落ち合う先に女はいた。
泥に塗れ、雨に打たれ散々と―――――女は横になりながら、枝垂れる真っ赤な髪を掻き上げる。
見える気概も虚しく虫の息。長く持たぬ事は知れていた。
しかしその体は煌々と命を燃やす。
口の端には笑みさえ浮かべていた。
そんな風に飄々と、余裕さえ見せる女に変化が現れる。
男の抱えていた少女を認めると、女の強気の面は簡単に、脆く崩れ去った。
山民、異民族の類。
しかし平地の言葉も話し、見える姿は人である。 そして―――――――
手を伸ばし、女は少女を受け取ると掻き抱いた。
死に体のどこにそんな力があったのか。
泥を吐き、何とか一命を取り留めた少女はそれでも目を覚まさない。
強く鼓動する命に女も男も安堵する。
―――――――女はただ、母であった。
「我々を贄トし毒とシた『人』ヲ頼る。こレほど珍シク、おぞマしイ事はなイ」
語る口は流暢に。
そして酷く穏やかだ。
「しかシ。・・ ・・・あの人ハ信じる事ガできタ」
定期的に血を薄める。
ただそれだけの意味を持つ。
その期に偶然、女は当たってしまったというだけの事である。
利用する為だけの存在に本来名はない。
ただ『人』と、しかし女はその者の名を口にし、覚えていた。
「・・・・・だかラ、お前モ信じルに値スル『人』であるト・・ 信じる」
己が夫として、人の手を取った。
「案ずルな人ヨ。同胞ドモは皆散リ、末は心得てイる」
『このような』事態に陥った場合。
それは毒共の契り。
それは毒共の誇り。
「サれてハならナい殺され方ト、至ルべキ死ニ方があル」
それは毒共の願いであると、女は言う。
「この子にハ話してイる」
幼い故と、しかし安堵する理由がある。
刻み込まれた記憶は疎か、身体が否応なく導くだろうと苦く笑った。
「なア、コレは」
言って淀み、頬に触れる。
柔らかいと笑うと、目を細める。
その指は母以外に紛う事はない。
「・・こノ子は」
宝である。
「こんなニも、人なんだ」
毒としての血が薄まろうと、しかし毒。
それでも人として地に足をつけられる程には出来た稀有。
「天も、地モ。・・許さナい。だが」
赤髪、紅紫紺を継ぐ者は毒を継ぐ者。
しかし薄い。
再び猛毒が出ずるとすれば次代。
その憂いこそあれど―――――しかしこれは、喜びである。
「こノ子がこノ世に生きルというのナら、私は。 ・・・こノ奇妙な共存ヲ為す世ヲ、許シたいと思ウ」
天を殺せば龍も住まえまい。
地を殺せば人も現れまい。
一族の長として。
理の頂点として―――――――――災厄を回避する。
血がなければ人も
人がなければ、血も。
天の巡りと地の手によって生まれた負の循環。
その全てを、なかった事にしたい。
子が生き、血を撒くこと。
毒が薄まり、薬とまでは大望である。
ただ人と交わり終には人として
―――――毒の終焉。
受けた仕打ち、怨恨を無に帰すとしても。
敢えて口にする事もなく混じり、生きる事ができるとしたら
それは本当に望むべくの、血族の先を見るものではないのかと
本当は誰もが願っていたであろう希望に手を伸ばす。
一人の女が言った。
体は毒、それも猛毒の類であると、そう言った。
「ねえ・・夕(ゆう)姉!」
「!」
「こんな陽気に寝ちゃうのはわかりますけどっ!うたた寝すると風邪ひいちゃいますよっ!」
陽気とその人が言うのだから珍妙であると、見えぬ面で笑う。
夕と呼ばれた女はしかし、音もなく目前の宮女の手を持ち上げた。
陽という宮女の掌に己が指を立て、書く。
そろそろと、確と思いを伝えるそれは『物言えぬ』彼女の唯一の交流手段であった。
「何か夢でも見ましたー?」
『覚えてない』
「あっはっは!!くすぐったいですってば!
え? えーっと・・お前は声が大きい、もう少し大人し・・って夕姉っ!?」
「あはははっ!」
「こら向ちゃんっ!?」
「ごっ、ごめんね陽ちゃ・・ふふっ! ん?」
『覚えてない けど』
今度は向の掌に脳裏を焼く言葉―――――文字をなぞる。
見える緩急に初めは戸惑いを見せた向も、今は静かに軌跡として紡がれるそれを待つ。
『温かかったような 悲しかったような』
優しかったような
『そんな 夢を見た 気がする』
つらつら、ぽつぽつと。
指の動きは言の音の如く滑る。
決意固ければ一線の内に、思い淀めばぎこちなく揺れる。
夕のなぞった言葉を向は陽にも伝える。
此度は後者の動きと悟り、宮女二人は夕を元気づけるかのように寄り添い見合った。
夕。
この宮女の脇を陽向の二者が固めるようになって暫く。
侍る期間は他より長きに渡り、またそれは三者共にとって合意の上であった。
彼女の元には あ る 理 由 から、後宮に参ずる新入りの子女らが世話に当たる習慣が生まれていた。
しかしそれは充てられる者達にとって、決して迎合し得るものではない。
寧ろ本来であれば撥ねつける様な待遇と見て相違なかった。
(この子達は信頼できる)
夕でない何者かの思案が巡る。
(願わくは向だが、基本どちらを贏政さまに向けても悪くはない。
うまくいけば・・彼女らなら。手を取り合い後宮を変える事だって出来るかも知れない)
巣窟でない本来の後ろ盾として。
大王の元に在るべき国の支柱として。
(決して第三勢力などという、王威を穢さぬものとして)
しかしこれは飽くまで理想の内である。
もし両者が同じく男子を産めば、その思惑は彼女らの外から侵されてゆく。
そうなれば互いに無二の存在であろう陽向両者共に、悲劇を目の当たりにさせる事になる。
ならばいっそと、しかしその考えは既に彼女の内から去って久しい。
(・・・私、は)
今この場に在る宮女とは仮初の器である。
本来有り得たかもしれない先の自分に、彼女はただ芝居を打っているだけの偽物であった。
偽物に胎はない。
胎もなければ願うべくする希望など、為し得るに難い現である。
(こんな思案を巡らせて、何が)
何を今更。
夕の名を翳す少女は頭を垂れる。
誰に謝罪するでもない。
とうの前に切り離したはずの何かに、彼女は頭を重くしただけの話であった。
非常にゆっくりとした動作で歩く。
それに合わせて陽向の二人も脇に控え彼女を支え侍る。
夕が先を指差すとそれを目的地に定め、木陰の内、彼女らは後宮の一角に腰を落ち着けた。
「大丈夫ですか、っと・・」
「疲れてないですか?夕姉さま」
それぞれが左右の掌に指を立て伝える。
これに夕はこくりと頷き、両者の指を穏やかに包んだ。
彼女らの気遣いに痛み入るものの、脳裏に映るのは別の景色。
夕である筈の存在は、常に大局を見詰め思案を巡らせていた。
(陽はいいとして、問題は向か)
陽と違い名家の出でない向は、今現在を以て宮女としての位が低い。
そのため良くも悪くもその存在は儚く、如何様にもされる危うさがあった。
(数として見逃されるか・・しかし少しでも角が立てば消されてしまう)
抗う強さも、気概さえ持ち合わせてはいないだろう。
後宮に入るという名誉と、その娘を輩出したという家への財。
有体の幸運を承服し、この巣窟に侍ると言うのであれば尚更である。
ならば選ぶ以上、そこから先を繋げるに尽力するのは彼女の使命であった。
(・・何人か買っておかないとな)
買う、という事。
それは物ではなく者を、言い得て物で者を吊り上げる事を意味する。
この『夕』という宮女には、その力が備わっていた。
思案の最中にも二人の宮女は、毎度の如く世間話に花を咲かせる。
まさか物言えぬ者が、代わりに一人―――――頭と腹とで会話しているとは思いもよらぬ所だろう。
(いや陽こそ目を付けられれば厄介か。
名家の子女は除くより取り込む方が益になる・・しかし性格上)
易く首を縦に振る光景が見えない。
陽という宮女にとって、意思と違う事に建前でも頷けるだろうかと言えば現状想像に難い。
(・・結局どちらも心配だな)
夕は小さく溜息を吐くと、それを見た向は会話を止めて彼女を注視する。
「あの、夕姉さま?」
そう呼ばれる女の風貌はほとほと後宮に似つかわしくない。
大王の為に在る者がもはや隠居の体―――――それが夕という名の宮女の在り方だった。
「この状況で私を初手から出さぬと言うのですかッ!!」
本来であれば降りる御簾は上がっている。
寳子という名の武官の怒号は大王にも、そしてその王の側近中の側近である己が父の耳にも届いただろう。
前日の夜。
これは夕という宮女が動き出す前の、巣窟に足を踏み入れる前の三者のみの会合の景色である。
「自惚れるな寳子ッ!!お前が数を屠るといえど、此度はそれに及ばんと言っている!!」
(ぐっ・・)
返るまたの怒号もこれに似る。
似ているだけで彼女をゆうに超えるであろう剛毅は寳子から意気を奪った。
これを見兼ねたではないが、大王贏政は苦い表情の武官に対し声を掛けた。
「ヒョウ公将軍の出る戦場だ。聞き及ぶ気が本物なら、圧すには既に申し分ない」
「榮陽を取る戦です!魏とて知って数を揃えて来るでしょう!!
・・恐らくはこの年における最大の戦となり得ます。 ここで出ねば何が武官か、何がっ・・!」
王の盾などと一体どの口が言えると。
見上げる視線は無念と、いまここにある存在の証を得るに縋っていた。
「功を挙げねば・・ ・・私の夢を、貴方はっ」
「・・・反乱が起きる前、また王都を奪還して暫く。
後宮の様が知れぬままだ。どう変容しているかも見えていない」
「贏政さまっ!!」
「これは王命だ寳子」
開いた口は何を言うでもない。
言えないと閉じると、寳子は俯き唇を噛んだ。
「お前にしか、できない事だ」
「・・・ ・・承知、致しました」
忘れたとは言わせない。
制止を振り切り、釘を刺す中でも決して抜けようとはしなかった己が意思。
政は荒ぶる寳子を彼女の決意で以て黙らせる。
逆手に取るなどと―――――言わせてやる。
彼はただ彼女が自らの首に添えた手を、当然の如く締め上げただけに過ぎなかった。
彼女の抱くもう一つの決意、内を知らぬでない。
そんなものはとうに交わし合って久しい。
辛みに耐え難いと顔を曇らせる寳子に、政はそれでも尚、頑なに武官ではない誰かの影を強いた。
(戦がなければ幾らだって応じよう。
しかし大戦を前に私に変じろなどと・・殿も、贏政さまも何を考えておられるのか)
一晩を過ごした後も寳子の不信感は拭えない。
厳密には未だ晩の内と言って過言ではないが、しかし彼女にとっては早朝と捉えて相違ない。
(後宮の様が知れぬ為とはいえ、ならもっと早くに打診できたはず・・なのに)
急く気に合わせて足を突き出す。
踏み込む廊には音が響き、その意気は憤りと失望の念が混ざっていた。
変ずる場とは宮の表より別に裏にある。
人気のない場所は彼女の独壇場―――――故ある立場の寳子にとって、それはごく自然の事だった。
息の潜ませ方を学び、物音を立てぬ素振りを身に付けた。
対象ににじり寄る事も、変わって大胆な足の運びを見せる事もそうである。
夜も明けない暗がりの中、しかし寳子は移動する際に松明を持たない。
故に灯りといえば月明かりのそれだけである。
「月・・ ・・・か」
傍として気付き、口元に手を添える。
近く気配がないとそれを良い事に、寳子は気を散らすようにして息を吐き呟いた。
「お前は本当に、いつだって。
毎夜飽きもせず見てくれるものだな」
たまに消える事などご愛嬌と。
ずっとずうっと、追いかけてくる不躾を遠目で見やる。
ここまでくれば鬱陶しいを通り越して清々しい。
すると仏頂面から真顔、諦観を模してのち苦くも笑えてくるから付き合ってゆける。
「何があっても動じず、不逞不逞しい所は正直羨ましい」
独白と口の端を上げて笑う。
こうなればもう、どこにも苦味などありはしない。
しかし癒されたとなっては癪である。
思ったが最後、友人にはなりきれない知人の類に別れを告げる。
戯れもこれまでと寳子が眼光鋭く視線を外したその時だった。
「寳子」
「なっ!?ぁ・・・ ぅ・・ ・・・ぐ。」
漏れ出た驚号をも押し込めるようにして両手で口を塞ぐ。
変ずる前の寳子を呼び止めたその人を、彼女は訝しげに見つめる。
何故こんな時間、この様な場所で出くわすのか。
声を呑む寳子に政はポツリと声を掛けた。
「無理はするな」
その言に寳子は先程までの憤りが和らぐのを感じる。
全く都合のいい、単純な作りであると辟易する。
場の悪さに彼女は再び苦みを感じると口を噤む。
やれやれと、どこか疲労の色を見せる寳子に政は近付いた。
更に何事かと意図せず構える彼女だが、やはりそれは王御前。
甘さの見える体を前に、彼は立ち憚ると瞬きもせず言い放った。
「必ず、俺の元に帰ってくると約束しろ」
これは命令の類だと、自然に身体が強張る。
肩に触れられる訳でもない。
手を取られる訳でもない。
眼差しと声だけで縛られる。
飼い慣らされているのだと――――――その意識は潜在的であれば誰も見る事ができない。
無論、彼女とて例外ではなかった。
しかし
「う・・・ ・・・・っ・・ ・・・」
こう厭に顕在しては意味がない。
恐怖にも似た感情を気取られぬようにする。
小刻みに震える吐息は、物悲しさを含んでいた。
「・・もう、何度だって」
寳子は俯くと、これ以上は言えないと閉口する。
何度だって。
何度も何度も、彼女は主の為に動き、その都度主の元へ帰ってきた。
理由があろうとなかろうと。
離れても―――――――死したとて尚。
己が元へ帰れと、秦王は命じていた。
故に今更と、彼女は伏せた顔を上げる。
困惑ではない。
懇願するように寳子は、政を見詰めた。
なんの事はない、これは主従の有体である。
出来過ぎた―――――余りに可愛がりのある―――――酷く突き放した、距離の埋まらぬ体。
苦渋の顔を見せる彼女も、またそれを見る彼も。
帰る事の本当の意味を、きっと。 誰にも見えぬ形で知っていた。
戻る度に契る必要があると、政は拳を突き出す。
寳子はこれに辛くも応じた。
従者としてではない。
個人としてという違和感が拭えない。
それは何より、彼女が一番否定したものだった。
「・・・はい。贏政さま」
拳に拳を突き合わせ頷く。
月明かりが足元を照らす中、まるで謀の渦中にいる事など嘘のように安穏とする。
しかし作戦を前に何を絆されているのかと、暫くして彼女が外そうとしたその時。
政は拳を解くと、合わせていた寳子の手を握り込めた。
驚く彼女を尻目に指の間に指を滑り込ませ絡める。
心持ち引き上げるが、目前の少女はこれを良しとしなかった。
「・・・・・」
「っ・・ ・・・・・・」
抵抗し、しかし離れない掌からは憤りさえ感じる。
王弟反乱の明けた後から。
詳しくは抱き留められた、あの宴の夜からである。
日を追うごとに見える大王の行動は、寳子を度々困惑させていた。
(・・・・ ・・疲れて、おいでなんだ。贏政さまは)
だからこんな下らない――――――近しいというだけの武官などに、気を割かれる。
寳子は引かれる手を留めると、やっとの思いで振り解く。
離れる勢いで視線を廊へと外したまま、彼女は政を見る事もなく避けてその場を立ち去った。
戦を知る者、知って馳せ参じる者。
象徴として鎮座する者、それを象り武勇を振るう者。
北を向いて、西に向かい
大局を見、駒となる。
王と従者。
目的を同じくし、故に方向を別にする彼らが実際に足を揃え場に立つ事は―――――――
「夕姉ったら!」
「!」
顔を上げると目前には不機嫌そうな陽の顔がいっぱいに映し出されていた。
軽くつねられている事にも気が付き、それをオロオロとした体でどうしたものかと困り果てる向の様子も認める。
「きゃあぁあ〜〜っっ・・よ、陽ちゃん・・・!」
「もう!何度も言をなぞったのに気付きませんでしたかっ!?
久方ぶりに外に出たのに考え事なんて、内に居るのと一緒じゃないですか!!」
『すまなかった クセでな』
「陽ちゃん、夕姉さまが考え事されるのいつもの事だし・・そんな無理に」
「ううん!駄目よ向ちゃん!こればっかりは夕姉にも参戦してもらわないとっ!!」
そう言うと陽はまるで女の戦とばかりに瞳を爛々と輝かせる。
嫌な予感がしつつも取り敢えずと、夕は乗らぬ指先で聞き返した。
『そ それで 何の話「好きな人の話ですっ!!!」
陽の意気の良い指先が、夕の掌だけでなく耳をも衝く。
荒い鼻息から逃れるように顔を背けると、それを察した向が陽の腕を引いた。
「そのォ・・ ・・夕姉って、好きな人とかいます?」
もしくは居た事があったかと、おぞおずと好奇に満ちた目が問う。
無論後宮に在るのだから全ては王のものと、その前提において馬鹿げた話ではある。
しかし実際の所は家の事情でやむなくという者も、後宮の規模を見ればそう少なくはない。
想い人を内に隠し、胎を貸さずとも子を持った后に仕え一生を終える者もいた。
恋の字を知り、恋を知らぬ。
はたまた知っている故のこの煌めきか。
恐らくは自らもこのような瞳をしていたのかと思うと、夕であるその者は感慨に目を伏せた。
「私達は後宮にいる身ですから正直言って聞き辛いかなって思ったんですけど・・
あ!別に言いたくなかったら言わなくていいんですっ!自分でもちょっと急かなー!なんて思っ」
『いた』
矢継ぎ早に繰られる言と指先に、夕は応とだけ答える。
脳裏に振り返るその人は先程までの思い人ではない。
似て非なる、その人の名を出す事が躊躇われる。
『大好き だった』
『でも』
それ以上に当人の指は動かず、怪訝に思う陽からは意気が失われる。
場の様変わりに向は息を呑むと、再び夕の隣に座る。
過去のものとして、そして続きはない。
刻は止まったまま―――――――三者は共に動けずにいた。
(やっぱりそうだ。 置いてきたのに、 置き切れる訳がない)
(この想いとは、痛みとは付き合っていくしかないんだ)
(・・・死んだら、取りに行けるかな)
(漂・・・ ・・)
陽気を余所にだんまりと、夕は心ここに在らずといった体で微動だにしない。
侍る宮女らに関しては気まずそうに、物言わぬ宮女の傍に控えていた。
その中にあって向が無言で立ち上がる。
陽はそれを認めると、倣う様にして共に立ち上がった。
これは幾許の心遣いである。
「せっ、せーっかく後宮に入れたんです!
王の子を身籠って生んで!結果良ければ全てヨシ、ですよっ!贅沢してやるぞぉ〜〜っ!!」
「ちょ、陽ちゃ・・そんな言い方」
「あーあ!早く伽の順、回ってこないかなー絶っっ対!一発でキメてみせるッッ!!!」
「も・・ ・・・陽ちゃんサイアク・・・」
何の臆面もなく宮女としての本分を曝け出す陽に向は顔を覆う。
一方それを頼もしいと、微笑むもう一人の宮女の顔は見えず誰も知る事はない。
『ありがとう 陽』
「う・・ ・・・が、頑張りましょうね夕姉! ほら、向ちゃんもいつまでも照れてない!!」
先程までの話題には諸共せず、素直に感謝を述べられ照れる。
同じ宮女としての宣戦布告、共同戦線。
どちらが、何者が先んじても正々堂々と在ること。
頷き、彼女らの手を取る夕の心中は実に穏やかである。
そして酷く、冷静であった。
(私にその機会は、決して訪れはしないがな)
見えぬ瞳は武官のもの。
戦場で握るそれは手ではなく得物であると、今はそっと人の温もりに触れた。
(頃合いか)
場も丸く収まり、『夕』という宮女の存在を遠く見える周囲に披露する事も出来た。
生きている。存在している。
それこそが僥倖。
それこそが欺くに足る必然であると、夕は音もなく口元に手を添えた。
「ごほっ!ゴホ・・」
「夕姉、大丈夫ですか!」
「夕姉さま・・今日は天気がいいからって、ごめんなさい・・無理に連れ出したりなんかしたから」
夕は静かに頭を振る。
両者の掌を己に向けると、両の指で以て彼女らに意思を伝えた。
『大丈夫』
『はしゃぎすぎた』
『気にするな』
短く伝える文面に少女らは安堵するやら戸惑うやら。
互いに目配せをすると彼女らは夕の手を互いに取り合った。
彼女達のこの遣り取りが始まってから、既に二年が経とうとしている。
それだけ彼女らの絆は強固なものとなっていったが、そのぶん面白くないという者も増えてゆく。
特にこの、ちょくちょくと気まぐれのように姿を見せる囲いの宮女を目の仇にさえする者もいた。
草場の茂みから。高欄を伝って目前から。
そも同じ地に足を踏み入れたくもないという者は高所から様々に夕らを囲む。
高らかに声を上げる見目麗しい宮女もまた、その類であった。
「・・あーらまだ居たの。ずっと隅の方で隠れていればまだ可愛げのあるものだけど」
吐く毒とは裏腹に、煌びやかな風貌は彼女の位の高さを伺わせる。
夕を取り巻くようにしてその宮女は、数名を侍らせ登場した。
(焔(えん)・・)
「声も出せない、顔も見えない。
宮女ともあろうものが飾らず、一切肌も晒さないでどういう心算なのかしら?
―――――姿の殆どを外套で包んで、唯一見える腕さえ黒い布で覆って。 ・・気味が悪いったらありゃしない」
「ちょっ「駄目陽ちゃん!」
向のみならず夕も、陽の袖を引き制止する。
その合図を認めると彼女は口を真一に結んで怒声を呑んだ。
夕という宮女はともかくとして。
陽向の二者にとってこの者に逆らう事は、後宮に身を置く上で致命的であった。
「王も後宮も。何故こんな女を―――――伽にも値しないような者を置くのか理解できないわ」
便宜を図られ、まかり越したと専らの噂だった。
珍しい事ではない。
同類と、故に焔は夕に目を掛け己が勢力に取り込もうとした。
しかし彼女の実状を知るや否やその考えは一転する。
(この夕という女、蓋を開けて見れば何の事はない。ただの使えぬ小娘だったわ。
患い、駒にもならぬ隠居の体ならいっそ姿を見せねばいいものを)
だからといってこのまま放置ともいかない。
万が一という事もある。
万が一とは即ち、この陰陰たる娘が王に選ばれ伽を行い、最悪自身を差し置いて子を産むという可能性である。
その滅多に有り得ないであろう訳を持つ宮女、夕。
知っても尚、焔は彼女に対し妙な違和を拭えずにいた。
「私どもより遥かに高貴の出でいらっしゃるというのに。
それが・・ ・・ふふ。貴女のような『紛い物』は、早々に家へと帰られた方が宜しいんじゃないかしら」
芽は摘んでおくに限る。
しかし直ぐさま消すには難く、ならば刻をかけて嬲るようにして機を窺う。
脇を固め、狙い澄ます。
陰ならば自らの圧倒的な光の前に消し去ってくれようと、それこそが焔という宮女の魂胆であった。
(名家の出・・その家格は陽よりも一段上。 全く、面倒な女に目を付けられたものだ)
更に夕の方がその二段は上というから焔にとっては面白くない。
無論有力者の娘には目を通している為、このような不都合が起きようと夕にとっては想定内である。
問題はその宮女らの内から実際を以て前に出る者。
前に出た子女を中心に、どこまで根を広げ憚るか。
余りに広がるようであれば凶事が起きる。
それを押さえる為に、夕は以前からある程度の『買い者』をしていた。
黙ったままの夕に一瞥をくれ、詰まらないと罵ると焔は踵を返し高笑いを上げ去って行く。
これに一矢報いると大口を開けた陽の口を、二人の宮女は宥めるように抑え込む。
暫くして息苦しいとこれを解くと、陽は目一杯の声と怒りの丈を、焔の立ち去った後にぶちまけた。
「あ゛ーっムカツクっ!!」
『気にするな』
「気にするなァ!?気にしますよ夕姉なんにも悪い事してないのにっ!!」
「お、落ち着いて陽ちゃん・・」
(構うな、存在さえ許せぬ者もいる・・と)
「私はあの女の存在が許せませんよォおーーーーーッッ!!」
「わーっ陽ちゃん聞かれちゃうっ!」
「あのケバ女いつか見てなさいよォ絶っっ対!
絶っ、対!!先に王の子を身籠ってみせてやるんだからぁああ!!ねっ、向ちゃん!!」
「え!あ、う、うんっ!・・あっ」
勢いに押され素直に頷く向。
それを聞く外套の内の様は窺い知れない。
「そうだ言い忘れてた!夕姉夕姉、聞いて下さいよ!
今度向ちゃん大王様の伽の相手に選ばれたんですよ!」
陽の嬉しそうな声にはたと、彼女の手を握る指先に不意に力が籠る。
己が敷いた謀なら知らぬ事など、ましてや吃驚に揺れる事もありはしない筈である。
『 よかった』
「これはすっごい事ですよ!後宮に住むウン千人の宮女の中から選ばれるなんて滅多な事ですよ!!」
『 そうだな』
「夕姉さま・・私、本当に信じられなくて・・もう、いまからドキドキで。
でっ、でもこんな弱気に負けてなんていられませんっ!がっ、頑張らなくちゃ・・!」
また何の口添えもなく新参の、しかも家格の見合わぬ者が体よく選ばれる筈がない。
向は両の手を持ち上げ気合を入れる。
その一方で高鳴る胸を押さえ、未だ見ぬ大王に想いを馳せていた。
(・・そうだ、その意気だ)
背を押すのは当然のこと。
寧ろうまく事が運んだと、全ては各々、納得尽くの事であると―――――――
それ以外には一切の、何の感慨も、ない。
(首尾よくいった。あとは・・)
「夕姉もですよっ!伽は宮女に与えられた平等な特権なんですからっ!むんっ!」
(・・・・・)
「夕姉さま・・?」
向が心配そうに動かぬ夕を覗き込む。
どんな顔をしているかなど、内から外からと包まれた外装では知る由もない。
『なんでもない』
ほんの少し、顔を伏せる。
それは気付くか気付かないかの些細な動きである。
文字を二人の掌に優しくなぞると手を解き、夕は彼女らの先を歩いて行く。
機会など訪れはしない。
夕という者の在り方然り、そんなものは名目上ありえない。
光が先か影が先か。
どちらが光だったか影だったか。
今は実体の在り処が紛わぬよう、彼女は前を見据えてただ歩を進める。
彼女が本当の意味でそれを務め上げる事は、ない。
夕という宮女が棲み処に戻り、宮女二人を帰してから暫く。
辺りは虫の声さえ潜む夜更けとなった。
寝所に腰掛け刻を待つ。
ふいに合図のようにして鳴る音に夕は立ち上がると、掛けられた衣を取り払い、隠された扉の錠を開けた。
彼女の実体を待ち受けていた者共の手をとり、それと入れ替えに何者かが夕の元いた場所に身を置く。
夕の目前には三者が並び立ち、うち二人は宦官のような風体である。
もう一人は見た目からして鏡合わせのような姿をしていた。
深い藍色の外套に、腕には黒の帯を巻き付けた異様な体。
互いに認め合うと彼女らは顔を寄せ手を持ち合った。
「すまないな。また暫く苦労をかける」
「いいえ大層な事です。貴方様はどうか、憂いなく」
声なき筈の声が響く。
耳元で囁き合う言葉は労いと、それぞれが背負う責務の重さ。
一方は再び戦場へ、そしてもう一方は消える筈の影を支える為にこの場に参じた。
名残惜しそうに手を離すと、夕であった者は連れられ後宮を後にする。
入れ替わりを果たした新たな夕は、のち一切に関して口を開ける事はなかった。
連れられた先には『偶然にも』、廃材を回収する手引車が目の前を通る。
これに宮女であった者は、被せの藁の下に手慣れたようにして潜り込む。
彼女を手引いた二者は外套を脱ぎ去り、それを廃材が置かれているであろう手引車の内に放った。
先ほどまで宦官の格好をしていた者達の身なりは、すっかり使用人の体となる。
確かに廃材はある。
しかしそれは藁の包みに避けて置かれていた。
手引車は有り体にして、しかしその実は違う。
物言わぬ宮女と脱ぎ捨てられた衣の意味する所は、少なからず後宮にとって紛い物の類で相違なかった。
(王弟の反乱前と後で、これといって後宮に変化は見られない。
・・それもそうだ。反乱の件は極力外部に漏れないよう仕組まれていたうえに、後宮自体が閉鎖的なものだ)
相互に撥ね付けていれば尚更と、未だ藍色の暗い外套を纏う者は思案する。
車に揺られ、身体を横にしたまま振動に身を委ねると余計な事まで思い出された。
(吏桜(リオウ)・・・)
同じく藍色の外套に身を包み、座して黙した同類の人。
桜とは元のその者の、吏とは新たにこの者が充てたものである。
(拾い上げ、身寄りのない娘に課した責がこれか)
昔、詰まらぬ役人に詰まらぬ事で罪を課せられた少女がいた。
名を桜。両親を冤罪の元に断たれ、数名の役人に捕らえられ殺されそうになった所を
――――――寶子という武官に救い出されたという娘である。
吏の名を忘れるなと託された想いは、彼女を冠する名となった。
そしてこれも買い者の内と
未だ幼さの残るその武官は――――――― 己と同じ年端の娘に、ある一つの提案をした。
顔相が問題ではない。
そんなものはこの特異な眼髪からして期待していない。
背丈、体格が似てさえすればそれで良かった。
折角に延びた命を危険に晒す懸念案である。
勿論やりきれば褒美も出ると、この併せて説いた見返りに期待したかは知れない。
命の危険と聞き、娘の驚愕の体は尤もである。
しかしそれは武官の思惑とは別の意味を含んでいた。
『滅多な事です・・滅多な事ですっ・・・!!
助けて頂いたばかりか私を活かしてくださるなんてっ・・!』
これほどの幸運はないと娘は言う。
恐ろしい事だと、寳子は思った。
(だから、まるで鏡みたいに。
自らの危うさを・・このとき私は初めて、知る事ができた)
しかし己が定めた道を前に尻込みする事はない。
狂気に近いというならば尚更、野望に近い大望である。
最後まで自身を欺く事が出来たならばそれは
もはやただの夢であると―――――寳子はその時、確と得物を握り締めた事を憶えている。
(大恩とは人を動かすものだな・・)
拾い上げられた事実を知った時の喜びと
それに至るまでの惨劇と絶望と。
外套を除け、顔を出す。
藁を持ち上げると厭に月光が目に沁みた。
魏戦が始まってから既に四日。
明けの星は近い。
こうして秦国武官寶子は、藍色の皮を脱ぎ捨てると後宮を抜け出した。
20131215