太陽が天の真上を指す頃。
王都咸陽には強大な五つの影が列を成し闊歩していた。
珍客と言えば妙であるがその実、重鎮の類であるから厄介だ。
秦国丞相率いる強者共が謁見の場へと姿を現す。
武官は勿論、入場する文官においても纏う空気は等しい。
信ら大王側は戦場にて敵将に対するが如く気圧され、改めて呂陣営の恐ろしさを肌で感じ取る。
彼が権の具現、呂氏四柱が身を引き脇に控える。
宮門の先に見える人影が、玉座に向かい歩き出した。
天に昇る陽がついに微量傾く。
王都咸陽へと約束を取り付けたはずの寳子であったが、一方で遅れを取っていた。
(くっ、こんな日に限って賊に捉まるなんて・・近道と山を選んだのが裏目に出たな)
山道など平地に比べ、余程遠回りでなければ出ぬ選択である。
しかし此度の連れが黒黎という彼女の愛馬なら、あらゆる難所はこれに任せて憂いはない。
故に彼女は着くか着かぬかの平坦な道ではなく敢えて獣道を選んだが、しかし結果は実際に見える天の刻が知っていた。
咸陽に着き、尚も騎馬したままに駆け抜けて行く。
余りの慌ただしさに止める者もおらず、次々に城門を顔だけで突破してゆく。
彼の約束の地においては最早、彼女が苦々しい体を曝す事はもうない。
―――――胸に残る温もりに笑みさえ浮かべる。
迷う事もなく寳子は、ただ一心の元に現を突っ切った。
王宮へと続く階段の前で衛兵に愛馬の手綱を託す。
これを否とするのは黒黎の方で、預かる側の兵は恐々と不機嫌なそれを見上げていた。
一気に階段を駆け上がる。
間に合わぬ不徳の体であっても、この機に参じぬ訳にはいかないと懸命に昇っていたその時。
見上げる先の端に人影を見た。
それは彼女とは正反対に階段を勢いよく駆け降りる。
「――――――――え・・!?」
いや、まさか。
しかしあの見目をそうそう紛う訳もない。
気付きながらも腑に落ちないと、名を呼んだのは互いに落ち合ってから彼の方だった。
「ぎょーーーーーくしィーーーーーーーー!!」
「蒙恬っ!!?」
段の中腹―――――開けた場所で、抱擁するには十分に過ぎる場で彼らは再会を果たす。
久々と姿勢を正す間もなく勢いのまま抱き締められ、その反動で二回転ほどしては目を回し足も覚束ない。
これを愉快と笑うのは一人。
もう一人はやれやれと肩を竦め苦笑いを呈した。
「あっはは!寳子だ寳子!
ぁあ〜、これこれ。この感じ。やっぱり女の子っていいなぁ〜♪」わはー
「お、女の子って・・」
「んー?だって寳子は女の子だろ?」
当然を当然と、しかし両者の反応は違う。
蒙恬は寳子を抱き締めたまま、彼女の額に、髪に。耳元に顔を寄せ淡く触れてゆく。
三月も会わずにいた所為か此度は熱烈であると、寳子はくすぐったそうに明朗とするなか少し困ったように微笑んだ。
「それにしても色々と 大 変 だ っ
た ね 、寳子」
「・・ 何 が だ ? 」
それだけを交わして二人はとぼけたように笑い合う。
言の意味を悟る彼女と、知り得ぬ筈の彼との間には既に合が齎されていた。
しかし互いに何を知り、何を悟ったかは知れない。
彼女にとって過ぎ去った過去を軽々しく語る心算もない。
命じられた故の事だけではない。
これからと、何より『今』であると寳子はこの場における蒙恬の役割に疑を抱いた。
「(呂氏四柱の一人、蒙武様が来ておられるのだから当然と言えば当然か) しかし珍しいな、お前が彼の方の用に付いて来るなんて」
「・・違うよ。俺は寳子に会いに来たの」
そう言うと蒙恬は更に強く抱き締める。
寳子は吃驚に小さく声を漏らし目を瞑った。
無下にも出来ず受け入れると、そんな彼の背を優しく―――――わかった。 ありがとうと、合図のように二度叩く。
いつものように抱き返したりはしない。
情を知った彼女は、少しづつではあるが応を改めようとしていた。
蒙恬に限って自身を選ぶ事など有り得ないと思う手前、王賁の件があると釘を刺す。
しかしこの彼女の行動に何より疑を抱いたのは蒙恬の方である。
寳子は知ってか知らずか然として話題を変えた。
「・・・・・・・・」
「またそんな事を言って。他に用があったんじゃないのか?」
「・・・・ ・・えー、バレた?」
「ばればれだ。」
擽るようにして笑い合う彼らの体は傍に見て実に穏やかである。
彼女のジト目に結局は秘密と、シラを切る蒙恬に寳子は追及しない。
彼らの間とは、揺蕩う様にして生温い。
優しさよりも甘さを感じるそこは、まるで羊水に満たされるが如く安寧としている。
その是非を問う想いは同じく、しかし互いの答えは違っていた。
「無茶はしないように。・・・心配させないでくれ」
「・・はーい」
多くをこなせてしまう分―――――
とは言わず、実力の程はわかるがと、そう言って見せる彼女の表情は幼馴染の顔である。
寳子の翳る姿を認めつつも、蒙恬は嬉しそうに返事をした。
「ってこんな語り入ってる場合じゃ!
離してくれ蒙恬、私はすぐ議に参加しなければっ・・!」
「あ、ムリムリ。もう始まってるし」離したくないし
「(うっ・・解けない)はぁ。 ・・奴が入場して暫くか」
「一刻は過ぎたね」
完全に機を逃したと項垂れる。
元々間に合わぬ体である。
故に目前を責める気はないが、それにしても頑として離さぬ彼にそろそろと目配せをする。
しかし案の定、蒙恬は寳子のそんな涙ぐましい努力に
気 付 く 筈 も な く 、飄々と話を続けた。
「寳子こそ珍しいな。こんな大事に遅れるなんて・・ ・・・ってあれ?目赤い?」
「えっ!?」
覗き込まれる様にして指摘され彼女は全力で顔を背ける。
あれだけ冷水に浸したというのにと、呈する表情は恥や後悔が入り混じり複雑だ。
「痛いこと?・・それとも悲しいこと」
「なっ、何でもない!ついさっきそこで足の小指をブツけただけだっ」
「甲冑の上から?さすが寳子、器用だね」
「そのわざとらしく素知らぬ体、何とかならないか」
しかし言い訳が下手すぎるとの言に彼女はぐうの音も出ない。
事情が事情、また場合も加味して下手を打った事は認め内々に反省する。
結局本当の所はと訊ねる蒙恬に、寳子は最後まで口を割る事はなかった。
「もうそんな意地悪をする奴には抱き締めさせないっ!離して!」
「わーーっ!ヤダヤダうそごめんなさい許してほんっとーにごめんなさいっ!!」
頑とする彼女にしまったと、蒙恬は慌てて機嫌を取りにかかる。
昔から変わらない。
寳子がこうして拗ねてみせては、蒙恬が平謝りをして場が治まる。
互いに知る距離の心地良さに縛られる。
抱き締める温かみも、抱き締められる温もりも
手放すには、極めて難い。
「・・でも実際、ずっとこんな事をしていてはいけないな」
彼女の言葉に力が緩む。
これは恐れか―――――反して縛りは一層強く、蒙恬は一途に寳子を見つめた。
「私達はもう昔のように子供じゃないんだから。改めていかないと、蒙恬」
よく知る馴染みの笑顔である。
そんな笑顔を呈しながらも寳子は、彼を諭すように、離すようにして胸を押した。
簡単に離れたと思いきや遠退かない。
動いたのは景色だけで、彼らの距離は変わらぬままだった。
これには感傷に浸らずにおれなかった寳子も、話を聞いていたのかと見咎める。
しかし蒙恬は吐かれる全ての非難を受け入れると、再び彼女を内に込めた。
その人の慌てふためく様を、そして己自身を抑え込む様にして抱き締める。
「別にいーよ」
「え」
これは答にしてその実、想いの果てではない。
「・・別にいい。俺はこのままで」
この情は、極めて、難い。
「寳子は嫌?」
「嫌と言うより・・駄目だと思う」
「駄目程度じゃあ、やめない」
「・・・・・」
ああ言えばこう言うと、先の見えぬ水掛け論を察した彼女は言を打ち切る。
彼女が友に、目に見えて拒絶の言を吐かぬ事を蒙恬は知っていた。
「・・・はぁ」
「あ、また溜息」
「そーだ。・・お前といると溜息が多くなる」
昔に戻ると言うには軽い。
未だ昔のまま、童のまま大人になりきれない自分と否応なく対面する気の方が重い。
これを溜息一つで軽くなると錯覚するのだから意識なく吐いてしまうのも無理はなかった。
「わは。それ特権だ」
「ばかもの。子女らに睨まれる私の身にもなってくれ」
城下を周り、ことあるごとに抱きついてこられては傍目が痛い。
幼少であれば戯れと可愛らしいが、この頃辺りになると懸念として頭を擡げる。
ちなみに傍目とは、女子もそうであるが彼女にとってはもう一人の幼馴染の事も含まれていた。
「だってそういう子達に抱きついて誤解させちゃっても何だし、実際肩組んだだけで何だったし・・」
「お前一度痛い目見てるものな・・」
各々その厄介ごとを思い出す。
脳裏に映る景色に彼らは辟易と眉を顰め、嫌々と回想を振り払うようにして話題を移す。
「ま、他にはこう寳子にひっついてるとさ。王賁が隣で悔しそうにして面白いんだよね」すっごい機嫌悪そーにさ
「面白がるな。馴染みだろう・・それに悔しいなんて彼はそんな・・・ はぁ。」
「でも王賁が人目も憚らず俺と同じ事をしたならしたで笑えるけど!ははっ!」
「こーら。・・それはそうと王賁で思い出したが、もう私には抱きつかないんじゃなかったのか蒙恬!」
そうだそうだと思い出したように嗾ける寳子に蒙恬は耳が痛いと妙な表情で凌ぐ。
『さすがに人様の嫁に抱きつく訳にはいかないからさ』
嫁とは語弊があり何の実態もない。
王弟の反乱が起こる前に、馴染み達の仲人として現れた蒙恬は確かに寳子に言っていた。
しかし反故にした正当な理由ならあると。
彼は額に額を当て、幼少から気に入りの紅紫紺の瞳に己が眼差しを合わせ言った。
「だって寳子、王賁と結婚しなかったろ?」
もう一人の幼馴染の意識を無視する訳ではない。
この先の可能性として受け入れるうえで、今のこの生ぬるさを甘受する。
まだ誰のものでもないのなら
抱き締めているこの時だけは自分のもの。
そう誇示するかのように蒙恬は寳子を抱く手を強めた。
しかしこれに甘んじる彼女ではない。
近すぎると可能な限り上体を反らし、何とか互いの距離に間を空ける。
「当たり前だっ!あんな時期に、け、結婚なんて・・」
「え゛っ!じゃあ時期さえ合えば結婚してたってことっ!?」
「揚げ足をとるなっ!だからっ・・私達は代え難き友だと言っている、のに」
「言ってるのに聞かないってことは、少なくとも向こうはそう思ってないってことでしょ」だからさ。
否、彼女の望む関係は彼の中で既に振り切っている。
故に満たされようが無いも同じ。
過ぎて別へと変じればそれは、既に友情とは呼べぬ代物だった。
三度目のそれは盛大に、深く深く吐いてみせる。
さすがにこれでは気の毒と、遠く馴染みを想い蒙恬はある
疑 問 を口にした。
「でもさ、寳子。 あ ん な 時 期 に王賁が迫ったのって・・ 何でなんだろうね」
「?なんで、って・・ ・・・」
蒙恬の疑に寳子は答えようと思い巡らせるが直ぐには出ない。
音を失う二人の間には、やはり安穏とした空気が滲んでいた。
視線を外し、怪訝そうに考え込む彼女を彼は見つめ続ける。
答えが出ようが出まいが、それはどちらでも構わなかった。
「・・さあねー!俺が知る訳ないだろーって」わはー
「なっ、何なんだっ」わはーじゃないっ!
待って出なければそれでいい。
出たなら出たで、それでもいい。
彼の情が彼女に届いてもいい。
受け入れても、はね退けてもいい。
ただ悪くはないと思うだけ。
馴染みが二人、幸せになるならそれでもいいかと思うだけ。
だからこうして彼の背を押す。
彼女の背も、押してみる。
故に仲介というものも受け入れた。
でも、自分自身は。
(俺は)
己が情の行き先となると、蒙恬は途端に気安い友の空間へと逃げ込んだ。
「・・・わかんないことばっかりだねぇ、寳子」
「うん?・・うん、うん・・ ・・・」
(本当に・・わからない事ばかりだな)
いつも。いつまで経っても。
今も昔も、己が範疇からいとも容易くすり抜けてゆく。
寳子は十三の頃、仕官してすぐの頃を思い出していた。
――――――城楼に上る二人は眼下に人を見る。
気忙しいと外した視線の先は高い。
空の開ける広い眺望のなか、最も天に近い場所で彼らは落ち合った。
「・・・・・・・」
「・・・・・はは」
天に地にと移した後は同程度に落ち着ける。
見える黒赤はもはや珍しくもない。
見慣れていると、向けられる顰めっ面には当の彼女も慣れていた。
「何だその髪は」
低く重い非難の声に諦観の面を張りつける。
眉を大きく上げて息を吸い、顰めて吐き出すと溜息は盛大に自身に跳ね返る。
容赦なく斬り込まれる言に気まずいと、寳子は髪を一束摘み下手に笑わざるをえなかった。
「に、似合・・・わないか、やっぱり」
「違う。問題は」
即答と、これまで見慣れた髪―――――腰ほどにまで達していた枝垂れる黒赤を、断つに至る理由を彼は問う。
すると彼女は首を擡げ、遠くを見やって言った。
「仕官した」
どこか清々しい。
短い事に違和こそあるがと、双眸を閉じたのは目前の彼を否定する為ではない。
「髪はどうやったって伸びる。些細な事だ・・そうだろう?王賁」
しかし伸びたとしても前のように伸ばす気はないという。
ある程度まで、戦場において邪魔にならない程度に切り揃えていくと、寳子は自ら摘んだ髪を離した。
暫くして、ふと音がない事に気付く。
やっと聞こえた風の切る音に目を開けた瞬間、彼女は只管に後悔した。
「やっとあの弱王が手放したか」
寳子の耳に『若王』と聞こえるそれは、それだけ彼らにとっての大王に向ける想いの溝を物語る。
更に近く寄る馴染みに彼女は恐怖に似た情を覚える。
知らぬそれは怯えにも似たものだと、しかし本人さえ気付く事はない。
先程とは比べ物にならない程の距離。
あと一歩踏み出せば当たる距離、手で囲えば抱ける距離であった。
「少なくともお前は後宮を選ばなかった。・・それだけで十分だ」
「王賁・・」
「それで」
「え」
「もう一人のお前は、どうした」
その言葉を聞くや否や寳子は咄嗟に王賁の腕に手を添える。
制止を込めたその手は彼の腕を滑ると、落ちる寸前で絡め取られる。
王賁は大王と昌文君しか知り得ぬ、『夕(ゆう)』という後宮に息衝く少女の存在を知っていた。
「・・・今も、後宮の隅に・・暗がりに。 ひっそりとして、生きている」
そのはずの体。
伝え終えると寳子は掴まれた手を振り解く。
王賁にとっては今も在るという答を聞き届ける事にこそ意味があった。
解かれ浮いた手を下ろし握りしめる。
彼の内での、決意の表れだった。
「後宮の気は好かん。手を引けと言って何年経った」
「それはっ!・・ ・・・すまないと、思っている」
「仕官したのなら尚更だ。
大王のためにお前がそこまで危険を冒す必要はない」
戦場に出てというならばいざ知らず。
後宮という禍の巣窟にまで身を寄せ報を得ようなどと逸脱している。
咎めるのは当然と、しかしこうして止める者は何も彼だけではなかった。
「そうだな。・・そうだ、貴方は正しい」
貴方達は、正しい。
口の端を上げ笑う。
反して下がる眉間に吐いた正答の意が刻まれる。
彼女は同じような言葉を、大切な誰かにも言った覚えがあった。
「心配してくれてありがとう、王賁。・・ごめんなさい」
「・・・・・・」
理解はした。だが憚る。
そう事も無げに謝る様子に、王賁は歯を食いしばる。
未だ止める気はないのだと知ると、彼は寳子を見据えたまま聞こえぬ溜息を吐き言った。
「ごめんで済むものか」
その語気は厳しい。
許さないと断罪される。
「あいつのように適当に適当を重ねて躱し切れると思うな」
あいつ、とは。
彼の内における逃げの代名詞と言ってもいい、もう一人の馴染みの事であった。
「あいつって・・貴方はいつもそう言う。私の事はたまに名で呼んでくれるのに。
それに彼は適度であって、ずっと躱してなんて・・ ね、王賁。蒙恬の事も」
「話を逸らすな」
「そっ、逸らしてなんかない!何をっ・・なに勝手「俺が十五になったら迎えに来る」なことを言っ ・・は。」
急な本筋を持ち出されると横道に逸れていたと言われて違いないと思いがちになり困惑する。が。
いやいや相手に呑まれてはいけないと驚をやり過ごす。
(えっ、ええ。確か私が後宮にいて止めろと言われて王賁が蒙恬をあいつってそれに酷いこと言―――――――
ってやっぱり彼が話を妙な方に持っていったんじゃないかッッ!!!)
急な話題転換は彼の方ではないかと遅れて憤怒する。
またやり過ごしとて結局は一時と持たない。
動揺の体が露であり、こういった事に不慣れな彼女はとても隠しきれる器ではなかった。
「すぐに、と言いたい所だが戦に出る都合もある。
機が来れば会いに行く。その時までお前はただ待っていろ」
何を言っているのかと、寳子は言われた事を理解できないでいた。
彼らの関係性の中で。
彼女の認識の中で。
王賁が突然放った言葉は、新たな道を歩み始めた寳子にとって到底理解できるものではなかった。
(言いたい事があるっ・・ ・・・でもありすぎて何を、何から言えばいいのかわからないっ・・!)
閉口する体はその実、ただ無口なそれではない。
寳子は長い付き合いの中での彼の行動を量りきれずにいた。
彼女の気持ちを知ってか知らずか王賁は狼狽する寳子の手を取る。
その手は無骨ながら槍を扱う時のそれではない。
取った手はただ手として。
互いに馴染み、決して傷付ける気はないと言葉なく伝えた。
「しっかりしろ。お前は王氏の次代を繋ぐ者だぞ」
目を丸くしてあんぐりと、口を開けたまま静止する。
王賁からの言葉はなく、彼は呆気にとられたままの彼女を凝視する。
結果見詰め合い暫く。
口をぱくぱくと、寳子のその不明瞭な動作に彼は慣れた様子で意を汲んだ。
「今ここで、婚約をすると言っている」
順を追っている心算ではある。
事の性急さを自覚しないでない。
しかしこの想いが急か否かと問われれば、否であった。
見つめられ、手を取られ寳子の内にやっと理解というものが浸透し始めた頃だった。
「はあッ!?」
「・・・・・・」
疑問の音が一応の声として彼の耳に届いた。
「え、は、なに、えっ・・そん、だって・・ 待って、待ってちょっと・・
貴方は王氏の、いや十五って、私十四で早くて・・ってそうじゃなくて!!」
秦国では王の加冠自体が遅い。
その流れを汲むようにか、下々は別にして貴士族の一部にも似たような傾向がみられた。
故から寳子の反応は無理からぬものであり、思わず凝と声を上げると纏まらぬ考えが口を衝く。
しかし年齢という建前とは別に、真に彼女が動揺した理由。
新たに抱く己が決意を持て余す。
「そんなこと貴方の独断で――――――」
そこまで言って口を噤ぐ。
これも建前だと、気付いてしまったのかも知れない。
「・・俺はあの人から逃げない。戦場に出て、功を挙げ武威を示して見せる」
主に口を出すのは親戚筋、そして近臣の者達であると言う。
名声を得ると共に大きくなるであろう彼らの雑言。
そういった意味では、王騎が唯一理解のありそうな所がまた癪に障ると悪態をつく。
結局の所これを伏せる為には生半可な戦績では敵わないと、王賁は寳子に誓うようにして話を続けた。
「俺の選ぶものに文句を言わせる心算はない。
―――――何よりあの人は、俺がどうしようと興味がないからな」
何を、何者を選ぼうと口を出す事はない。
息子という事が重要なのではない。
「振り向く頃には、俺はあの人を超えている」
その意味を、寳子は痛いほどによく知っていた。
(見据えて、振り向いて。でも・・視線は交わらない)
「・・・・・・・」
「王賁、私は・・前にも言ったように・・(言っても、黙っても・・今も昔も)」
一つの答しか出ないのなら己は無力である。
途切れる寳子の言を補うかのように王賁は口を開けた。
「そうだ、お前は言ったはずだ。
あれだけの体で言ったのだから忘れた訳ではないな」
「・・・はい」
「・・・なら俺が今、お前に持ちかけている話の意味がわかるな」
「ま、待って待ってだから待って!
めっ、妾なら他「誰がそんな事を言った」を当たっ・・えぇっ!?だっ「勝手に決めるな」ちょっ、意味わかるなってそんなのわからな・・!」
「お前が 俺の 妻になるという事だ」
思考が停止すると共に、頭の片隅に鎮座する思い出とやらが頭を擡げる。
否応なしに回想される過去の像と声に寳子は言葉を失った。
『そんなことないなんて言えない・・』
子と親の話をしていた。
『そうだとしても、そうじゃないよっ・・!』
泣きじゃくって青臭い事を言っていた。
今もそう変わらないが、今でさえ思うのだから相当だった。
『あなたは前しか見ないけどっ・・それでいいと思う、けどっ・・!!』
血の繋がる親に対する少年と
血の繋がらぬ親に対する少女とが二人。
交わらぬ意志、交わらぬ言を以てして――――――それでも彼らが導き出そうとした答えがあった。
『おう、ほんっ・・』
彼女から。
堰を切ったように紡がれる言と意志。
頭ではやはり交わらない。
しかしその中で唯一、通おうとしたものがあった。
『・・あなたを先として見詰める目も、たくさんたくさんあるんだよっ・・!』
あの人を見詰めるあなたの背を、また誰かが見ている。
見詰めている。見守っている。
『だから゛っ・・っく・・ ・・・おぼえててよぉっ』
絞り出すようにして声を上げた。
叱責の類でもなく、だからと言って願いかと問われれば否と答える様な粗末な代物である。
故に言うなればそれは、ただ叫びに似ていた。
『見なくていいから覚えててよぉっ・・!!』
我が道を行くが佳し。
しかし覚えておけと、彼女は宛ら独白の心算であったのかも知れない。
会話と言うほど通用するものでもない。
だが吐いた以上は自身のものである事に変わりはない。
そして彼女は彼に言った。
彼が彼女を迎えるに足る言葉を、このとき彼女は、確かに彼の内に届けていた。
互いを想う先が、違えた瞬間だった。
聞き届けた幼少の彼は彼女の名を呼んだ。
『寳子』
自覚のうえで、温かみを込めて呼んだのは初めての事だったに違いない。
その熱に誰より彼自身が驚き、しかし不慣れにも受け止め健気にも言を返したのだった。
珍しく聞こえのいい少年からの言に少女は笑顔を見せる。
涙を溢しながら頷く少女は、きっと瞳を煌々とさせて言ったに違いない。
決定的な言に、決定的な言が返る。
奇跡的に繋がった心。
しかしそれは恐ろしいほどに歪に、痛むほどに向かう先を違えていた。
この十二の頃の語らいを境に
―――――聞き届けられた言の真意を彼女が悟らぬまま、告白の時を迎えた現状。
障害が何という訳ではない。
この頃から続く温度差、溝。
気付かぬでない者が一人と、気付くという取っ掛かりにさえ気付く事のできなかった者。
言うなればここまでの彼らの在り方こそが、それらしい『障害』というべきものに昇華されてしまっていた。
妻という言葉を聞き硬直する寳子。
もはや八方塞がり、過去の言からして逃げ道がみつからないと当人を前にしてこの様である。
何が悪いでもない。
彼らは双方共に、始末が悪かった。
「体裁から女共を囲ったとしても、それに手を出す気はない」
聞いてもいない事を喋り出す。
「俺の血はお前にしかやる気はない」
今は聞きたくもない、受け入れたくもない熱が容赦なく―――――耳から、視界から。心からに強制的に注がれる。
これには寳子の気も揺れた。
「・・誰が、勝手って・・・っ」
矮小とまではいかない筈である。
しかし大器かと問われれば、ただでさえ両手の塞がる少女である。
次々に聞こえる声を躱す余裕などありはしなかった。
「あなたが勝手なんじゃないかぁっ・・!」
悲哀に喉を絞る。
友が友でなくなる絶望と
友が友に別を求める恐怖と
戸惑いと、混乱で熱る頭を抱える。
零れそうになる涙を堪える。
寳子は恥辱とも憤怒ともとれぬ想いからくる駄々を、顔を真っ赤にして必死に抑え込んだ。
「泣く程に嫌か」
「そうじゃなくて!!」
声を荒げられた事よりも強く否定された事に驚く。
そして浮く己が心中に嘲ると、王賁は様々に色を変える寳子を静かに見詰めていた。
「(冷静になれ、冷静になれっ・・!
これはあくまで彼の内を出ない、何ら決定も契りもないそれだ慌てる必要はないっ・・!!)
・・王賁、貴方の言い分はわかった。しかしそれを私が聞く理由はどこにもない」
動揺の色を隠し、凛とした眼差しを向け断言する。
王賁は気持ちばかり彼女に睨みを利かせると言を促した。
「・・・俺の情は受けられないと、そう言っているのか寳子」
「情っ!?急に迎えに来るだの次代を繋ぐ者だの言って!
・・言いたい事だけ言って、頑として私の戸惑いなんか気にも留めないで、何がっ・・!」
「・・・・・・」
そんなものの何が情かと、ただでさえ得体の知れぬものを持ち出されこの時の寳子は混迷を極めていた。
戸惑う彼女の体を予測できないでもなかった王賁は、しかし口を閉ざしたまま動かない。
「貴方はいつもそうだ・・気付いたらもう先を行っていて。
追いつきやしない・・こんなんじゃ、いつまで経ったって!!」
並べば同じ答えが見えるのか。
否、近付けるという期待はあっても、確信など何一つありはしない。
―――――――彼の背を見つめる事を約束したのは、誰だったか。
「王賁いつも大切なこと何も言ってくれなくて、いつだって急でっ・・!」
難解でない。
しかし曲解したのが彼なら――――――彼女はただ友として。 単純なだけの話だった。
双方共に痛みが酷い。
目も当てられない歪に、それでも延々向かい合ったのは只管に少年であった。
彼にとっては急な事ではない。
気付き、反芻し。
そして葛藤を越えるまでの刻の長さを彼女は知らない。
「ならどうすればいい」
どんな想いで、などと。
そんなものは知らないでいい。
言わずにいる事がどれだけの不義理であるか、当然彼は知っていた。
不意に近付くと寳子の頬に手を添え、髪を一束指先で撫でるようにして取る。
こうして触れて、それでも決して自分のものでない事実に違和を覚える。
「お前は、どうすれば俺のものになる」
その違和を取り払う為になどと、単に理由付けである。
本当はどうしたいのか。
その欲を知りすぎて今の彼が在るのだとすれば答は易い。
非常に穏やかな所作であった。
気付かぬ程に嫋やかで、それでいて強固な意志が彼にその行動を強いたと言っても過言ではない。
再び彼の手が彼女の頬を包み、伸びた親指が今度は口の端に添えられる。
唇をなぞる様にして引かれるそれに、寳子は驚愕の体のまま動けない。
息も忘れたかのような寳子の様に、王賁は気が付くと手を引き込めていた。
甲斐性がない、意気地がない。
きっと他人事であったなら、そう鼻で哂っていたに違いない。
女の事など考えたこともなかった。
戦術、戦略。
己を高め、ただ一人に一矢報いるべく功を挙げる事にしか興味がなかった。
妻とは然るべき時、然るようにして与えられる存在。
それを自ら選ぼうなどと、考えもしなかった。
有体に契り、子を残す。
それ以上を望むべくもなく、また想像だにしない。
それがよりにもよって、不躾の。
得物を振るい血を浴びる様な。
王家の名にも物怖じせぬ
(愚か者)
愛する者を愛すると、憚りもなく声を上げ
盾となり
剣となる
そんな
『王賁の背中、ずっと見てる。ずっとずっと、見てるからね』
どうしようもない女をだ。
もう誰にも見られる事などないと思っていた。
本当の意味で見てなどもらえないと、しかし見詰められているという事実を教え、齎したのは彼女だった。
限界というものの淵に己を抑え、縁を遠目で見やるのにそう時間は掛からなかった。
何度も何度も堪えてきた衝動だ。
唾棄すべきと、忌むべき下郎のそれと遠ざけてきた。
そう思うようになったのは誰の所為かと
巡り巡って、気付けば強引にものにする事など念頭から消えていた。
王家の重責を担う少年は、耐える事に慣れ過ぎていた。
その者が欲しいと、耐えられぬと言うのだから
やはりこんな情の残滓など、誰も知った顔をするなという所が本音だった。
彼が望んだものとは、詰まる所
ただ一人の少女であった。
深と、静まり返る間が重い。
寳子は答えを縋る王賁を前に―――――珍しいと、しかしそれ以上の言い表せぬ想いでもって彼の傍にいた。
(王賁は立派だ、尊敬できる人だ。
王家の跡継ぎと、その立場に甘んじることなく己を律せられる素晴らしい人だ)
クセはあるが、それも長く付き合っていれば個人の味であると、彼女はそれが嫌いではなかった。
好きでさえあった。
己を曲げず、通すだけの力を持ち。またその努力を怠らない。
伸びる背筋を真似る事さえあった。
少し偉そうにしてみて、一人おかしく笑った事もある。
懐かしいと、まさかここにきて。
この年で思う事になろうとは、偏に彼の告白に因る所であろう事は明白だった。
(大切な人である事に変わりはない)
しかし寳子は純粋に彼を―――――――友として。
何より武人として、尊敬していた。
故にこの時の彼女の願いと言えば
(私はきっと貴方の背を見続ける。貴方の背は、きっと戦場を駆け続ける)
目前の幼馴染と、『友』として在り続けること。
この一点であった。
だがこのまま撥ねつけて引き下がるものでもない事は先のやりとりで知っている。
ならば、と。
彼女は慣れぬ場の思考をなんとか叩き上げ、纏め上げるとそれを順を追って口にした。
「・・私の所の家格は、王家にはとてもじゃないが相当しない」
「知っている」
名家の上には立つ。
しかし王家が立つならこちらは立たぬ。
王家と蒙家は群を抜く。
その事は尤もと、誰もが周知の事であった。
なら他に思惑があるのか。
そうでなければ此度の告白の見当がつかないと、邪を捏ねる辺り彼女も伊達に貴士族の出ではない。
「舞踊だって下手だし、衣も煌びやかでないし。
料理もただでさえ・・というか貴方が普段食すような物は作れないし」
「そんなものは必要ない」
王家ほどであれば召使いなど、それこそ数える事も面倒なほどにいる。
衣などいくらでも用意する。他はしたければすればいい。
何れにしても迎えるにあたって、どれも必要なものではないと王賁は言う。
それは彼女も重々承知していた。
それでも言わずにおれなかったのは、何か一つでもいい。
己が如何に足りない者であるかを―――――熱の上がった、この聞き分けの敢えてせぬであろう跡取りに知らしめる為であった。
(こんな時分だ。童の勝手など叶う筈がない)
これは彼女の算段だ。
寳子はこの状況においてなお、甘く見積もっている部分があった。
無理もない事である。
相手が釣り合わぬ、ましてや簡単に許される筈もない条件の揃った現状からならば仕方もない。
それが誤算であったと気付くのは、もう少し先の話である。
「・・・馴染みだから知っていると思うが、何より女らしくない」
「帯剣し、その髪を見ればわかる」
(むっ・・ ・・)
「・・お前は変わらない」
傍と、また二人の距離が近づく。
寳子は彼の実直な想いが届くのを恐れ、知らず身を引いた。
『きっと何かあって気が弱ってしまったんだ』
『彼は極力人と関わろうとしないから、その隙間に私のような存在が入り込んでしまったのだろう』
逃げの口上を脳裏に所狭しと並べ立てる。
相手の熱を冷まそうと、しかしいま彼女が出来る事と言えば
己に向けられた熱を己の中で冷まし、凍らせて、見えぬ何処かへと落とすということ。
しかしそれも間違いだという事を、この時の彼女は知る由もない。
「言いたい事があるなら言え。全て返してやる」
「(ぐっ・・)・・なら、言う」
言っているのは彼女であるのに、言い包めているのが彼とは可笑しな事である。
この独特の空気の中で、寳子が差し出したものは王賁にとって実に以外なものだった。
「条件がある」
条件という言葉に王賁が反応を見せる。
そして寳子は三つの誓いを、彼に提示した。
「・・・寳子?」
もう一人の馴染みが寳子の顔を覗き込む。
蒙恬は此処に非ずの彼女の横顔を見詰め、しかしふと緩んだ面に凝として細目で見やる。
「意地が悪いな、私も」
人の事をどうこう言えない。
(どうしたって最後には、彼から反故にするだろうと・・わかって言ってるんだから)
これが最後の砦と言わんばかりである。
彼は彼女を選べない。
その理由を、何より寳子は身を以て知っていた。
故に、取り付く島の算段。
甘さなどないと、確信に至る理由が己なら易い。
(王賁、貴方には・・できることなら知られないまま、友でいたい)
首を、胸を、腹を、両手両足、そして見せられよう筈もない背中。
それについて来いと、如何にも武人らしく戦場で言うのだから可笑しい。
(―――――私は、貴方の最も嫌う出自の者なんだから)
いつだったか。
そういった類の者を彼は蛮族と吐き捨てた。
血の気の引く感覚を今でも覚えている。
その言葉自体ではなく
それを嫌悪する友の体と
その友を騙している己の存在に、絶句した。
どれだけ見た目と地位を装っても所詮は偽り。
わかっていた筈と、しかし打ちのめされた。
彼だけではない。
そもそも平地の民にとって山の民は
(・・それを近しい者にいざ口にされると、堪えたものだ)
内に秘める呪いを抱く。
外見が珍しいと、それだけではない。
彼女の存在とは王都咸陽にあるからといって、そこに偶然混ぜられた血ではない。
秦国における大臣の子を名乗るからには根本は秦人であると傍は思うだろう。
そも昌文君という人が本来武人であったと知る大多数の遠き者なら、ある程度の邪推をして然る。
半端に推測できる材料が揃っているぶん曲解に易く、またそれのお陰でいま彼女はここにいた。
無論、周囲の思惑と実際はそうではない。
内に刻まれるそれは彼女が秦人でないだけではなく、れっきとした一部族の出だと物語る。
しかも聞き及ぶその特殊性は、宿主である彼女自身でさえも持て余す。
体に否応なく刻まれる文身の存在を知るのはこの時、彼女と彼女の父その人だけであった。
人らしい人でもなく
毒らしい毒でもない
物心つき始める幼少期より数年間隠し続け、否でも向き合い続けた難とは計り知れない。
時が経つにつれ、人と接するにつれ
彼女の内においてその様は、頑ななまでに大きく痕を残す。
どちらつかずの少女はそれでも人を父と呼び、己も人として生きようともがいていた。
「貴方が私を選ぶなんてこと、できやしないんだ。王賁」
至極小さなものであった。
囁きと言うには消え入りそうな、しかし不意に漏れた言を蒙恬は聞き逃さない。
――――――― 一拍置いて。
それでも彼が彼女に言及する事はない。
飽くまで彼は庸とする。
それが正しい自身の在り方だと知っていた。
今のこの、友が愛を擡げて困惑とするならば
それら全てを打ち消すであろう今後の、予想に足る拒絶は彼女にとってはただ、恐怖である。
そしてそれは目前の馴染みも同じ想いであった。
合わせてこの時の寳子という少女は情の何たるかも知らぬ童。
ただでさえ的を持たぬなら、射ぬ体は然として彼女の内に横たわり
――――――そして覚束ないままの両者の関係に一石が投じられ、あの事件は起きた。
『そんなにあの弱王が好きか』
否定はしない。だが、そうではなかった。
『お前は俺を見続けると言ったな。俺の背を』
見詰めざるを得ない程の勇姿という意味だった。
戦場に在れば否応なしに、その存在は確固たる者としてと、そういう意味だった。
『裏切らせはしない』
情を知り、やはり応えられないと言った。
裏切る心算もなかった。
彼の声は震えていた。
『お前だけは俺を―――――――裏切るなっ・・!』
『おう、ほ ・・っ!?』
無論敷いた条件も撤回し、此方から反故にする事を詫びに詫びた。
話が通じると思っていた。
許されると思っていた。
甘えていた。
しかし本当に知った事と言えば
彼の内の熱と、『裏切り』に対する憎悪だけだった。
抱きつかれるというよりもただぶつけられ
撫でられるというよりも捉えられ
口付けられるというよりも―――――――
そして首に
を 穿たれて
血が。
頭を振る。
余計な事まで思い出したと、寳子は蒙恬から身体を離し面と向かった。
「そっ、そうだ。この三月の間、彼を・・お、王賁を訪ねたんだが会えなくて・・ でも、便りはちゃんと来ていて」
「・・・・・」
会いに行ったが会えなかった。
門前払いか、本当に戦に参じての事かはわからない。
無論これは蒙恬の邪推であって、当の本人は疑う素振りも見せない。
「あんなこと、言ったんだ。嫌われたって・・」
「会わないようにしてるのかも」
「え」
「わははー」
棒として声を上げると、蒙恬は訝しむ寳子の首に腕を回し寄せる。
独り言と今度は体よく笑顔を見せるが、その姿はどこかがらんどうだ。
「でも寳子がいなかったら、俺はここまで王賁と関わってなかったろうな」
多分もっと苦手で
もっともっと、『うまくやれる関係』で在れたに違いないと、彼はそう言った。
「・・今も苦手なのか?」
「うーん・・ ま、色んな意味で」
相手の有体も、それからくる己が体も。
結局のところ心地よいかと問われれば、疑に頭を擡げる。
嫌と言う訳ではない。
飽くまで苦手。
これは嫌悪ではない。
馴染みとして、男としての歪さがそうさせるのだとしても
それでも好きかと言われれば否定してしまうような
そんな、不得手な。という意味であった。
黙り込む蒙恬に寳子が声を掛けようとする。
しかし刻同じくして宮門よりけたたましい雑踏が耳を衝く。
大王の元へと参じた呂陣営面々が揚々と階段を降ると寳子と蒙恬は体を正し拝手した。
(―――――――――――)
拝する体を蓑に、面を下げた寳子の表情は垣間見る事ができない。
それでも決して快い面持ちをしていないであろう事は容易に想像できた。
(呂不韋・・・!)
目の前を雑が通る音を聞く。
合わせる手は力強く、そして口は真一に縛られていた。
力が籠り、重く据えるその体は余りにも堂に入る。
大物を前に気負っているのではない。
彼女は一度たりとも、憤怒以外の感情で呂氏に対する事はなかった。
(贏政さま・・どうか、乱されぬよう)
そして主の身を案ずる。
おもに内面に関してであるが、この次第までが言うなれば一連の体。
彼らにとっての変わらぬ、現を以てして変えられようもない敗北の体であった。
「ンん?」
雑の歩みが緩む。
偏に伏する黒赤が目についた故の事であると、それは彼女自身も気付いていた。
(この娘は確か―――――昌文君の)
緩むが止まらぬ歩に両者安堵する。
ここで声を掛けられようものならいらぬ苦心を強いられる。
寳子と蒙恬は伏せる面に内心の色を滲ませた、が。
「ぶっ・・ふわっはっは!!!」
急に発せられた笑声に二者の他、追従する者達も凝と括目する。
ただ四柱においては李斯以外の面々は関せずと目もくれない。
歩を緩める事もなく只管に階段を降って行った。
「子女が剣を振るう。・・真の幸せを知らぬとはこれほど不幸なこともないじゃろうて。のォ蔡沢」
呂氏の声に今度は老の笑声が重なる。
それに釣られ声を漏らす者が彼らの前を通り、一行は二人の前から姿を消した。
「寳子・・!」
蒙恬が焦る様子で彼女に向き直る。
それに応えるようにして寳子も拝手を解き、彼に向き合った。
「・・・安心してくれ蒙恬」
言われずともわかっていると、笑みさえ浮かべていた。
「よくある雑言だ」
乱れない。
主を護るべきは揺れないと、彼女は至極冷静に振る舞う。
しかし
「借りを返すのは今じゃない」
燻る熱は奥底に隠してあると、寳子はその刻を待つ。
「覚えておけよ呂不韋・・・必ず貴様をこの秦国から消し去ってやる」
丞相という位から引き摺り下ろすだけでは足りない。
存在そのものを秦という国から抹消する。
(貴様のした行いは巡り巡って贏政さまを大王に据える事となった。
しかし木偶と、果ては己が立とうというその野心。我らが甘んじて受け入れると思うな)
外面の冷と内面の熱が同居し、暫し相俟う。
しかし生ぬるさは感じられない。
対し、混じる事はない。
双方を抱いた上で彼女はそこに立っていた。
(お前の最大の勲功こそが失脚の始まりであったと、必ず思い知らせてやる・・!!)
内に宿る熱を見る。
蒙恬はそれに触れようとしない。
手負う事は目に見えている。
それは己が庸とする所ではないと、彼はただ彼女を見詰めていた。
寳子が打倒真敵を新たに胸に誓う中、
立ち尽くす二者の前にその不審な形の者は突如として姿を現した。
「寳子!!お前こんな所で何してんだよ大事な話し合い終わっちゃったじゃないかっ!」
「貂!・・ご、ごめん。事情があって」
あれだけ遅れるなと釘を刺した手前。
自身は咸陽を目指す中で裏道を使い、果てには賊に絡まれ足止めを食らい遅れたとはどうにも言い難い。
寳子は貂の尋問を数多躱し何とか話題を逸らす事に成功した。
「と、所でどうだった。信の奴は暴れたりしなかったろうな」
「信はいつも通りで・・って言いたい所だけど、暴れるとかそんなの出来る空気じゃなかった」
柱に隠れて場を見ていた貂でさえ、その異様さに身を保つ事で精一杯であったという。
(・・あいつならもしや、と思ったが。やはり)
動ける筈もなかったかと、感じる息苦しさは覚えがあると寳子は胸元を緩める。
目前に居らずとも纏わり付く悪寒に拳を握り締めた。
「そんな事より寳子! 政、大変だったんだぞっ!」
「っ・・」
貂の訴えるような声に顔を上げる。
そんなものは無論
「・・・・わかっている」
呂氏が参じて気の揉まぬ事など、これまでに一度もない。
(贏政さま・・・)
会して後の憤りを知らぬでない。
嘆きから気付かぬと嘯けたなら。
そんなものはただの大馬鹿者と吐き捨てる。
(私はあの方の刃を受け止める事しかできない)
要らぬという訳ではないだろう。
しかしそれだけでは立ち行かぬ理由がある。
(だが王の剣、お前は・・ ・・・お前ならきっと、交わす事ができる)
刃を交える事ができる。
それこそが今の大王、贏政に必要な事であると寳子は未だ主の元に馳せ参じる様子はない。
彼女の神妙な面持ちに貂はそれ以上の言を持たない。
心地に違和を感じ目を泳がせると蒙恬と目が合った。
(女・・?)
(男・・?)って政とかってさっき
互いに怪訝な表情を浮かべる。
暫くして寳子が一息吐くと貂は思い出したようにして話し掛けた。
「あとさ寳子・・この戦のいざこざから身を引くかどうかって事だけど」
意を決したように向き合う貂に寳子は傍と体を正す。
彼女の言い出し辛そうな様子から、寳子は薄く目を細めた。
「ダメだ、オレやっぱり引けないよ。
オレもやんなきゃ・・あいつらが、寳子だって戦ってんのに」
一人で抜ける訳にはいかないと決意を露にする。
その意志の強さ。
貂の姿に寳子は、懐かしい誰かを見た気がした。
「貂」
揺れない声が通る。
その音は応としていた。
聞きたい事があると、寳子は短く言を発した。
「お前は味方を裏切らないか」
返る答はわかる。
しかし知りたいのはそれではなかった。
「な・・はぁ!?そんなの当たり前だろっ!?」
「わかった。ならもう一度聞くぞ。
お前は味方を、裏切る事ができるか」
「・・・えっと」
意味がわからない、何を言っているのだと貂は訝しむ以上に戸惑いを見せる。
しかし傍から見詰める蒙恬はその意味を理解しているようだった。
「一線を引く事ができるか」
総じて答えよと寳子は答を促す。
貂は図りかねると、しかしおずおずと自らの答を口にした。
「〜〜・・寳子、オレよくわかんないけどさ。
オレはオレが仲間って呼ぶ奴を裏切らない」
寳子と蒙恬は彼女を射抜くようにして見やる。
それに負けじと貂は手を握り込め、両足を踏ん張り言った。
「信や政、寳子と出会って・・それだけはちゃんと、わかった気がするんだ!」
それが全ての答えだと、貂は固く目を瞑り歯を食いしばる。
黒卑村での行いを忘れた訳ではない。
忘れようとしても忘れられない。
自分自身の為にどれだけ他者を陥れて来たか知れない。
それが今、初めて他の誰かの為に動きたいと思っている。
こんな都合のいい決意などと、わかってはいる。
それでも立ち止まってなどいられない。
貂は全ての己が理不尽さを振り翳し、やっと見つけた理想を抱いて目前の寳子に願いを叩き付けた。
今度はどんな言が降りかかるのか、問いが撒かれるのか。
彼女が恐々としながら震わせる肩を、寳子は収めるようにして手を置いた。
「・・後悔ばかりをする事になる」
「!」
不穏な言葉を浴びせられた。
貂は怪訝な顔で要領を得ないという体だ。
「受け入れて、はね退けて。
それでもその先をお前は望むのか、貂」
「の、望むっ!!・・じゃなくて!
望みますっ!その為の力が欲しい!!だからっ・・お願いしますっ!!!」
寳子の言に前のめりに答える貂。
その様子を見た彼女はツテがあると、視線を外し歩き出した。
「お前に適する場を用意する」
それだけを言い階段を昇る。
それを聞いた蒙恬だけが、苦笑いを呈して彼女の後を追った。
取り残される貂を振り返りもせず、寳子はただ帰って待て、とだけ言い残した。
(不足と追い出されればまだいい。己が身に余ると理解して去っても僥倖だ)
ゆっくりとした動作で段を一つ、また一つと踏みしめてゆく。
(人の生死に手を下すということ)
目指すは玉座に御座す己が主である。
(軍師・・得物は持たずともその采配が何よりの刃。
誤れば前線に立つ武将よりも―――――多くの人を殺す事になるぞ)
それも下手を打てば敵以上に味方をと。
受け止めきれる器が果たして彼女にあるのか。
貂は寳子の背に礼をすると、溢れんばかりの涙目でその場を去った。
「・・・・・」
「今の子だ〜れだ」
寳子のすぐ後ろに着く蒙恬がおどけ気味に訊ねる。
「丁度良かった。蒙恬、話がある」
「・・高いよ?」
ツテという言葉に嫌な予感はしていたと、またこれも笑って見せた。
「お前の言う額は今の私では到底支払えないものだからな。今回もツケておいてくれ」
「ぇええーーっ!またぁ!?もう結構いってんだけど!」
嫌々と首を横に振る蒙恬。
寳子はそんな彼を宥めるようにして手を伸ばす。
昔より随分と高くなった背に感慨を覚えながら、寳子は蒙恬の頭を優しく撫でた。
「出世払い」
「・・・ ・・もー・・ ・・はいはい、ちゃんと出世して下さいね寳子サマ」
「期待しておいてくれ」
そして何度か合図のように音もなく叩く。
すると満面の笑みと至極嬉しそうな苦笑いとが交差した。
実の年齢関係なく姉弟と、その調子が抜けない者が一人。
もう一人も抜けきらない自分に哂い、そして彼らは未だに心地好い温さに漂っていた。
寳子は蒙恬に事の次第を説明する。
貂という存在に関して、性別以外の事を伝えた。無論反乱の事は隠してである。
「あそこには蒙毅もいるし。先生にも紹介書いとく」
「ありがとう蒙恬。助かる」
「でもさぁ寳子。一つ言っときたいんだけど」
「・・だいたいの予想はつく。言わないでおいてくれ」
実に向いていなさそうである。
音にせずとも聞こえると彼女は頭を振った。
その全てをひっくるめてでも導くとしたのだからと、後ろ髪を引かれる想いを断ち切る。
ここからは少女が後悔しようがしまいが、それは理想の残滓。
越えられぬならそれまでと、寳子は目を細めた。
「・・・あの子の言った事。少なくとも、正解じゃないね」
「そうだな」
だからといって確たる正を答えられる訳でもない。
しかし正しくはないという事だけは、彼らの経験則から合意に至る所であった。
「でも」
全てが間違いかと言われれば、これも答えられる訳ではなかった。
「全てはそれを正解にできる力量があの子にあるか否か。それに達するまでに至るかどうかだ」
証を立てられるか。
正としての答えを立てる事ができるのか。
言ってしまえばそれが出来れば彼女が正と、寳子は力強く言い放つ。
これを小気味よいと男は笑う。
蒙恬は諦めずに誰かを信じる彼女が、きっと誰より好きだった。
「・・ん〜・・・!っと、俺そろそろかーえろっと」
「もう帰るのか。大王に謁見は」
「まあね。ほら、言ったろ?他にも用があるってさ。
あと謁見とか。ヤだよ、別に呼ばれた訳でもないし」面倒だし
「ふふっ、そうだったな。・・あと大王には常に畏敬の念を以てしてと」
「はーいっ!はいすみませんっ!!」
長くなるであろう寳子の説教を打ち消す様にして蒙恬は平謝りをする。
これにはやれやれと、彼女も肩を竦めて口を閉ざした。
「それじゃ最後に蒙恬、子女らには礼節をもって接するように」
「はぁーい」
(全くもう・・人の気も知らないで抜けたような声を)
(あーあ、最後にはいつもこれ。・・・ホント、人の気も知らないで)
軽い別れの挨拶を済ませると蒙恬は寳子の背を見送る。
大王の元へと消える彼女に、彼はやはり何の言葉も持たなかった。
彼の気も知らず、他に用があると望んでいたのは自分だけとも気が付かずに。
事実、他に用などなかった。
蒙恬は寳子の望む展開というものを捏造したに過ぎない。
彼はただ、彼女に会いに来ただけだった。
「・・・・・・」
蒙恬は高欄に手を掛け空を眺める。
一息吐いて帰路に足を向けたその時だった。
足音が聞こえる方へと目を凝らすと、そこには見知った者の姿があった。
「・・蒙恬様」
「・・・なんだ、じぃ居たの。
出てくれば良かったのに。絶対寳子喜んだよ。 ・・変な気、遣いすぎ」
隠れていたろうと、その口調は軽い。
「はっは。・・ ・・・寳子様にお会いした際にはと、こうして菓子を忍ばせておりましたが」
蒙恬の付き人の爺はそう言うと、胸元から小さな包みを取り出す。
中には揚げ菓子が三点ほど見受けられた。
「思い出します。それは嬉しそうに駆け寄って来られては頬張られて。
蒙恬様、王氏の倅に持って行くと嬉々として礼をされて」
しみじみと語る爺は笑顔で旧懐を滲ませる。
延々となる昔話は堪ったものではないが、思い出は思い出として確かに佳いものであったと蒙恬も微笑む。
過去を思うとどうにも、遠い所に来てしまった念が働く辺りの哀愁は如何ともし難いものであった。
「それが今は仕官し、童と呼ぶには似つかわしくない程に成長なされた。
それというのにじぃめがこうして昔のように在っては、寳子様もさぞ煩わしい事でしょうな・・」
「だから。・・・喜ぶって、寳子は」
蒙恬はそう言うとまた空を仰ぐ。
見詰める先には雲一つない青空が広がっていた。
どちらともなく言を切る。
しかし風の音や鳥のさえずりに耳を傾ける中で、再び語り掛けたのは爺の方だった。
「暫く会わぬ間に随分とお美しくなられましたな」
傍目に見てわかると、月並みの話題と思いきやそうではないと口調が物語る。
「蒙恬様のそれとは別の・・しなやかで、それでいて纏う剛気には艶やかささえ感じます」
幼少の頃はおぼこい娘と、純朴で可愛らしさの勝っていた子が。
日を追うごとに様を変ずる。
その驚きと喜ばしさに見知り―――――馴染みの近しい者としては、
まるで遠い親戚のそれのように微笑ましく映るものであった。
蒙恬は何も返さない。
返す言葉はある、しかし返す必要はないと閉口する。
そんな蒙恬の様子を察してか、爺は本筋を切り出した。
「蒙恬様、じぃは貴方様があのようにして心安らかに在れる居場所を他に知りませぬ」
これには素知らぬと遠くを見ていた蒙恬も反応を見せる。
不自然に動いた高欄を握る手が、また妙を以てそこから滑り落ちる。
そしてまた何事もなかったようにして
蒙恬というその男は己が近臣を飄々とした体で見詰め言った。
「またその話?
あるよ。他にもっと沢山ある。じぃが見てないだけだって。
・・いや待てよ。
ううんじぃは見てる。俺がオネーサン達にチヤホヤされてる時の顔、知ってるだろ?」
あんな安らかな顔は他にないだろうと。
否、決して寳子という少女の前だけではないと、そう、やはり何事もなく言いきった。
「またそのような事っ・・ いいえ!このじぃめが見ている内、あな・・」
「あー!はいもうやめやめ!
じぃはこうなるともーウルサイんだからさー」
爺の猛攻を事も無げに避ける。
慣れた事と、彼はその度に何事もなげに返すのだった。
「だからさ、いつも言ってるけど」
何事でもない。
ありきたりの茶飯事である。
「俺達は互いに、そんな気。 更々ないんだって」
姉と、弟。
馴染みと馴染みを応援する、馴染み。
それが自分の役割。
草臥れたと肩、腕を伸ばしながら悠々と階段を降りる。
その表情は背後からでは見て取る事は出来ない。
見える晴天とは打って変わり、従者の様は一向に晴れぬままだった。
蒙恬と別れ彼女は遅れて一同の前に現れる。
ばつが悪そうに、しかし毅然とした態度で詫びねばならないと両腕を持ち上げたその時である。
遠く先に聞こえる鈍い音と共に、目の前には異様な―――――否、酷く懐かしい―――――光景が広がっていた。
「贏政さまッッ!!!」
言うか言わぬかの間に寳子は全力で走り出す。
周囲には目もくれず、一途に目指すは己が主の元。
玉座に苛立ちを当てる、大王贏政の元であった。
政が足を揚げ、もう一度玉座を蹴り上げようとしたその時。
先程とは明らかに違う感触に彼は身体を前のめりに力を殺した。
「ぐっ・・!!」
「!?」
受け止め、そのまま足を捉える寳子。
痛みに悶えるよりも行動を諫める様な視線を政に送る。
気に入らない。
反抗的な目だと、しかし彼は紅紫紺に魅入る。
その気配を察したのか、見据える政の足を寳子は解放した。
「っは・・ ・・・加減は、いりません。
物言わぬ座より幾分楽しめるやも知れませんよ」
「寳っ「構うな昌文君!」
何も言うなと静止する。
語るべきは己と、政は跪く寳子から目を逸らさず言った。
「・・・お前は『こういった時』、いつも戯言を吐くな」
「こんな事で気が済むのなら存分にと。
もう何度も、何年だって申し上げてきた筈です」
選ぶのは大王自身。
その答えを盾は何時も受け止めてきた。
「これくらいでは死にません。
贏政さま・・貴方の痛みと思えば、辛くありません」
そして彼女もまた、聞こえぬ答を政に投げかけていた。
『贏政さまがそんな事で気の済むような、小器であった事に落胆して死なねばならない事が唯一の心残りですっ・・!!』
もう、何年も。
(ふざけるな)
目一杯の余計な世話と
そこまで言うたかが従者に、少女に不遜と。
しかしそれ以上に
『お前の無駄な血を見る気はない。俺を笠に勝手に死なれても気分が悪い。
小器でない事を証明してやるから、お前は俺の為に死ぬと勝手を言える程の力をつけてみろ』
感謝と、信頼を。
そして。
『見せつけてみろ』
どれだけの刻をかけようと
それこそ、一生をかけてでも。
「寳子、お前は」
その声が届くのは一人だけ。
ただ一人に向けたのだから、当然の事だったのかも知れない。
「俺がっ・・ ・・・!」
王でなければ。
そもそも出会う事すらない、しかしそういう意味ではない。
おそらくはそんなものは杞憂と、関係さえないのだろう。
しかし
(漂―――――――)
言い訳を吐いた。
ならばこれは弱音ではない。
思い出の中の少年は、彼のもう一つの夢だった。
黙り込む二人の前に腕を組んだ信がやってくる。
一拍置き、調子が狂ったと頭を掻く。
それでも両者が彼の存在に気が付いたのは、話し掛けられてやっとの事であった。
「オイ何だよお前らだけで仲良くやってんじゃねーって」
「信・・」
「・・・」
「つか寳子お前なぁ!
・・ったく急に出てくるからビックリしただろーが」
大王の乱心に信が止めに入ろうとした矢先だった。
駆足が聞こえたと思えば寳子が政の名を叫び、気付いた頃には足蹴にされていたという一連の出来事。
余りに一時の事と、しかしすぐさま立ち入るにはあんまりな二人の空気に気圧される。
静寂が訪れ、やっとの思いで玉座に向かい、こうして声を掛けるまで刻を要したとそういう訳だった。
「あと人に遅れんなー!とか言ってよォ!
お前が遅れてちゃ意味ねーだろって!なぁ!!」
「わっ、わわ私は別に好きで遅れた訳ではなくて話せば長くなってだなっ・・!」
「言い合いはそれまでにしておけ。 ・・信、それで」
結局何用と、言を促す。
政の視線に合わせ、寳子も信の方を見た。
「あ?あぁ。用って程でもねーけど。―――――ちょっと外の空気吸おうぜ、政」
聞こえて暫く。
政は無言で玉座を後にすると、信は笑みを浮かべ寳子は狼狽の色を見せる。
「え、贏せ・・」
「寳子、お前も来るか?」
傍と。
寳子は誘う信を凝と見るが、のち複雑な表情を見せそのまま視線を落とす。
その様子を先に行く政は振り返り遠目で見詰めていた。
「・・・ ・・いや、ここはお前に任せる。信」
「おっ」
「男同士語り合うといい。男とはそういうものも、時には必要なんだろう?」
昌文君と壁、介良介殻の両名。
王賁、蒙恬の馴染みらも例外ではない。
他にも隊に軍にと属していれば、自ずと知れる経験以上の真理であった。
「贏政さまの刃を―――――何の遠慮も外聞もなく、弾き返してきてくれ」
同じく剣を持つお前なら造作もない事、そして
「お前にしか頼めない」
言ってそれこそ周囲に対する体裁もなく、寳子は信に頭を下げる。
騒めきなど聞かない。
響動めき程でなければ己を揺らす事など適わないと、これは彼女の願いだった。
遠く見つめる政も、脇に控える昌文君に壁、連なる者共も。
目前の信でさえそれを呆然と見詰め―――――
そして神妙な空気を打ち破るようにして彼の声が通った。
「へへっ!わかってんなぁ寳子!お前案外いい嫁になるかもなぁ!」
「なに、私は大王にとって常に最良の―――――って!
だっ、だだ誰が嫁だっ!私は結婚なぞしないとっ」
「じゃーなー!」
「まっ、ちょ、わわ・・ てっ、訂正してから行けーーーっ!!!」
慌てふためく寳子を余所に、その背を強く掌で打つと揚々と政の元へ向かう。
それには周囲の騒めきも止み、呆気と音を無くした。
二人はそんな聞き分けの良い臣下共を放り姿を消す。
呂氏の参上に大王の乱心、寳子の参入から信が政を連れ出すまで。
息つく暇もなく通り過ぎ、取り残された者達にもはや意気はない。
漏れ出した声は文句でも溜息でもない。
ある種安堵と、彼らは項垂れ、そして傍を互いに見合った。
寳子もその例外ではない。
気が付き、昌文君と認め合うと玉座を後にする。
事態への不満などない。
ただ少し背が痛むと、彼女は苦笑いを呈した。
(さあ・・始まるぞ)
新たな内の憂いを迎え、しかし外にも在る敵に目を向ける。
目下魏国という名を念頭に置く。
得物を持たぬ手が動く。
頭以上に身体が戦の感覚を覚えている。
そして、もう一つの彼女の戦場。
新たな戦の前に、やっておかなければならない事があった。
(闇は闇として。清濁を別つ為に仮初は活きる。
―――――活かす。私の戦いは、内にも外にもあるのだから・・・!)
決意を噛みしめると手を打ち気合を入れる。
寳子は別殿に向かい戦の準備を始めた。
20131026