(安心する…)




どこにいるかも知れない。
少女の双眸は閉じられ、闇を映すばかりのその中にあってしかし安堵する。
目を開けたい気持ちは山々であるが、開けた途端に醒める夢だと知っている。

惜しいのだとする彼女の意を汲んでか、傍にいる誰かの手はそっと少女の頭を撫でた。


瞼の隙間から零れ出す。

言葉にできない想いを表す。




わからないはずの誰かに見せる涙は、確かにその人へのもの。




優しい手は堪能するように彼女の髪を梳く。


少女の髪を好きだと言った誰かの指に似ていた。




双眸を薄く開ける彼女を制するようにして、ゆっくりと瞼の上に手を翳す。

少しでも残すと膨れ上がる。

勝手知らずに膨張すると、姿の見えぬ情というものの妙を知らされる。



これほどの拷問なのかと。


それでも抱く想いは恨めず、嘆いても離す事のできないものと知る。




昂り、嗚咽が漏れる。

どうしようもない事にではない。





「ふ… ぐ…っ…
…ぅ、 …なん、ど、だって」



平行線どころではない。

また置きに行かねばならないほどの膨大な想いに、観念する。





「待って、いて…
  …いつか、必ず。     貴方に、会いにいく」





生ある限りの避けられぬ事象を以てして。

そうでなくとも信念に殉ずる事で以てして。



「だから、もうお願いだから」




醒められなくなる








「私の、大切な―――――――」










その人の名を呼ぶ。

しかし口にした名を、彼女自身が耳にする事はない。


代わりに聞こえる音に自然と瞼が開く。
陽が昇って暫くと、見える清朝は普段のそれと変わらない。
頬の乾きに、首元の冷たさに気付いた少女は静かにその痕を撫でる。
震える唇は呼んだはずの名をもう一度なぞると固く結び、乾いた痕を再び濡らした。



魏戦を終えて暫く。
秦国咸陽に在る武官、寳子は度々『悪夢』にうなされていた。

あお向けのまま天井を睨み付ける。
涙を拭う手で己が目を覆うと、眼前に拳を握り込め高く掲げる。
歯を食いしばりながら勢いよくそれを振り下ろすと、寝床を揺らし身を起こした。


(酷い顔だ・・)

不機嫌に起きては鏡を覗く事も、何度も続くと慣れるものである。
そして対処の法も厭いたと所作はぞんざいに映る。
近くに備えていた水差しを手に取ると場を移し、これも毎度の事と手にした重さにつられよろけて行った。



長らく歩き、見晴らしのいい場に出ると縁に足を掛ける。
常人であれば遠く見える景色を前に足がすくむ所を、この武官に期待できるものではない。

眼前を見つめる姿は微動だにしない、ただ虚ろなものである。
風も凪ぎ、肌に付く暑さも気怠いだけと一蹴する。
考えるのも疲れた様子で、寳子は目を瞑り高廊から頭を突き出す。
手にする水差しを頭高く掲げると、勢いよく被った。


間を置いて水が地面に達した音を聞く。
未だ目は閉じたまま。
耳の形をなぞる様にして滴る水に余計気分は晴れない。

この早い時間なら驚く者もない。
故に迷惑被る輩もいるまいと、高をくくった眼で静かに目を開けた。




『・・・・・・・・・・・・』





双方共に無言。
驚愕こそは似た所だろう。
しかし根からの両者の反応は違っていた。


「あっ・・がっあ、ぁああ゛っっ!!?」


叫びが無理に押さえられるとこうも濁った音になるのかと、そう呑気にもしていられない。
何か言いたげな、しかし何も言えない声が詰まり、誰より彼女自身が混乱をきたす。
その様子を見つめながら、未だ無言の秦国大王は色の変わる衣に気も留めず、ただ寳子を見詰めていた。

「すっ、すみません!すみません、すみませんっ・・!!あ、あの、あのっ、私・・!」

何故こんな時間、あんな場所に。
疑問は次々と浮かぶが口にする事ができない。
水気も拭わず、しとどに濡れたままの体で出る言は謝罪のみ。
その声は複雑に折り重なる動揺で震えていた。

本来ならばすぐさまに駆けつけ、跪き、改めて謝罪をし、許しを得られたならば号を賜り拭う所である。
王の一言から首が飛ぶような事態だが、無論政が寳子にそんな事をする筈がない。

しかし彼女がこの、己の立場に甘んじた訳ではない。

早々に下に降り、拭うこと。
ただそれだけの簡単な事が、今の彼女にはできなかった。



「・・・寳子?」
「え、贏政、さま・・」



名を呼ぶ声は疑に満ちる。
行く先はない。当て所ない。

大王贏政は確かに見つめる自身への眼差しに、存在の確信が持てずにいた。


「・・寳子」


高く先にいる彼女に手を伸ばす。
届かぬとわかっているのに指したのは、声にできぬ願いを込めた故のこと。


一方の少女は低く在る高位の存在の指名を避ける。


―――――――これは涙ではない。被った水である。


今朝、目覚めが悪かったせいに違いないと溢れ出そうになる感情を押し殺す。
寳子もまた、確信を込めた心に疑を抱かせ、自身を欺く事で精一杯だった。


「申し訳、ありませんでしたッッ!!!」


声が震える道理はない、筈である。
毅然として声を張ると、寳子は一目散に、脇目も振らず立ち去った。

残された政は呆気と、薄く口を開け静止する。
掲げた手が下がり始めるも中程で力は抜け、だらりと落ちた。




息を切らせ、ひた走る。
回廊を抜けると自室に戻り、気持ちは悪さをして立て籠る童のそれである。
所々に振り撒いた水気など意識の外、両手で顔を覆うと扉前でへたり込んだ。


「(逃げてしまった!逃げてしまった!避けてしまったっ・・!!)
   何てこと何て粗末な!私はっ・・私はッ・・!  〜〜贏政さまっっ・・!!」



悲痛な叫びを呟く様に、何度も自身に問い掛ける。

間違っている。答えは分かっている。実行しろ。立ち上がれ。走れ。今すぐに。



出会って長い。
関わってもう、何年も経つ。

別人だとわかっている。

それでも、似すぎたその姿に対する事ができなかった。


(しかも結構な高さから水を・・水が当たって・・!
   早くっ・・今すぐにでも降りて!降りて贏政さまに・・)


己に手を伸ばすその人を思い出す。

関わって、たったの一月。

その人はいつものように、真っ直ぐ彼女を見つめていた。




「贏政さま・・贏政、さまっ・・ ・・・っ

              貴方にっ・・ ・・・会えません・・・・・!」



どうしたって思い出す。



(信は心が・・・貴方は、そのお顔がっ・・ ・・・・・)



膝を抱え顔を伏せる。
想いの残滓がそれと呼べぬ程に肥大する。


愚かで、弱き自分が露顕する。



「・・・・・・ ・・・・動かなきゃ」



想いを置きに行った、あの日の自分も裏切りたくない。
何より彼を前に誓った手前であるなら、これ以上の恥の上塗りはできないと立ち上がる。

寳子は水気を拭い、寝衣を脱ぎ捨てると正装に身を包む。
暑さと防虫対策にと、清涼作用のある葉を焚き、身体と荷にまとわせた。

粗方の準備を終え、鏡を前に寳子は衣を正す。


休んでいるから、弛んでいるから捕らわれる。




「戦い・・ ・・・戦わなければ」



強くならなければ。



先程まで酷かった目の赤みも引き、弱さなど鏡前の武人からは一切感じられない。
寳子は大きく深呼吸をすると、もう一人の自分を睨みつけた。









気掛かりだった大王の呼び付けもなく、彼女は後ろめたさを覚えつつもそれに甘える。
次に合う時は更に気まずさが増す事となるが、それを理解した上での行動だった。

不測の事態と言い聞かせる。
あの状態でどのみちどんな顔で会えたものかと、未だ答えが出ないのだから―――――寳子は無理にでも胸を張り、王都の城下を渡って行った。

するとこの時間にしては珍しい人物と対面する。
形は裾の長い外衣をなびかせる様にして、その人は寝惚け眼で寳子を見止めた。


「鄒胤(すういん)!?」
「へぇ? 寳子ぃ!?   はー・・ ・・・。」


漂と共に会った以来の、久方ぶりの友を前に寳子は加速する愛馬を抑え旋回する。
子細、何をしているかは定かではないが、鄒胤は秦国内を練り歩いているという。
両者は違う心持ちで対面し、伴う面持ちも妙なものであった。


(厭に雰囲気が変わってる。・・前の星の凶と関係あるのか)

(彼女は変わらないな。・・安心する)



妙な間に傍とする両者は、これまた妙な笑顔を向け合う。
寳子は騎乗のまま失礼と、手綱を掲げ挨拶する。
鄒胤はそれを手で制し、穏やかな表情で彼女を迎え入れた。

「ははっ、何だろう。久しぶり・・ ・・・えっと」

「そーだな。
   っと、また皆に黙って出てきたの?介兄弟あたりが面倒だからやめなよね」

血眼になって探す様は直向きで、しかし鄒胤にとっては見苦しい事このうえない。
居場所を占じてくれと半ば強制的に寄られるので迷惑であると寳子に苦言を呈した。

「どうせ昌文君にも、壁氏にだって何も伝えてないんでしょ。
   寳子の悪いクセだよ。少なくとももう子供じゃないんだ、自覚しな」

周囲への筋を通せと、二つ上の目前は言う。
寳子は苦い顔を見せると、仕返しと言わんばかりに―――――
   逆襲されるとも知らずに、内輪にしかわからない言い回しを始めた。


「壁兄には鄒胤が言っておいてくれないか。私も安心できる」
「・・・お前の思惑には乗んないよ。しょーもない。
      そういや蒙家と王家の坊ちゃん達も見ないね。

         なーに、こないだの優男で決まったのー?」


手痛いしっぺ返しを喰らう。
決まる、という事の意味を察すると、寳子は目に見えて動揺する。
鄒胤からすれば高名な子女を前に挨拶程度のつもりだったが、見える様子に思案を巡らせた。


「へっ!? あ、あぁ、いや・・ ・・・」

「(・・・)えー、罪ツクリなオジョーサマ。彼らとはちゃんと切れたんだよねー?ん〜?」
「お、お嬢さまって、私はそこの辺の」
「昌文君の娘なら、頭一つ出ているさ」
「もちろん殿は偉大な方だが・・ って今はそこではなく! き、切れるなんて・・私達は生涯の」

「あーあーもーいーよ!煮え切らないんだから!
   にしても惜しいなぁ〜。まぁでもあっちも貴族ってんなら悪い縁でもな「鄒胤!」


徒も過ぎれば得るものもある。
少々突っ込みはしたが、その分の益は見込めそうだと鄒胤は腕を組み聞きの姿勢をとった。


「・・生憎だが、その縁は切れてしまってな。  いや、切れては、いないのか」


自分ばかりが離そうとしないだけで。

本当は、もうとっくに手放さなければならないモノだろうそれを、必死に、抱えている。



(切れない)

   「私が、不細工に生きているせいで―――――」




俯いた所で、相手が眼下にいるのであれば、自嘲する口元とて見える。

益は欲したが
   友を悲しませるなど心外であると、鄒胤は馬に跨る彼女の尻を勢いよく叩いた。


「い゛っ!!?」

「ははっ。いいお尻」
「鄒胤!ふざけてるとっ・・!」


「へぇ寳子」

「!?  なっ、何っ・・」



「なんかちょっと、イイ女になった」



雰囲気っていうのかな、佇まいが。
と、これまた悪戯に笑う彼女に、寳子は怒る気も失せて溜息をついた。

「・・何もでないぞ?」
「おめぐみくださ〜い」

そう言って頭を垂れながら両手で杯を模る様は、二人の関係からして板につく。
冗談だと、互いに笑い合った後には決まって別れが待っていた。


「っしょ、っと・・」
「気を付けて」
「これから行く所は・・少し無茶をするんだ」
「なら、ほどほどに」

取り敢えずは止めるが制限はしないと、それは冷淡ではない。
鄒胤はひらひらと手の平で扇いで、背を向け去ってゆく。
それを認めては寳子も背を向け、路を分かつのだった。


「寳子」
「・・・」


そして面と向かわず聞こえる言は、彼女への無事と、諦観を望まれるものだった。




「星が落ちて、また星が落ちる。
   ・・どんなに願っても、変わらない。変われない事はあるんだろうね」




一際煌びやかに燃える星を見た、と。
寳子は以前彼女が、星は人を映すと言った事をふと、思い出した。

言葉を返す事もなく駆け出す。
真上には暗闇が、微かな光を湛え広がっている。
今日もまた陽は昇り、等しく世を照らすのだろうと、詰まらない頭で朧気に思う。

唇が微かに動いた。



「・・・・変われない、ことはある・・」


鄒胤の言を呑み込むと、どこか腑に落ちたと気が軽くなる思いに目を細める。
寝覚めの悪さに気を揉んでいた彼女にとって、救いであることに変わりはない。

勢いよく手綱を打ち、胴を蹴る。
赤蒐(せきしゅう)はそれに応えるようにして加速するが、まだ足りないと寳子は前のめりに愛馬を急かした。

行き先はこれまで彼女が通い詰め、結局会えず仕舞いになった馴染みの、親戚筋の元である。



「(演習に参加させてもらおう・・でも、もう出ているかもしれない。  
      元々用のある事だ。結局彼に会うことは出来なかったが・・) ・・・通いつめて、一度も会えないなんて」


やれやれと肩を竦ませる。
しかし手簡のやりとりは続けている辺り、相手は律儀なのか単に不敵なのか迷う所でもある。
そしてある懸念に寳子は延々頭を抱えていた。


「会えないかという話題に関してだけ避けてくるとは・・」


内容の一点にのみ触れて来ない。
どこの戦場とも言ってこない。

こちらのことを聞いては申し訳程度の己の息災の報告と、花を添えてくるだけである。


当時待ち構えるようにして即座に手簡を受け取り、読み終えた彼女の鬱気といえば言葉にするに難い。
急を要し、派遣された使者も居心地を悪くする程であった。

露骨な相手の態度を思い出しては面が歪む。
主の溜息交じりの愚痴を聞きつつも、我関せずと愛馬・赤蒐は機嫌よく駆足で荒野を突き抜ける。



「王賁・・どうして会ってくれないんだ」



例の事件で二人が最悪な別れ方をしたまま月日ばかりが経つ。

その清算が一つと、もう一つ。
彼らがどうしても話し合わなければならない事があった。



「・・・あなたは、あの人と違う道を辿りたいだけなんだ・・ ・・・きっと」



当人ではない、故に憶測の域である。
そうと思える所以を知り、そうと思いたい願いがある。しかし



『  れで   っと』



脳裏を過る、記憶の断片に息を呑む。

しかし痛みは鮮烈に、彼女の耳朶を穿つ宝によって呼び起こされる。



『お前は 俺のものだ』



「っ・・!」


思い出にしては醜悪に過ぎる。
幾重にも視界を遮り、寳子は狼狽えるが何とか堪えてみせる。
心身共に走る鈍い痛みが手元を狂わせ、愛馬の路を外すが慌てて直しにかかった。

「ぐっ・・ ・・・すまない、赤蒐」

これしきのことと、息荒く速度を上げる愛馬に感謝する。
悪夢を振り払うかのように強く目を瞑ると、寳子は手綱を握る手を強めた。



愛馬、赤蒐と共に咸陽を後にする。

先の魏戦から年を跨ぎ、寳子は十六になっていた。


















「駄目ですっ!王騎将軍の城なんて無理ですっ!
   あんな殺されても文句の言えないような危険な場所ッ・・!!」
「頼むよ淵さん〜!ほら、金だってちゃ〜んとここにあんだからよ!」
「いくら積まれたって駄目なものはダメですっ!私には家庭というものがですね・・」

使者と思しき者の拒絶の声が、突き抜けるような大空に木霊する。
ガラガラと路傍の石を撥ね、進む荷車に男が二人。
気にせず喧騒を露しては約一名、この先行き不透明な旅路を楽しんでいるようだった。
暫くして彼らの目指す、大将軍王騎の根城が目前に姿を現した。

「もっ、もうすぐ着きます・・」
「おー!いい仕事してくれたぜ淵さん!」
「いいですかっ!着いて用件を済ませたらスグ帰りますからね早く帰りますからねさっさと帰りますからね!!?」
「あ゛?」
「帰 り ま す か ら ね ッッ!!」

眼をくれる若者にも怯まず、命大事にを銘とする民の鑑は声高に反論する。
大将軍の根城を前に意気軒昂と、信は城門を勢いよく叩いた。








「彼は相変わらず手簡と花を?」
「・・はい」

もうすっかり陽は昇り、城内にまで差し込む光が両者を照らし出す。
演習を終えたすぐの主を捕まえたその人物は、明け刻から続く疲労を諸共せず対峙する。
その意気には慣れていると、先方も呆れつつこれを受け入れる。
ほどよい疲労と、白昼夢を見るかのような浮ついた空気に、悪くはないと口の端を上げて笑う。

陽が傾きかける頃。
大将軍、王騎の城には先んじて客人が訪れていた。



「何度か訪問したのですが門前払いで・・
   戦に出ているとは聞いていますが、どこの戦場かまでは教えてくれなくて」

送られる花を頼りに思い当たる場に赴くが、収穫がないと肩を落とす。
もはや避けられていると思わざるを得ない相手の態度に、少女は辟易と語る。

「いつ帰るかもわからないお坊ちゃまの所に逐一訪れるとは、中々に大儀な事をしますねェ寳子」

『彼にそこまでする用事でもあるんですかァ?』
些か理解し難いと、半ば呆れにも似た眼差しは寳子の視線を落とす。
彼の大将軍の、やたらに広い部屋に二人。
真正面から向き合い、座ると体格差がありありと見て取れる。

語り合うには都合の良い。
小さく、しかし通る声には真摯さが窺えた。


「・・・・謝りたくて」


ほら見た事かと、大将軍は半ばの呆れを全とする。

きっと彼女も悪いのだろう。
しかし彼女だけが悪者でない事だけは、長く彼らを見守った王騎にとって汲み取る事など他愛もない。

「理由もきかず、私・・彼を。
   きっと王賁にも事情があって。 だから、その」


とりあえず酷い事をしたと、顔を伏せる寳子に王騎は無言で通す。

他にやり方があったろうと 自らを咎める彼女は迷い子である。


煽るでもなく、追及するでもなく。
大将軍である彼女の母役は何事か悟ると、穏やかに目を細めた。


「謝って、楽になりたいんですか?」
「!」


様々な事を謝りたいと、その内は誰も知ろう筈がない。
しかし明確な答は時として、本人以外の誰かが知り得てしまうのもまた事実である。
謝罪という謙りも、相手が望まねば所詮は一方の都合でしかないと暗黙の内に説く。
母役の突き放すような、もとい激励に、寳子は顔を伏せると呟いた。



「王騎将軍、私・・  本当は彼に会うのが、 怖いんです」



拒否では無理だった。
だから拒絶をして、逃げた自分にも嫌悪した。



想いを抉じ開けられる程の、強い想いが怖い。


持て余す事も許されない、否応もなしに当てられる好意にただ竦む。



これは情かと問うたとき
彼女は恐怖と、口にした。


「ふぅ・・・」
「でも、会いたい。会わなければならないんです。 あの、ですから王騎将軍・・」

「私の親戚筋とは思えないほどの愚鈍さですねェ・・ ・・いえ、同じですか」

「えっ!?」
「んふゥ。こちらの話ですよ」


遠く、若輩を思う目は穏やかである。
余り出過ぎずも毒であるとは、彼の一番の知る所であった。


「わかりました。私からも使者を出しておきます。役に立つかはわかりませんよォ?」
「あっ、ありがとうございます王騎将軍っ!

                      ・・あと、もう一つ―――――」

「・・決心しましたか」

足りぬ事を延々見詰めてはきりがない。
その答えを受け取りに来たと寳子は言う。

これに王騎が頷くと、寳子は己が両の手を彼の握り拳に乗せて喜んだ。
その姿に王騎は少女の面影を見る。
彼女越しに見える過去の風景は、将軍にとっても佳き思い出であった。


「にしても彼は懲りずに手簡と花、ですか・・全く」
「王賁はそういうところ律儀で。
   ・・ふふっ、案外楽しんでやってくれているのかも知れません」

「・・・愚鈍ですねぇ・・・」

「?」


王騎の深い溜息に疑を抱く寳子は首を傾げる。
仕舞いと立ち上がる強大に、未だ小さき勇姿は疑を抱きつつも馴染みの子供のようについていった。








「アイァアアアーーーイアーーーー!!大将軍の城門をそんな強引にっ!!」
「あのなぁ淵さん!せっかく来たんだから入れねーと話になんねーだろ!?!」<ドン<ドン<ドン
「信殿ーーー!!やめろーーーーーーッ!!!」もーヤですよもーー!!



「すみません王騎将軍、お時間をとらせてしまって」
「ンフフ・・全くですよォ。
   でも貴女が演習の場に割り込んだせいで余った時間です。ま、いいでしょう」

その節は、と。
深々と頭を下げる少女に将軍は一瞥の内に済ませる。

当時、どこからともなくやってきた寳子は――――
      突撃兵かと言わんばかりの特攻で以てして、演習に割って入り、己に用があるというだけでさっさとケリをつけてしまった。

元々終盤、しかしそのにじり合いこそ求める内であったというのに。
それを一刀のうちに終わらせ、割り合い腰を低くする少女に苦笑いを呈する。
場を汚され興醒めと、王騎は得物を納め、皆もそれに従った。


「・・それにしても演習時、妙に荒れていたように見えましたが・・久方ぶりにアナタの武技を見た所為でしょうか。コココ」
「・・・・・・・・そ、そう、ですね、きっと。きっとそうです。先の戦で納得のできる戦い方ができなかったので・・」

歯切れ悪く、しかし理由が理由である。
まさかいい歳をして寝覚めの悪い夢を見たからなどとは言えず不器用に受け流す。
加えて御親戚の本家筋の所為とも勿論言えない。
その隙だらけの体を無理に暴くほど王騎も無粋ではなかった。

「さて、と。そこまで言うなら準備なさい寳子。話に付き合わされた体です」
「え・・あ!」
「そうです。この城に来た時のアナタの仕事、まさか忘れたワケじゃァありませんよね?」

「―――――――は、はいっ!すぐに湯浴みの準備をしてきます!」


徒な笑顔に、笑顔を併せる。
時が逆行したかのような空間に安堵したのは両者共であった。

しかしそんな安き間も、急報のがなり声によって破られる。


「とっ、殿ーー!殿っ、ふ、不審者がっ!」
「隊ですか、軍ですか」
「どこの国だ、それとも・・。 報も届かせぬほど上手く国境を越えるなんて」
「いっ・・いえっ!一人っ!童が一人と、あ、いえ二人っ!中年と・・!」

慌てふためく兵を余所に、童という言葉に両者共が反応する。
その勘は、兵の次ぐ言を聞いた瞬間に確信へと変わった。


「そっ・・それが騰副官の知り合いのようでしてっ・・!」


知り合い、というには適切ではない。
寳子は顔色を変え、将軍御自らには及ばないと駆足で不審者の元へと向かった。





門が上がっては下がり上がっては下がり。
それをする門兵の苦労や知らずと、副官と呼ばれる人物はただ微動だにせず不審者を遮るようにして門に突っ立っていた。
勿論現状を良しとしない童の怒声が響く。
しかし諸共しないと、仕様もない戯れが城門にて延々行われてた。

門が開いては閉じ、開いては閉じと再三繰り返された所である。
我慢ならないと童がやっと一歩踏み出したところに、その少女は突如として姿を現した。


「は・・・あ゛っ・・!?」

「こんっの・・ 大 馬 鹿 者 が っ !!」


殺伐とした中で互いに見詰め合う。
凝として見詰める童を一喝し、寳子は不審者である彼の頬を強引につまみ、城内に引き入れた。



「寳子ッ!?おまっ・・なんひべべべべっ!!」
「申し訳ありません騰副官。こいつは責任をもって私が」
「殿は」
「事情はお話しています。温情にて許可をいただきました」
「わかった」

寳子は抗う事のできない信を引きずる前に、後方で震える平凡な中年に気が付く。
目を点にして震えるその者に、彼女は他所から来た平民を一人にも出来ないと苦渋の末に声をかけた。


「お前、信の知り合いか」
「アイアッ!?」
「・・黙ってついてこい」
「あっ・・アイー・・・」



寳子に信、近衛兵が数名と、そして淵にぴったりと寄り添うようにして騰が将軍への路に連なる。
高くから眺める城下は遠く、しかし信には壮大に見えた。


「いい眺めだろう。私のような一端の武官でも眺めることのできる、大将軍の景色だ」


羨望の眼で嬉々として声を上げるが返事はない。
怪訝に信を覗き込むと、物凄い剣幕で寳子を睨んでいた。
その原因を自身の行為にあると気付いた彼女は慌てて信の頬から指を離した。

「おっ・・お前がよくわからない内にここへ来て!よくわかならい騒ぎを起こすからっ!!」
「お前このまえの戦でおぶってやった事すっかり忘れてんだろ!!
   礼の一つもなきゃ人の頬ばっかつねりやがって!痛ぇっつーの!!」

「れっ、礼なら言ったろ!・・・たぶん」
「言ってねーよう゛ぁーーーか!!」暑さで頭茹だってんじゃねーのかァ!?


ハッとしてぐぬぬと、ぐうの音も出ぬ寳子の様子に驚愕を見せるのは王騎の城の近衛の者達である。
彼らの殿の出陣に際し、過去幾度と駆けつけた強者を、見た目下僕の少年が黙らせている。
その奇妙な景色に唖然とする兵達、またそれに気付く寳子はしまったという風に咳払いをした。

「・・・静かにしろ。ここは大将軍王騎の膝元だぞ。
    あとお前は先の戦で仕官したんだ。なら私は上官になる。心しろ」

「あーあーそーだった。
   にしてもこの・・高いトコからの眺めってのは。政ンとこのとはちーっとちげーよなぁ」

「お前私の隊に入れ。先陣と殿(しんがり)を務めさせてやる」


よくも右から左に聞き流せたものだと、寳子の余りの気迫に気圧されるのもまた近衛兵である。
共に連れるこの近衛は、将軍の側近というよりも城の警備を司る者達である。
故から度々、王騎の部下にしては似つかわしくない様を見せるが―――――
   寳子という少女を知るうえでは戦場に出る荒くれ共とは違う意味でまた、理解に足る存在であった。


「・・しかし贏政さまの、という所は同意する。
    王の城と大将軍の城というものは、私達の心根にある想いからも違って見えるだろうからな」

「大将軍の夢!持ってんもんな、俺達」


夢を語る信に頷きもしない。
周囲を気にし、少し気恥ずかしそうにする寳子は素直に声にする事ができなかった。
淡々と階段を昇りきり、通路に出る。
歩きながら寳子は、信を小声で諫めた。


「・・・生半可ではないんだ。そう易々と口にするな」

「ばっか、夢ってのは口にするもんなんだよ」



その言葉に、憧れと羨望と。
あくまで本人にではないと、苦し紛れに言い訳をする。


「俺はもっとスゲェ景色見るぞ。もっともっと、すっげぇ、でっけぇ城から世の中ってヤツを見てやる」


寳子はつい笑い、嬉しそうにそうした自分に少し驚いた様子で信を見つめる。
彼は立ち止まると、何の変哲もない、願いだったものを口にした。




「漂も見てっかな」



ふいの信の言葉に硬直し、今朝の悪夢が一瞬、脳裏を過る。
しかし妙な事に、取り乱す事はない。

ただ一言




「うん」



素直に頷く子供のように
混じりけのない、彼女そのものの口から、応とする声が出た。

気安い彼女に気付いた信も、そうか、と
何の曇りもなく一途に見詰め言った。




「お前も見ていけよ。一緒に」

「え」




呆気に取られる寳子と、呆気と言い放った信を。
近衛も、平民も副官も。

凝視し、そして


「ココココ・・・」


偽の鳥が間を繕うようにして笑った。


この後、なるべくして少年は制裁を受ける。
かくして少年信は、大将軍の城へと足を踏み入れた。








「これはこれは、童信ではありませんかァ」
「話は寳子から聞いてんだろ?なーに胡散臭・・ ・・・お、おしさ、お久しぶり、です」
(ん?)

大将軍の御前と、緊張するような玉でもあるまいし。
寳子は妙に畏まる信を横目に、改めて王騎に倣う。

「で?何の用ですか」
「あ・・なたに、頼みがあります」
(・・・・・なるほど)

気持ちの悪い理由がわかったと、しかし余りの似合わなさに口元が緩む。
王騎もよし理解に至ったと、放つ口調は軽いものだった。

「わかりました。では寳子と共に湯殿の掃除に行ってきてください」
「さっすが大将軍!話早いぜ!そんじゃー俺に稽古・・ってえ゛っ!?」
「え゛!」


濁る思考を共に口にする両者は仲良く同寸、城の主に歩み寄る。
一方は何故に掃除と、もう一方はそれと共に何故に自分がと腑に落ちない様子だった。


「コココ・・共に湯にでも浸かって話そうと、そう言っているんですよォ。ねぇ騰」
「ハ。裸の付き合いというものです」
(何でだよっ!)
(そういうものなのかっ!?)


それと自身が掃除に加わる事に何の関係がと、しかし大将軍の言う事である。
不明はあるにしても不足はないだろうと双方黙りこくる。

兎角話はそれからと、王騎はさっさと場を後にした。
近衛もそれにつき従い、淵は何故か騰(の胸圧)によってじりじりと連れ去られる。
取り残された二人は遠くを見詰めるが、埒が明かないと浴室へ移動した。








両者の手には藁を編んだ拭き道具と、葉を乾燥させたものが少し。
手練れと言わんばかりに寳子が指導にあたる。

「この葉を潰しながら泡立てる。こうして擦ると・・」
「うおっ!なんかすっげぇ綺麗になった!」

まるで奇跡の所業と言わんばかりの技に信は目を輝かせる。
慣れたものである寳子はといえば、何故か気恥ずかしくなりさっさと作業に移る。
黙々とする彼女を一瞥する信だが、つまらない以上に、こちらも何故か落ち着かないと声を掛けた。


「げ、元気にしてたか!」
「会って暫くだぞ。わからないのか」


かわいくねぇえええ!!
と、満面から滲み出る文句を見もせずに寳子は作業に没頭する。
ロクに関わる気がないと察すると、信も意気よく掃除を始めた。


(・・・やっぱりこいつは、やりにくい)


おぶられの借りといい。
行動のそれから言葉の端々に至るまで、どうにもやりにくいと寳子は溜息を吐く。
気にしなければ済むという話だろうが、こうも顔を突き合せ、頻繁にあると疲れもする。

(・・・・・)

それでも救われる事はあると、振り返り彼の背を見る。


仕様がないのは誰なのか。

自ずと見える答にまた深く溜息を吐くと、寳子は信に近付き肩を叩いた。



「悪かったな。王の盾らしからぬ振る舞いだった。謝る」
「・・・ケッ。謝るってのはな、ごめんなさい、っつーんだよ」


減らず口を叩き、さてどう文句をつけてくるかと身構える信に対し、彼女は冷静だった。
彼の求める謝罪の型というものを見せると、どこ吹く風と話を振る。

「お前、将軍に稽古をつけてもらいたいようだが」
「へ?あ、あぁ・・俺は―――――、あの、あれだよ」
「もっとわかり易く言え」

「あー、羌カイっての、いただろ?アイツがすげぇ強くて・・それで俺もやべーかなって・・
     ・・・まァいーじゃねぇか!つかやっぱスゲーな大将軍の城ってのは!なんでもかんでもデケェ!!」

湯船の中に入ると両手を広げて騒ぎ出す。
何人はいるのだろう、などとおどけてみせては何もない所でコケていた。
寳子はというと、羌カイの名に反応しながらも至極平静を装う。

「・・ばかもの。槽にヒビでも入ったらどうする」
「そこは俺の心配しろよ!!
   つか、お前は?何でこんなトコ来てんだよ」

「・・王騎将軍に、少しな」
「いーよなお前は!前にお前に、将軍達の戦について回ったとか、
   そーいう立場が羨ましいかって言われたけどよ、やっぱそー思うぜ!」

笑顔で言い切る信に、そんな事もあったなと、寳子は少し笑んだ。

「ふふ、楽にその立場にあった訳じゃない。
   私はここで訓練していた頃、例えばお前が苦労しているこの浴殿の掃除。 毎日の事だったし、時間制限もあったんだぞ?」
「そんくれー俺だってできるっての。初めてだから、ちょっと手間取ってるだけだ」

「いーや私にはわかる。お前には手際ってものと、ここぞという押しがない。
   戦と同じだ。泥仕合、消耗戦は後々苦しくなる。先を見据えるほどにな・・ これは覚えておくといい」


始まる寳子の説教に頭を掻く信は、空返事で返すもちゃんと心根には届いている様だった。
しかし説教が続くのも困りものだと、彼は再びあの人物の名を口にした。


「ったく羌カイのヤロー・・あいつどーするつもりなんだ。魏にとかって言って・・」


作業に戻りつつも口を動かす信に、しかしこの話題ばかりは彼女から諫める事はない。

「・・それについてだがな、信」
「アイツ、ぜってー次の戦に出てくんだろーから・・」

「聞け。
   あの剣技、風体、文様から奴はただの徴兵じゃない。それで改めて調べたんだが・・」

語気の強まる寳子に対し、信は怪訝な顔を向けると疑問を投げかける。
彼女の反応もそうであるが、何か知っている風の態度に彼は興味を持った。

「はぁ?何いってんだよ。確かにつえーが、俺達より年下の生意気なガキだろ?」
(蚩尤の事はまだ言わない方がいいか・・)

「まあ確かに、あいつも色々あるみてーだがよ。わざわざ男のフリして参戦してたんだ」
「・・・・は」


同じ伍にいたとすれば今後、戦線を共にする可能性が高い。
寳子はいま事情を話して状況をややこしくするのは得策ではないと判断するが、信はこの時すでに彼女の正体を知っていた。

「お前・・どうして、知ってるのか!」
「おお。この前アイツうちに来たんだよ。何か目的があって、そのついでに戦に出たんだとよ」
「・・・それで」

歴史の影に埋もれた蚩尤が、ただの一端に何を語ったのか。
書物でしか知らない影の存在というものに対し、興味や好奇がないといえば嘘だった。


「・・言えねえ。つか、言いづれぇ。どーしても聞きたきゃ本人から聞いてくれ」


蚩尤には元来儀式があり、それが蚩尤たる化物を生み出すという事は知っている。
敵から仲間、それこそ血を分けた身内でさえ手にかけ最後の一人となるまで戦う儀式。
それを掻い潜った者が、どうして人に関わり、人と言葉を交わしたのか。

「・・・・・バカには語り易かったのかな」
「おい。いまバカっつったか?おいいまバカっ「空耳だ」

(しかしどうして・・蚩尤となった者は、常に影に生きると聞いていたが)


化物となったものが人と生きる。
そんなことは有り得ない。

できる訳がない。


それは寳子本人が一番知り得る所であった。



自らの抱える痣の意味。
他人事ではないと、寳子の握る手は固い。
黙る彼女に、信は確信を突いてきた。


「しゆう、だったか。そいつらの文様ってのは、お前とは違うのか?」


間の悪い時に限って鋭く突いてくる。
それを知ってはいても、起こる動揺は抑えきれない。
ならばいっそと、寳子は信に向き合った。

「・・・・ ・・違う。
   文様には意味がある。知りすぎる必要はないが、知っておけ」

一瞬の間を持つも、寳子は投げかけられた問いに答える。
またそれ以上に必要だろうと、彼女は語り出した。

「風体からはその者自体を示すもの、属する部族、場所を語るもの。
   また意気、言葉には表す事の出来ない子細が含まれている」
「・・わかる奴が見りゃ、そいつがどっから来てどんな奴かってのが一発でわかんのか」

「そうだ。・・しかし ア レ は特殊だ。
   裏方の部族ならば通る、平地とて書を読もうと確証の得られぬような、そんな虚の存在だ」

要約する所の、危険人物であると示唆する。
しかしそんなものは杞憂と、信の興味の矛先が変わった。


「はーん・・ま、それが何だって話だけどよ。
   お前の身体のもそんな、何か意味があるヤツなのかよ」


知りすぎる必要はないと言ったばかりである。
それでも目前のこの男がこのうえなくどうしようもない頭の持ち主である事を、寳子は知りすぎていた。

既に見られている体もある。
今更と言う気持ちも、ないではなかった。



「私のそれは・・ ・・・掻き集めの派生」
   


何ら正当性のない
いわば正統があるかのように仕立てあげたもの。

作り上げた者さえ何がどうなるとも理解できていないような悪辣。
転じるか転じないかは宿主次第と言わんばかりの粗悪品。


(調べても調べてもきりがなかった。
   答えばかりを集め、何一つの答えがないような代物・・断片の全てが呪いの文言、あらゆる負の痣)


耐え難いと寳子は背を向ける。
信はどこか小さく映るその背が、嫌いではなかった。


「毒は毒に、薬は薬とかけてまた毒にしたようなものだ」


「って・・よくわかんねーけど」




「・・・ロクなものではない、ということだ」




調べても調べても、毒。
数年調べてわかったことが、自身が呪われていたという事実だけ。


いっそ化物になってしまえば、己が正体を見出せるというもの。



静まり返る浴室には、一滴の水音さえ大きく響く。

それが何だ、とは。
このときの信も口にはできなかった。













掃除が終わり、騰が淵を引き連れ現れるが、同時に流れ作業のように信を攫ってゆく。
淵に関してはやっと解放されるかと思いきや、希望を打ち消すかのようにして再び信と共に連れられた為に不憫でならない。
あまりの無駄のない働きに寳子はもちろん信でさえ文句の出ぬままに場は収束した。

(さすが騰副官・・王騎将軍の命を実行する時はちゃんと実行する・・!)

しないときは疾くしないが。
と、寳子は湯浴みへと向かう信を見送った後の、己が身の行き先を考えてはいなかった。
しまったと立ち尽くす寳子の元に、一人分の足音が近づく。
咄嗟に一足飛び、身構えるとそこには見知った顔のその人が立っていた。

「り、隆国様―――――!?」
「はは、そんなに驚くな。珍しい顔でもない」
「ふふっ、少なくとも録嗚未様でなく安堵しています」
「ぶっ、・・違いない」

出会い頭にうろちょろするなと、胸倉ぐらいは掴まれそうだと笑う。
親しげに振る舞う様は流石、板についている。
そんな王騎軍の指入りを前に、寳子は喜び勇むとつい幼年の気に戻ってしまっていた。

「ふふっ!いけませんね、やはり此処に来ると妙に幼心が出てしまって」
「そう思うなら嬉しそうに話すな。お前ももう十六だろう。嫁に行っても―――――
   ああそうだ、王家の若君は息災であらせられるのか。それで、日取りはもう決まったのか?」

王騎軍にあって良心とも呼べるだけに言い返し辛いと、寳子は抉られた傷を傍観する事しかできない。

「あ、いえ・・その話は、といいますか・・どこまで」
「?確か王賁様はお前を娶る予定・・婚約をしていたのではなかったか?ん?今はどうなってるんだ」

返した所でどんどんと新たな傷が増えるばかりとなれば、これ以上この話に執着する必要はない。
寳子は顔色を悪くしながらも、特に進展はない、とだけ話し強制的に収束させる。
それでも―――本家筋ならびにそれに仕える者達の風当りに負けるなと鼓舞してくれる辺り、ますます気まずい思いが寳子の中で沸き起こる。

王家に仕える者の中で、彼らの関係を知らぬ者はいない。
しかしさすがに、あの急な迎えに関してはその場に居た従者以外は子細知らぬ様だった。


「あの、それで・・隆国様はなぜこんな所に」

虫の息で語る寳子を怪訝な顔で見つめる隆国だが、その顔はすぐに平常に戻る。


「何を言っている。私はお前の為にここに来たんだぞ」
「えっ?」


「殿から話は聞いている。
   受け取りに来たのだろう?宝刀を」



寳子は一気に背を正すと、食い入るようにして隆国を見つめ返す。
いい目と言うその人は、少し微笑むと真剣な眼差しで少女を射抜いた。


「殿から言を預かっている。
   『貴女が兵となったその日から暫く。更に言えば王弟の反乱を危ぶみ、事に余ると私の元に預けていた宝刀』・・」



『扱えそうですか』



口の端を上げて語る様が、ありありと想像できる。
お伝えくださいと、寳子は口を開いた。


「『将軍もお察しの通り、私は未だ宝刀に 使 わ れ て い る 状態です。
   ・・それでもこの機に際し、受け取りに来たのには理由があります』」

睨み合いなど生温い。
もはや眼の付け合いに近いそれは、互いの決意の固さを示すものだった。


「『王騎将軍、貴方が動き出すその時に、この宝刀がどうしても必要でした』」

「寳子・・!?」

「『あなたは秦国の将なのですから』
      ・・・そう、言っておいていただけませんか。隆国様」

折角に隆国という好人物を寄越してくれたのである。
こちらも直接的に話す必要はないと、寳子はあくまで信用に足る人物に至言を託す。


「どこまで知ってる」
「・・韓攻めが始まると。号は・・間違いなく」

奴、という者の名を口にはしない。
聞き耳を立てられている事への危惧よりも、彼女にとっては口にしたくないという思いの方が強い。

国が国を攻める時、その国は貴重な国力を削いで臨む事となる。
手薄になった所を突くのは常套。
秦が韓を攻めると知った他国が攻め入る可能性は非常に高い。
いくら内々に進めていたとしても、秦国内部に点在する間諜に嗅ぎ付けられる。
求められる最上の対策としては、他国の出方を推測し、尚且つそれに対する攻めと守りを行う事である。


(・・呂不韋が王弟の時のような目論見を、再びしていなければの話だが)


己が保身を見定めたうえで他国へゆき、他国に攻め入らせる。
見える裏切りを見咎める事も出来ない矮小さに握った拳が自ずと震える。
しかし、彼女には算段があった。


(この機に際し、六将に位置した怪鳥を籠に仕舞っておく理由はない・・  贏政さまなら、そして、王騎将軍なら)


もはや飾り物の鳥ではない。
怪をなして敵を除するものならば、必ずや六将は再び戦場に降り立つ。

―――――問題は、大将軍の帰還にそぐわぬ戦を展開する事こそにある。


「もし来るとすれば・・寳子、お前の読みは」
「魏はないでしょう。楚と言いたい所ですが、趙が怪しい」
「趙は隙あらば、という所だろうからな。
           国同士が結託して来るのはどうだ」
「我々が攻め入るのは韓です。数は出しても、他国はいま秦が全力で韓を叩くとは思っていないでしょう。
   となれば余力を残しているものと見て大業には出ません。各国が期ではないとわかっている筈です」
「韓を討つ気はない・・そうだな」
「小耳に挟みましたが、韓攻めの指揮は蒙ゴウ将軍が執られる動きがあるとか。
   彼の将軍は城であれば噂通りの攻め込みも見られるでしょうが、それが国となればどうでしょう」

堅実であればあるほど決定力は弱く、決め手となる刻もない。
この人選こそが徹底非ざる決断を物語ると寳子は仄めかす。

「同意だ。・・さすが、情報屋を囲っている者の言う事は違う。無論、お前の読みも冴えている」
「恐縮です。おかげで良い衣一つ買えない始末ですが」

両者苦笑いを呈し、一息つく。
改めてと、寳子は声を発した。


「来るとすれば楚、若しくは趙。
   魏はないと言いましたが、これが趙に与するというのなら面倒です」


隆国は頷くと口元に手を添える。
思案に耽るといわんばかりに、寳子に言を求めた。

「趙は秦への恨みが果てしない・・ ・・・怨恨が欲を超えれば、きます」

「フ・・」


隆国の漏れ出す笑声に寳子は言を止める。
今しがた語れと所望した人物が割り入るなど、それこそ可笑しい話だった。



「いや、すまない。
   ―――――――その時が来れば、あの方は安心して羽を休められると思ってな」



初めて少女に会った時は目を疑った。
幼い童が獲物を持つ姿を見るのは二度目であり、それに驚いた訳ではない。

まさか主に再び同じような光景を見せられるとは思っていなかったのである。


「・・・お前は生きろ。寳子」


最悪、また同じ結末を見なければならなくなる。
当時の隆国にとって理解し難い事を王騎は行い、彼と思いを同じくする者が大半だった。

死ぬな、とは無理な事であるからと
   しかしその言葉は武官にあるまじきものである。

故に戸惑いと、歯切れの悪さと、  これはどうしようもない一人の男の願い事だった。




「・・・ ・・この命は、いつか一つとなる中華のために」



一つにしたいと、願う人がいる。


その人の事を嘲る人が多くいる。
有り得ない事だと嘲られる、だから



『贏政さま、私もソれ、いいと・・思うん、ですけど』



だから生きる事も死ぬ事も
それを踏まえたうえで在るからと。

過去も未来も、少女はただ一つの誓いの為に、明確な答えを避けた。












厚い扉の錠を解き、隆国が招き入れる。
寳子はそれに応え、彼よりも数歩先を行く。

「あとは私が。・・隆国様、ありがとうございました」
「寳子」

進もうとする彼女を引き留める。
何事かと、しかしこの者は相も変わらない。

言ってどうなるでもない。寧ろ重ねる無粋と避ける程である。



「王弟反乱の際は、すまなかった」



長く蟠りがあった。
この時ばかりは言わせてほしいと隆国は口にしてしまう。
こうなっては眉を顰めるのは寳子の方だった。


「・・隆国様は戦場に出れば凛としておられるのに、ことこのような場では余りに甘すぎます」


優しいとは言わない。
これは温い上官に対する下々の諫言と寳子は困り顔で言う。


「王騎軍が総力で向かってきていないのはわかっていました。

   そうでなくとも戦場なら。得物を持ち、対峙する者を敵とみなすが上士」


故にこれきりだと少女は言う。
もし同輩がいるようであれば周知しておいてほしいと伝える。

謝罪をするよりも、今まで通りに接して欲しい。
それがこの世にあって当然の姿であると、寳子は隆国に頼んだ。


「隆国様」


今度は逆に名を呼ばれ、佇む。
諫めでないのならどのような言が降るのかと、半ば恐々としていた。



「・・・方元は、元気です」


予想していなかった事に、しかし気掛かりであったと隆国はただ頷く。
一応は、おそらくと。
切れの悪い言葉はあくまで寳子の、自分から見てという意味合いが込められる。


未だ昴護隊に配された事を快く思っていない方元は、演習でも己が隊のみで行動する事が多く、連携が取れていない状況にあった。
弓弩隊を編成する彼は単独行動が多く、寳子を始め槍剣隊の介良、鉾隊の介殻も手を拱く始末である。

『俺の事はいない者と思え』

決して属する気はない。
威圧的な態度はただでさえ埋まらない彼らの溝を更に深いものにする。
元いた場所にいつかは帰ると、方元は初めに言い放っていた。



「そうか」

しかし隆国の元では従順な武官であった為に、彼は一つ返事で安堵する。
その様子を見て寳子はどこか心が騒ぐような、如何ともし難い心境に駆られるが始末に負えない。

隆国は別れの言葉もほどほどに、彼女に背を向け場を後にする。
取り残された寳子も言葉少なく別れを告げると、複雑な思いを抱えながら宝刀のある間へと歩を進めた。



扉計四枚からなる最奥を開け放つと、鈍く光る刀身が目に映る。
龍鱗を思わせる柄も、これに負けず透く色合いを見せていた。


「・・・・待たせたな、銀瓏」


柄を静かに、重みを確かめるようにして確と握る。
手に馴染む感覚は、少しは己が成長できている証だろうかと寳子は自惚れてみせる。



「やっとお前の主になる覚悟ができた」



言うと飾られた宝刀をとり、慣れた手つきで振り回す。
描かれた弧は闇に映え、残像は目に焼き付いた。

細身の嫋やかなそれは、確かに彼女の意志と技を伝える業物である。
長きに渡り主を失い、それでも煌々と光を失わず待ち続けた宝刀・銀瓏(ぎんろう)。
冴える刀身は誤魔化す事無く主の今を映し出す。

全てに染まる真白の従者は、改めて寳子を主として迎え入れた。














湯浴みが済み、暫くの空き時間を信と寳子は城下にて過ごす。
さすが大将軍の膝元といわんばかりに物資が多く見受けられる。
咸陽までとはいかないものの、それでも城を保つには余りある供給がなされていた。

手を頭の後ろに組み、信は目移りをしながらも寳子についていく。
寳子はそんな信の腕を引っ張ると、自分の側に置いた。

「話は済んだのか?」
「・・まーな。楽しい所に連れてく、とかって言ってあのクチビ・・将軍のヤロー」

将軍に野郎と付ける下郎が何を、と。
しかしそれ以上に興味深い事を聞いたと、寳子は信の肩を慰めるようにして叩いた。

「はぁ?んだよ急に・・気持ち悪ィ」
「まあ、死なない事を祈る」さらばだ

「は?死なねーよ。つかお前も一緒に入りゃ良かったのによー風呂!
   どぉーせお前のハダカなんてお前が気にしてるだけで色気もクソもあったもんじゃごぇっふ!!!」


余計な事を言った者に対し、余計な事を言った場合というものに正当性はないらしい。
丁度みぞおちの良い部分に軽い拳を喰らうが、これでも楽な方だと考えるようになってしまった辺り両者の 仲 の 良 さ が窺えた。

「っつ〜〜・・ ・・なあ!お前ここにはよく来んのかよ」
「そうだな。昔は城に寝泊りもしていた程だ。そして馴染みらと訓練に明け暮れて・・
   演習や、仕官したての頃は戦場に無理矢理ついて行ったりしていた。言わなかったか?」

後は王弟の件の前後に控えたくらいか、と飄々として答える。
また足を運ぶようになったのは最近の事と、まるで遥か昔を思い出すかのように遠くを見つめた。

その物悲しそうな横顔を見たからだろうか。
信はさも有体の事を、当たり前のように口にした。



「お前、王騎将軍のこと憎んだりしてねぇのかよ」



馴染み深ければ深いほど。
佳き関係ならば尚更に、と。  これは無粋である。


(お前が言うのか、信)


余りの唐突さからか寳子もその場で固まる。
直立不動の彼女を怪訝がって目の前で手を振る信は、正真正銘、真の――――であった。


しかし、それでも起こる笑声は彼女のもの。
城下といえども油断ならないと帯剣する寳子の剣技が振る舞われる事はない。


「お前は思った事を思っただけ、思った時に言うんだな。 以前のようなやりとりをしたいのか」
「政を逃がしてた時の、俺達が初めてやり合ったよーなって事なら違ぇ。
   オレは漂が殺された時、その誰もが俺の知らねぇ、関係無ぇ奴らばっかだったけどよ」


お前の場合はそうじゃない。
怒りの矛先を知りたがるそれはやはり


「・・・そうだな」


馬鹿だな、と思う。


二重に頷く。
率直に言うとややこしくなるからと、寳子は溜息を吐き腕を組み答えた。


『恨むような事をされ、なぜ恨まないのか』





「・・殿にも聞かれたな。  自分を恨んでないかって」


そしてつい先程には上官の謝罪を受ける始末である。



皆が可笑しいのではない。
あえて何がとするならば




「感謝、こそすれ」




この時代こそが、おかしい。




『贏政さま、国がひとつになれば・・人は悲しまずに済みまスか?』




「漂を殺した、真の仇は誰だと思う。
   
    呂不韋か・・動いた王騎将軍か。我が父、昌文君。それとも直接手を下した者か」


問うた者に問う。
それは答えを導き出すための答え。


「反乱を起こした王弟か。それともそれを食い止められなかった我らが王か」

「なっ・・おま、政は!」


「もしくは漂の死を目の当たりにする事しかできなかった無力なお前自身かだ」


食い掛ろうとして言葉を呑む。
誰の所為でもない、自分自身が仇の一端を担う可能性を突き付けられる。
しばらく身動きの取れない信から視線を逸らさず、自らも動けずにいた寳子は自嘲した。


「・・・少なくとも、幸せになると別れたどこぞの愚か者よりかはマシか」


答えたくはなかった。
しかし答えるしかなかった。


『辛くない・・泣かない。
   捨てられたり、死ぬおもいヲせず、人が幸せになる世になりますか』




だから必ず二人でと、少女はあの時、苦境のなか自らに言い聞かせ口にした。
しかしその人は彼女と自分ではない誰かの幸せを願って死地に身を投じた。



「信、お前は誰を恨んでる。教えてくれ」



面白可笑しく己をわらって、それは耐え難い苦笑に変わる。





「私は誰を憎めばいい?」






指をさす。

問い質した人物を真っ直ぐに―――――――心の臓に的を絞る。
この遣り取りで、言葉で。
意志でもってして殺す事が出来ると、刃を突き付けた。

しかし人差し指は翻ると、迎え入れる掌となる。



「人を憎む事もまた、難しいんだよ。信」



その口調は武官のものではない。
ただ同世代の、想いを同じくする者を亡くした、少年と少女の語らいである。



母と想う人、主と定めた人、己を生かすこの世でさえ。

そしてこれから先を託そうと願う、目前の大馬鹿者とてそうなのだからと


寳子は手を差し伸べ、信は自然とその手をとった。



乾季ゆえの混じりのない暑さ、微かに汗ばむ熱気のなかで、手の平は示し合せる様にぴったりと互いの手に馴染む。
無骨さはいい勝負と、固く握られた手は簡単に解かない。

伝わる鼓動を耳にしながら交わす視線は戦士のもの。

未だ動かぬ世をいつかは覆すと、誓い合う将共の眼だった。



「「・・・・・・・・・」」


「ってバッ・・なに手ぇ握り合って見つめてんだよ!」

「あっ!・・ ・・・・ぷっ、ははは!
   お前が傍にいると、何からも気兼ねないな!信!」


照れ隠しか信は、握っていた手から腕をこれ見よがしに上下に振る。
それを見た寳子も呆れた様子で――――しかし楽しそうに手を左右に振った。



馬鹿をやった所為か交わす言もほどほどに、寳子は案内の続きとばかりに信を連れ城下を歩き回る。
王騎の準備はまだ終わらないのかと愚痴る信を放り、寳子はある露店を見つけた。

(あ・・これって)

場こそ違えど、寳子は似たような光景を思い出すと目を細める。

夢の断片が脳裏を過る。
関わってはいけないと足早にする寳子の後方で、信が声を上げた。


「これ買ってやるよ!」


手に持つのは赤の紐。
それこそ彼女の髪に馴染むような、紅色のしなやかな結い紐だった。

寳子は立ち止まるが、それを見ただけで引き返しはしない。
早く来いと言わんばかりに無言で歩き出す彼女を、信はわざわざ駆けつけ腕を引いて店に立ち寄らせる。
それを振り払い半ば怒声を上げる寳子を信は適当にあしらう。
紐を彼女の髪に合せてみせ、先程の非礼を侘びると言わんばかりに勧めてきた。


「・・・はぁ。」
「って、もう似たよーなヤツつけてんだよなぁ・・
      でもよ!戦ってたら切れちまう事もあんだろ!?」

「そこまで敵を近寄らせない」
「だーっ!ああ言やこう言いやがって!
   いいからもらっとけって!この前の戦で金ならあんだよ!遠慮すんなって!!」
「・・・・・・・」

仲睦まじいと勘違いでもされているのか、微笑む店主を寳子は心外とばかりに睨み付ける。
否、傍から見ればそれ相応としても何ら違和のないものだが、そんな印象はごめんだと、しかし一方の愚鈍は遠慮を知らない。
故に呆れたと、本日何度目かの諦観に疲れた寳子は、やっと信に向き合うと言を交わし始めた。


「信」
「あ?」


「私はそんなに、赤が似合う?」





『うん、似合う』







一度聞いた事のある誰かの声が脳裏に響く。


それが




「いーや」



意外だった。





「そこまで思ってなかった。
   テキトーに取ったら、これだったってだけだ」


違う声が聞こえた。
あの時とは違う声に、言に寳子ははっとして信を見る。


「自惚れんなっつーの。
   そこまでお前の事、考えちゃいねーよ」



ただ先程の事が気になるからと、やはり詫びのようだった。

寳子の目には紛う事なく、信という存在が目に映る。
当然の事を、まるで有り得ない事のように見つめる寳子を信は心地悪そうに見つめ、そして視線を外した。

「・・・・・・・」
「ん。 おら、要んのか。要らねぇのか」

綺麗な紐を強く握りしめ、彼女を見もせず品を突き出す信は困り果てた大きな犬のように見える。
がしがしと髪を掻く彼を見て寳子はつい笑う。
自身がまるで、待てとする飼い主のようであると彼女はついに大きく声を上げ笑ってしまった。


「はははっ・・!」

「ンだよッ!?」気色悪ィ!


「手に取ったって事は、無意識にでも私に似合うと思ってくれたんじゃないのか?」
「はぁ!?バッカかお前!
   ・・・・・ ・・いやそーなのか?そういう事か?」
「ぶふっ!」
「だーー!からっ!いちいち笑うなっつーの!!
   何がそんなにおもしれーんだよ訳わかんねぇ奴だなったく!!」


ついには抱腹して笑いだす寳子に、今度は信が声を上げる。
それでも買わないという選択肢を出さない彼に、寳子は悪い事をしたと笑声を止め向き直る。
両手を差し出すと彼女は仰々しくない程度に頭を下げた。



「・・・ありがたく」



この言葉の意味を、彼はまだ知らない。

店主に金を支払うと信は歩き出した。



「はーあ、どっと疲れたな」

愚痴る信を傍に、寳子は歩きながら贈り物を付けてみせる。
元ある紐の上から、そっと結ぶ。

予め付けていたものは、外せなかった。



「・・どうだ?似合うか?」



言ったものの、見て唸る信に寳子は疑問符を浮かべる。
寳子の髪から紐を解くと、彼は店主を呼び付け別の品を用意させた。
自ら赴かない辺りが何とも言えないと、寳子は頭を抱えた。


「やっぱやめだ」
「え?」

「お前こっちつけろ」


言われて差し出されたものの色を見て驚く。
その色は余りに眩しく、果たして似合うのかと言われれば戸惑うものだった。



「・・・黄?」


「お前の髪と同じ色だと、なんつーか・・勿体無ぇ」
「もったいない?」

「お前に赤なんじゃなくて、お前が赤なんだよ。だから・・
   ってあーもーるっせーなぁ!こっちがいいっつったらこっちなんだよっ!!」


強引に押し付けると寳子に肩をぶつけながら先に行く。
今度は足早に、それを彼女が追い掛ける形となった。


「・・嫌なら別にいーけどよ」


聞こえた独り言に寳子は慌てて信の服を掴む。
外してくれても構わないと、振り返る顔は不機嫌だ。

違う、気に入らないとかそういう話ではない。
寳子は手早く紐を結うと、改めて信に見せてみせた。


「こ、これでいい。・・・こ、これでいい、のか?お前は」
「えっ。あ・・ ・・・わ、悪かねーだろ」


伺う様にして見る寳子の仕草が、信には上目使いのようにして見える。
慌ててその場を繕おうと、紐くらいで似合う似合わないもないと彼の口はいらぬ言を吐いてしまった。

案の定、その口元を寳子の指先がつまむ。
しかし一つ溜息を吐くと、彼女は信を置いて歩き出した。


どちらかが先を、行って行かれてを繰り返す。
追って追いかけてをする二人は、それが楽しいとでもいう風に笑った。

故にか、口が自然と開いてしまったのだろう。
聞こえる寳子の声は優しい。




「信、黄はな。大地の色だ」



土の色、反射する陽の色、そして




「人の色なんだ」





天に、地に生きる人の色。



―――どこから来て、何を望まれていたのか―――



それを見つけてくれて、認めてくれて。




「信




       ありがとう」




贈ってくれて。変えてくれて。



また一つ、意味を見つける。




言って背を向け、片手で両の目を覆う。
折角結んだ紐を外すと、今は少し明るすぎるからと何者にも言い訳をした。


彼女の瞳は、現在など歪んで見えて仕方がないと、過去ばかりを映し出す。


『変われない事はあるんだろうね』


友の言葉が腑に落ちる。
落ちて、彼女の想いも頬を伝う。


(・・変われない、変わらない想いを持って・・ それでも変わっていくんだ)



否応なく。
それでいい。


想い続けていいと知る。
変わってもいいと知る。



変われる。



すると不思議と行き場のない気持ちは落ち着きを見せ、あれだけうなされていた想いの増幅が、止んだ気がした。




「ったく・・いつもそんだけ素直なあだだだだだッッ!!」
「このような馬鹿がいると私もおちおち素直になっていられないんだ。わかるか、信」

言って先程よりも一層強く頬をつまむ。
そんな二人を周囲は怪訝そうに、中には笑い合う者達もいた。

覗き込む者、少し近付いて見せる者。
振り返る者、遠巻きに眺める者。
寳子はその全員と目を合わせた。

「あとちょっとした礼だ。話がある」
「おっ。何だよ気が利くじゃねぇかってうぐっ!?」

信の頬をつねったまま寳子は彼を引きずって引きずり回し、ついには城門をくぐり外に出てしまう。
これに黙ったままの信ではない。
彼女の手を払うと口一杯の文句を言い放った。

「お前な!最後まで話くらいさせろよロクに喋れもしねぇ!」
「・・・・あとで話しておくか」
「おい!聞いてんのか城から出ちまったじゃねーか!てめブッとば「少し黙れ」


寳子の、まるで臨戦態勢にでも入ったかのような殺気に信は押し黙る。
真一文字に結ぶ口は、異を唱えたそうにもごもごと動いていた。


「お前わからなかったのか。間諜がいる」

そうでなくとも何にも属さない情報屋がいると、寳子は小声で語る。
珍しいことではないが、ああもわかりやすいと警戒もする。
甲冑姿で帯剣し、ああも騒げば無理もないと己を恥じた。
仕様もないと片手で頭を抱える寳子に、信は和らいだ殺気を押し返すようにして声を上げた。

「にしてもどーすんだよ外になんか出て!
   そんな奴らがいるんなら城に戻りゃよかったじゃねーかっ」
「・・・・・・・・あ。」
「あ。じゃねぇよっ!」

何か考えがあって外に出たと思ったものの、違うらしい。
信の的確な突っ込みに同意しつつも、寳子はそれを受け入れたくないと言わんばかりに赤らむ顔で言い返した。

「う、嘘だ。外の方が気兼ねない」
(ウソもクソもねぇだろ・・!)

手で制止をかけながら顔を右往左往と忙しなく振る。
落ち度はないと完全に否定の体である。
ならその気兼ねとやらを聞かせてもらおうと、信は大きな態度で待ち構える。
その体にも腹が立つと、しかし彼女から聞こえる言は確かに外にでる理由のあるものだった。


「近々戦が起きる」


この情報を伝える為に外に出たと、したり顔で言ってのける。
予想外の逃げ道に、信は腑に落ちぬとしながらも押し黙った。

「どうだ気兼ねしたろう!やはり外に出て正解だった!」
「あーあーわーった!わかったから。
      で、何がどーいう経緯なんだよ」

「・・秦が韓に攻めるのは知ってるか」
「はっ!?マジかよ!」

知らないのも無理はない。
公にはされていない事であると寳子は腕を組み、隆国と話したその時のように信に語り聞かせる。
一通りを聞いた信は、慣れぬ神妙さを持ちながらも寳子に問うた。

「で。」
「で?」
「こういう事を早く知る事で、俺はどーすりゃいいんだ?」

公でないなら尚更にと問う。
一方の寳子は、向こう見ずな信からの予想外ともいえる問いかけに暫し黙り込む。

「鍛えるにしてもよ。それだけでいいのか?」
「・・・心の準備をしておけという事だ」
「心の準備、ねぇ」
「そうだ。お前には落ち着きと熟慮するという事が欠けているからな、丁度いい。
   さっさと上がってこい。
      あまりに下だと、私も手を貸してやれない」

なんて上からと信は声を上げそうになるがこれを呑む。
未だ兵としては端くれの自身と戦と人にもまれた寳子とでは、こうして語り合う事もまず有り得ない事を念頭に置く。
懸命に己を抑える信を見て、寳子は先程の事といい彼の成長を密かに喜んだ。

一拍置いて寳子は腰に手を当て口の端を上げる。
怪訝にそれを眺める信は嫌な予感と、しかしその的は外れた。


「動くぞ、信」
「動く・・・?」


「他国が攻めて来た際の総大将・・ 彼の六大将軍の活躍が再び見られるかも知れない」


生きる伝説を目の当たりにできる。
演習ではなく、国と国との実戦という形、しかも指揮官としてのその人をである。
またとない喜びに信と寳子は互いに目を光らせながら意気投合する。
寳子は信の手首を掴むと、開いた手に己が手を打ち鳴らした。


「出るぞ。秦の怪鳥が」


嬉々とする少女の顔は武官のものである。
幾つもの戦線を越えた彼女とは違い、実戦経験の浅い信は想像しただけでも息を呑む。


(六大将軍――――地を踏み荒らし、あらゆる戦、あらゆる敵を葬った大将軍共をそう呼んだ。
   戦を常とした昭王が、彼らの為に作った制度・・正直、それそのもの自体は好かないが・・・)

王騎自体の知略、武力。
何より六将最後の生き残りの手並みというものは、武を目指すものからすれば純粋に興味惹かれる対象である。
大舞台で繰り広げられるであろうその機を逃す手はない。
寳子は帯剣の柄を握る手に力を込めながら、まだ見ぬ先の戦に想いを馳せていた。

するとそんな二人を余所に突如として城門が開くと馬車が飛び出してくる。
手綱を繰る副官、そして荷台に乗る大将軍その人と目が合った。
信、寳子共に呆然と立ち尽くすが、王騎の背に隠れるようにして硬直する淵を見て我に返る。
何をしているのかと問う王騎の言葉に、二人はそそくさと馬車に乗り込んだ。


「もっ、申し訳ありません王騎将軍…城に戻らず、あまつさえ馬車を用意させるなど」
「ンフフ。まァ今回ばかりは許してあげますよ」
「あと、あの…間諜が」
「そんなもの珍しくもないでしょう?どうしました、報を囲うアナタらしくもない」

背後の方でほらみろと言わんばかりの声が聞こえるが、これを物理で黙らせる。
ほどほどにという将軍の声に応とすると、寳子は見るに堪えないソレを放り、しばらく王騎と語り合った。



長い道のりである。
生命力の強いソレが立ち上がる頃には彼らの談話も小休止といった所で、彼はやっと二人の間に入り込む。

「さすがだな。気持ち悪いくらいだ」その立ち上がり
「おーおーどっかの容赦のねぇ奴に鍛えられてっからよぉ!」

そうか、それは大事にしろよ
おめーだよ馬鹿はっ倒すぞ


そしてまた物理でねじ込まれる。
学ばないと、しかしさすが大将軍の御前で無作法なままでいられない為か寳子は拳を納めた。

「・・信、どうだった王騎将軍の城は。あの規模を目指せそうか」
げほっ、ごほ・・ ・・・あ、あれ以上だッ!!
   カカッ!お前が魏戦サボってる間に百人将になっちまったしなぁ!
      さっき俺に手ぇ貸すとか言ってたけどよ!これでもーデカい面できねぇぞ!なんたって位同じなんだもんなぁ!」

「!?・・そうか、なるほど」
「俺は王騎将軍も超す、すげぇ大将軍になんだからよ!」

信の頭をこつくと寳子は王騎を見詰め、それを悟る彼も少女の視線を受け止める。
数を率いた事のない男が数を引く事になる、その意味を理解していた。

「(なら稽古、というか修業は・・あれだろうな)
    将と言っても様々だ。順当に行けば千人将くらいにまではなれるだろう、順当にいけば」
「・・・お前さ。初めはただの堅物だったのが、ちょっと親しくなってメンド臭い奴になったよな」
「お前が面倒な事を言ってくるからだろう」

「言ってねーよ!!」
「言ってる!!」


「ココココ・・全く煩いですねぇ。どうしますか、騰」
「ハ。どうしようもありません」
「手遅れですか、困りましたねぇ・・ンフフ」

「くっそ、黙って聞いてりゃ・・」
「さすが大将軍。お前が手遅れな事も見抜いていらっしゃる」
「オメーもだっつーの!」

騒ぐ信を余所に自分は冷静であると寳子は腕を組む。
端の方で震える平民を見つけると気の毒そうに見つめた。

「あの、王騎将軍。この者は・・」
「あ。そーだよ淵さん!」
「ハワワワワ…なっ、何で私も・・」

無関心を装いたい淵は身体を抱き、離れて前三人を見つめていた。
全く見兼ねると、寳子は王騎に強く進言した。

「王騎将軍、戦う意志のない平民を連れて行くのは同意しかねます。・・おいお前、家族は」
「いますっ!いますいます私には家族が、幼い子供だってーーーーーーっっ!!!」

「ならどうにかして生きて帰らねばなりませんねぇ・・コココ」
「王騎将軍!」

真っ青な顔の淵を尻目に、王騎は至極愉快そうに言い放つ。
これには性質が悪いと諫める寳子に王騎は耳打ちをした。

「童信がこの男をみすみす死なせるとは思えません」
「!彼はただの平民ですよっ!?それに・・」
「童信には補佐役というものが必要です」
「―――――――」

「大金を積まれて来ているそうですから、死ぬ事も覚悟の上でしょう。  ねぇ?騰」
「ハ。代償はつきものです」
「ア・・・ぁあああいアーーーーー!!!」
「そ・・そうですか。そういう事情なら・・  えっと、その。死ぬな」淵とやら
「それだけですかっ!?死ぬなって!そんな命令ありますかね!?すっごい大雑把ですよねっ!!?」ただの平民なんですけどっ!

「諦めろって淵さん!
  つーことで王騎将軍!俺に稽古をつけてください!!」

「嫌です」


信の言に笑みを湛えながら応える。
しかしその対応は真逆とも言えるものだった。
王騎は信の腹を蹴り上げ、意図せぬ当人といえば物も言えず崖から真っ逆さまに落ちていった。


「ィイアアアアーーーー!!?」
「(私の時でも蹴って落とすという事はなさらなかったな・・)
     おーい信、生きてるかーーーーーー」

「うぶあっ!・・ゼェ、ハッ・・」

「生きてるようですねェ・・どう思います?騰、寳子」
「ハ。割り合いしぶといです」
「身体の頑丈さだけは目を見張ります」
(うわ・・この人たち酷過ぎる)

落ちた場所が湖で良かったと、王騎は心にありそうでなさそうな言を吐く。
脇に控える両者は軽く頷き、淵の内心の突っ込みは無論誰にも聞こえはしなかった。

よろよろと陸に上がり呆然とする信に寳子が声を掛ける。
目前に広がる小規模ながらもれっきとした戦場に信は声を失っていた。


「信!ここは秦国にいくつか点在する無国籍地帯の一つだ!」
「安住の地を失った者達の戦場・・さて童信、アナタにここが平定できますかァ?ンフフフ」

「へっ、平定・・!?剣もねぇのに!」

「ここでは今!二部族が戦を繰り広げている!お前はここに元いた者達に加担するんだ!」
「元いた、って・・爺さんと女子供、ざっと見て百人くらいしかいねーぞ!?」

「弱き部族の中で、得物も持たないお前に何が出来ると思う!?」
「はァ!?寳子てっめ高いトコから何言ってんだ!!」


「っ!?信っ!!」
「あっ・・!?」

信の加担すべき部族―――――とはいっても初めて刃を握ったような童が、前線の母親を守るため飛び出す。
幼子とはいえ敵の刃が無情にも降るなか、寸での所で信がこれを防いだ。

「ガキが飛び出してんじゃねぇーーー!!
   つか、年寄と女子供いたぶるような奴らは死んでろッッ!!」
「よしっ!」


意気よく信の活躍に声を上げ、そんな自分の口元を慌てて手で覆う。
咳払いをすると、寳子はその通る声で目一杯信に伝えた。


「武とは、知とは!力と技、知識と知略!
   攻と守・・敵を殺すこと、そして味方を生かすこと!それを学んでこい!!」


そして率いる事の難しさを。
寳子は自らにも言い聞かせるようにして胸を打つ。
信は彼女の言を聞き届けると、周囲に伍を作るよう通達し、女子供には援護の任を与えた。


「そこなアナタ・・童信に伝えておきなさい。平定できたら、稽古をつけてやると」
「うぐっ・・ぐぐぐ・・ ・・・わ、わかりました。伝え、ます」

信のように蹴り落とされてはたまらないと、淵は自ら崖を降りてみせる。


遠く下方にて言葉と叫びが響き渡る。
意気の通る掛け声と指揮、そして断末魔。
そこには双眸に納まる程度の、しかし確かな戦場が繰り広げられていた。


王騎と寳子、そして騰はそれを見送ると馬車で元いた城へと帰ってゆく。
また戦場でと、微かに動いた唇はそれ以降開く事はない。
未熟といえど頭角を現し始めた好敵手の姿に触発されたものと見受け、母役は密かに笑む。
こうして信は修行を、寳子も次の戦に備え訓練を開始した。



魏戦から四か月の後、秦は韓に向けて進行を開始する。
しかし刻を待たずして秦国咸陽の王の間にて急報がもたらされる。
案の定他国が攻め入るとの報せに各自、驚を呈するが一部は目論見通りと静かに刻を待つ。

次戦における敵国は趙。
自国民四十万を生き埋めにされ、秦国に並々ならぬ恨みを持つ国である。

これを迎える秦国は韓に戦力を削ぎつつも対抗策を打とうと立ち上がり、そして一つの決定が下る。


戦における総大将は王騎。
王直々に任命を行い、これに異を通し抜ける者はいなかった。

彼の実力から前線復帰に頷くものもいれば、他を推す者然り、今更と首を振る者も存在した。



時は冬。
骨身を軋ませるほどの寒風と高い空、夜には無数の星が煌めいていた。









20140817