずおずと後退する。
必要以上に相手側に入ってしまう性質の主を、しかし彼が憂う事はない。

紅寳の綽名は伊達ではない。
その脅威の先には敵味方が確と分かたれていると知っているからである。





「おいそこのお前」
「ん?・・あぁ王騎軍トコの・・」

第二軍長隆国の元に仕えていた、名を方元という事は周知である。
方元が昴護隊に身を置き暫くが経つが、王騎軍のと揶揄されるのは得てして彼の素行によるものだろう。


「お前はあんな童女の元に就いて、それでいいと思っているのか。
   元々は親の昌文君に招かれた者ではないのか。なら己が主に仕えたいと思うのが当然の事だろう」


呆気と、ともすれば水を差されたかのように苦い顔をする男の事など諸共しない。
方元は純然たる疑問と、己が抱く不満を見知らぬ兵に訴えかけた。


「アンタは何か勘違いをしているようだ」
「・・どういう事だ」

「その意味がわからないってなら、この先を行く事も、戻る事もできないだろうぜ」


返る答えは予想もしない、更には辛辣なものである。
言葉を失っていると追い打ちのように男の声が耳を衝いた。

「話は聞いている。旧知なのだそうだな。
   ―――――アンタが寳子様をどんな目でしか見られなかったかってのが、よくわかるよ」

「・・貴様に何がわかる」
「弱音なら余所でやってくれ。戦前だ」

歯牙にもかけぬ物言いに肩を震わせ、方元が憤怒しかけた所で声が響き渡った。


「伝令!伝令ーーー!!」


伝令の報は軍長、同金の元へと伝えられる。
それは暫くして全体に伝わり、軍の纏う意気が変容する様を感じずにはいられない。
響動めきは波となって地に響き、兵達の胸に響く。
皆にわかに滾る血を抑え、号が出るまでと平静を装った。

「右軍が前進か・・」
「さて、中央が先か・・」
「わからんな」

「次いで申し上げます!副将蒙武率いる中央軍が進軍し始めたとの事です!」

先を越されたと右軍の誰もが思う中、伝令は続け様に状況を報告してゆく。
その性急さに騎兵のみならず跨る馬さえ落ち着きがなくなる。
前方から土煙が確認できる頃には、ついに秦側右方に動きが見えた。


「敵軍、率いるは敵将渉孟!」
「このまま進めば第二軍と当たります!!」
(隆国様の第二軍・・第三と位置を変えた方が良かったのでは。
   様子見にしても初戦から当たる可能性は目に見えていたはず)

無論隆国を軽んじている訳ではないが、どう見ても第三軍の鱗坊を前に出しておいた方が無難である。
その後方を隆国が固める事で盤石と感じていた寳子は、己が位置にしても此度の布陣に納得していなかった。


(それにこんな後方では・・)

「こんな後方では腕が鈍るか、寳子」
「!?」

図らず声を掛けられ吃驚をしかし留める。
昴護隊は第五軍の端、しかも前方が交戦を始めた報を受ける中で
まさか軍長がここまで馳せるとは思いもよらず虚を突かれた形となる。

「ど、同金様。このような場所まで足を運ばれるとは思わず、狼狽えてすみません」
「謝る必要はない。以前にも増して重みが見える、強くなったな」

滅多に褒められない、いや軍長の中では褒められること自体が稀有な事であるが、
殊に口を開く事の少ない同金がこうも口数多くいると浮ついてしまうというものである。

「あっ、あ、ありがとうございます・・!」
「百人、昴護隊か」

聞けば名も受けた事であるし、労いも含め声を掛けたと言う。

「敵方がどこまで詰め込んでくるかだが、初日だ」
「よほど有利と踏まない限りは来ませんか」

おそらく第五軍にまでは迫らぬであろう憶測を立てる。

「いや。相手は主力を左に当て、こちらの右軍に当てる心算だ」
「六万対四万・・数で劣るならあとは軍、隊・・個の能力という事になりますね。
   多少の無理をしてでも初日に斬り込んでくるか・・ ・・・我々が第二・三軍に加勢する事は」
「奴らに任せておけ。突破されるようなら、本陣に届く前に抑える最大の盾はこの五軍となる」
「盾・・・」

最大の防御の内でも本陣にとっての盾。
成る程と、寳子は己が役割を理解する。
剣が中央後方に位置するというのなら尚の事である。

「問題は左軍だ。完全に孤立している。だが剣である事も事実」
「!?左軍が剣、ですか・・?」
「策を講ずる敵将がいながらこちらは干央だ」
「易々と届きそうにない・・ ・・・壁兄」
「特攻を仕掛けるこちらに、相手は容赦なく、まるで赤子の手を捻る様に、素直に策を講ずるであろうな」
(ん・・?)

「どっ、同金軍長!左軍も動き始めたとの報告!また、先程の両軍先鋒における力はほぼ互角!」
「・・・・・」
(秦国中央の蒙武軍と趙国左軍の渉孟が互角・・!?)

単純に考えて寳子は、場合によっては相手国の蒙武と剣を交える可能性があるという事である。
ぞっとしない。しかし成る程と別に感心する。


(功を挙げるとなるとこれ以上の近道はない。
   王騎将軍・・貴方の画くこの戦図に、私は応えてみせます・・!)


これは誓いであり鼓舞である。
相手が蒙武格というのであれば、それそのものが自身の弱点になると理解している。

紅寳の戈は対軍隊であり猛将一人の相手ではない。
それを討つには不足と、彼女自身が誰より痛感していた。


「寳子。もう一つ・・元々こちらにいた男の事で話がある」
「方元、ですか」
「・・隆国ほど奴に詳しくはないが」

王騎軍故にと、敢えて言った。



「不要なら斬って構わん」



それで戦を有利に進められるのならと、軍長としての達しをする。

「・・同士討ちは処罰の対象です」
「目に見える所でやれと言っていない」

そんな事をまさか軍長直々に聞く事になろうとは思わない。
淡々とした口調は、この人物の事を考えても冗談ではない事が窺える。

「俺は録嗚未ほど馬鹿でもないし、隆国ほど冷静でもない。
   鱗坊ほど皮肉屋でもなければ、干央ほど死にたがりでもない」

彼らにとっての『長所』を述べる。
当人らが聞けばなかなか複雑な表情を見せてくれるだろう画が見えるが、内一人が顔からして喧しい。
寳子は難儀と眉を潜ませると、考えるのをやめた。


「だが王騎将軍への忠誠だけは譲るつもりはない。
   真に主を想うなればこそ、俺なら何事にも従う」


例え己が意にそぐわなくとも。
それが望まれているのなら従うまでと言う。

忠誠だけは。
だからこそわかると、同金は続けた。



「奴は危うい」



忠誠に執着しているのではない。

忠誠を誓う己に執着しているのだと、軍長は言った。


「この戦、延いては殿の憂い・・悪害となるならば斬れ」


言に詰まる。
普段このような事を言うような人物ではない。
己が出来る立場であればと、彼女の身を案じての事だった。



「いえ」


目を細め、閉ざしたのは諦観からではない。



「私は味方を、斬りません」

「・・・・・」



己が内にある答えを確かめたに過ぎない。


「戦況によっては救う事もできず、見捨てる事だってあるでしょう。
   それでもこの手で、得物でもって。―――――――私は私の同士を討つなど、決してしない」


自身の強固な意志で、しない、と。
この双眸で以てして。確と敵対しない限りは有り得ない事であると言う。


「戦場において一番の厄介者は、禍をもたらす身内だ」
「・・・・・・」

「我が殿の為になるならば、俺は一人の味方を殺すに厭わない」


両者頑として譲らない。
しかし互いに、互いの言い分はわかっていた。

「・・申し訳ありません。気を遣って頂いてるのは重々承知なのですが」
「強いるつもりはない。それこそ杞憂であるやも知れぬ。
   ・・何より殿のご意志を汲まぬ愚か者に、俺が腹を立てただけだ」

だが目は離すなと釘を刺す。
同金はそれだけを言うと寳子に背を向ける。
彼女は拝手をし、礼を述べると目前の遠く上がる土煙に意識を集中させた。



「同金様!趙国右軍馮忌を飛信隊、信が討ち取ったとの事です!!」

「――――――――――――――」


伝令の一声に皆声を上げるでもなく息を呑む。
敵将の名は策士にして懸念材料でもあった馮忌その人である。
しかし上がる隊の名も彼の名も聞き覚えがないと一様に静止する。
そんな中、五軍においては同金が拳を掲げ、声を上げると続いて鬨の声が響いた。
飛信隊、信の名はここ右軍、延いては此度の戦場にて一斉に広まる事となった。


「(ひしん、たい・・・)信っ・・!」


沸く周囲に反して最後まで呆気としていたのは他ならぬ寳子である。
遅れて得物を掲げ声を上げると、喜びもそこそこに感無量と少し俯いた。

「そう、か・・ ・・そうか、そうかっ・・!」

拳を握り、まるで我がことのように心が浮くと、困り顔で笑う。


(また夢に近付いたな信・・その名、秦国だけに留めるなよ)


世に轟かせよ。
消えぬよう、掻き消されぬようにと、先達よろしくを衒う。
出会った頃の荒々しい剣が敵将を討つまでになったかと、寳子は遠くを見つめ、心底から喜んだ。





二日目は攻めの蒙武、守りの李白ら中央の戦いが焦点になった。
先日との明らかな違いにより敵軍は瓦解、結果李白を一旦退かせる事に成功する。

(激戦であったと聞いている・・それが六百しか被害がないとは。
   蒙武将軍、知る像より違いがあるようだ)

「寳子さまー、暇・・ ちょっと肩慣らしに偵察行ってきますねー」
「ああ。・・介殻は続いて方元の見張りを頼む」
「はっ」

向こう見ずの猛将と定めるには随分と余地があるらしい。
一概に歩兵の動きの違いによる勝利と噂を耳にする。
たった一日で兵を、戦況に合わせ鍛え上げたのには誰もが感服の至る所である。
蒙武軍は敵を退けただけでなく、残党兵一万を屠ると戦況をより有利に進めた。

夜が明けると趙軍は李白、公孫龍の二軍を合わせ蒙武に向かうがこれを止められない。
他軍が静観するなか、中央の戦は苛烈を極めていた。

「やはり要は中央・・見誤ったな趙軍」
「寳子様、前後方右辺異常ありません。・・方元も大人しくしています」
「わかった」
「ぎょくしさまー、ひ・・ ・・・念のためもっかい偵察に―――――」
「介良」
「はい?」

「怠け者に貴重な兵糧は半分以下でいいと思わないか?」
「張り切って偵察に行って参ります」


その日の夜。
寳子は構えた天幕の中でやっとの休息を取っていた。
甲冑の重みから解放されると湯で体を拭き薬草で清める。

(明日で四日目に突入する・・趙軍も埒が明かない事はわかっているだろう。
   このまま延ばすとは思えない。向こうが攻めている側なら尚更だ)

このような消耗戦では補給が間に合わない。
咸陽を背に危機と隣り合わせではあるが、その実秦国が有利である。
現状であと五日は戦える算段がある。補給路を最低限に抑えて行くことが出来れば確実だ。

「・・・決する時は近い」

新たな衣を羽織り、天幕から出る。
夜空を眺めながら霞む月に安堵した。




四日目の戦は蒙武の攻撃から始まる。
信は第四軍、干央の元に配され、蒙武が動いた事は右軍にも知れ渡った。
次いで第一軍が進撃を開始し、右軍では中央の勢いを見計らったかのように第二軍が声を上げ、続けと言わんばかりに第三軍がこれを倣う。

「・・・第五軍、行くぞッ!!」
『応ッッ!!!』

(今なら押し込める!このままなら本陣までっ・・いや、まずは)


ついに第五軍が進軍を開始すると左、四軍も動き出す。
王騎の狙いは趙の本陣であった。
目論見通り先に達したのは左軍、任を遂行しようと森奥を掻い潜ってゆく。


「伝令ッ!左軍、被害なく敵本陣まで到着予定とのこと!」

「えっ・・(馮忌が討たれ、その補充もせぬまま行かせるなんて―――――!)同金様ッ!!」

「狼狽えるな!!我らが読める事など殿とて見通しておる!」
「っ・・信、壁兄っ・・!」


罠である可能性が非常に高い。
これ程までに容易に本陣に招き入れるなど、他になければ酔狂である。
左軍とてそれは気付いている筈であるが、しかし予想外の展開が待ち受ける。


「敵が・・退いていく!?」


驚愕の最中、本陣を取ったとの報せが入る。
敵本陣、砦に到着した軍は趙の旗を降ろし、秦の旗を掲げた。

決死の特攻もなく、物理的な罠もない。
趙軍の作戦とは罠に非ず、その実は本陣を山間に移すという戦力保持を敢行するものだった。


「仕切り直しという事か・・賢明だ」

(山間に紛れるという事は、相手にとって、そしてこちらにとっても難が付きまとう。
   連携がとり辛い、また上を取れば有利かといえば見えぬ所から伏兵が起こる)


遣り辛い、と寳子は唇を噛みつつ馬を走らせる。
相手に倣い王騎も秦軍の本陣を動かした。

「だが、山・・森」

確と手綱を握る手を弱め、息巻く愛馬を宥める。


「黒黎(こくれい)を連れてこれば良かったかな」


それは険しい足場を諸共しない。
的確に、より安全に素早く難所を切り抜ける。
臆病なのが玉に瑕であるが、慎重ゆえの弊害であるなら仕方もない。
寳子は溜息交じりに得物を振り回すと、腰に手を当て深い森を眺めた。


趙軍の気配はない。
未だ陽が高い内に軍議が開かれると、一堂に会した長達は作戦と暫しの歓談に気を休める。
寳子はというとその場で信とかち合い、互いの健勝を認めるといつものように雑談に興じた。

「ぷっ」
「んだよ急に笑いやがって」
「いや、生傷が絶えないなと思って。
   ほら、額に・・目の横。ここは気を付けろよ?あとは頬に・・体中、そして・・ははっ!鼻のあたま!」
「だーっ!触んじゃねぇ!」
「ははは!大きな子供だな、お前は。大暴れして少しは気が済んだか?」

「あっ!そーだもう知ってるとは思うが、王騎将軍直々に隊の名前つけてもらったんだぜ!
   その名も飛信隊っ!どうだ!カッケエだろ!!」
「ああ。もちろん知っている。・・その名は右軍にまで響いていた。あの策士馮忌を討ったと」


先程までの徒に在る彼女ではない。
寳子は笑顔を潜ませると、一途に信の事を見詰めた。


「お、おう・・ ・・・」

「・・飛信隊、良い名だな」


そしてまたつい、と。笑みを溢す。
その様子に信が頭を掻きながら何かを言おうとしたその時だった。

「寳子!」
「・・あ!壁兄!」

会うなり両肩を掴まれ無事を確認される。
こういう事はくすぐったいと、寳子も笑いながら兄貴分の無事を認める。
信は蚊帳の外かと思いきや壁に引っ張られ、両者共に頭を打ち付けた。
抗議をしようにも両側から掻い繰りとされるものだから、弟妹分はたまったものではない。

「いいか二人とも!戦はここからが勝負だ!
   窮地に立たされた趙が何を仕掛けてくるかもわからんからな!」
「うぅ・・痛いです壁兄ぃ・・」
「ったく壁のあんちゃんも元気そーで良かったぜ!」

見えた喜びも束の間、壁は兄と呼ばれる事への違和にやっとのこと気が付く。
隊長と呼ぶようにと遅れて注意をするが既に遅い。
浮かれた様子の二人を前に、彼は兄としての体面を果たしていた。

すると賑やかさに釣られた訳でもないだろう面子が、三人の目の前に現れる。
壁は即座に反応すると姿勢を正し拝手。遅れて寳子と続き、様にならない呆けた信へと繋がれた。


「おお、寳子無事か!同金がいた為、そこまで案じてはいなかったが」
「チッ・・生きてたか童女」
「もうそれ止めて下さい録嗚未様・・」

隆国と録嗚未が砕けた様子で声を掛ける。
それに体を解くと、信は腕を組み両者を睨み付けた。

「壁氏も無事で何よりだ」
「ハッ。恐れ入ります」
「一応紅寳なんて言われてるんだ、あんな後方で勝手に死んだら笑い者だろ。
   壁、お前も兄だ何だと呼ばれて浮かれてんじゃねぇ」
「ぐっ・・は、はい」

(この方は本当に素直に褒めるという事をしてくれない・・)
(私はいま確実に害を被ったぞ・・)


歓談と相成る空気に息を吐く。
気前よく良い顔でこの輪に入るつもりもない。
役目御免と信はその場に背を向けた。

「えっ!?あ、信・・!」
「じゃーなー!森で敵と間違えて斬んなよー!」

「待て飛信隊、信!我々はお前にも話が―――――」

「あー、さっきの軍議報告にも行かなきゃなんねぇんで!」
「おい!ちょっ・・  も、申し訳ありません!」


「あの童、礼儀ってモンがなっちゃいねぇな」
「録嗚未からその言を聞くとは、殊更痛み入るな」


隆国の胸倉を掴もうとするが軽くいなされる。
気に食わないと舌打ちする王騎軍第一軍長は一足先に場を後にした。
王騎が直々に隊名を与えた男の如何というものを窺い知るつもりでいた、と語る隆国からは怒りを感じない。

挨拶も済んだと踵を返す男は、何の心残りか振り返る。
はたとする少女に隆国は短く答えた。


「寳子」

「はい」


「・・・方元を頼む」

「――――――――― ハッ!」



勘付いている。
しかし語らず、語らせない。

語るべきものではない。


彼らの間に流れる刻は、言を必要としない。
全ては行いを以てして語られるのみである。




「なあ寳子よ。お前は何故得物を持つ」

「何だ急に。迷いでもあるのか」


同期の間柄とはいう。
しかし遠目にそう見えないのは仕様もない事だった。
やっと十を過ぎた娘と三十路に足を掛ける男とで二人。
親兄弟でなければ軍部の内、上下がない事こそ不審である。

演習の終えた両名は休憩の際に偶然居合わせたに過ぎない。
方元は疑を問うと、寳子は泥を拭いながら返した。

「いや。・・お前が王騎様の試練を耐え抜いて銀瓏を手にした時から思っていた。
   何故あそこまで出来た?お前の歳、体躯からして過酷に過ぎたろうに」

「また前の話を・・ 獲物も居場所も私には必要だった。それだけだ」
「ふ。一端に前の話などと言いおって。
   それにしても昌文君を父に持つ者が、今更居場所とはお前もわからん奴だ」
「・・・・・・」

「銀瓏を振るった時は他人事ながらに感じ入る所があったものだ。
   ふむ。そうか・・居場所、か」
「あなたは何故だ?方元」


寳子の問いに予測していたと言わんばかりに口の端を上げ、得意げに鼻を鳴らす。
このような上機嫌は、ある人物に関係するとき以外に無いと、彼女も少し笑った。

「殿・・王騎将軍の武勇はお前も知っている筈だ」
「もちろん」
「私は家が没し、荒くれに混じって生き恥じを晒している所を拾われた。
   あんなつまらん場所にいるくらいなら死んでしまいたいと思っていた所だった」
「詳しくは隆国様が王騎将軍の元へ導いたのだったか」
「・・ははっ。隆国様は私の矢を背に何本も刺しながら勧誘してきたものだから笑ってしまったよ。
   不思議だった。それまで生きる気力の無かった私が、打って変わって息を吹き返したのだから」


嬉しそうに笑い、語るこの人もまた、武人である。


「人の力とは凄いぞ、寳子。
   大将軍の意気とは、それが率いる軍隊とは・・死に体に活力をもたらすんだ」


惹かれる事で、自ずとこの手に得物が吸い付くのだという。
人に、世に一矢報いてやりたくなると、彼は一度だけ、そう語った。



(方元・・)

進む足に力が籠る。
蹴り上がる砂埃は、見える意気に相違ない。


(どうか頼む。 憧れるその人は、お前の行く先さえも寄せたんだ)


故に此度の扱いは方元の能力如何の話ではない。
強いて言うならば、昴護隊に必要な力であった事に変わりはないのである。

それを理解するのに言はいらない。
言えば、より深い溝を生む虞がある。


乗り越えるべきは誰彼か。 知らないのは、ただ一人だった。





寳子は壁と別れを告げ、天幕へと戻るといくらか物資を持ち出し外へ出る。
警護に当たっていた介殻は長の姿を認めると傍に寄った。

「寳子さま?何か忘れ物ですか・・若しくは進言に。でしたら私をお連れ下さい」
「いや、暫くここを空にする。
   介殻、すまないが介良と共にここの守備、必要ならば指揮を頼む」
「お戻りは」
「・・夜中には」
「・・・感心致しませんが、お気を付けて」
(うっ)

介殻の小言を背に受け、急ぎ足で走り去ってゆく。
赤蒐は置き、身一つで歩いたのは未だ近場にいると踏んだ故と、敵に見つかり難い手を取った為である。

山中を歩き、暫くしても見つからない事に若干の焦りと呆れが混じる。
直進し、途中蒙武・隆国軍と遭遇、飛信隊の名を訪ねると憶測で更に先といった具合に手探りの状態であった。
そして夕刻は無情にも訪れ、愛馬を駆り出さなかった事に後悔の念が募る。

「・・はぁ。 全く、あいつも少しくらい待っていてくれれば良かったのに。
     薬と研ぎ粉を渡し忘れてしまったじゃないか」


何だあの刃こぼれは。何だあの傷は。
何だ戦慣れもせぬ奴が何だ疲労困憊の癖に。何だ、何だ。



「・・・夜になるまでに渡してやらないと」


諦観の前に文句も力ない。
溜息交じりのなか願い虚しく、出発から既に刻は過ぎ夜の帳が山林を覆う。
馬もなければ得物は帯剣のそれのみである。
寳子は頭を抱えながら確と歩を進めていった。



(本陣が見えるまでならと言われているからな・・もう少し足を延ばして会えなければここが限界だ、戻ろう)

大凡と冷静さに欠き、性急に足を運んだのが間違いである。
今更ながらに隊長としての自覚がないと己を恥じた。

険路に強い寳子は夜が更けるまでに戻ればいいと、安易な考えを改めている内に灯りを見つける。
点々とする松明に警戒する。自軍のものであるかそうでないかは秦国の旗が教えてくれた。
火を囲む宴の背後に回り込む。
何人か見知る顔に、寳子は罠ではないことを確信した。

(やっと着いた・・四軍の隊はこの辺りに散らばっている筈だな)

するとすぐ近くから聞き慣れた声が上がる。
信を見つけた寳子は声を掛けようとするが、先客がいた。
微かな声は身を入れて聴かなければ辻褄の合わぬ文言であるが、幸か不幸か彼らが近付いてきた。


「・・で、は持って・・」
(ん・・聞こえ辛い)


「敵討ちが終われば、お前には先があるんだ」
(え)


聞けば信の近くにいる人物は、敵討ちを後に回し此度の戦に参戦したという。
誰かと闇夜に目を凝らすと、目前の姿と薄れぬ記憶から合致する。
羌カイ。そう呼ぶ声が聞こえた頃には、咄嗟に身を隠していた。


「お前には飛信隊っていう帰る場所があるって、自分でもわかってんだろ!」
「・・勝手に決めつけるな」
「軍議の内容を話すから―――――て、お前、ここが気にいらねぇのか」
「別に」
「じゃー決まりだ!!」


見れば何やかんやと言いつつも、羌カイは信に懐の薬を手渡したり剣技の指導に当たっている。


(・・・・・・・)



自分以外に世話の焼く、奇特な者がいるのであれば手間も省けるというものだ。




「・・帰ろう」

悔いて恥じてここまで来た事について寳子は黙する。
勝手に気を遣って、勝手に立ち尽くしている。

ただバカらしいと、胸の内で一言呟いた。




途端、空気が変わったと思えば謎の緊張感に見舞われる。
寳子が違和に襲われると同時に、それは前方の羌カイも感じたのか緑穂を構えると後方を見つめた。


『―――――――――』


圧倒的な気配に反応が鈍る。
羌カイは剣を地に突き立て何とか体勢を保った。
動く事を拒否する身体を無理に押し出すと、ここに三者は顔を合わせた。

「は!?寳子お前なん」
「言うな!言いたい事はだいたいわかる!
   ・・っそんなことより信、お前この気・・何ともないのかっ!?」

「・・・毒・・ ・・・貴様の、気配、ではない・・!」
「ふ・・神事を、行う者はさすが・・大層言ってくれる。この異様な気・・・ッ・・お前も!」

羌カイは膝をつく寳子に、これ以上構う事なく足早に去ってゆく。
何者かの気配を察したか―――――寳子も遅れをとるまいと走るが躓いてしまう。
これには信も放っておけず手を貸した。

「馬鹿っ!お前無理すんな!!ったく羌カイもあいつ勝手に・・!」
「(剣しかない・・銀瓏がなくていけるか、一度・・戻)
      駄目だッ!兵達が死んでしまう!!」
「!?」

殊に銀瓏は騎馬戦でこそ光る。
高機動広範囲でこそ誉れである。

―――――半端者が陸戦で宝刀を振るう。
   それは泳げぬ魚が溺れるほどに無様で、飛べぬ鳥が空を見るほど滑稽であった。


「お前は・・さっさとアイツを、追え。味方の、声があがって、きた所」
「ばっ・・お前そんなんで」
「さっさと行け!!
   私は・・私の思う所が。気が・・ざわめ、く」

寳子は信の手を払い、言う事の利かない身体を押して立ち上がる。
野営地を目指し下る彼女の背を見送ると、信は言われた通りに羌カイの後を追った。



「ぐっ・・近、い・・・!」

怒りや恐怖といった感情が入り混じる。
錯乱に陥らないだけ余計に気持ちが悪いと寳子は歯を食いしばった。

野営地に近付くにつれ禍々しさが増す。
これ以上進んではいけないと、頭の中で警鐘が鳴り響くなか夜空に何かが散っていった。


流れ星と、そんな夢ではない。
落ちる音は鈍く、断末魔は短い。

人が、空を舞っていた。



寳子は声を失い、もはや呼吸さえしているかもわからない。

悪夢だと、信や羌カイが見張りの場まで足を運んでいる時に災厄は起きた。



寳子が立ち止まっている間にも一気に十から二十の人々が舞っては死んでゆく。
しかしそれは近寄った者達の数というだけで、禍が攻めれば一振りで容易く五十はいなせるであろう凶刃である。

怯え去る者は僥倖、動けぬ者は幸。
懲りずにその権化に突撃を開始する兵達の愚考はとても褒められたものではなかった。



「駄目だっ!そいつから離」

「我は天の禍。―――――ここにいるお前達はただ、運がなかった」


寳子の言を遮るようにして呟かれたそれは呪に近い。
必ず殺されるという啓示にも似たそれは、ただ禍であった。

「逃げるんだっ!!!」
「ぎ、ぎょく・・」
「しっかりしろ渕副長!!お前は残りを率いて逃げろッ・・飛信隊を・・ここで殺すな!!!」
「はっ、はぃいッッ・・!!」

一時ではあるが活力を取り戻した渕の号のもと、集まる皆で退避を開始する。
それでも動けぬ者に寳子は駆け寄ると大きく背を叩いた。

「怯むな!!!」

寳子の声で皆の竦んでいた足が動く。
有難いと嗚咽を漏らしながら逃げ出す。

禍は腰を引きつつも逃げ果せようとするそれを、許さぬと言わんばかりに得物を構え見据える。
薙ぎ殺そうとする一歩を踏みしめた時、寳子は目前に憚り対峙した。



「貴様が天の禍なら・・私は人の禍だっ・・!」


しかし剣を構え、切先を突き付けると気付いてしまう。
震える手と、堪えねば鳴る歯の噪音に意気が揺らぐ。
深呼吸をして落ち着くよう自分に言い聞かせると、再度切先を相手の心臓めがけ構えた。


「・・・息苦しいかと思えば、贋作か」
「!?」


急な言葉に息を呑む。
寳子を贋作と罵るその男の、得物を握る手に力が籠る。


「いくら人如きが天を真似ようと無駄だ。
   また、天を抑しようなどと愚かな事だ」

「お前っ・・私を、私の、をっ・・知っているのかっ・・!?」


「人の叡智などと、愚かな驕りの成れの果て。天にも地にも届かぬ憐れな呪い」


器は器。ただそれだけだと禍は言う。
禍足り得ぬ見かけ倒しに、神は名乗れぬ、そう言った。



「武神の前に偽りなどいらぬ。
   穢れた龍の血を天に返そうなどと、そんなものはいらぬ」




剣を構える寳子に一刀―――――――しかし、それを彼女が受ける事はない。

駆けつけた信の剣によっていなされる。
身を飛ばされるほどに打たれるが、これに怯む彼ではなかった。
死屍累々とした味方の山を見て、逆に覚めたと言わんばかりの体で男に相対した。


「てめぇ・・何してくれてんだよ。 ただで死ねると思うなよ」
「駄目だ信!敵わな・・」

寳子の制止もきかず剣戟が繰り出される。
乱舞といわんばかりの体は、しかし敵わないと改めて思い知るに至るものであった。
信は周囲の止める声もきかず剣を握る手に力を込めるが、皆その意味を直ぐに知る事となる。


「心配すんなお前ら!・・死ぬのは、こいつだ!」

合図とまではいかないまでも、すかさず羌カイが助けに入る。
まるで宙を駆けるようにして現れた彼女に、しかし男はこれを難なく躱した。

「この巨体で躱すなん・・ぐっ!?」
「!?」
「――――――――――」


耳を劈く長音が、高く低く鳴り響く。
羌カイ、寳子の両者共に驚きを隠せず膝をつく。
男はといえば、目を見開き微動だにしない。


(身体が・・動かない、息が・・苦しいっ・・!)
(この女・・またこいつが!こいつの所為で私は・・!)



行動できぬ二人を尻目に、信は男の動向を確認する。
これを機に動き出すかと思われた禍は、まるで意識を手放したかのように停止していた。

三者共に動かない、動けないのか微動だにしない。
しかし不穏が首を擡げる。
その中で唯一、男が口を開けた。


「我・・」


禍が名乗る人の名は、対秦国の上で最凶のものであった。



「我・・武神 ホウ煖也」



三者、周辺にいる皆々がその名を聞き固まる。
野営二万の敵中へ総大将が一人乗り込んでくるなど聞いた事がない。
しかし平然と強襲を仕掛け、人を雑草のようにして刈ってゆく様は天災として紛う事はない。

「・・真が姿を現したか。お前が我を呼んだ。 子供・・だが、命を貰うぞ」
「私は貴様など呼んでいない・・!」

羌カイを一方的に敵視するホウ煖。
信は睨み合う両者の闘いに入り、これを討つ算段である。
敵総大将が目前におり、功が強大を以てして立ちはだかっている。
趙兵を数討ちやっと会えるであろう大物を逃す手はないと、剣を構えたその時だった。


「その前にはまず・・   邪魔な贋作を、摘む」

「!? 寳子ッ!!」


狙いを定めたのではなかったのか。
   ―――――――真と打ち合う前に偽を裁く。

そう言わんばかりにホウ煖は未だ膝をついたままの寳子を見据える。

面も上げていない。
黒赤の髪は垂れ、背を曲げて動かない。
先程とは比べ物にならない程の薙ぎがくる。
誰もがそう直感した時、ホウ煖は彼女を一刀しようと得物を振り下ろした。









剣戟にしては通る清音である。
起きた土煙で皆一様に惨状を覚悟する。
敵将はそのまま、相手が一撃の内に葬るつもりであったのなら直ぐ身動きもとれまい。

否、とれない。


剣の柄を持つ手に震えは無い。
受け流しではない。
加えられた強力は確かに少女を捉えていた。


轟音、清音、静寂を経て、しかし誰も声を上げない。

寳子は未だ膝をついたまま動かない。
背を曲げたまま、先程と違うのは右腕が上がり、剣を構えているという事だけである。


趙国総大将ホウ煖の一撃は確かに繰り出され
秦国武官寳子は、これを全て受け止めた。


気も、衝撃も全てを受けてなお、寳子は潰されること無くそこに在った。



「待てよ・・おい、寳子、お前」

返事はない。しかし確と受け止める剣は本物である。

「寳子!ぎょく――――――」

信は彼女の異様さに気付き肩を掴むが動かす事が出来ない。
横から覗くも先程とは明らかに様子が一変していた。




息を、していない。




顔は下を向き、嵐のような天災などそよ風と言わんばかりに気にも留めない。
固く結ばれた口に苦悶も見せぬ眉、目は虚ろに光を失い、色はみるみる蒼白になってゆく。


(嘘だろ)


このままでいい筈がないと、信はホウ煖の矛を弾き返す。
動かぬ寳子を無理に後退させ、両肩を掴み声をかけた。

「寳子!おい寳子!!てめぇ聞こえてんなら反応しろっ!
   息しろ!しねぇと死んじまうぞっ!
しろったらしろ!このっ・・」

しかし返事はない。瞳は何者も映さない。
反応したかと思えば、それは彼が望むようなものではなかった。


『信っ!!』
「痛っつ・・・!」

皆が駆け寄ろうとするが剣を薙いで制する。

   信は助けようとした―――――寳子を模った人災に斬りつけられた。


「信!その女を討て!そいつはお前の知ってる奴じゃない!!」
「違ぇ!俺の知ってる寳子だ!!
   俺の仲間を・・飛信隊を助けようとしてくれた奴だッ!!!」
「ばっ・・」
「馬鹿はお前だ!!こいつには色々教えてもらって借りがあんだよ・・こんぐれぇで見捨てられっか!!」

羌カイの言を一蹴する。
明らかに本人の意思ではない事がわかる以上斬れない。

例えそうでなくとも


信には寳子を斬る事ができなかった。



「・・・贋作が由縁。未完の汚点。血を飲み干した分だけ吐かせてやろう」
「うるせぇテメェも黙ってろ!!
   おい寳子、寳子!聞こえてるなら返事しろ!聞こえなくても、気合で返事しやがれ!!!」

無視して再度振りかぶるホウ煖の気を、信は読んでいた如く剣でいなす。
しかしホウ煖はその勢いで以て羌カイにも切り付け、受けた彼女の意識を朦朧とさせる。
一騎打ちが二組の図は混沌を極める。
混ざっては遣り辛いと両組は打ち合いながらせめてもの距離を取った。

寳子はまたもや信に斬りかかるが、信は頬や腕に軽傷を受けながらもこれを避ける。
止まぬ剣技が降り注ぐ。
指導されていた時とは段違いの剣捌きに、信は受け止める事で精一杯だった。

目に生気がない。
次第に強くなる剣戟とは裏腹に、剣花に映される少女は死人のようである。


泣きたくなったのは少年のほう。

   最後の攻撃を受け止めると剣を捨て、寳子を思い切り抱き締めた。



「ばっか野郎!!
   こんな所で死んじまったら!大将軍になれねぇだろぉがッッ!!!」



表情のない顔に驚きが見える。

偶然ではない。
信の言葉は確かに寳子に届いていた。


手から剣が滑り落ちると、次第に彼女の目に光が戻る。
何が起こったのかと、彼女にとっては夢でさえない。

「・・・・・・し、ん」
「ぁ・・!?」

「しん・・・ ・・・信」
「寳子!!」


己が名を呼ぶ寳子に信は抱擁の体を解くと肩を掴み見合わせる。
多少ふらついてはいるだろうか、しかし少し笑って見せる寳子に信も笑って見せる。
しかし安堵も束の間、ホウ煖は羌カイを一旦退けると逃がさんとばかりに寳子に矛を向ける。
一刀、斜め下から振り上げられた矛を、彼女は信を払い驚愕のなか辛うじて受ける。

ふらつき、力が無かった事は幸いか。
ホウ煖の一撃は彼女の体躯を浮き上がらせ、その身を遥か遠方へと吹き飛ばした。


「・・順が誤ったか。 お前の相手は、我一人」
「・・気味が悪い」

「てんめぇ・・このデカブツが。ブッ殺してやる」


偽を残しては後味が悪いと、だが仕様もなさそうにホウ煖は羌カイに向き合う。
一方やっとの思いで寳子の目を覚ましたと思えば急な別れに信は再び剣をとる。
暴走の理由もわからず仕舞い、彼女の安否を知る事も儘ならぬ状況で気が良い訳がない。
一騎打ちは終わり、三者を交えた闘いが再び始まろうとしていた。



















夜は更け、もはや両軍の兵は決起し夜戦の様を呈する。
陣の張り辛い山中で、ホウ煖の出没した場を起点に近い両国隊が展開してゆく。

戦場と化した山林の、離れた一角に倒れる者がいた。
血を流している訳ではないが、打たれ過ぎた身体は泥のように地に馴染む。




銅鑼の音が聞こえる


起さないでくれ


煩いな



私はまだ、寝ていたいんだ・・



万極襲撃開始の銅鑼が鳴り響く。
位置関係が明確にわからない為、みな自軍の警戒に当たる事が上策とわかっていた。

寳子が去った後、飛信隊は敗走していた。
駆けつけた干央は万極に深手を負わされ、その脅威は飛信隊の追撃を開始し、山中には松明が煌々と広がる。
掃討しようと躍起に揺らめく炎は趙兵の顔を映し出す。
積年の恨みを晴らすべく怨敵を追うその顔は、おおよそ人の体を模してはいなかった。








壮年の将が戸惑っていた。
連れ帰ったは良いものの、無論歓迎されるような代物ではない。
周囲に良い顔をされず、それでも男は離れにそれを住まわせた。

―――――どうしてこの人は助けたのだろう。

酔狂だろうか。焼きが回るにしても早い。


「・・・おい」
「・・・・・」

泥だらけで更には雨に打たれ濡れ鼠のようだった童女は何とか一命を取り留めた。
高熱を発し、何度息絶えそうになっても身体がそれを許さんと言わんばかりに命を強いる。
また、男の寝ずの介抱が功を奏したのは言うまでもない。

子供は顔を隠し、体中に布を巻いて籠城している。
匿われているにしても体現しすぎだろうと、しかしこの時、両者に笑う余裕などない。


「・・・儂の言葉、声・・何を言っているかわかるか?
               わかるなら儂と同じ音で話してみろ」
「う」
「・・・・・・」
「ん」


同じように。
人であるならば当然の、しかし山界と平地に分かたれた彼らにとっては重要な手段である。




「いいか。私はお前の、父になる」



布の間からやっと見えた瞳は驚きを隠そうともしない。
父、という言葉に反応したのか、少女は警戒を少し解いた。

「・・・・・・・ちち」
「ああ。そうだ。父上。お父様、父さん」
「ちち・・とーさま。  とーさま!」

嬉々とする少女とは打って変わって、男は顔を曇らせる。
目前が父になるという事と、目前を父と発する事への意味を、この童女はわかるだろうかと、それだけではない。

「でモ、 ん・・ ・・ちち、うエ?」
「・・お前は、儂を父と呼んではならん」

首を傾げる少女に男は言う。
父になると言っておいて、父と呼んではならないとは自身、窮する。


「殿、と・・呼ぶのだ。いいな」


やはりよくわかっていないらしい少女を敢えて流し、淡々と語る。
今は理解できなくとも、語るだけは語っておかねばと深く溜息を吐く。
後々まで隠し通そうとは、男も考えてはいなかった。


「母。母上、お母様、母さん」

「は、は。「母。お前を産んだ、育てていた女だ」・・・かーさま?「そう呼んでいたのか。そうだ」うン」


「かーさま どこ」
「・・・・・・・」
「かーさま、いつモ馬、のせてくレた。とーさま、ちょっと。でモ、うれシかった」

「そうか」
「かーさま・・」

思い出したのか童女は涙目になり、それは一気に溢れだす。
この年の子が声を殺し、見ず知らずの者の前で涙を流す事の意味は計り知れない。

男は一拍置いて、それでも言い淀む。
語るだけはと、ついさっきの決意を童女の涙が揺らがせる。
この男もまた、余りに人であった。



「お前を捨てて、死んだ」




本当の父の事は知らないと併せて言っていたが、忘れてしまった。

父はたまに会いに来ては遊んでくれたが、母はバツが下ると、確か、言っていた。




童女は男の意に反し、涙を引き込める。
意味が分からないのか、どうしようもなくなってしまったのか。
呆然と、失意はそれほどまで少女の心を裂いたかと思うと、男は居ても立ってもいられなかった。


「お前の名は・・何という。女に聞いたが、平地では聞き慣れぬ言葉だった」

何と呼べばいいのかと、男は至難を前に頭を捻る。
すると童女は虚の中、無言で様々なものを指差した。


それは部屋に飾られた宝玉。
それは金色に光る置物。
それは煌びやかな衣であり、それは流麗な文字でさえある。

しかしつまらぬ草であったり。
しかしつまらぬ棒切れであったり。
しかし実用的な、大凡と呼べる代物でさえあった。


そして最後に少女は、自らを指差した。



『お前は私らの宝だ。お前の身体は美しい。
   玉石でこそ由縁。 人よ、愛する者の全てになれ』




流暢に語るその男は、少女を抱きかかえ娘と慈しむ。
それを何と呼ぶかは、きっと今も昔も、少女は知っていた。




思い出す。思い出してしまう。

思い出したくない・・元の、『全て元の世』を思い出すという事は―――――――




(化物め)



刻むようにして削られ、ただ光るだけの石ならば




(どうして、助けたのですか)








「ちち、う え・・」


夢の続きを口にして、その音にえも言えぬ悲愁を感じる。

流したとしても 世の歪みが止む事はない。


石を玉とするための夢。
   過去に左右されない、やっと自ら変える事の出来る手段。



「・・・・・、これでは・・ ・・・殿に、顔向けできない」


目を覚ますと近くに転がっていた剣を携える。
動き難さからかなりの疲労を感じるが構っていられない。
覚束ない足取りで獣道を暫く歩くと、やっと人が歩けそうな道に出る。


「なん、だ・・この、血の量」

斬られて出来たものではないのは明らかだった。
血飛沫でなく、血溜りである。
それが道に続くとなると、深手を負った者が逃げている最中である、という推測が頭を過る。

「・・襲撃・・受けたのは、秦で」

朧げに浮かぶ記憶の断片は、彼女に性急な判断を求める。
散り散りになる映像を無理に繋げながら歩を進め、はたと止まった。


「飛信隊・・ ・・・・っ!!」


言うより早く身体が動く。
しかし急く頭とは裏腹に鈍い体である。
一時ちぐはぐとしてよろけるも、寳子は無理に押して、只管に見える道を駆ける。
しかしそれも長くは続かない。
暫くすると意思よりも身体の悲鳴が鮮明に聞こえ、自然と足が止まる。
近くの木に手を当て必死に息継ぎをする。

(段々・・思い出してきたぞ。私はホウ煖に矛で弾かれ・・落ちたんだ)

やっと面を上げた頃、走っていた頃には気付かない小さな光に目が留まる。
いくつもの光は止まるものもあれば、人の世など知らぬと穏やかに飛び回るものもいる。

―――――蛍の群れ。
雲が消え、ここぞとばかりに光る月に照らされてもなお褪せぬそれは、温かく、悲しい。

これを追えば水辺の場がわかる。
そうすれば己がいた陣営、飛ばされた場所の大凡の位置が把握できる。
しかし寳子は光を掻き分け、滴る血の跡を追った。

「放って・・おける、ものかっ・・!!」

歯を食いしばり歩を進める。
文句を吐きつつも追って正解だった。
良くも悪くも、見える血は味方のものであった、という事を理解できた点に関しては。



蛍の数だけ、死体があった。
死体の周りは人や馬によって踏み荒らされている。
確実に殺す為に急所は全て穿たれ、更に惨く弄られており見るに堪えない。

頭の向く方が退避の先であれば。
その後方が敵陣の敷く場である事がわかる。
死体に触れると固く、死後暫くが経っている事を鑑みる。

(後方に陣、ここ周辺に少数、先に隊・・出戻りが起きれば当たる)

閉じる口は固く結ばれる。
心情とは裏腹に、柔らかい光は夜道を照らす標のように寳子を導いた。

しかし次第に月とも蛍ともつかない煌々とした強い光が目に入る。
いくつもの炎が何かを探す様にして頻りに移動していた。


(やはりな・・ ・・これではぶつかる)


身を屈め、先を急ぐ。
   あれは味方ではない。味方が草むらに得物を突き立て仲間を探す筈がない。

剣は持っているが、いま敵に向かえば確実に死ぬ。
山中に陣を移した以上、方々に在る味方軍隊が安易に、しかも夜中に動く事は考えられない。

捜索、救出があるとすれば夜明け。
二次被害を招きかねない状況に賢者は動かない。
それは趙国総大将ホウ煖が出たとて例外ではない。
近所の者で対策して行くより他ないのである。

(どうする・・松明の見える方から遠く、このまま血を辿るという事は味方に当たるだろう、が。
   その味方が全滅している場合・・ここは戻る方が得策なのか・・?)

戻る、という考えに一瞬退路を脳裏に描く。
しかしそれは愚策と頭を振った。

「馬鹿者っ・・考えろ!
  (この状態でどう立ち回る!位置の把握もできぬ山中で引き返し、最悪敵陣に突っ込んで捕虜となり為体を曝すかっ)
      待て、敵には騎馬で捜索に出ている者がいる・・
        (だが敵将が近い可能性が高い。この状態では馬を奪ったとしても仕留められる)」

殲滅隊となれば敵主力が回っている可能性もある。
そんな所にのこのこと出て行けば身だけでなく面目まで潰される。


しかしこのまま留まっている訳にもいかない。
結論は前途にあると、寳子は道を踏みしめる。

拳を握り、歯を食い縛ると、ふと笑いが込み上げた。


「・・今頃、昴護隊は・・ゼェ。 介兄弟が、うまく見てくれているだろうな」


介殻介良の二名が、決まって文句を言う姿が目に浮かぶ。
寳子は思い出して笑うと、深く息を吐き進路を睨む。
口の端が上がるのは、まるで他人事のように皮肉と嗤った所為である。

「ふふっ・・何てことだ。隊長ともあろう者がこんな所で山歩きだと?・・笑わせる。
   どれだけ寝ていた・・どれだけ、私はっ・・ッ!」

明らかに息が上がり、笑いも苦笑いに変わると、体力のない自分に嫌気が差した。


無駄口もほどほどに歩き続けると、ふと異変に気付く。

(・・先ほどまで酷い血溜りだったが、まさかな)

量の違いに嫌な予感が脳裏を過る。
それは敵さえ余命幾許とないと活餌を優先した程だろう。

明らかに少ない。血止めを行ったとも思えない。
敵の執拗な攻撃から逃げ果せたとも思えない、ならば。


「・・・・・敵が来るより先に、ここを・・通った者」


苦い顔にもなる。
これより先、希望が薄いとわかったようなものだ。

歩みを止めてはならないと、寳子は先を急ぐ。
そうしている内に方角がわかる程の、明らかな人の嗚咽が聞こえてきた。
生存者を半ば諦めていただけに、まさかと覗いてみる。
あの流血の主ならば、これだけ泣ければ息災と喜んでさえみる。

しかし結果は、予想の内であり外である。
死んでもいたし生きてもいた。
誰かが誰かに寄り添い、横たわる人の胸に頭を預けている。
それが見知った者であると気付いたのは、月と蛍のお陰だろう。

まさか、と寳子は声を掛けてみる。
そしてその名は姿と合致した。


「・・・信?」
「!?」

「まさか敗走していたのは飛信隊!・・だった、の、か」


状況を確認しつつ近付く寳子は、凝と信を見た。
ホウ煖と剣を交え生きている。
傷だらけではあるが彼の無事に安堵すると、眠る男に視線を移す。

流血の主は惜しくも命を落としていた。
あれだけの血を流し、己が隊長を運んだ功績は高い。

事態を呑み込み、寳子が拝手をし下げた時だった。
不意に手が伸ばされたかと思うと、信が彼女に抱きついていた。


「ぐっ・・・っ・・ッ!!」
「――――――――」
「死んだ、みんな死んじまったッ・・・俺が殺


言葉が終わる前に乾いた音が空を裂く。
渾身の力で打たれたそれに後悔はない。
打った方の掌が痺れるのだから、打たれた方の頬の痛みは計り知れないだろう。
しかしその実、心の痛みこそが計り知れないものだった。



「そうだ。大将軍になれば国も殺せる。
        もうその言葉は、二度と使うな」




大将軍という音に反応する。
信は呆然と寳子を見つめた後、彼女は自身が離脱してからの経緯を話すよう促した。
   ホウ煖と対峙し、討てば昇級と恩賞と意気込んだものの返り討ちにされた事。
      そこに敵の別働隊が強襲をかけてきた事、またその場から逃れようと飛信隊面々が努めてくれた事。
         傷付いた隊長を救おうと皆が散った事、それも人伝から聞いた話であると不甲斐なさに気持ち俯く。

聞き終えると寳子は無言で尾到を見詰める。
この体躯だからこそ、あれだけの血を流してここまで来れたものと想う。
願いがあったからこそ、辛みを押して歩めたのだろうと受け止めた。

「・・悪かったな。少し、やりすぎた」
「ば・・ 触んじゃねぇっ」

寳子は頬の痛みの代償だといわんばかりに彼の頭を撫でようとする。
しかし信はこれを払い退けると彼女に背を向けた。


「なら、先の弱音は聞かなかった事にする」
「は、吐いてねぇよ!!」


からかってはいるが、気が気でない。
取り乱すのも無理もない。無意識にしても吐いてしまう気は知れる。
ついに百人隊を築きあげ、名も受けた最中の瓦解となれば余計だ。
彼女とて例外ではなかった。
幼少抱いた疑問、抱き続ける使命は呑み込み続けなければならない。
それが二度と湧き上がる事のない世を作る為に、毒の器になる事を選んでいる。

「急いでここを離れるぞ。追手がいつ来るかわからん」
「ならお前だけでも先に行け。こいつは俺が・・」
「バカもの。こいつが守ったお前を置いて行っては恨まれる。
   それに腕の傷。奴の矛にしては小さい。・・それは私がつけたものなんじゃないか」
「はぁ!?んなわけ・・ねぇよ。それよかコッチのがすっげぇ痛ぇんだからよっ!」

頬に手を当てながら言葉に詰まり、躱す。
否とする信だが、己が剣に付いた血がわからぬ彼女ではない。


(信に抱き締められた時・・何かが過った。私は、さっきも信に・・でも何故)


記憶の引っ掛かりを感じる。
しかし答えに辿り着けない寳子は、足りない糸を懸命に手繰ろうとする。

(ろくに体の動かぬ私が、騎馬でもなく戈さえ持たない私が・・ホウ煖に一太刀でも浴びせられる訳がない)

相手が禍なら近場にいた者も限られる。
ホウ煖の矛は寸で躱したとしても傷になる、それこそ小さい傷にもなるだろうが、疑問が残る。

羌カイとホウ煖が先に見え、何故信は己と対峙していたのかである。


故に問う。
そしてわかり易い答が返ってきた。



(私に何が・・呪いなどでは、済まない)



狙うは敵ならばいざ知らず。
味方までとなれば庸としてもいられない。

知るには今ここで死ぬわけにはいかない。
目先の明確な目的を見つけると、寳子は静かに立ち上がった。




腕の腱を痛めたらしい信では尾到を運ぶ事はできない。
一方寳子は罪悪感のみで動くではないが、両側から肩を貸す形で信と共に彼を運ぼうと計画する。
肩と、そして両者が腕を交差させるようにして尾到の腰を支え歩き出す。

尾到に対し不恰好で悪いと、少しでも笑えたことが幸いである。
しかし速度は遅く、引き摺る所為で跡もつく。
珍しく文句一つ言わない信を余所目に、寳子は己が携える剣を投げ捨てた。

「おい・・正気かよ」
「いいや、きっと正気なんかじゃない。でも剣なら一応、お前のがあるしな」

一本あれば十分。それまでには合流する。
これは賭けではない―――――必ず生きて戻るという確約だった。


「借りを返す。大切な仲間の身内なら、帰してやろう」

「・・すまねぇ」


巨躯であるからと捨て置く理由はある。
しかし置けば獣に荒され、最悪敵兵に見つかり無残に晒し者にされる。
これは一部隊隊長にあるまじき、彼女の私情であった。





朝方になり、飛信隊の面々と合流する。
弟の死を告げると、案の定兄の尾平は声を上げて泣いた。

しかしながら寳子にとっては、これが新鮮だった。
屈強な男達の中に在ると、響くのは怒号か押し殺された嗚咽が大半である。
このように一心に、時には童のように泣き声を上げるという事が、彼女にとってはどこか羨ましく懐かしいとさえ思った。

一方通行の対面では掛ける言葉もない。
戦場において身内が死に、幸いな事に死体が手元にある場合、みな一様に涙を見せる。
燃やし、灰となる頃には湛えていた涙も止み、明日が見えるようになる。
故に一言だけ呟いた。


「生きて、帰るぞ」


それは小さいながら、皆の想いに一石を投じる。
流れる涙はそのままに、泣き声もぴたりと止んだ。

今この場に集まる全ての者には生きる義務があると、寳子は一時この場を預かる指揮官として通達したまでのこと。
このまま部外者が立ち入ってもばつが悪い。
彼女は静かに、飛信隊と距離を置いた。





(明日を、見るようになる)


―――――――過去は、置き去られない。





(・・私は見れているかな。漂)




背負っても、いいものなのだ。


どれだけ置こうと、ついてくる。
記憶として、思い出として、そして何より自身の心が引き寄せる。



一夜明け、三十六人となった飛信隊ともう一名、寳子は自陣を目指すべく歩を進めた。








20150307